第三 大蛇も世にある人が見たためし
行く春の桜鯛、堺の浦に限らざりけり。予州宇和島といふ所に、手繰りの綱を下ろさせ、女まじりに今や引くらん。
五端帆の舟二艘を出島の宿の縁の先まで釣り揚げさせ、潮を湛へて数の魚を放ち、これぞ正真の沖鱠。入り日を金柑に見なし、浪の浮藻を水鉢に作り、この景色は下手な仙人より増しに、眺めの長じて小船に棹さし、盃流しの一曲を興じて歌ふ所に、俄に海上震動して、白浪、舟を揺り上げ、水より少し下に、五丈ばかりの龍、うねり廻るを、見る者、肝を消し。
船頭をあらけなく叱りて、「こんな所へ乗せて来るものか。昨夜の夢見悪しきに、『来まい。』と言うたを、女どもが、『それでは約束の義理が欠ける。』と言うて、この様な怖い目をさせる。」と泣き出すと、着る物皆脱ぎて、大小にくくりつけ、褌まで外して泳ぎ支度をする。又、傍らより、「さても残り多い事は、瓢箪を持つて来れば、まざまざと水を飲んでは死なぬものを。」と悔む。「何も心にかかる事はなけれど、祝言してから十日にもならぬ女房が、晩から淋しからう。」と涙ながら我が屋敷の方を眺めやり、「とても、こちどもは、水心は知らぬ。」と手を懐に入れて、舷に寄りかかつて念仏繰り返し、「かの観音の力を念ぜば、浅き所を得ん。」と読み出すもあり。船頭を呼べば、「もう御許されましよ。目が舞ひまして。」と船底に息も立てず。
その中に、石目弾左衛門、舳先に立ち上がりて、大身鑓を上段に構へ、大音上げ、「正体、いかなる物ぞ。この治まれる時津波太平の御代に、怪しき姿。あつぱれ曲者なるベし。」と海上を睨みつけたる有様のゆゆしき。不思議や、大蛇、淡路が島の方へ行くと見えて、気色静かに浪収まり、皆々、夢の覚めたる心地して、又、右の汀に漕ぎ戻し、からき命を我が物にして上がりぬ。
その後、城下にこれ沙汰。或る時、弾左衛門手柄、美々しく話すにつけて、成川専蔵、木村土左衛門が臆病の事、言はずして顕はれしかども、誰先切つて評判する者もなかりき。されども、若き衆の悪口に、臆病なる事を、「昨夜の{*1}夢見、十日にならぬ祝言。」と、はやり言葉にし成しける。
まだこの沙汰、しかと聞かぬ男の、由来を尋ねられし。その夜は、五月雨降りすさみたる、つれづれのしめやかなるに、小谷孫九郎、久米田新平、松川太郎八。亭主は井田素左衛門なりしに、この男、成川専蔵子息瀧之助と、わりなく言ひかはしたる中にて、「今宵は来るべし。」と宵より手紙に告げ越しければ、いづれもの長座、気の毒の所へ。
早、瀧之助、ひそかに玄関までおとづれたるに、親専蔵、舟遊山の時、不首尾の品々、ふと耳に入り、はつと思ひ、暫したたずみて聞き届くれば、親仁、侍の一分も立たず、腰抜けの取り沙汰。座中大笑ひなれば、「これ堪忍ならぬ所。よしよし、これまで。」と降り続く雨にそぼぬれて、「座を立つを待ちかけ、物の見事に討ち果たさん。」と思ひながら、「いやいや。この事を言ひつのりて、かうなる時は、いよいよ親仁の引け、恥の上の恥辱。ここは分別所なり。かへつて不孝の科を逃れず。」堪忍ならぬ所なれども、胸をさすり、歯をくひしばり、「所詮、今の物語は、久米田新平。相手に不足無し。」と無念ながら宿に帰り、その後、素左衛門、新平に逢へども、色に出さず、時を過ごしぬ。
その頃又、太田鬼卜といふ浪人、丹石流の兵法の師をして、一家中、弟子と成り、右の者どもも一所に集まり稽古するに、戸入りの請け太刀、折節、新平に当たりたる時、瀧之助、「幸ひの所。」と打ち太刀に出て、続けて二、三本したるに、「それでは止まる。」「止まらぬ。」と穿鑿し出しけるに、新平、おとなげなくせいて、「竹刀というては、疵がつかぬによつて、その証拠知れず。生若輩なる口より、言はれぬ事を言はんより、勢を出せば、つい知れる事。瓜の蔓に茄子はならず。」とつぶやくを、瀧之助、猶聞かぬ巧みなれば、「異なたとへを承る。殊に、『竹刀では証拠の知れぬ。』とは、真剣では拙者、得致すまいと思すか。弓矢八幡、逃し申さず。よく覚え給へ。」と言ひ捨てて帰り、最前の意趣をこれに巧み替へたる心底、武士の子程{*2}あり。
その日の八つ時分に、新平方へ状をつけ、「今晩、椿が原{*3}にて仕合致すべき」由、言ひやりて、日の暮るるを松が根に腰をかけて、覚悟を極めける。その頃、新平が懇ろの弟分に富坂弁四郎、この事を聞きて、只一人ここに来るを、五月闇のあやめ知らず、新平と心得、「瀧之助なり。」と言葉をかけしに、弁四郎、わざと言葉をかはさず。新平に代はりて切り結び、互に数ヶ所手を負ひて、暫したたずむ所へ、新平来りて、「瀧之助はいづ方に。」と言ふに驚き、「さては、人違ひか。」と思ふ内に、「弁四郎、助太刀に参りたり。」と言ひ果てず、又切つてかかるを、飛びちがへて打つ太刀に、弁四郎が首、後ろに落つると、すかさず新平、抜き合はせける所へ。
素左衛門、又、瀧之助が助太刀に来りて見れば、打ち合ふ度毎に、しのぎより出る火は、蛍の如く飛び乱れ、最前より瀧之助、あまた手負ひ、疲れ、足もたまり得ぬを、急に叩き付けられ、木の根につまづき、「南無三宝。」と転びながら受け留めて、危ふき所を、「素左衛門なるは。」と勢を付け、新平と渡し合ひて、二打ち三打ち打つと思ひしが、素左衛門、切り倒され、「無念。」と言ふ声を最期に残しぬ。
瀧之助は、弁四郎が死骸を枕にして息をつきたるに、この音を聞きて力を落とし、「口惜しくも、ここにて両人共に討たるるこそ本意なけれ。何とぞして新平を手にかけ、本懐達すべく思へども、五体続かず。手を負ひて、早、太刀打ちも叶ふまじ。」と思案巡らし、小声になつて、「南無阿弥、南無阿弥。」と二、三遍唱へ、「誰かある。早くとどめを刺せ。」と言ふ声{*4}に、新平、気をくつろげ、「さては、し済ましたり。」と立ち寄るを、寝ながら横に払へば、高もも切り落とし、倒るる所を、起き直りて首を打ち、「まづ本望達したり。」と嬉しきばかりにて、次第に弱り果て、新平がむくろに腰をかけ、差添、腹に当てながら、切るまでは力なく、何ぞと問ひし白玉の、椿が原の露と消えけり。
校訂者註
1:底本は、「夕(ゆふべ)に夢(ゆめ)み」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
2:底本は、「子程(こほど)とあり。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
3:底本は、「椿原(つばきはら)」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
4:底本は、「勢(こゑ)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
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