命取らるる人魚の海
奥の海には目馴れぬ怪魚の上がる事、そのためし多し。「後深草院宝治元年三月二十日に、津軽の大浦といふ所へ、人魚初めて流れ寄り、その形は頭、紅の鶏冠ありて、面は美女の如し。四足、瑠璃を延べて、鱗に金色の光。身に香り深く、声は雲雀笛の静かなる声せし。」と世のためしに語り伝へり。
ここに、松前の浦々の奉行役人に中堂金内といふ人、里々の仕置きして廻りし時、鮭川といへる入り海にして、夕暮に及び、横渡しの小舟に乗りて、汀八丁ばかりも離れし時、白波、俄に立ち騒ぎ、五色の水玉、数散りて、浪二つに分かりて、人魚、目前に顕はれ出しに、舟人驚き、いづれも気を失ひける。金内、荷物に差し置きたる半弓をおつ取り、「これ大事。」と放ちかけしに、手ごたへして、その魚、忽ち沈みける。それより高浪、静かになりて、子細なく陸に上がり、本国松前に帰宅して、村里の仕置きの段々、老中まで申し入れ、ついでに旅物語の中にも、鮭川の渡りにして人魚射とめたる事、ありのまま申せば、いづれも手を打つて、「これは、ためし少なき手柄なり。明朝、御機嫌を見合はせ、この儀、御披露申し上げん。」と言ひ合はされし時。
その座に青崎百右衛門といへる、御留守番組して悪人なれば、今年四十一まで、いまだ婦妻もなく、世を面白からず渡りぬ。御家久しき者、殊に親百之丞、御用に立ちぬれば、先知を下しおかれ、日頃我がまま申すも、人皆、許しおきぬ。金内この度、人魚の事を、偽りのやうに申し成し、「惣じて、確かに見ぬ事は、御前の御耳に立てぬが良し。鳥に羽あり、魚に鰭あり。それぞれにその身賢く、自由にならぬためしには、拙者が泉水に金魚あり。わづか四、五間の浅水を楽しみとするに、この程、雀の小弓にて二百筋ばかりも射かけしに、これにさへ当たらぬもの。とかく生き物には油断がならぬ。世に化け物なし、不思議無し。猿の面は赤し、犬には足が四本に限る。」と検校の下座に相詰めしを物語の相手にして、無用の高声。
大横目野田武蔵、聞きかねて、百右衛門に差し向かひ、「貴殿、広き世界を三百石の屋敷の内に見らるる故なり。山海万里の内に、異風なる生類のあるまじき事にあらず。古代にも、人王十七代仁徳天皇の御時、飛騨に一身両面の人出る。天武天皇の御宇に、丹波の山家より十二角の牛出る。文武天皇の御時、慶雲四年六月十五日に、たけ八丈、横一丈二尺、一頭三面の鬼、異国より来る。かかる事どももあるなれば、この度の大魚、何か疑ふべきものにあらず。」と分別顔にて申しければ、百右衛門、眼色変はり、「金内殿とても、御手柄ついでにその人魚、御持参なれば、並びなき首尾。」と言葉、やむ事無し。皆々、外の事にまぎらかし、泊り番衆に入れ替はり、屋形に帰りぬ。世間の人心なれば、「百右衛門、悪しき。」と沙汰するもあり、又、「金内、何事か申すも知れず。」と笑ふもあり。
金内、聞き捨てには成り難く、「百右衛門を{*1}討ち果たさん。」と思ひしが、「しかれば我、いよいよ胡乱なる事を申せしと、後にて人のあざけりも口惜し。」と是非なき命を長らへ、「かの人魚の体を詮議して、武運尽きずは、これを一家中に見せて、その後、百右衛門めを安穏には置かじ。」とひそかに屋敷を出、鮭川に行きて、漁師あまたに金銀を取らせ、俄に大網を引かせけるに、その魚、更に見えざる事を歎きて、水神を祈りけるしるしもなく、明け暮れに浦々を眺め歩きて、磯に寄り藻を掻き探し、岸に流れ木を、「それか。」と心を尽くし、日数を重ね、これ、思ひの種と成りて、次第に胸迫り、あらけなき岩に腰懸けながら、入り日を西の方と伏し拝み、惜しや命、かけ浪の泡の如くに消えぬ。
浦人の知らせ来て、屋敷に歎く者は、十六になりぬる娘より外は無し。この母親も、過ぎし年の時雨降る頃、定めなき浮世の別れせしに、又もや父に、かかる憂き事。袖はそのまま海と成して、「せめて、その御死に顔なりとも見て、後世の御供申すべし。」と思ひ定めて駆け出るに、いづれの女か後に続くは無かりき。金内、寝間の上げ下ろしせし女に鞠といへる者、二十一になりしが、年月の情けを忘れず、やうやう一人、御跡を慕ひ、野を内と成し、浪を枕の宿りもせず、女の歩み、はかどらず、三日といふ暮方に、父の最後の浦に着きて、すがりて歎くに甲斐なし。天を祈り地に伏し、様々身をもだえ、賤さへ笑ふも恥ぢずして、「今は、これまで。」と金内死骸を二人の女抱きて、海に飛び込む処へ、横目の野田武蔵、上意にて駆け付け、この有様に驚き、まづ引きとどめ。
「いかに女なればとて、親に敵のあるを知らずや。」と言ふ。二人の女、合点をせず、「金内は病死。」と申す。「その病死は、百右衛門が言葉より。」と始めを語れば、娘、涙を流し、「その百右衛門は、みづからを縁組、しきりに申し懸けしに、金内、請け給はぬ恨みにや。これ、武士たる心入れにあらず。しからば百右衛門を討つベし。」と再び古里に帰るを、武蔵、道中を守護し、御前をよろしく申し成し、その後、手前にはごくみ置きし増田治平といへる浪人に後ろ見頼み、遊山の帰るさを付け込み、名乗りかけて、右の手を打ち落とし、左にて抜き合はすを、娘、長刀にして切り込み、たるむ{*2}所を、鞠、飛びかかり、心もとを刺し通し、思ひのままに本意達し、屋形の門を閉ぢて御意を待ち請け、「女ながら切腹申すべし。」と覚悟極むるこそ、さすが武士の娘なれ。
翌日、御詮議の時分、各々、日頃に憎みあるなれば、老中、諸役人、口を揃へて悪しく言上申し、その家滅亡させける。金内娘には、伊村作右衛門末子、作之助を入り縁仰せ付けられ、中堂の名跡を継がせ下され、手かけの鞠事は、女と申し、下々には優しく思し召し、徒士目付戸井市左衛門といふ者に下され、有り難き仕合せぞかし。
それより五十日程過ぎて、北浦春日明神の磯より、夜中に注進申し上げ、「目馴れぬ魚。」と最前の人魚、差し上げけるに、隠れなき金内が矢の根。皆々感じて、亡き跡にて侍の名を上げける。
校訂者註
1:底本は、「百右衛門と打果(うちはた)さん」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
2:底本は、「切込(きりこみ)たるゝ所を」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
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