第一 枕に残る薬違ひ

 後柏原院、大永の頃、大和の武家方より都の高家の御方へ、御息女を送らせ給ひけるに、御年十五の春を過ぎて、秋を重ね、月に明かし花に暮らし、その家の風なれば、歌道一しほに心を寄せ、琵琶、琴のもて遊び、酒淫の種と成りて、枕二つの面影、次第にやつれさせ給ひ、久しく御冠も召し給はず。御髪おのづからに乱れて、殿振り、ありしに変はり、色見る梢も落葉して、風は無常の早使。衰眼眠る山の土とは成らせられての歎き、各々にまさりて、この姫君の御理せめて、永離の御愁歎、外より見る目もいたまし。
 世にある習ひなれば、是非なく帰らせ給ふに、故郷は錦の紅葉しほれて、龍田の山も雪に見ながら、白無垢の袖に袂に御目の時雨。「かかる憂き身ぞ。」と御心も乱れて、黒髪の後れ先立ち給ひし御人のためなれば、出家姿と成りて、南都の法華寺に入つて、仏の道心ざし給ひし内に、いつの頃より心地悩ませ給ひ、美しき御形の青ざめて、胸痛ませ、口中ささけて、夜を寝させ給はねば、日々に頼み少なく、これを大殿様、御歎き深かりき。諸家中、神を祈り、この度の助命を願ひ奉りぬ。
 御手前医者、様々にし奉りし験もなく、都の名医の内談せし時、出頭家老坪岡蔵人、町医者原川玄芳を同道して罷り出、遠慮なく御病室に入り、御脈を伺はせて、その後、広間に座して、「御姫様御病体、玄芳見立てに至極の所あり。彼に種方付け致させ、いづれも吟味の上、御薬調合さすべし。」と日頃目掛け振りをここに出し、耆婆、扁鵲が再来の如くもて囃しければ、時の権威に恐れ、皆々御尤も顔に、言葉を返す人もなかりし時、愚暗の玄芳、硯を鳴らして。
 「筆談に曰く、脈来る事数大、これ陰虚火動の症なり。案ずるに、古の聖賢、火を指して諸疾の源と為す。しかる所以は、火、妄動するときは物を焼く、病の形なり。人能く道を修して清順なるときは、病、何によつて生ぜんや。それ人、世に少なきが如きは、物にまじはり事に触るるの間、情欲の火、時として起こらずといふ事無し。起こるときは病を得。その火を指して、諸疾の源と為す。あにむべならざらんや。経に曰く、一水、二火に勝たず。一水は腎なり。二火は君火、相火なり。五行各々、その性を一にす。ただ火は二つあるのみ。陽、常に有余、陰、常に不足の理、昭晰なり。しかれば、参茋甘温の薬、深禁する所なり。速やかに滋陰降火の剤を投ずるに非ずんば、命を救ふこと難し。もし治を緩くするときは、悔ひて臍を噛むも、何の益有らんや。」
 ここに国家老森尾兵庫、御姫様の御病中を悲しみ、昼夜老足を運び、夫婦共に相詰めしが、京よりの浪人医者横川周益を伴ひ出、これも御脈の後、書き付け差し上げける。これぞ医道のまじはり、互に心玉を磨きて、時に。
 「再談に曰く、愚、案ずるに、診脈、定体無し。或いは小、或いは緩、或いは沈、或いは数。変動、常ならず。それ脈、不常なるは、血気の虚なり。これを虚偽の人に譬ふ。朝に変はり、夕に改まつて定体無し。かつ、数大の脈来ること、全く常ならず。故に、火動の症に非ず。ただ脈症を考ふるに、虚に属して、気虚、重しと為すなり。これ、金極まりて火に似たるの病。参茋甘温の輩に非ずんば、治し難し。曰く、陽生じ陰長ずるの格言、今この時なり。何ぞ不偏不倚、中和の君薬を畏るべけんや。けだし、痰中に血を帯ぶるは、脾を破るによつて血を包むこと能はざるなり。舌に白苔を生ずるは、胃中に寒有り、丹田に熱あるなり。夜寝ざるは、子、母気を盗むによつて、心虚して、神安からざるなり。胸痛、噯気は、気虚して健運すること能はず。故に、中に鬱して噯気し、或いは、上に滞るときは胸痛と為る。以上の諸症、疑ひ無き虚なり。故に、補気の薬を以て主と為し、安心滋補、消食の剤を加用せば、則ち諸症おのづから退かん。かつ、高ぶるときは害し、承けて則ち制するの旨を知らず、誤つて陰虚火動と為して、寒涼降火の薬を用ゐるときは、声唖、喉痛、上喘、下泄の変症増劇せば、扁術も亦、起こし難かるべきか。」
 玄芳、周益、両人の配剤、御手前の医者仲間にして詳らかに吟味を遂ぐるに、周益種方付け、一々理に徹し、いづれもこれに同心なれども、坪岡蔵人、身に替へて取り持ちぬれば、誰か詮議のしてもなく、玄芳薬に極まり、二、三日上げ奉りしに、これより以ての外に御眼色変はらせ給ひ、日毎にやつれさせられ、周益見立てに一つも違はず。七日過ぎての曙に死去あそばされ、上より末々の歎き、やむ事無し。御死骸は御遺言に任せ、当麻寺に送りて松の煙と成して、年頃召し使はれし女郎中、御恩の程忘れず、十七人立ち並び、下げ髪惜しからず切り捨て、皆、墨染の袖に替はり、飛鳥川の水を手向け、夏花に香久山の梢を求め、世になき姫君の跡弔ひ参らせ、常念仏に暮らしぬ。
 定め難きは人の身の上。世間の口やかましく、「この度玄芳、薬違ひにて、頼みある御命失ひける。」と誰言ふともなく、この沙汰つのつて、程なく御耳に立ち、「原川玄芳、所を払ふべき」由、仰せ出させられ、俄に妻子召し連れ、河州国分の里に立ち退きける。蔵人、これを腹立して、仕置者に差し向かひ、「この所に医師の住宅御法度ならば、横川周益も追ひ立て給へ。」と。御意をも請けず、我が家来を遣はし、むたいに家内を仕舞はせける。周益、御無理とは存じながら、殿様よりの仰せは背き難く、これも同国三輪の里に立ち退き、不自由住まひの草葺にその身を隠しぬ。
 この事、森尾兵庫聞き付け、その里に人を遣はし、周益を信貴に呼び返し、きつと吟味にかかり給へば、蔵人悪事顕はれ、是非を構はず兵庫を待ち伏せ、面を合はせ{*1}、打つてかかる。老人なれども激しく{*2}、左の肩に初太刀請けながら、抜き打ちに蔵人切り伏せ、とどめ刺しかかる所へ、弟坪岡虎七駆け付け、後ろより下人を払ひ、管鑓を差しのべ、脇腹を貫き、又突きかかるを、兵庫、入り首より二尺ばかり切り落とし、飛びかかる心はあれども、深手に弱り、持ちたる刀を投げ付け給へば、虎七が肩を越えて、若党が太腹に立ちて、即座に命を果たしぬ。これを見て兵庫、うち笑ひ、脇差抜きて腹かき破りけるまで、虎七後れて、やうやうに首打つて、この場よりすぐに立ち退き、豊楽寺の末寺榎葉井坊に忍びぬ。
 兵庫屋形には驚き、家久しき中野武太夫、その所に駆け行き、退き道を詮議すれども、奈良越えの山道あまたなれば、まづ{*3}立ち帰りて思案を巡らしけるに、兵庫名跡を継ぐ人は、十八の年、世を恨み給ふ仔細ありて、森尾宮内といへる姿を変へて、紫野大徳寺にて清蔵主と呼ばれ、禅学修行してましまし、その弟宮松とて、いまだ七歳なれば、敵討出る暇、下し給はず。武太夫、無念ながら、この子の生長を待ちける。
 この様子を清蔵主、伝へ聞き、信貴の古里に立ち帰り、老母に、「御勘当を御許し。」と願ひ、父の事ども申し出して、互に涙のやむ事なく沈み入りしが、清蔵主、母の御盃を戴く時、黒衣を脱ぎ捨て、乞ひ請けて熨斗肴を喰ひ初め、そのまま心を還俗して、又、名を改めて暫男と呼ばして、羽織に刀、脇差、頭巾、編笠に面を隠し、人しれず{*4}屋敷を出、この所毘沙門天に参詣し、「当寺は昔、楠正成を申し子の霊地、武士の尊む所なり。我、この度の大願は、敵を手の下に討たせ給へ。」と心中深く祈り、それより大和巡礼して、虎七がありかを尋ねけるに。
 折節、春の山、鴬の関を越え行くに、里人のとがりあふごに薦包み好もしく、仏臭き買ひ物。御花足、線香、氷蒟蒻、一つにからげたる乾鮭可笑しく、「生臭き寺ぞ。」と笑ひけるに、後より色めきたる女の、この男に追ひ着きて、「さりとは山道、初めて難儀。旦那に逢ふが嬉しければこそ、遥々の所を行け。」と身は汗水になりて、脱ぎかけしたる面影、振袖の上に脇塞ぎの着る物。「いかさま、曲者ぞかし。」見る程、里びたる風情なく、髪の結ひ振り、信貴の城下にはやる締め付け島田のふき鬢。不思議に思ひ寄り、猶心を留めけるに、荷物の内に弓の弦、二掛け見えしは、いかにしても合点行かず。
 かの男を招き、「おのれは正しく寺に召し使ひ者なるに、似合はざる女の道連れ。殊更、仏具に武道具。これ、只事にあらず。某は、かやうの事を見出して、国の掟の役人なるぞ。ありのままに申せ。」と脅しければ、この男、差し当たつて迷惑し、「全く住持の大黒には非ず。信貴の御侍衆、坪岡虎七殿の御手かけなり。榎葉井坊の門前におはしけるが、御屋敷へ御状遣はされ、ひそかに連れまして参るなり。これに少しも偽りあらば、初瀬の観音様の罰当たらん。」と心のまま申して埒を明けける。
 暫男、聞き済まして、この者どもに先立つて豊楽寺に急ぎ、その里の家に駆け入り、折から虎七、運命尽きてうたたねの枕に立ち寄り、夢覚まさせて名乗りかけ、願ひのままに切り伏せ、首、古里の母の御目に懸けて、「これまで。」と又、昔の衣を懸け、出家の身とぞ成りける。

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校訂者註
 1:底本は、「合(あは)せて打て」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「励敷(はげしき)」。『武道伝来記』(1992)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「先立帰(さきたちかへ)りて」。
 4:底本は、「人しらず」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。