第三 新田原藤太

 昔日、薩摩の国鹿児島にて、諸役人、泊り番を勤められし。御茶屋の藤書院といふ所を四人して御番せられしに、浮橋太左衛門、巻田新九郎、この両人は、宵から夜半まで休みて、それより明くるまで勤むる番ぐりなり。沖浪大助、中辻久四郎、この二人は、行灯の光を受けて独弁を開き、小者に煎じ茶など運ばせて、淋しさをまぎらかし、夜半の時計待ちかね、殊更、春の習ひの長雨、やめば間もなく降り出し、蛙の諸声、耳に響きて、目覚ましの友と成りぬ。
 折節、天井板に音ありて、黒き物落ちかかる所を、大助、脇差を抜き打ちに、何かは知らず、少し手ごたへせしに、灯し火寄せて見れば、そのたけ一尺四、五寸ばかりの百足を二つに切り放ち、いまだ動くを取り集めて、塵塚に捨てさせける。久四郎、横手を打つて、「さても早業。古の田原藤太が勢田の橋は、磯なり。沖浪殿の今宵の御手柄。眼前に、これは、これは。」と褒めければ、大助も興に乗じ、「あつぱれ。この男、古今居合の名人なり。速い所を御目にかけた。」と、ざつと笑うて済ましける。
 その後大助、内用ありて、町筋に出しに、南江主膳といふ出来出頭に出合ひけるに、大助を見かけ、「これ、藤太殿。いづ方への御越しなるぞ。」と申されし。「某は大助と申すなり。藤太と官位は致さぬ。」と申す。主膳、重ねて、「この程の百足の首尾、家中に隠れもなきこれ沙汰。田原藤太殿。」と言ひ捨てて通られける。大助、宿に帰り、覚悟して、相番の中辻久四郎方へ行きて、「前夜の儀は、当座の一興にして、武士の高名になるべき事にはあらず。その通りの儀を、方々取り沙汰せらるる段、日頃別して語りたる甲斐無し。今日、途中にて主膳、『藤太。』と申されし事、心外なり。これ皆、貴殿の披露なるべし。この儀、堪忍ならず。」と果たし眼にて腹立。
 久四郎、少しも驚く気色なく、「拙者の申し分、一通り聞き給ひて後、成程、御相手に。命は惜しまじ。申しかけらるるからは、覚悟なり。しかじ、この儀に於いて、日本の神ぞ、他言は申さず。外にも両人、同番あり。この衆中、寝間にて様子を聞いて、自然、沙汰せられし事、存ぜず。この久四郎は申さぬなれども、その夜一所にありしが不祥なり。いざ、心底に任せ給へ。」と身拵へして立ちけるを、大助、引きとどめ、「只今の断り、至極仕る。この段は許し給へ。」と。
 それよりすぐに主膳屋形に仕掛け、案内申せば、奥座敷にて鼓の音。「山姥」の曲舞、半ばなれば、暫し返事はなかりき。大助、玄関前に立ちながら、その謡に連れて謡ひ、仕舞ひぬれば、主膳、立ち出、「御見舞、珍し。さあさあ、座敷へ御通り。」と{*1}申さる。大助、走りかかり、「藤太が太刀先、おぼえたか。」と一文字に切り付くれば、「白癩、これは。」と抜き合はせ戦ふ所に、主膳弟善八、鑓の鞘を外してかかるを、引つ放して、踏ん込み切り折れば、脇差抜かんとする暇を、飛びかかりて討てば、主膳、後ろよりたたみかけて打つを、その鑓を取り直して突き倒し、兄弟ながら、とどめまで刺しける時、家来四、五人抜き連れて打つてかかるを、二人突き伏せ、一人大袈裟になるを見て、この勢ひに皆々逃げ去り、太刀押し拭ひ、心静かに立ち退きける。
 この事、大守、聞こし召され、「いかなる意趣。」と穿鑿半ばなる所へ、久四郎登城して、「この度、主膳事、段々かやうかやうの次第。」と始めの通り申し上げ、「それにつき、拙者快からず。切腹仰せ付けられ下されば。」と心底言上すれば、「主膳が仕方、侍の道に欠けたる悪口なれば、跡目を潰せ。」との御意にて、「その方が申し分、近頃神妙なる憤り。少しも憚る事なく、いよいよつつがなく相勤むべし。」と御褒美の御言葉数々。久四郎、面目身に余り、宿に帰りぬ。さて、主膳屋敷は、思ひ寄らぬ{*2}事に取り上げられ、子息善太郎、当年六才になりしが{*3}、母親諸共、家来筋目なる者の里に立ち退きし哀れ。
 年月重なりて、今は十六才になれば、「是非親の敵を討つべし。」と潔く立ち出、国々尋ね巡れど、四、五年あだに経ち、この度は四国に渡り、阿波の磯崎に着きて、万景眺め尽くされぬ景色。誠にその昔、西行も、ここに心をとめたるゆかりとし、その具足の物、今に残れる由。「旅の疲れの憂きを忘れがてら、立ち寄りて見るべし。」と、その庵に尋ね行き、住持に会ひて、「霊宝拝みたき」願ひ。「しからば、それへ入り給へ。」と仔細らしき顔つきして、「あれなる松は、御存知の磯崎の名木。これが西行の近江菅笠。この煙管筒が、富士を眺めに行かれし時のなり。あれに掛かりし友禅絵の風呂敷、古けれども破れぬが不思議なり。」と{*4}、まことしやかに語りぬ。
 秋の日の習ひ、程なく暮れて、すぐにその仮葺に一夜の袖枕。夢ともなく、うつつともあらず、そのたけ十丈ばかりの百足、血みどろなるが、夜光の玉を輝かし、善太郎が枕元にたたずみ、「我は、汝が生国、坊の津の片山蔭に住む者なり。その方が狙ふ敵は、摂津の国古曽根といふ所に」ありありと御告げ。御形、消ゆるが如く見え給はず。
 その夜の明くるを待ちて、船を求め、津の国に急ぎて、窺ふに、まづその村の小家に立ち寄り、「もし西国方より、ここに居住する者はなきか。」と尋ねしに、「あれに見えたる主こそ、西の果てよりおはせし浪人なる由。」と言ふに任せて、立ち寄り、様子聞くに、人音せず。「あやしや。」と立ち入りて見れば、年頃四十余りの女、炬燵の櫓に腰をかけ、鉢巻し、さても精なや、声を立つる力もなく、絶え入るばかりなる体。空より下ろせし縄に取り付きたるは、産をする有様。誰がこれを介抱する者、一人もなし。
 何かは知らず、不憫につれて、座敷に上がり、腰を抱へてやれば、言葉かくるまではなく、手を合はせて、「さても忝し。」と言ふ声の下より産みけるに、気力まさりて甲斐甲斐しく、「勿体なく、御手にかけんや。」と、みづから早、湯をあびせながら、「どなた様も存ぜず、只今の御心ざしの有り難きに付けても、我が連れ合ひは、由ある西国の人なりしが、不慮の事ありてより、この国に下り給ひ、憂き住まひの中にも、惣領の子出来たるを頼みに{*5}せし甲斐なく、親仁は早、七月前に果てられ、ありたきままに日を送り、この忘れ形見の出来るは、おのが妹にあらずや。それをも構はず、不孝を顧みず、あまつさへ、親の百ヶ日経たぬ内より、芥川へ殺生のみに日を暮らし、罰当たりめが。」と語るに、「さては、大助は果てて、その子なる。」と知れり。
 重ねて、「幾つばかり。」と言ふに、「もはや十九。器量、人に負けず、親仁の名をかたどりて大七と申す。今日も、この寒きに襦袢一枚になりて、親の秘蔵の百足丸といふ大脇差を差して、川狩に。」と問はねど仔細を語りける嬉しさ。「今生まれしは女子なれば、まづは敵の種は尽きぬ。」暇乞ひして出れば、数々礼を言ひて送り出しける。知らざる事は力無し。
 それより芥川に急ぎけるに、天神の森にて名乗りかけ、大七を見事に討ちて帰りける。

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校訂者註
 1:底本は、「御通(とを)り申さる。」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「思ひもよらぬ」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「なりし母親(はゝをや)」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 4:底本は、「ふしぎなり。誠(まこと)しやかに」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 5:底本は、「たのしみに」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。