身代破る落書きの団扇

 人の風俗、今ぞ髪頭、眉山の姿も見よげになりぬ。
 昔、阿波の国徳島に、奥田戸右衛門といへる人、都の北野に久しく浪人して居られしが、この家中によき親類ありて、身代取り持たれて、町打ちの鉄砲を申し立てに三百石下し給はり、空き所ありて、屋敷まで仰せ付けさせられ、首尾残る所なく相済む事、武芸の厚き故なり。この人、当年十六の娘一人を、月にも花にも京育ちにして、美形、田舎には目馴れず、見ぬ人まで聞き伝へて恋ひ偲びぬ。
 常々戸右衛門、心底には、「いかなる方にてもあれ、見立てて末子を貰ひ、娘にめあはせ、奥田の名跡を継がせたき」念願なれば、外より婚礼の内証あれども、取りあへず養子を望みしに、あなたこなたより、この家に入り縁の望み、あまたなり。その中に篠原文助といふ人、縁ありて、諸井頼母といへる人、肝入られて、極月二十六日に、文助、戸右衛門方へ入りて、祝言の事初め。めでたくその年も暮れて、明くる正月三日の事なるに。
 若き者集まりて、「いざ、文助に水掛け祝ひ。」と言ひ出れば、各々進みて、「無用。」と言ふ人、一人も無し。血気の男、手分けして、その拵への程もなく、金箔置きの手桶五十、銀箔の柄杓五十本、衣装尽くしの笠鉾十二本、落書きの大団扇に竹馬一疋、籠張りの立烏帽子、門口に持ちかけさせ、「祝ひましての御事。」と、きつと使を立てける。文助、聞き届けて、「御返事はこれより。」とその者を帰して、暫く分別する内に、家中、これ沙汰にて、見物立ち重なり、作り物の風流をどつと笑うて果たしける。
 老中の耳に立ち、「この儀は先年、御法度仰せ渡されしに、今又、掟を背く者、穿鑿すべし。」大横目両役人に申し渡され、吟味をするに、若手一人も組せざるは無し。「とかくはそのなりけりに済ませ。」とその道具を取り置かせ、水も浪風も無く、阿波の鳴門は収まりぬ。されども文助、堪忍せず、団扇の書き付けを見しに、尊円様の筆の歩み。「正しくこれは、千塚林兵衛が手跡に疑ひ無し。外の人だに心外なるに、この林兵衛は我等と従弟なるに、さりとは憎き仕方。」と腹立やむ事なくて、その夜、屋形に訪ね、子細言はず討ち捨て、すぐに立ち退きける。
 「団扇の落書きせしは、林兵衛にはあらず。杉森新蔵といへる人の書きしに、文助、心のせくままに早まりける。」と、ばつと沙汰をしけるに、新蔵、「さては、我が筆故、林兵衛は討たれぬ。この上は、文助を討つて林兵衛に手向けん。」と、いづくを定めなく尋ね出しが、船中より腹中を悩ませ、色々養生の甲斐もなく、やうやう大坂に着きて五、七日後、他国の土となりける。思へば惜しき命ぞかし。
 さて、林兵衛が一子、林太郎とて、その頃二歳になりしが、女房、生国は備後の福山の人なるが、この子を連れて親里に帰りぬ。「浮世に、武士の妻女程、定めなきものは無し。」と、見し人、これを歎きし。しかも継母なれば、何につけても思はしからず。殊更、この腹代はりの妹、三人までありてうるさく、随分如才なく名人をさばけども、心にかかる言葉も耳に入れば、元の母人の事をのみ思ひ出し、身の悲しきにつけて、連れ合ひ林兵衛の面影をうつつにも忘れは遣らず。「憎や。その文助めを、林太郎成人して討たせ給へ。」と諸神に大願をかけて、心の剣を削り、利道の一念、骨に通りて、「この勢ひ、千尺の岩屋に籠り、七重の鉄門を構へたりとも、安穏には置かじ。」と備後を忍び出、林太郎を抱き守りて、夜露、汐風を厭はず、磯づたひ行くに、備前の国瀬戸の曙に旅の姿を恥ぢて、唐琴の泊り定めず。
 牛窓の浜里に網引きの長九郎といふ者あり。これ、世を渡り奉公せし時、母人、不憫を加へられ、季を重ねて使はれしが、今は古里の営みしける。以前のよしみに、この男をひそかに尋ねしに、優しくも昔の御恩を忘れず、「これは。」と涙を流し、様子語るに哀れを催し、「この度の憂き事、せめてはこれにて晴らさせ給へ。」と、それに連れし女も懇ろにもてなし、蘆火焚くなど、鮑の酢あへ、飛魚の丸焼き、あるに任せてこの人をかくまへ、世間へは女房の姪あしらひに年月送りて。
 林太郎も十一才になりて、母、嬉しさ限りなく、「又二年も過ぎば、諸国を尋ぬべし。」と明け暮れ人がましく育て給へども、浦辺の業を見習ひ、塩にてまてを取り、貝拾ふなど、姿から心まで賤しくなりぬ。なほ末々を思はれ、読み書きの道知るために、縁を求めて、津の国金龍寺に上し置かれけるに、さすが筋目を顕はし、外の児よりおとなしく、十四になれる春の花、開きかかれる若衆の盛り。和尚もなづみ深し。
 この麓の里に伊勢寺といふ所あり。これは、昔の歌人の伊勢が古里にして、草深き山蔭ながら面白き所に、篠原文助、兼田自休と名を変へ、散切にして身を隠し、林兵衛討つてのこの方、ここに住みなし、或る年の正月三日に、しきみ、枝ながら手折りて小者に持たせ、その身は十徳に朱鞘の大脇差一つにて、この御寺に詣で、和尚に対面して世の無常を語り出し、「今日の亡者、戒名もなく、千塚氏の何がし、十三年忌に相当たるなり。拙者ためには従弟づからなるが、不慮に相果てける。御弔ひあそばされ給はれ。」と涙をこぼす。
 折節、林太郎、薄茶を運びて、この物語を聞き済まし、小脇差を抜きて飛びかかるを、自休、早足利かして、その手を取つて引き伏せければ、和尚を始め、各々立ち騒ぎ、「これは、いかなる事やらん。」と詮議をしけるに、自休は少しも驚かず、いづれも静めて、「これには様子の御入り候事なり。汝は林兵衛が倅なるベし。林兵衛最後の時分、二才にてありしが、それより十三年過ぎぬれば、今年十四歳なるべし。かねて存じけるにも、『十五にならば、定めて我を狙ふべし。その節は、この方より名乗り出、心任せに討たるべき。』と諸神かけて覚悟せしに、今ここに居合はせ、某に出逢ふ事、その方、武運に叶ふなり。最前申し上げしは、この者の親が儀なり。林兵衛、草の蔭にて、さぞ嬉しからん。さあ、本望を遂げよ。」とて、林太郎が剣を持ち添へ、我が腹に刺し通し、目前の夢とはなりぬ。林太郎、とどめを刺して、親の敵を討つ事を悦び、その首を器物に入れ、御寺に御暇を乞ひ捨て、又、備前の国に下り、母人に御目にかけ、年来の思ひをこの時、晴らし給ひぬ。
 この沙汰、世に隠れなく、阿波に残りし文助後家、これを聞き付け、牛窓に忍び来て、林兵衛後家の仮宿に、名を知らせて切り込み、「夫の敵討。」と勇みける。「心得たり。」と林太郎、切つて出るを、母親引きとどめ、「互に女の勝負。構へて手を差す事なかれ。」と両人暫し戦ひ、薄手数々の働き。文助女房の太刀を打ち落とし、きつと引き伏せ、命は取らずして、その断り申すは、「いかに女なればとて、道理を聞き分け給へ。夫討たれての恨みを言はば、みづからこそこなたへ申すべけれ。元、林兵衛殿を文助殿、討つて退き給ふを、林太郎が親の敵討てばとて、我等をその恨みは、不覚なり。文助殿誤り給ふ心ざし顕はれ、この度討たれ給ふ首尾、さすが武士の正道なり。討つも討たるるも、先生よりの因果。今以て何か互に恨みは無し。かく手に入れければ、御命取る事、易けれども、さりとはさりとは、我は格別の心中。みづからを殺し給ふが本意ならば、思ひのままにし給へ。」と心の剣を捨てて、至極を段々言ひ給へば。
 文助後家、涙に沈み、「さても恥づかしき御心底。只今、肝に銘じ、義理に責められ、身のあさましき思ひ立ち、まつぴら御許し給はれ。」と、そのまま自害と見えしを、是非にとどめ給ひ、「それ程の思し召し入れならば、我々と一所に形を変へさせられ、文助殿の御跡を弔ひ給へ。夢は覚むる間もある幻の世なり。」と勧めしに、「猶有り難き御心ざし。」嬉しさ袖に余りて、涙おのづから手向けの水と成りて、二人の女、姿そのままに髪を切りて、この所も障りあり。」とて、それより播州の書写坂本に立ち越え、心のすむ良き山蔭を見立て、草葺の庵を結び、薄を枝折の道しるべに、分け入りしより里に出ず。常念仏の鉦の音、殊勝さ次第にまさり、外なく後世の一大事忘れ給はず、行ひ澄ましておはします。
 林太郎も髪剃つて、道林と法名し、里々巡りて托鉢し、二人の比丘尼をいたはり、朝に枯れ木の小枝を拾ひ、夕に谷の下水を掬び上げ、煙短き身を堅めて、一生無言の行者と成り、毎日たけ三寸の観世音を刻み、三年千体成就して、様々供養を成し、二人の御跡を弔ひける。

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