第三 不断心懸けの早馬
男は当流、諸礼は昔の物堅きこそ良けれ。和朝の風俗は、島国の果てまでも万事変はらず。
その時津波静かに、佐渡の国主に召し使はれし大組頭に椿井民部、御用の事ありて召されしに、早馬に乗りて番町筋の四辻廻る時、綱島判右衛門といふ人に行き違へば、民部、言葉を掛けて、「判右衛門殿、御許されませい。鐙を外しました。」と言ひ捨てて通りける。この断りを判右衛門、聞き届けぬこそ是非なけれ。
屋敷に帰り、暫し思案して、「とかくは堪忍成り難し。」と分別極め、一門中を呼び集めて、次第を語りける。いづれも内談して、様々申す中にも、老人役に久木勘右衛門申されしは、「民部程の侍が、よもや言葉もかけずに乗り打ちすべき故無し。貴殿、耳に入らざる事もあるべし。民部三千石、その方は三百石。禄の軽きを見下す心底にあらねば、ここは分別所。」と申されき。判右衛門、一通り委細に承り届け、「尤も民部、礼儀あつたにもせよ、この方の聞かぬからは、是非もなき仕合せなり。この上は堪忍ならぬ」に治定して、親類も同心の後、右の段々書中に認め、民部方へ遣はしける。
民部、その使に返状潔く申し越しぬ。「鐙を外し、謙退の言葉を正しく懸け申しつれども、今更、この断りは申さぬなり。明晩、長林院の松原へ出合ひ、太刀先の御所存、その意を得候。明日酉の下刻に立ち向かひ、面談の時は移さじ。」と書き送りける。
この事、自然と沙汰して、横目役津田求馬、聞き届け、御前へ申し上ぐれば、「両方共に、武士の義を立つる所、至極なり。民部、鐙外し、礼儀を正しながら、この時に及び、その断りを構はず一命を捨つる心ざし、これ神妙の至りなり。又、判右衛門心底、民部言葉を聞かぬにして、我一人の堪忍にて済む所を、身を捨て、申し入るる事、これ又、道理に帰したり。元、意趣なき儀なれば、自今以後、両人共に遺恨さしはさむ事なかれ。」と大殿あつかはせ給へば、上意有り難く御請け申し、別條なく屋形に帰りて、民部、妻子を召し連れ、その夜、立ち退き、渡せる船を急ぎ、佐渡の国を離れ、越後の寺泊といふ浦辺に着きぬ。
かかる折節、後より福井丹後、安徳寺勘太夫、伴采女、この三人、小早{*1}、浪をくぐらせて程なく追つ付き、「御暇も乞ひ請けずして国遠致さるるの段、以ての外の御立腹。まづまづ帰宅申され、その上の願ひ。」と申し渡しければ、民部、少しも驚く気色なく、剃髪したる頭を見せ、「この仕合せなれば、外に主取り仕り、勤むる望みにあらねば、いかないかな、上意にてもこの身、後へは帰らじ。これより武州浅草のほとりに住宅仕る仔細あり。」と申し離れて、この一言に取りつく島もなく、船は佐渡に戻りて、御前よろしく申し上げ、まづその分に済みける。
それより民部は、東武に行きて、浅草の寺町近くに借り座敷して、門柱に「椿井民部」と筆太に張り札して、菱垣の仮なる風情。軒は雨漏りて月すごく、壁は蔦のみ。嵐の吹き込み、身を厭はず、世を構はず、心のままに一日を暮らし、遊興、ある程尽くして、秋の夜の哀れ一しほ。菊も霜枯れに近き頃、一人の息女、十一にして琴の曲すぐれて好き給へば、母はこれに合はせて今様を歌ひて、余念なく見え給ひぬ。
この歌面白き半ばに、女の声して険しく板戸叩き開け、抱きたる子を差し出し、「暫しこれを、ここに頼み奉る。只今御門前にて、親の敵討。」と申して、肌刀抜きて駆け出る。民部、「それは。」と続きて出給ふを、内儀押しとどめ、「こなたの御命は、義理の預かり物にあらずや。助太刀ならば、女に女、良し。」と長刀の鞘外して門に出給へば、長月二十四日の宵、出で初むる月にほの明かく、その面影も見え渡りし。
相手、たくましき男三人。こなたは、た弱き男に角前髪の若衆。かの女、切り結び、成る程、静かに受けつ流しつ、一命ここに極めたる有様なり。民部内儀、女に立ち添ひ、「ここに身共が後ろ詰め。心覚えの長刀なり。」と脇を払はせ給ふ働き、摩利支天も恐れ給ふベし。この掛け声、後ろに鉄山の頼りと成り、かの女が手に懸けて、進みし男の脇腹切り付け、弱るを畳みかけ、終に討ち伏せ、とどめ刺す時、高股、我と誤り、身を悩むを、内儀、肩にかけて内に入り給ひぬ。
民部は塀越しに見物して、「角前髪、裾を払へ、裾を払へ。」と下知し給ふに、力付き、踏ん込みて切り付け、飛びかかつて首を打つ、この勢ひに後れて一人逃げ行くを、今一人の男、追つ付け討ち留め、二人ながら浅手負ひて、「嬉しや、敵は残らず討つたぞ。」と声をかけ合ふ時、民部、広庭に入りて、気を鎮めさせて後、様子を尋ね給ふに、両人礼儀を述べて、「この度の首尾、ひとへに御蔭故なり。殊更、御内方様の御働きにて、願ひのままにこの女、本望を遂げ、この嬉しさ。御恩報じ難し。」といづれも涙をこぼし。
「これなるは、信州松本にて高倉庄左衛門と申す者の娘、私儀は大野笹右衛門と申して、同じ家中に罷りありしが、この五ヶ年以前に庄左衛門婿と成り、この女と語らひ申し、未だ十日も経たざる内に、岩谷喜平次と申す者、庄左衛門と口論、座にて打ち捨て、国元を立ち退きける。舅の事なれば、外に見られず、御暇申し請け、三年余り流浪を致し、やうやうこの程付け出し、今宵の首尾。本国へ帰宅の家苞には、喜平次が首なり。」と言葉に悦びを含み、段々心底を残さず語り、「これなる若年者は、私弟、笹之介と申すなり。これを追つ付け、御礼に差し越し申すべし。」と互に武士の詰め開き。聞くに頼もしき事ぞかし。
各々、夜明け方に立ち行くを、民部、門送りして、「この上ながら、なほ仕合せよく御帰国を願ふなり。さてこの度、某が、女さへ力を添へしに、我ながら助太刀用捨する事、全く身を引くにはあらず。この段は、後日に知るる事ぞ。」とこれを暇乞ひの納めにして別れぬ。
さて又、佐渡が島にありし綱島判右衛門、国に堪忍なり難く、御暇申し請け、十三になる一子判之丞、同じく妻を召し連れ、急ぎ江戸に立ち越し、民部方へ尋ね、互に涙に沈み、「されば、武士の義理程、是非なきものは無し。両人が最後は何の遺恨もなく、世間の思はくばかり恥ぢて身命捨つる、夢路の友。今日を限りなれば、浮世の名残酒。」心よく酌みかはし、二人が妻もうちまじり、古里にては相見ぬ顔を、思ひも寄らぬここに近づき、昔を語り、今の歎き。一人の息子、一人の娘、この行く末を思ひやられて、今相果て給ふ人々の身の上より、猶悲しきは女心に理なり。
民部内方、申し出されて、「判右衛門殿一子の判之丞に、民部殿娘のお松をめ合はせたき」願ひ、歎きの中に悦びの盃事。後の事、家来に申し付け、両方の内儀、一度に髪を切り捨て、いまだ御命の内に出家姿と成り給ひぬ。何か世上に残らぬ仕方、哀れを含み、殊勝さ限りなかりき。
民部、判右衛門、「今は。」と思ひ定め、袴、肩衣を華やかに、死に出立ちを改め、これぞ仏の浄土寺を頼み、法の庭なる叢に畳六帖敷き並べ、両人、座を占め、臨終を観念して、左の手に手を組み合ひ、「南無。」と言ふ声を合図に切り付け、露も残らぬ心の玉。そのまま同じ煙と成しける。末の世のためしぞかし。
大野笹右衛門、この事は知らず、遥々の信濃より一礼に来り、大方ならずこれを歎き、その後、様々仏事を成して、四人を伴ひ生国に帰り、二人の比丘尼には、善光寺の片山に草庵を結びいたはり、判之丞は手前にかくまへ、成人の後、御奉公に出し、浪人分にて八百石下しおかれ、椿井主水とぞ申しける。
校訂者註
1:底本は、「小早船(こはやふね)浪(なみ)を」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
コメント