第二 誰が捨て子の仕合せ

 心の海を横渡しに、昔、島原の舟着きに辻岡角弥とて、浦の吟味役人してありしが、御奉公粗略して、明け暮れ奢りを極め、京より美女を取り寄せ、その上、「他国よりの縁組を、堅く御法度」を背き、泉州堺の手前よろしき町人の娘を呼び迎へ、様々我がまま重なりしを、家老中、ひそかに数度、異見加へられしに、一円承引致さず。女を幾人か手打ちにせし事、その外、十二ヶ條の悪事、横目役より言上申せば、御詮議極まり。
 柏崎茂右衛門、矢切団平、この二人に仰せ付けさせられ、角弥討つべき御科の御書き付け下し給はり、両人、上意請けて、角弥浜屋敷に案内なしに入りて、「仰せ渡さるる段々、聞き給へ。」と茂右衛門、書き付け読み仕舞へど、団平、遅れて不首尾の時、茂右衛門、抜き討ちに仔細なく角弥を、とどめまで刺して立ち退く時、団平、言葉荒く、「最前申し合はせて、くじを取り、その方は箇條書を読む役、この方、討つ役に極めしに、無用の出来しだて。八幡、堪忍ならず。」と眼色変へて詰めかくる。
 茂右衛門、少しも騒がず、「この儀、二人承れば、いづれか前後の論に及ばず。これ、両人の働きなり。角弥首尾よく討ち取るこそ仕合せなれ。御前の御機嫌なるべし。急ぎ給へ。」と首、羽織に包み{*1}、立ち退く所を、後ろより茂右衛門を切り付けしに、「卑怯者。」と抜き合はせ、団平に打ちかける太刀先下がりて、終に討たれにける。
 死骸、角弥が働きのやうに取り直し、立ち退く所へ、徒士横目千本勝五左衛門、駆け付けしに、我が手柄のやうに次第を語りけるに、物に馴れざる男にて、死人改めもせずして、団平口上の通りを、我が見たやうに申し上ぐれば、団平一人の働きになり、即座に百石の御加増下され、武士の面目、世の聞こえ、かれこれよろしく、家栄えける。
 茂右衛門妻は、知らぬ事とて、最後を悲しみ、「日頃は、人に遅れ給はぬ御所存なりしが、武運尽きぬれば、是非もなき。世の中に残りて住むも、由無し。」と二十一にて髪を下ろし、山居の身と成り{*2}、夫のための香花。今は心も開けて、出家堅固に勤めけるにも、明け暮れ夫の事のみ忘れ難し。茂右衛門、一子もなければ、その家絶えて、諸道具は、その兄茂左衛門方に取りのけ、後家比丘尼には、これよりはごくみを遣はしける。
 定めなきは世のなり、つらきは人の心ざし。団平、その後は世間のよきままに、いつとなく奢りて、人皆、これを憎みし。殊更、家来に情けをかけず、一人一人恨み申すぞ因果なり。或る時、若党の九市郎と申す者、紙細工言ひ付けられ、枕屏風を張り立てけるに、「仕立て悪しき。」とて散々「無調法。」と言葉あらけなく蹴立てられしを、主人ながら、気色、常に変はれば、長屋に追ひ込みおかれて、憂き目に逢ひける。各々詫び言すれども、聞き入れ給はず、近々に成敗極まれり。
 同じ屋敷に召し使はれて、腰元の久米といふ女、いつの日か九市郎と言ひかはして、二世の語らひ成して、末々一つの願ひ。年の明け行く事を待つ内に、この難儀悲しく、雨の夜、人静まりて後、九市郎追ひ籠められし長屋の窓に立ち忍び、互の憂きを語り尽くし、「我が命を取らるる程の事にはあらず。さりとはむごき仕方なり。この怨念、外へは行くまじ。そなたも、かく成り行く身の程、さぞ不憫に思はるベし。何事も主命なれば、是非も無し。されども、身に誤りなくて死する事、後の世までの迷ひなり。旦那にこの恨みを成して、この家失ふ事こそあれ。
 「いつぞやの上意討ち、柏崎茂右衛門殿、手に掛けて角弥殿を討たれしに、主人、遅れて首尾悪しき故に、茂右衛門殿を角弥、討たれし処を、切り伏せたるやうに御前へ披露申されしが、まことは、茂右衛門殿を旦那、騙し討ちにして、世には手柄触れける。これ畜生なれば、この事、茂右衛門殿兄茂左衛門殿に告げ知らせて、主人団平を無い者にせば、我、相果てても思ひは残らじ。」と涙をこぼす。とやかく歎く内に、夜も明け渡れば、別れの後、九市郎を引き出し、「慮外者。」の断り立つて、手討ちになりける。
 腰元の久米は、屋敷を抜け出、茂左衛門殿に駆け込み、この段々{*3}語り、舌喰ひ切り、夢よりはかなく消えける。この事、一家中の沙汰と成り、おのづから天命逃るる所なく、団平、非道顕はれかかれば、たまりかねて、その夜、屋敷を立ち退き、いよいよ悪人に極まれば、「その時の横目役千本勝五左衛門儀、無念。」に極まり、切腹。是非もなき仕合せなり。
 その後、茂左衛門、家老中まで御訴訟申すは、「茂右衛門事、弟ながら、これは格別の{*4}儀なれば、敵討ちたき願ひ」申し上ぐれども、「世の御仕置き立たねば、子方の者詮議して、討たせ。」との仰せ出されなり。茂左衛門にも娘ばかりにて、男子を持たねば、さし当たつて分別及ばず。御暇申し請けて浪人の身と成りて、諸国を尋ね巡り。
 二年過ぎての秋の頃、江州志賀、唐崎、この両里にある由、聞き出して、逢坂山を立ち越えて、関寺のほとりにして、いまだ誕生日も過ぎまじき捨て子を拾ひて、名を茂吉と改め、乳乳母に抱かせ、大津の屋形に行さて、「この倅、親の敵討」の御帳に記し、それよりありかを確かに見出して、八月十四日、時節を待つ宵の月見。所の人を誘ひ、団平、浜辺に出しを、名乗り掛けて討ち済まし、乳母抱きながら、茂吉にとどめを刺させ、あつぱれ働き、残る所無し。
 団平が首、器物に入れさせ、本国に帰りさまに、茂吉に金子十両付けて、薮の下の煙草切りの元へ養子に取らせ、茂左衛門は肥前の国に帰り、団平討ち取り、上方の首尾、所の御奉行よりの添へ状差し上ぐれば、殿の御機嫌よろしく、先知に二百石の御加増下し給はり、母衣大将に御役替へまで成し下され、武勇、この時、国中にその名を上げける。
 「茂吉事、筋目はいかなる者なりとも、茂左衛門が才覚にて、一度茂右衛門が一子に仕立てければ、急ぎ呼び下し、茂右衛門名跡を相違なく継がせ申せ。」との御意。有り難く、大津に人を遣はし、茂吉を呼び寄せ、九月九日の御礼日に御目見え済まし、家の悦びを重ね菊。酔ひを進めて千秋楽を謡ひ、柏崎の名を祝ひけるとぞ。

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校訂者註
 1:底本は、「つつみて立のく」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「身なり。」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「段々(だん)(二字以上の繰り返し記号)を語(かた)り」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「格別(かくべつ)義」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。