第三 無分別は見越しの木登り

 肥後の昔の国の守なる御城構への外、「新造作の門、櫓、長屋作り。美々しく立ち並びたるは、どなたの御屋敷。」と尋ねければ、「これは、かの出頭に暇なき大壁源五左衛門といふ新参者。わづか二十五石より、三年の内に二千石取り上げたる者の拝領の地なり。今時は、武道は知らいでも、算盤を置き習ひ、始末の二字を名乗れば、どこでも知行の種と成りて、譜代の筋目正しき者は、必ず先知を減少せらる。世は色々に変はりて、今より末々は、諸侍たる者、刀の代に秤を腰に差して商ひ、はやるベし。」と沙汰する時。
 源五左衛門が一子小八郎、三才になりしが、折節、五月の半ば、築山に楓の大木ありて、その梢に若葉ちしほなるを、童心に急に、「欲しき。」とむつかりけるに、中間を木に登らせ、「その枝、この枝、折れ。」と指図するに、隣屋敷は安森戸左衛門とて家久しき侍。よろづに折り目高なる生まれ付きながら、今日は非番の暇にて、奥の間取り放して、内儀と只二人、しめやかに物語し、勤めの苦労もこの楽しみあればこそ。何心なく仮枕するを。
 かの木に登りたる男、遥かにこれを眺め、「夫婦さうなが、心地よくあそばるるよ。」と望みの梢をば切らずして{*1}、見廻す内、戸左衛門見付けて、「あれは、源五左衛門屋敷なるが、無作法千万なる木登り。近所の内証まで見下ろすに。断りの使は来るか。」と言へば、「いや、何とも申し来らず。」と言ふ。「その身、常々、殿の権威を借りて、古座の諸士をないがしろにするさへ憎しと思ふに、この断りなきは、いよいよ踏み付けたる仕方。」と、木より半分程下りかかる所を、鉄砲二つ玉込めて、狙ひ澄まして撃てば、只中。気も魂も抜けて落ちける。
 これに驚き、源五左衛門に、「かく。」と言へば、「勿論、この方より一応断りなきは、無念と言ひながら、余りなる仕こなし。堪忍ならず。」と戸左衛門方へ行きて、事分け二言と言はぬ先に、抜き合はせて打つ太刀、源五左衛門が長刀、鴨居に切り付け、引きかぬるを車に払ひ、倒し、とどめまで刺して、「今退く。」と奥に知らせて、門外に出れば、源五左衛門が若党ども、「さては。」と切つてかかるを、二人切り伏せ、それよりぢきに立ち退きける。
 この事、太守の耳に達しければ、「国のために抜群忠功ありし者。」と、知行は召し上げながら、小八郎に二十人扶持下され、「思し召す仔細あり。母に、養育致せ。」の由、仰せ下され、戸左衛門は、子なきによつて、家絶えにけり。されば、家々の世盛り、限りありて、源五左衛門屋敷、今は身代に持ちかね、御物上がりの岩井惣八に下され、小八郎は外なる廓に移り替はる世や。
 この母も、昔日、源五左衛門と忍び難きを忍び出、当国には、つゆのゆかりもなかりしが、今は頼み猶絶えて、この八、九年の間の憂き思ひ。後家の身ながら、幼き者を育て上げ、成人するに付けても、「過ぎし人のおはさば、いか程か悦び給はん。それに引き替へ、まだ行く末のおぼつかなく、いつか敵を討ちおほせて、再び大壁の家の栄えを見まほしく」。
 今は早、小八郎、十五歳になれば、或る夜、ひそかに始め終はりの仔細を語り、殿様に御暇乞ひて、思ひ立つべき由、含めけるに、おとなしくうなづきて、「我、三歳の時ならば、今まで空しく日を送りたるを、世間にも、『遅れたり。』と後ろ指さされし事の口惜し。とてもの事に、四、五年前にも知らせ給はば、この御恨みはあるまじ。」と言ふにぞ、老母も潔く思はれて、老中、瀬良内蔵之介まで申し上ぐれば、「いつにても討ち得たらん時には、本知相違なく下さるべき」由、仰せ出され、殊に、「本望達するまでは、路金入用次第に、御用人のその役、増見勘六方まで申し越すべき。」との御事。
 有り難く、首尾残る所なく宿に帰り、二月十四日に門出祝ひ、母の心づかひとして、先年、源五左衛門討たれし時、供したる草履取、自然の時の目代に、そのまま抱へ置きて、くれぐれ頼みて、主従二人、同十五日に立ち出るを、見送るまで涙をおさへかねしが、「親、他国者たるによつて、当所に縁類、兄弟とても、助太刀、後ろ見する者一人もなく、定めなき旅路を幼き者の一人行く、武士の道こそおぼつかなけれ。めでたく討ちおほせて、母が心を慰めよ。」とて、この言葉を暇乞ひにして、立ち別れぬる哀れ。袖より外に問ふ者も無し。
 願ひは鶴が崎の八幡に祈り、思ひは鐘が淵に沈む心地して、憂きを戸渡る舟に漂ひ、陸にたたずみ、山陽、四国残らず巡り、源五左衛門十三年忌を早、美作誕生寺にてひそかに志を施し、それより津の国、難波の大湊を尋ね、五畿内をかなたこなたにさまよひ、明くれば春日山、霞立ち初むる今朝になりぬ。
 遥かに故郷の空を眺めやれば、山上に山あつて、幾重重なる旅衣、帰るべき程も白雲の往く方のみ懐かしく、「世の哀れは我一人。」と御社伏し拝みて、人泊る宿に帰れば、門松の景色に千代を謡ひ、「幾久しく。」と屠蘇酌みかはすに付けても、我が身の上の春を思ひ、古里の老母の事、「いかにおはしけむ。」とこれも気にかかり、かれも胸に迫りながら、旅の仮寝の初夢。
 「うつつにもあらず、老母、遥々の国里、尋ね来り給ひて、『この年月の久しき事を、指を折れば、一年わづかに余る袖の涙は、西の海、浪の立ち居にも、そなたの行く末のみ胸に迫りて懐かしく、この思ひならば、諸共に連れ立ちて本望を達せむものを、甲斐なく後に残りて、今の憂さつらさ。草の露とも消ゆべき命なれども、せめて{*2}一度のおとづれを聞きたく、十三年の弔ひまでは待ちしが、それにも便りのつてなく、『浄雲寺の同じ苔の下にも{*3}。』とは思ひ極めながら、一日一日と暮らして、告げ渡る鳥と同じくなき明かし、今は姿を変へて、かの人の後世、いよいよ祈るばかりなり。只とにかく、焦がれ死なぬ内に、今一度覚めての対面を願ふ心を、力にする命も知れず。恨めしき浮世の中の習ひ。』と、しほしほと枕にたたずみ給ふ。」と思へば、暁の鐘に面影消えて、寝覚め悲しく、召し連れし小者を引き起こして、夢の物語。
 聞かぬ先より涙を流し、「私のまざまざと見しも、これに違ふ事無し。御袋様の御歎き、御尤もに存ずるにつけても、運の強き敵の行方。」と互に男泣き。「いか程思へばとて、このままにて国元へは帰り難し。これより東海道にかかるべし。」と言へば、僕勧めて、「見かけたる敵にはあらず。一まづ忍びて御帰りあり、御袋様に御対面なされ、その上にて又、いづ方へなりとも御出、しかるべし。」と言ふにぞ、「一には孝の道筋。豊後まで行けば、知るべの本賀猶右衛門方からなりとも言ひつかはし、本望は遂げざれども、我々息災の様子ばかりなりとも知らすべし。」と。
 それより引き返して、又西国に赴き、小倉よりかち行く道の、傍らなる休み茶屋に、老母、疲れたる体にて腰掛けに休らひ給ふに驚き、「これは、いかなる事。」と先立つて、「敵のありか、今に知れざれども、かやうかやうの夢見より、まづ御目にかからんと存じ、僕の宅平に勧められ、甲斐なき帰国ながら。」と言へば、老母も、国元に中々あるにもあらずして、尋ね出たる来し方の憂き思ひを語り、「諸共に、本意遂ぐべき」願ひ。
 しからば又、北陸道へ心ざし、主従三人になりて行く程に、今は江州に立ちたる鏡山の里に着きぬ。「ここにて思ひ出せば、親源五左衛門殿、生国はこの国打原とやらいふ里より、幼くて城下に出、勤め給ひしに、十六才にてここをも立ち退き給ふと、長き夜{*4}つれづれに語られしが、耳に留まりぬ。もし大壁のゆかりあらば、訪ひて見まほしき{*5}。」とうち越え、ひそかに聞けば、「沢山に軽き奉公人に、大壁六平といへる男あり。」と伝へ聞きて、それに尋ね会ひ、源五左衛門、何十年以前、当国去つての後、今までの首尾語らるれば、六平、横手を打つて、「それは、我がためには{*6}現在の兄なり。この上は敵のありか、根を掘つて葉を断つベし。」と、これも御暇申して、うち連れて行くに。
 美濃国関が原にて、俄に時雨して、晴れ間を待つ内に暇取り、日を暮らし、難儀なる所へ、追剥数十人群がり来りて、四人を中に取り籠めて、是非なく切り結びけるに、身は長旅に疲れたるに、足場悪しく、されども小八郎が手に廻る程の者、薙ぎ倒し、追ひ散らし、立ち帰りて見てあれば{*7}、六平、宅平、老母、早、切り伏せられ給ひたると見えて、念仏かすかにして、息絶えければ、「南無三宝。」と空しき体に取り付きて、呼べど返らぬ玉の緒の、さても是非なき次第。頼み切つたる者どもも、今は野末の薄より外に問はず。
 思ひも寄らぬ事に、「一人残り給ひし母まで刃にかけ、年来の敵は討たずして、いやましに憂き目を重ぬる事。これ程、侍冥加にも尽きぬるものか。よしよし、これまで。」と既に自害と見えしが、又、心を取り直し、「両親の中の敵、せめて一人を孝養にせざる事、腑甲斐無し。」と我となだめし心の内、生ける心は無しに、三人の亡きがら、片里の庵に頼みて埋み、名をば埋づまぬ武士の甲斐甲斐しく、その所を無念ながら立ち退き、同じ国の府に着きて、「暫しはここにとどまり、世の有様を窺はん」ため、様々手立てを以て、その府の旗大将白峯村右衛門といふ男に、半季定めの僕と成りて、或る時。
 村右衛門が若党と共に、長屋住まひの木枕を並べ、四方山の雑談のついでに、「御手前の生国はいづく。」と尋ねける。言葉を聞けば、まさしく我が国の者なり。「何と返事すべし。」と工夫巡らし、「もし又、そのゆかりも知らず。」と思ひ、わざと「肥後の者。」と答ふれば、この男は、戸左衛門、国より召し連れたる一人の草履取上がりなれば、同国なる事を聞き咎め、「どなたの御屋敷に居られた。」と言ひしに、「安森戸左衛門殿に奉公したり{*8}。」と言ふを聞きて。かの男、「さては安堵したり。よい加減に嘘つく者。」と思ひ澄まし、「まづ、敵の末にても無し。されども、旦那の名を聞き覚えて、今は家の絶えたる事を知らず。嘘つくが憎し。」と思ひ。
 「それは、そちの覚え違ひなるべし。その戸左衛門殿は、十四、五年以前に肥後を立ち退かれ、後は余の侍衆の御座る筈なり。こちがよく覚えて居るに、大きな嘘つき。」とせせ笑ひけるに{*9}、「これは、面白き事を言ふ。」とおぼえて、「何と、人を偽り者とは、迷惑致す。して、その戸左衛門殿、実正、国には御座らぬ証拠ありや。その証拠なくては、我、偽り者に成りて一分立たず。堪忍ならず。」と寝てゐたるを起き返り、脇差取り廻せば。
 この男、臆病者にて、「いかにも証拠を出すべし。さりながら、誓文立て給はねば、言はぬ事。」と言ふに、「成程、立つべし。」と言へば、「その戸左衛門殿は、則ち今の旦那なりしが、隣の源五左衛門殿を討つて退かれし時、我一人供して、丁度今年で十五年、国へ戻らぬ。これが証拠じや。もう堪忍し給へ。」と言ふを聞きて、「これ、天の与へ。優曇花の開くを待ち得たる心地」して、「今は、駆け込みて討つべき。忍びてや討たん。」と様々分別しきりなるを、色に包み、その夜の明くるを待ちかねて。
 朝日に我が古里の氏神を拝み奉り、「この度、本望を遂げさせ給へ。」と祈りける所に、村右衛門、登城の支度して出るを、「源五左衛門が一子小八郎。」と名乗りかけると、村右衛門{*10}、受けとめけれども、念力に打つ太刀、即座に討ちおほせ、「今はこれまで。」と嬉し涙をこぼす所に。
 村右衛門若党、六、七人抜き連れて、互に手は負ひながら戦ふ音に驚き、近所に大目付役の稲村与助、駆け付けしに、早最前、村右衛門様子を語りし者も切り伏せられ、過半、疵を蒙り、たじろぐ所を、「これは、いかなる仔細。」と問ふに、一様に口を揃へ、「主を殺す悪人。」と言ふに、小八郎は、「親の敵なり。」と言葉戦ひにも、鳴りは静まらざりけるを、与助、「暫し。」と両方へ引き分けて、様子を聞けば、「敵にまがひ無し。」と段々話しければ、その頃の太守、小久島民部殿に申し上げしに、「しからば、かの者の国へ使者を立つべし。それより内は、小八郎を与助に御預け」にて、谷見森右衛門、使者に仰せ付けられ、筑紫に下りぬ。
 知れぬは人間の命。源五左衛門に不憫加へられし殿は、過ぎし九月十九日に、日腫といふ病にて逝去なされ、今は{*11}百ヶ日も経たぬ所へ、「大壁小八郎事、段々書き付けを以て奉行所まで申し来る」由、家老瀬良内蔵之介へ伺ふに及ばず。御代替はりて、「大壁の家は、今まで立つても、潰すべき」旨、内々、若殿の御内意なれば、たとへ贔屓に存ずる者ありても、取り上げる者、一人も無し。殊に源五左衛門、出頭するに任せて、前後に眼見えず、権威、おのがままに振舞ひしに付けて、意趣含むの輩、使者に立ち向かひて、「当家の扶持人にあらず。」と言ひて、「大儀。」とも言ふ礼儀さへ言ふに及ばず、帰しければ。
 使者、美濃に立ち帰り、この段、委細に申せば、敵といふ証拠なきによつて、主を殺す科に定まり、哀れや、年来の憂き難儀、母までに後れながら、本望は遂げたれども、賤しき者の手にかかりて果てしを、語り伝へて哀れなり。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「切(きら)ずし見」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「せめては一たびの」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「下(した)にとは」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「よのつれ(二字以上の繰り返し記号)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 5:底本は、「見まくほしき」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 6:底本は、「わが為(ため)に現在(げんざい)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 7:底本は、「見れば。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 8:底本は、「したりしと」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 9:底本は、「せゝらわらひけるに」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 10:底本は、「村(むら)右衛門はうけとめけれ共」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 11:底本は、「いまだ百ヶ日」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。