第一 心底を弾く琵琶の海
武士は人の鑑山。曇らぬ御代は、久方の松の春。千鶴万亀の棲める江州の時津海、風絶えて、浪に移ろふ安土の城下は昔に成りぬ。
その頃、平尾修理といへる人、天武天皇の末裔にして、高家なれば、諸役御免あつて、世を遊楽にその名を埋み、五十五歳の時、入道して眼夢と改め、その後は長剣、馬上をやめて、禅学に基づき、常の屋形を離れ、西の方の山蔭に、小笹かり葺きの庵結べば、仏の縁に引かれ、生死、目前の湖。これ則ち、弘誓の丸木船。「一大事踏み外しては、あるべからず。」と観念の南窓に諸釈を集めて、見台、気を移し、板戸、内より閉めて、人倫、通ひ道無く、それ御姿を見ぬ事、百日に余りて、末々の者、これを歎きぬ。
変はらずして長屋淋しく、花見し梢も前栽の秋の哀れに、匂ひ有りながら蘭衰へ、芭蕉、なほ夕風に形を失ひ、門に人稀なれば、鳥の声つのつて、いつとなく内証は野となりて、鹿も棲むべき風情。この主の心ざし、市中の山居、これなるべし。
かねて妻女も持たせ給はず。子孫の願ひ無く、心の行く末を見立て、美童を愛し給へり。これも、濫りにこの道に溺れ給はず。筋目正しき浪人の子供に、森坂采女、秋津左京。この二人、同年にして十六歳。心も形も、これ程変はらぬ生まれつきは無し。朝暮、御目通りを離れず、夜は御枕の左右に並び、わりなき御情けに預かり、采女も左京も卑しからず、互に衆道の義理を恥ぢかはし、旦那一人の御心に、両人、若命を惜しまず、骨髄に徹して勤めける事、色ばかりにはあらず。
武勇を元として、前髪役の意気地立てすまし、今四、五年も過ぎ行き、世間並に形の変はり、脇をも塞ぎ、前髪取りなば、その節は又、自然の御用にも立ちぬべき心底。更に申すにはあらず、二人、神文取りかはし、堅めの言葉もあだに思ひの外なる主人の御発心。生きながら会はで別るべきか。
この程は、しきりに御気を悩ませ給ふを聞けば、一しほ悲しさまさり、諸神諸仏を祈り、石山寺の観音経を読誦し、多賀大明神に千もとの小松を植ゑさせ、「千代も。」と思ふ甲斐なく、次第に御心地いたませ給へば、「今は仰せを背き、戸ざし引き破りて駆け入り、御面影拝み奉らん。」と立ち出しが、「ここは又、分別所。さもあらば、結句、頼み少なき御心にや障らむ。何とぞ今生にて御拝顔すべき事を。」と、やうやうに思案を巡らし。
浦人を招き寄せ、棚なし小舟を借り求めて、二人、蓑笠に身を隠し、そのまま釣りの翁になりて、琵琶、琴弾き連れて、汀つたひに御庵室の後ろに廻り、折節、月の秋中の三日、浪の花の打ち続き、春は磯と眺め、「旅雁、心あらば、その声にして、この歎き告げよ。掛け浪の玉には濡れぬ四つの袖。」糸の音じめに愁歎含みて、いと哀れにぞ聞こえし。
眼夢入道、うたたねの枕に響き、紙窓を開けて見渡し給ふに、人の心を繋ぎとめたる舟の内にして、営み暇惜しき身の、それには優しく、「漁夫、かかる者ありあけ映る南江の面白や。」と御心おのづからに{*1}進みて、この琴に合はせて歌はせ給へり。{*2}「歌台の暖響、春光融々たり。舞殿の冷袖、風雨凄々たり。」「春秋の静かに世の変はれる有様、覚むる間もなき夢なり。暫しもこれに気を移して、江はよく舟を浮かべ、又よく舟を覆すの道理。行ひの障りなり。明鏡に{*3}像の跡なく、虚空の色に染まざる如く。」と戸車の鳴る時、二人、蓑笠を{*4}脱ぎて。
「これ、殿様。采女、左京が余りに悲しく存じ、御おとづれを申し上ぐるなり。年月の御厚恩、そもや忘れ果つべきか。御発心の折からは、猶以て近う召し使はれ、朝に岩もる雫を結び上げ、夕に御茶湯の通ひを仕り、昔の道を変へて、菩提の道に引き入れさせ給へ。殊更、御心も常ならず悩ませ給へば、御命の程も定め難し。今生にして名残の拝顔を御許しあそばされ、二人が思ひを晴らさせ給へ。いかなる御気を背き、かほどまで御憎しみの深き事、運命に尽き果てける。これ、殿様、殿様。」と歎くにぞ、眼夢も取り乱させ給ひしが。
「これ元、色道の迷ひなり。何ぞこの色に大願を破るべき事の道ならず。」と猶心底座り、「大方の断り、聞き分けでは帰らじ。ここは、方便の偽り。諸天も許し給へ。」と観念して、「おのれら、ここに来れる者にあらず。年月、我を背き、前後弁へぬ非道。その数重なつて、須弥山にも余れり。しかれども、行く末この姿の願ひあれば、日頃の情けにそれを咎めず。全く対面、正八幡も照覧あれ、七生までの勘当。」とあらけなく仰せければ、二人、立ちすくみて、重ねて返す言葉絶えて、目と目見合はせ、涙、湯玉を繋ぎ。
「覚えて誤りはなき身にも、御一言に差し当たり、子細を尋ねたればとて、よもや分けては語らせ給はじ。後日に分別あるべし。」と帰る浪のうち伏して、夢心にて屋敷に入りて、「詮ずる所、最期なり。眼夢も次第に弱り行かせ給へば、御死去も程はあらじ。願はくは見奉りて後、心静かに御供申したきものなれども、かねて、『殉死{*5}の事、仕るまじき。』と再三の仰せを蒙りければ、これも又、主命を背くの道理。武士は、命を捨つる所を逃れては、その名を下すなり。昔日、後光厳院文和元年二月三日に、細川頼春の家来、追ひ腹始めて、今、和朝の手本として、その誉れ、世に高し。只我々は先腹切つて、死出の山路の案内せん。」と思ひ立ち。
日を定め、一方口の部屋に入り、内より戸ざしを釘付けにして、采女、左京が最期。銘々に腹二文字に引き捨て、その後、差し向かひ、剣を互に貫き、「只今。」と言ふ声に驚き、各々板戸を破り、駆け入りて見れば、魂、早浮世を去りて、是非もなき面影。白小袖に紋無しの袴豊かに、なで下ろしたる鬢もそそけず、身を堅め、二人ながら中眼に開き、笑へる顔ばせ、常に変はらず。
書き置きの段々、至極して、この事、眼夢に申し上ぐれば、御誓言も忘れさせ給ひ、やうやう庵室を離れさせ給ふに、御足立たせ給はぬを、人々、肩にかけ、屋形に移しければ、この有様に取り乱させ給ひ、「勘当せしも、汝等が命の程を惜しみて、様々申せしもあだと成り、我に先立つ心底、さりとは武士の子なり。老足なれども、この道は追つ付くべし。」と左京が脇差を取り給ふを、皆々取りつき、「世の聞こえもいかがなり。」と無理にとどめ奉りしに、これより御心も疲れさせ給ひ、三日も経たぬに御命、限りと成り、かれこれ歎き重なり、一子も持たせ給はねば、あたら平尾の家{*6}、絶え果てける。
されば、人ほど心の恐ろしきものは無し。両人が首尾、後記にも留まるべき事なるに、同じ屋形に勤めたる近習の侍に、関屋為右衛門といふ者、武の本意を背き、左京に執心の{*7}数通、通はせける。初めの程は恋路を思ひ遣り、ひそかに道理を合点させ、「主命背く事、存じも寄らず。」と以て開きて申し聞かせしに、又もや難儀を言ひかけけるに、外にも聞く人の座にて、為右衛門一分立たぬ程に、返事申し切れば、中々生きては堪忍ならぬ所を、日頃の大胆とは違ひ、おめおめとその通りに済ましけるが、その野心、今に残り。
左京相果てて、跡形もなき悪名をさへづり、国中にこの沙汰させける事、人倫にはあらず。「この度、左京は命を惜しみ、『主人、御恨みあれば、暇乞ひ捨て、他国。』と言ふを、采女、引きとどめ、『申しかはせし通り、是非刺し違へて、二世の同道。』と義理にせめられ、痛い腹を切りける。」と申し成しぬ。左京、草の蔭にても、さぞ口惜しかるべし。
或る時、森坂采女{*8}が弟求馬といふ人の座にて、為右衛門、左京事を又噂して、「若道にも格別の違ひあり。」と、その座なるに、采女事を言葉ある程尽くして褒めければ、求馬、よくよく聞き届け、「これは、為右衛門殿には無用の御褒美。左京、采女、いづれか相劣るべき心底にあらず。しかも左京は采女にまされるの所ありて、少しも人に後るる若衆にあらず。その上、そなたにも傍輩の事、今になつて由なき流布せらるる事、天命知らずなり。大勢の中にして露顕の上なれば、重ねて『申さぬ。』とは言はせじ。この事、左京弟左膳に知らせて、正八幡も御示現あれ、その身、逃さじ。」と言へば、為右衛門、聞きもあへず、「推参なり。」と立ち上がるを、求馬、天理を以て討つ太刀速く、車に切り放ち、静かに鞘に収めて立ち出るを、いづれも廃妄して、これをとどむる人無し。
すぐに左膳宅に行きて、このあらましを語る内に、為右衛門一子次郎九郎、素鑓引つ提げ駆けつけしに、左膳、長刀にて渡し合ひぬ。求馬は鬢鏡取り出し、姿を映して黒髪撫でつけてゐながら、見物をしける。後より家来走り着く時、門を堅め、「むくろは、おのればらに取らすべし。」と言ふ。この勢ひに下々、あさましく逃げ帰りぬ。その後にて左膳、次郎九郎を切り伏せ、とどめまで刺しおほせ、「今ぞ、退き道。」と二人、一家を連れて、成程急がず、丹波路に入りける。
校訂者註
1:底本は、「御心おのづから進(すゝみ)て」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
2:底本は漢文。「歌台の暖響~風雨凄々たり。」は、それを書き下した。
3:底本は、「明鏡(みやうきやう)の像(ぞう)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
4:底本は、「蓑笠(みのかさ)ぬぎて。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
5:底本は、「腹死(じゆんし)」。振り仮名及び『武道伝来記』(1992)語釈に従い改めた。
6:底本は、「家(いへ)は絶果(たへはて)ける。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
7:底本は、「執心(しうしん)に数通(すつう)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
8:底本は、「采馬(うねめ)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
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