第三 播州の浦浪皆返り討ち
人は地道なるこそよけれ。
毎年、信濃の国桐原の里より売り馬引かせて、弥太夫といふ博労、播州龍野に立ち越えける。昔は、武士の名馬を持つ事、第一に嗜みぬ。この度の若馬は、雲雀毛の太く逞しく、あつぱれ名も高く、龍山と申して、自慢する甲斐こそあれ。
その頃、小湊井右衛門とて家中一番の馬好き、まづこの屋形に行きて見せけるに、その勢ひ、耳に替へても欲しき心底顕はれしに、弥太夫、「仕合せ、ここ。」と思ひの外に高ばり、「金三枚。」と申し出すを、十二両より十五両まで望みしに、大方談合しまりて、「代金は明朝相渡す。」にして厩に繋がせ、弥太夫は宿に帰る時、道にて出来出頭の樗木工弥に逢ひ、「その方が最前に引ける馬、代金に構はず、この方へ取るべし。」と言ふに、欲心萌し、「その御心底ならば、只今引いて参るべし。」又、井右衛門方へ行けば、折節、公用ありて留守なり。「少しの内、借りたき」由、若党、合点せず。「旦那の御前は、我等に任せ給へ。いまだ金取りたるにても無し。」と無理に引き出し、木工弥方に行けば、悦ぶ事限りなく、代金三枚に極め、則ち、「明朝渡すベし。」と約束して帰りぬ。
木工弥、その夕、梅の馬場にて輪乗りまでしたるを、見る者、手を打つて、「これ程の馬、今では家中に恐らくは並びあるまじ。」と褒められて、猶自慢して私宅に帰りける。その中に富森久九郎といへる男、その足よりすぐに井右衛門方に行き、「さても今朝、御手前の厩にて見し雲雀毛を、木工弥、『求めし。』とて秘蔵に乗りたり。あれ程の馬、何として買はれぬぞ。」と言ふに、井右衛門驚き、「我が留守の内に引いて行くさへ憎きに。分別あり。」と急ぎ弥太夫を呼びにやり、「段々不届きなる仕方。買ふとも買はずとも、きつと引いて参れ。」とあらけなく叱られ、迷惑ながら又、木工弥方へ行き、「暫しの内、借りたき。」と言ふ。
仔細を聞けば、「初めに井右衛門殿契約。されども、手形も致さず。所詮、御留守の内に引いて参つた御腹立。この上は、たとへ百両にても売りは致さねど、右の言ひわけに、ちよつと御目にかけて参らん間、いかやうとも御恩に着申すべし。」と、たつて言ふに、「しからば、馬はこの方の馬なり。」と返す返す念を入れて貸しぬ。それより井右衛門屋敷へ引けば、まづ厩に繋がせ、弥太夫を呼び出し、金子十五両相渡し、「請け取り手形致せ。」と言ふに、「これは、近頃迷惑。」と言はせず。「せぬに於いては、一寸もにじらせぬが。」と刀に反りを打てば、「いかにも仕るベし。」とて売り手形、確かに書きて、その足よりすぐに本国へ走りける。
井右衛門は、その夜の明くるを待ちかね、まだほのぼのより鞍、鐙を改めて、美々しく粧はせ、知れる方には言ふに及ばず、乗り歩きて見せけるを、騨他仁介、この事を木工弥に語り、「昨日、その方の乗られし馬をば、今朝、井右衛門、『我が買うたる馬。』とて自慢たらたらにて通りたり。」と言ふに、木工弥、大きに不興し、弥太夫を呼びに遣れば、宿には早、夜脱けして居らず。
「既に我、梅の馬場にて乗りたるを、誰知らぬ者無し。しかるを{*1}、『井右衛門に取られたり。』と評判に逢ひては、一分立たず。」と。「騨他仁介前を乗り通りたらば、定めて小松馬場にて責むベし。」と状認めて、下人に持たせ遣りて渡せば、井右衛門うなづき、「晩程、この松原へひそかに立ち合ひ、この方も僕一人も連れず、互に一騎討ち。」とその宮に立ち寄り、返事さらさらと書いて、使戻して宿に帰り、支度して、両人立ち出、言ひし如くに只一人づつ、見事なる仕方ぞかし。
頃は極月の下旬、しかもその夜に降る雪、馬蹄三尺深く、袖打ち払ふ暇なく戦ひけれども、「木工弥、元より一流の兵法。たやすく討たるまじ。」と思ひしより、井右衛門、請け太刀二つ三つ打たれながら、「無念や。」と、そと倒れ伏して、四、五返、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と唱へ、「早く寄つて、とどめを刺せ。」と言へば、木工弥、「さては、今打ちし太刀、手応へせしとおぼえしが、頭に深く切り込みたるよ。」と嬉しく、近寄るに、音無し。「さてこそ息絶えたり。」と、とどめ刺しかかる所を、寝ながら横に払へば、二つになつて倒れしを、首尾よく仕舞ひ。
幸ひ、これより三町南に徳山八平、隠居して八入、この庵にたどり行けば、折節、「雪中の夜梅。」といふ題を置いて、燭を取りて遊ぶ所に、この有様を見て、仔細二言に及ばず。まづ持仏壇の下に隠し、秘蔵せし唐鶏を突き殺し、自身、手に提げて、右の木工弥が死骸の際より、この血を絞りこぼし、そこより北の薮の堀端まで伝はせ、帰りに足跡を消して、様々心を尽くしていたはる。武士の意気地ぞかし。
その翌日、この沙汰、家中一倍になりけれども、血の引きたる様子、「西国街道に退きたる。」と見えしより、木工弥子息孫七、同じく弟宇助、御暇を申し上げて出ける。
ここに哀れなるは、先年、木工弥、浪人の内、江戸にて娘を嫁がせ置きし。夫は身上軽き奉公人牛俣弥二郎といへる男。しかも、禄よりは内証貧しかりき。この事を孫七方より言ひやりしに、女、とりわけて歎き、「いかに女子に生まれたりとも、武は弟どもには負けまじ。」と弥二郎に暇を乞ひし時、「それ程に思はれなば、我がためにも舅。親と同然なれば、逃るべきにあらず。しかじ、かの敵のありか、いづくとも知れざる内は、尋ぬるに、路銭貯へずしては成り難し。その内随分、その方も外なる営みしてなりとも、路金貯まる分別。我も、勤めの暇は、油断なく心掛くべし。」と、夜もすがら野に出、里の境垣に罠かけて、犬を釣りてこれを売り、女房は人目を忍び、絞り煙草入れを、縫ひ賃わづかを顧みず。心にこの思ひを含みて、朝夕、胸に迫りて忘れず。半年は末を頼みに、誰知らぬ賤の手業。男も雨の夜は怠り、月の夕も仕合せによりて空しく、露に袖絞りて帰るのみ。世は心に任せぬ習ひなるに、思ひの外の事に身をやつしぬるぞ頼もしき。
されども金銀はかどらず。女心の浅ましく、或る時、弥二郎に恨めしき色を見せ、「我も男に生まれなば、今までかくしても居らじ。是非狙ひて、本望達せんと思へば、男子柄、成るまじき事にあらず。他人の身の念力薄きより、いつか望みを達せん。侍は、その分かちなき義理の道、立てるも立てざるも、心々の胴骨強き者の羨ましき時、殊更今なり。」と言ふ心底の程。弥二郎、これを耳にさへて、「かく武士の道ならぬ事に殺生するも、そのためならずや。尤も、親の敵を討つべき思ひ、大切なるより言へばとて、夫たるものをないがしろにする悪口、一度二度ならず。」と。内証はととのほらず、心はせく余りに、女房を刺し殺し、六つに成りし女子をも、「長らへて憂き目見んより。」と同じ刀にて突き殺し、その身も自害して果てけり。
さて孫七、宇助は、西国残らず尋ねしに逢はず。引き返して、江戸に下り尋ぬるに、行方を知らず。無念ながら孫七、裏棚借り、宇助は、四谷熊之進殿へ小姓分に出し、「これももし、敵のよすがともならんか。」と勤めし。或る時、小姓仲間四、五人、次の間に集まり、四方の話するに、宇助は壁にもたれかかり、「夜前の酒宴に草臥れたり。」と言ひながら、「居眠り暫し。」とて柱に当たりて、立てかけの髪、茶筅になりぬ。目覚めて、これを不審して、「誰がほどきぬらん。」と辺り見廻す所に、戸川浪之助、壺口仙六、興がる話を打ち笑ひてゐたるを聞き、宇助、「さては、髪そこなはしたるが可笑しきか。」と理不尽に切り付けしに、言ひわけするに暇なく、二人して討ち留め、熊之進にこの由、言ひ上ぐるに、浪之助を不憫がらるる最中にて、「宇助は手討。」と沙汰させて置きぬ。
さて孫七は、杖柱と頼みつる一人の弟に後れ、今は力を失ひしが、従弟に樗北右衛門といふ浪人、これを便りに、心を合はせ{*2}、狙ひしに、或る夕、風邪の心地して床に就き、三日ほとぼりて疱瘡出、九日目に相果てけり。
かの井右衛門は、八入に七十日かくまはれ、西風烈しき夜、ひそかに国を立ち忍び、当所に所縁のあるに初めは影を隠しけれども、「孫七兄弟は、西の国に下りたる。」と聞きて、心を許し、編笠深くかぶりて、「久しく気詰まりを晴らさん。」と寺社の景地を心ざして行くに、番町にて孫七、これを見付け、「小湊井右衛門、逃さぬ。」と言葉を懸けし時、「うろたへ者。人違ひ。」と言ふに、「見損じたりや。」と編笠覗く所を、抜き打ちに切り倒しける。
以上四人の敵、今は一人も残らず絶えて、井右衛門が手柄、隠れ無し。世には、かかるためしもあるものかは。
校訂者註
1:底本は、「然(しか)るに」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
2:底本は、「合(あは)せてねらひしに。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
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