信田
(毛利家本)
既に承平は七年にて改元す。天慶九年に代はる天暦十年丙辰、弥生半ばの頃、相馬殿の姫君を小山の太郎に取らせらるる。小山の太郎行重は、「望む所の叶ふ上、喜び、これにしかじ。」とて、迎へもてなして、かしづき申す。「一つには、神儀の法といひ、草の蔭なる相馬殿の、思し召されんところもあり。孝養深く申さん。」と、山河の殺生を禁断し、思ひ入りてぞ弔ひける。信田にまします御台所、伝へ聞こし召されて、「小山の太郎行重をば、荒男かと思ひてあれば、情けのみある者なり。親の事を思ふ者だにも、世には稀なる事ぞかし。ましてや見もせぬ舅を、かやうに深く弔ふは、よく頼もしき心かな。時々こなたへ来れかし。相馬殿の形見とも見ばや。」とこそ仰せけれ。
或る時、御台所、浮嶋太夫を召して仰せけるは、「相馬殿の末期の時、思し召しや忘れけん、これ程多き所領を、姫に一所も御譲り無し。いづくにても、少し計らひ候へ。」浮嶋、承り、謹んで申しけるは、「相馬殿も、悪しき事をば、いかでか思し召し置かるべき。弓取の君達に、姫御は終に他人と成る。婿は異姓、近からず。移れば変はる世の習ひ。わりなく思し召され候はば、折々の引出物に、宝は尽くさせ給ふとも、所領に於いては一所も譲らせ給ふべからず。人には貪欲虚妄とて、欲心、内に含めば、親しき仲も、うとう成り候。よそよそながらの御対面こそ、中々、末の世までも、めでたく渡らせ給ふべけれ。小山殿に御対面も、無益の御事たるべし。」と、以ての外に申しけり。
御台、聞こし召し、御返事なうて立たせ給ひ、「いつしか相馬に過ぎ後れ、一周忌だにも過ぎざるに、内の者さへ軽しめて、可笑しき者と思はるる、果報の程のつたなさよ。中々、浮世にあり顔に、家を持ちても何かせん。信田殿に暇を乞ひ、尊き山の隠れ家にも、引き籠らばや。」なんどと、深くぞ恨み給ひける。信田殿、聞こし召されて、「母御の御恨みは御道理。御意に洩れては詮なし。」とて、信田の庄を半分分け、母上に奉る。母上、なのめならずに思し召し、小山が館へ贈らせ給ふ。
小山、なのめに喜うで、一つは婿入り、又一つは祝ひの所知入りなりければ、網代の輿は八挺、張輿は十二挺、惣じて騎馬は三百騎、上下花めき、ゆゆしくして、信田の館へぞ移られける。新殿を作らせ、かくてここに住み給ひ、今御館殿とはやり、信田の先祖の郎等ども、日々に出仕、暇もなし。されども、浮嶋父子六人は、折々ばかりの出仕にて、さながら御前に詰めざれば、御台の御意も薄く成る。あう、何はにつけて昔より、もの憂き事ども多くして、心の留まる方もなし。「世の有様を見るにつけ、後の世危ふかりければ、長らへざらんもの故、しや、いつまで。」と思ひ切り、信田の河内へ引き籠り、隠居してこそ居たりけれ。
御台、この由御覧じて、「あら、可笑しの浮嶋が振舞や候。小山殿一人だにもあるならば、何の子細のあるべき。」と、喜びを成して栄え給ふ。「さりながら、浮嶋太夫は隠居しぬ。信田は未だ幼稚なり。大事の地券巻物、家に伝はる重宝を、内に置きては詮なし。」とて、一つも残さず押し捲つて、小山の太郎に預けらるる。
或る時小山、人なき所に引き籠つて詳しく見るに、将門代々よりも持ち伝へたる証文どもが、一つも残らずここにあり。「何々、信田、玉造、東条は、八万町の処。ああら、おびただしや。この内わづか一万町、某、知行するさへ不足なきに、ましてや残る七万町。常陸、下総両国の大炊助と成るならば、我にましたる弓取の、国に二人ともあるべきか。」と、やがて大欲心ぞ出来る。「かかるめでたき重宝を、左右なく預かる事は、天の与へと存ずれば、安堵を申さんずる」そのために、熊野詣に事寄せて、急ぎ国を打つ立つて、都へぞ上りける。
関白殿下に付き申し、安堵の旨を奏聞申す。内よりの宣旨には、「相馬が跡を申すは、何者ぞ。」との宣旨なり。「相馬がためには一子で候。」譲りの手次、証文ども、代々の御書どもを、支証正しく参らせ上げ、理非を澄まいて奏聞す。その上、国は有徳なり。要にも諸司にも別当にも、宝を飽かせて勇ませたり。君にも金、寮の馬、綾羅、金銀の類を、数を尽くして参らせ上ぐる。左右の大臣、后の宮、女房達、その外の人々にも、宝を飽かせて勇ませたりけり。たとへば敵方支ふるとも、などかは叶はであるべき。まして争ふ者は無し。無窮自在に申し成し、安堵給はり、下りけり。
かくて小山、道々案じけるやうは、「御台所と信田殿に、少分なりとも参らせ、扶持せばや。」と思ふが、「いやいや。かかる難しき者を助け置き、末の世の煩ひと成る事もあり。忽ち失はばや。」と思ふが、「それは、余り情けなし。所詮、領内に置かぬまで。」と思ひ、国元に着きしかば、先へ人を立て、「御台所と信田殿。いたはしくは存ずれども、常陸、下総両国に、安堵は叶ふべからず。遠き国の知らぬ里へ、疾く落ち行き給へ。片時も国にましまして、我ばし恨み給ふな。」と、追つ立ての使を立つる。
御台、この由を聞こし召され、ひとへに夢の心地して、うつつと更に弁へ給はず。「小山殿が所存には、天魔波旬が入り代はりたるか。いかなる事にてかく言ふぞ。」と、口説き歎き給へども、荒けなき使にて、哀れを捨てて振舞へば、浮嶋太夫が言葉の末、今更思ひ致さるる。さてあるべきにてあらざれば、信田殿ばかり御供にて、涙と共に出給ふ。今日出て又帰るべき道だにも、別れと言へば物憂きに、今日出てのその後に、帰らん事も難かるべし。行くも留まるもおしなべて、脆きは今の涙かな。甲斐の国に聞こえたる、板垣の里といふ処に、尋ぬべき人ありて、かの里までは落ち行き給へど、尋ぬる人も跡なく成る。何はにつけて頼りなし。今はいづくへ行くべきぞ。名は板垣と聞きけれど、風もたまらぬあばら屋に、宿借りてこそおはしけれ。
珍しからぬ申し事なれども、頼もしきは弓取の郎等なり。信田の先祖の郎等に、薩嶋兵衛、豊田の太郎、この人々を先として、以上十一人が、後を慕ひ申し、板垣の里に参り、君を見付け奉り、嬉しといふも中々に、申すに及ばざりけり。「さてさて、いかがあるべき。」と、内儀評定とりどりなり。その中にとつても、薩嶋兵衛、申しけるは、「我等が先祖の薩嶋太夫、郎等主君の契約を申し、君も我等も三代なり。承平の合戦始まつて、数度の戦ひありしかども、終に不覚をかかざりしに、君も若に御座ある。我等も若者なれば、小山殿に卑しまれ、無二の本領押領して、追ひ出し申す無念さよ。いつまでかくて堪ふべき。敵は大勢なれども、無勢で窺ふ謀り事、夜討にしくは、よもあらじ。元より我等、案内者。暇を窺ひ忍び入り、三方よりも火をかけ、一方よりも切つて入り、千騎万騎が中なりとも、思ふ敵は只一人。小山と組まんず事どもは、何の子細のあるべき。」と、早、手に取るやうにぞ巧みける。
その中にとつても、豊田の太郎がこれを聞き、「これこそよからぬ僉議なれ。理を持ちながらの荒僉議は、思ひも寄らぬ事にて候。再三つがうた沙汰にて無し。一問答、二問答、三問三答つがひ、負け終はつたる沙汰をだにも、越訴覆勘と名付けて、又取り立つるは沙汰の法。ましてや一度もせざらぬ沙汰を、敵方支へぬその先に、無窮に申し直して、賜はる所の安堵なり。あれは正しき他姓、これは相馬の御子とは、世には隠れもましまさず。たとへば証文あなたにありと、盗み取られし所見を立て、などかは取つて返さざらむ。」と、理非を澄まいて言ひければ、「尤も、この儀に同ずる。」とて、御台所と信田殿を相具して、都へ上りけり。
包むとすれどこの事を、小山の太郎、伝へ聞き、「恩を知らぬ者は只、木石の如し。憐れみを成して助け置きたれば、敵と成るこそ安からね。上せ立てては叶ふまじぞ。道にて追つ詰め、討てや。」とて、究竟の兵を七十余人、さし遣はす。かかりける処に、小嶋の五郎、進み出て申しけるは、「これはよからぬ御諚かな。討てば、国に隠れあるまじ。『理がなければこそ討つたれ。』とて、本領をば召さるべし。所詮、昔が今に至るまで、神仏に申す事の、忽ち叶ふ習ひの候へば、鹿嶋へ使者を立て、神主を召し寄せ、調伏の法を行はせて御覧ぜよ。」と申す。小山、「げにも。」と思ひ、急ぎ鹿嶋へ使者を立て、神主を召し寄せ、いつよりもきらめいて、忠を尽くしてもてなしけり。
酒も三献と見えし時、沙金百両、よき馬に鞍置いて引つ立てたり。神主、悦喜の色見えて、そぞろき勇む風情あり。「今。」と心安くして、辺りの人を遠々退け、「信田を調伏すべき」由を、ひとへに頼む。神主、気色変はつて、「あら、思ひ寄らざる御諚かな。我等は鹿嶋の社人とし、天長地久、御願円満、息災延命と祈るより外、別に秘術は候はず。殊更、人を調伏すべき事は、中々、冥の知見も恐ろしう候。さんべき程の高僧へ、仰せ付けられ候へ。」とて、立つて逃げんとする。小山、この由見るよりも、「さては御辺は、敵方と一所の人や。一期浮沈の身の大事を、ありのままに語らせて、『頼まるまじき。』とは何事ぞ。力及ばず。汝をば、えこそは帰すまじけれ。」と、既に討たんとしたりければ、せん方尽きて神主も、あう、早、事請けをぞしたりける。
俄の事にてある間、吉日撰むまでもなし。一所を清め、壇を立てて、本尊を安置したりけり。調伏の壇の次第は、恐ろしくぞ見えたりける。四面の壇を飾つて、宝瓶に木瓜の花、乳木に山うつぎ、灑水の水に井守の血、供具にはひつちの飯を盛つて、焼香、塗香、牛の骨。華鬘に馬酔木の花を盛り、閼伽に白蛇の水を垂れ、既に灯明には、細木の油を立てにけり。飲食、日々に変はつた。初一日の本尊、地蔵薩埵、南向き。二日は観音、西向き。三日は勢至、東向き。四日は阿弥陀、北向き。五日は軍荼利、降三世。六日は既に金剛夜叉。第七日に当たる日は、中尊不動明王を、責めに責めてぞ祈りける。
されども道理なきにより、そのしるし見えざれば、行者、面目失ひて、二七日ぞ加持しけるに、それにもしるし見えざれば、「いや、唵呼嚧、唵呼嚧、旋陀盧遮那、摩訶盧遮那。」とぞ責めにける。珠数の緒疲れ、切れければ、五鈷を以て膝を叩き、三鈷を以て胸を叩き、独鈷を以て頭を打ち、いただきを打ち破り、頂上よりあへける血をば、不動の利剣に押し塗つて、「是は調伏人の身の血なり。」と観念して、天地を動かし責めければ、余りに強く責められて、五大尊は震動し、降三世は独鈷を振る。金剛夜叉は鉾を使ふ。大威徳の乗り牛が、角を振つて吠えたりけり。中尊不動の剣の先に、生血が付いて見えしが、「一法は成就したり。」とて、壇を破つて出たりけり。
あら、いたはしや、信田殿。これをば夢にも知ろし召されず、母御台の御供を召され、明けぬ暮れぬと上らせ給ふ。日数やうやう重なり、尾張の国に聞こえたる、黒田の宿に着かせ給ふ。調伏、限りあるにより、信田殿には負はずして、母御台に負ひ給ふ事のいたはしさよ。されども上らで叶はぬ道、悩みながらも上らせ給ふ。日数やうやう重なり、近江の国に聞こえたる、番場の宿に着かせ給ふ。四大、日々に衰へ、今は行歩も叶はねば、四、五日逗留し給へり。信田殿を始め申し、十一人の人々も、跡や枕に立ち寄つて、「いかがはせん。」と歎けども、終には叶はぬ生死の道、朝の露と消え給ふ。哀れと言ふも余りあり。信田殿の御歎き、譬へを取るにためしなし。誰とても無常は逃れ難けれど、かかる哀れは稀なるべし。
さてあるべきにてあらざれば、無縁の人を語らひて、煙と成すぞ哀れなる。十一人の人々は、一つ心に申すやう、「信田殿の御果報は、ここまでなりとおぼえたり。いつまで付き添ひ奉り、京よ、田舎と辛苦せん。又余の人を頼まばこそ、弓箭の疵とも成るべけれ。是を菩提の知識とし、世を逃れんと思ふ。」とて、忍び忍びに元結切り、まどろみ給へる信田殿の、枕上に取り置いて、暇乞ひをも申したけれども、さこそは慕はせ給ふべき。忍び音泣いて出て行く。さすが多年の御馴染、頼みし君にてましませば、名残の惜しさは限りなし。されども思ひ切りつつ、別れ別れに成りにけり。
天明けければ信田殿、御目を覚まさせ給ひ、「誰かある。」と召さるれど、御返事申す者もなし。「こはいかに。」と思し召し、かつぱと起きさせ給ひて、辺りを御覧ありければ、あら、何ともなや、十一人の人々の髻ばかりぞ残りける。信田殿、御覧じて、「情けなの者どもや。とても浮世を厭はば、など諸共に連れ行かで、年にも足らぬ我一人を、捨ててはいづくへ行きけるぞ。」と、口説き歎き給へども、そのしるしもましまさず。腹を切らんとし給ふ所へ、宿の亭主参り、事の子細を伺ひ申すに、始め終りの事どもを、詳しく語り給ふ。
亭主、承り、「やあ、か程の道理を持ちながら、などや都へ御上りあつて、御沙汰は無きぞ。」と申せども、「供人一人もあらばこそ。浮世にありて詮もなし。不思議に尋ぬる者あらば、かく成りつると語れ。」とて、念仏申し、刀を抜き、既に自害と見え給ふ。亭主、余りのいたはしさに、御刀にすがりつき、「都までの御伴をば、この男が申すべし。自害をとどめ給へとよ。『命を全う持つ亀は、蓬莱に逢ふ。』と伝へたり。つらき人の果てをも、生きてぞ見果て給ふべき。死しては何の曲あるべき。」と、とどめ申したりければ、御自害はとまりけり。明くれば亭主、御供して、「都へ。」とてぞ上りける。五條に宿を取りて置き、沙汰の法をば申し教へて、亭主は暇賜はりて、番場の宿に下りけり。
信田殿只一人、都にとどまり給へども、羽抜けの鴨の水波に、浮かれて立たぬ風情し、片輪車の中々に、遣る方もなき如くにて、都に日をば送れども、沙汰する旨もましまさず。田舎の縁を伝へねば、長在京も叶はずし、頼りもなうておはします。信田殿、心に思し召す。「叶はぬ事を案ずるは、かへつて愚痴の至りなり。我、常陸の国に下り、姉御を頼みゐるならば、成人の後、小山を一刀恨みむ事、何の子細のあるべき。」と、思し召されける間、珍しからぬ信田へは、又こそ下り給ひけれ。
時世に従ふ習ひとて、姉婿殿を頼ませ給ひ、門のほとりにたたずんで、「もの申さん。」とありしかば、人を出して、「誰そ。」と問ふ。「苦しうも候はず。信田にて候。万事は頼み奉る。降参せん。」とありしかば、小山、この由聞くよりも、「あう、尤も、かうこそあるべけれ。『内へ。』と申したけれども、所存の内を察し申したり。便暇を窺ひ、一刀恨みんため、来り給へる心の内をば、鏡にかけておぼえたり。押さへて討ちたけれども、降人の法なれば、助け申す。遠き国の知らぬ里へ、疾く落ち行き給へ。片時も国にましまして、我ばし恨み給ふな。」と、遥々下るしるしもなく、門より内へ入れざるは、いとど無念ぞまさりける。
あら、いたはしや、信田殿。「たまたま近く巡り来て、父の御墓を今ならでは、いつの世にかは拝むべき。」と、御墓に参り給ひ、草木の花を摘み手向け、「か程に果報つたなき身を、一つ蓮のうてなに迎へ取らせ給はで、浮世に残し給ふ事よ。」と、口説き歎き給へども、亡霊なれば土窟より、御声出る事もなし。索々としたる風の音、松に吟ずるばかりなり。茫々としたる草の露に、裾も袂もうちしをれ、尽きせぬものは涙なり。
かくて信田殿、御墓を下向ありける処に、編笠深々と引つかうだる男の、怪しき様に参り会ふ。「誰なるらん。」と御覧ずれば、これは別れて年久しき、浮嶋太夫なりけり。かねては知らざる住吉の、まつ年なれば悦びを、引き合はせぬる幸ひとて、具して河内へ帰り、五人の子どもを近付け、「これこれ、拝み申せ。この程、汝等が恋ひ奉りしに、諸天の恵みのあるにより、不慮に参り会ふ事は、一眼の亀のたまさかに、浮木に会へる如し。定めて十日ばかりには、包むとも披露あるべし。
「この山里と申すは、昔よりの良き城郭なり。いかに敵が攻むるとも、たやすく落つべしとおぼえず。汝等に戦をさせ、時々見て目覚まいて、年を送り居んずる程に、都へこの事洩れ聞こえ、『国の乱れは何事ぞ。』と、上の使立つならば、取り続き越訴を立て、悦びの沙汰を極むべし。今こそ異事の勢なりとも、終には国を治むべし。やあ、俄に慌てて何かせん。谷々峯々、尾続きどもを、人夫を揃へて掘り切らせよ。走り、胴突、石弓、ここかしこの詰まり詰まりに張り懸けさせよ。篝を焚かせよ。掻楯を掻き、打ち解け居るな。」と下知すれば、子どももなのめに悦うで、「とても消ゆべき露の身を、君ゆゑ死なん、嬉しや。」と、悦び勇むぞ頼もしき。
包むとすれどこの事を、小山の太郎伝へ聞き、「さては先祖の郎等に、浮島が頼まれけるか。方々引き合ひ、募りては、事の大事たるべし。未だ力のなき先に、早、寄せよ。」と申す。「承る」と申して、小山が執事横須賀、大将にて、ここを先途と戦ひけれども、大勢討たせて引つ返す。「さては、自身向かはでは、叶ふべからず。」と、小山殿の向かはれける間、常陸、下総両国に、残る兵は一人もなし。城にも、ここを先途と戦ひけれども、げには、寄せ手は国が一つに成つて、谷をも嶺をも平路に道を作らせ、新手を入れ替へ攻めければ、さのみはいかで堪ふべきぞや。二、三の城戸をも打ち破られ、詰めの城にぞ籠りける。
浮嶋太夫、申しけるは、「それ、人の命を庇ふ合戦は、事によるぞ。子どもはなきか。討死をせよ。心安く太夫も腹切らん。」と言ふままに、例の大弓取り出し、大手の櫓に上がり、「いかにや、女房。こなたへ来て、狭間引いて賜べ。軍して見せん。」とありし時、女房、生年五十六、薄衣かづき、櫓に上がり、「何とて子どもが軍は、こだれて、今まで遅いぞ。」と、しきりに力を付けられて、早、浮嶋太郎、駆け出る。
その日を最後と思へば、龍を縫うたる直垂に、鬼形摺つたる左右の籠手、白檀磨きの臑当、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通しを、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打刀を、十文字に差すままに、三尺八寸候ひし、赤銅作りの太刀佩いて、同じ毛の五枚兜に、獅子形打つて猪首に着、白綾の母衣をさつと掛け、塗籠の弓の四人張、三戸立ちの白葦毛、金覆輪の鞍置かせ、弓杖にすがり、ゆらりと乗り、堀の端側に駒を据うる。兄弟五人の者ども、思ひ思ひの具足を着、心々の馬に乗り、互に手綱を取り違へ、「やあ、駆けう。」「駆けじ。」としたりしを、敵味方がこれを見て、「あつぱれ、武者の勢ひかな。」と、褒めぬ人こそなかりけれ。
浮嶋夫婦、櫓の上にてつくづく見て、「いづれも器量は劣らぬよ、なう。あつたら子どもを世にあらせて、所領の主とも成さずして、只今殺さん惜しさよな。早、死ね、子ども。さは言ひながら、今を限りの事なれば、ま一度、こなたへ顔見せよ。誰も名残は惜しいぞ。」と、さしもに剛なる太夫殿、はらはらとぞ泣きにける。女房がこれを聞き、からからとうち笑ひ、「別れた今の泣き事か。泣いても叶ふべき道かや。いかにや、子ども。軍はさすがに大事のもの。心の剛なるばかりにて、兵法知らで叶はず。味方無勢にありながら、敵の陣へかかるには、鋤の先、尖り矢形、魚鱗、鶴翼両陣なり。魚鱗と言へる駆け足は、魚の鱗をまなべり。鶴翼と言へるは、鶴の羽交を表したり。駒の手綱を知らいでは、敵が無窮に斬られぬぞ。向かふ敵斬る時は、蹴上げの鞭をちやうど打つて、表返しの手綱をすくひ、拝み斬りに斬り捨てよ。弓手へ廻る敵をば、角の手綱きつと引き、走行の鞭を打つて斬れ。妻手へ廻る敵をば、太刀の柄を返して、さはらの鞭を打つて斬れ。夫婦の者も、これにて見るぞ。桟敷の前の晴れいくさぞ。不覚をかくなや、子ども。」とて、可笑しき事はなけれども、子どもに力を付けんがため、狭間の板をうち叩き、からからと笑ひけり。
いとど逸りた子どもが、父にも母にも勇められ。大声を出いて駆け出る。前の河原は足引き。習ひ伝へし手綱の秘事、教へ置かれし鞭の曲、無窮に馬を乗り連れて、駆けてはさつと引いてみれば、前の河原の石よりも、多きは死人なりけり。取つて返し、さつとは駆け、五、六度まで戦うたり。
女房、御覧じて、子どもが軍の面白きに、「後詰めして取らせん。」とて、かつぎた衣をさつと下ろせば、下は武者に出立つたり。紅の袴の下に、膝鎧に臑当し、萌葱匂の鎧着、たけなる髪を唐輪に上げ、太夫が好みし黄楊の棒を、「暫し貸せ。」とて打ちかたげ、大手の城戸を開かせ、堀の端側に駒を据ゑ、大音上げて名乗るやう、「いかにや、小山の人々。我をば誰と思ふぞ。陽成院より三代、津の頼光に五代なり。渡辺党に大将軍、箕田の源氏が娘に、弥陀夜叉女とは、自らなり。年は生年五十六。二つとなき命をば、信田の御寮に奉るぞ。我と思はん人々、駆けよ。手並を見せん。」と、兜を取つてうち着つつ、既に駆けむとしたりけり。
浮嶋太夫、櫓の上にてつくづくと見て、「子どもが心の剛なるも道理。母が心が剛なれば。か程なる者どもが、親子兄弟夫婦と成つて、寄り合ひけるこそ不思議なれ。いかにや、御寮。御出あつて、女軍を御覧ぜよ。ためし稀なる事なり。」とて、信田殿を櫓へ請じ申す。詳しく見奉り、「将門の御眼に、瞳が二つましまして、坂東八ヶ国の王と成らせ給ひしか。君にも弓手の御眼に、瞳が二つましませば、王位までこそおはせずとも、必ず坂東八ヶ国の、主とは成らせ給ふべし。たとひ我等、討死仕るとも、君は命を全うして、二十五までは御待ち候へ。必ず二十五にて、御代に立たせ給ふべし。我等もそれが思はれて、子どもが命も惜しけれど、当座の恥をかかじため、皆討死を仕る。夫婦討死致すならば、御身は敵に生け捕られて、小山が館に年を経て、悦びの御代を待ち給へ。暇申して、我が君。」とて、櫓をゆらりと飛んで降り、一枚交ぜの大荒目、袖をば解いて、からと捨て、胴ばかり揺り掛けたり。
その日最期の打物に。桃氏が打つたる長刀の、四尺八寸ありけるが、柄をば三尺五寸に拵へ、直柄に金を延べ付けたり。「まちつと、この柄長うして、数や劣らん。」と、二尺ばかりさし下げ、ふつつとねぢ切り、投げ捨て、手頃に廻いて振つてみて、「あつぱれ、鉄や。」とうち頷き、「南無三宝。あぢきなや。いか程の者が斬られて、妻子に物を思はせん。なう、女房。」と語る。夫婦ともに、駒の手綱をかい繰つて、敵の中へ駆けて入る。面を合はする者は無し。棒を使ふ兵法に、芝薙ぎ、石突き、払ひ打ち、木の葉返しの水車。馬、人嫌はず打ち伏する。長刀使ふ兵法に、波の腰切り、稲妻切り、車返し、遣る刀。女房、打ち通れば、太夫、後より切り巡る。先に子ども駆くれば、父母、後より駆けにけり。物によくよく譬ふれば、天竺州の戦ひに、歩兵が先に駆くれば、横行、角行駆け合はする。金銀桂馬かかる時、太子もかかり給ひけり。この戦ひの兵法を、将棋の盤に作れるも、あう、これにはいかでまさるべき。
浮嶋太夫が長刀を、堪へず三つに打ち折れば、大手を広げ駆け合はせ、ねぢ首、筒抜き、人つぶて、幹竹割に引つさいたり。昨日今日とは思へども、二年三月の合戦なり。この戦ひは夜日七日、討たるる者は数知らず。子どもも五人と申せども、ここやかしこに押し隔て、一人も残らず討たれたり。太夫夫婦ばかりなり。「さのみに罪を作つては、未来の業と成るべきなり。勝ちもせざらぬもの故、いざ、姥御前。」と申して、互に刀を抜き持つて、刺し違へて死んだるを、惜しまぬ者はなかりけり。
信田殿、心に思し召す。「浮嶋が遺言は、さる事なれども、夫婦討死する上、何に命を庇ふべき。」と、腹を切らんとし給ふ処へ、小山が郎等参り、「まさなき君の御自害かな。」と、生け捕り申して出る。
小山、この由見るよりも、白昼に頭を刎ねん事は、天下の聞こえもしかるべからず。夕さりの夜半に、内海に沈めむ。」とて、相馬重代の家人、千原太夫に仰せ付くる。かの千原と申すは、相馬殿の御内に年頃召し使はれし者なれども、時世に従ふ習ひとて、小山殿に仕へ申す。信田殿預かり奉り、「大事の囚人、これなり。もし失ひや申さん。」と、奥深に押し籠め申し、更け行く夜半を待ちたりしは、羊の歩みの近づくも、かくやと思ひ知られたり。
姉御、この由を聞こし召され、「無残やな。信田は今を限りにてありけるぞや。あさましや、みづから夫の心と一つにし、かく成すよとや思すらんに。最期を一目見ん。」とて、人静まりて夜半に、千原が元へ御出あり。信田殿に付けたりし数々の縄を御覧じて、「あら、恨めしの事どもや。みづからにも付けずして、など信田殿ばかりに付けけるぞや。何とて物をば仰せなきぞ。恨みの心にてましますか。日の本にあらゆる神も知ろしめせ。後ろ暗き事は無し。」と、かき口説き宣へば、信田殿、聞こし召されて、「恨むる所存はなけれども、涙にくれて言葉なし。とても我が身は果報なく、今を限りの事なれば、かやうにあくがれ出給ひ、小山が方へ洩れ聞こえ、重ねて憂き目を見給ふな。御帰りあれ。」とありしかば、姉御、この由聞こし召し、「たとひ小山に洩れ聞こえ、同じ淵に沈むとも、恨みとは更に思ふまじ。かやうに成らせ給ふ事、只これ故の事なれば、御覧ぜよ。」と仰せあり。袂よりも巻物を、取り出して賜びにけり。
信田殿、開いて見給ふに、本領の地券巻物。「これは家に伝はるべき、重宝にて候へば、持ちては何の益あらん。取りて御帰りましませや。」姉御、この由聞こし召し、「それは、さる事なれども、たとひ御身死したりと、閻魔の庁の出仕の時、倶生神の御前にて、捧げ給ふものならば、道理限りあるにより、など一業の罪科の、浮かみ逃れであるべきぞ。只持ち給へ。」とありし時、取りてぞ持たせ給ひける。さてしあられぬ憂き身にて、名残の袂引きさけて、姉御は帰り給ひけり。
夜更けければ、小山よりも使を立て、「信田をば沈めてありけるか。疾く沈めよ。」とありしかば、千原、力なうして、小舟一艘拵へ、信田殿を乗せ申し、沖をさして漕ぎ出、「ここにてや沈めむ。」「かしこにてや沈め申さん。」と、さすがに沈めかねつつ、浮かれて暫し漂へり。「あら、あぢきなや。世の中に、すまじきものは宮仕ひ。我、奉公の身ならずは、かかる憂き目によもあはじ。昔は相馬に仕へ申し、この君を、主君と仰ぎしその時は、月とも日とも思はずや。山岳よりも高き恩、芝蘭よりも香ばしく、付き添ひ廻り申せしが、いつぞの程に引き替へて、移れば変はる身の憂さは、我が手に掛けて沈めなば、草の蔭にて相馬殿、『さこそ憎し。』と思すべき。たとひこの事洩れ聞こえて、明日は淵に沈むとも、一旦この君を落とさばや。」と思ひて、「只今こそ御最期よ。」念仏を勧むれば、手を合はせ高らかに、高声、念仏を申さるる。
千原も共に申し、腰の刀をひん抜いて、縄散々に切つて捨て、沈めの石ばかりをば、だんぶとうち入れ、「南無三宝。今が見果て。」と高く言ひ、沈めた体にもてなし、助けて陸に戻りけり。これや、始皇の御時に、燕丹が故郷に帰りしも、かくやと思ひ知られてあり。「明けては人目繁し。」とて、夜の間に送り奉り、暁かけて千原は、我が家路にぞ帰りける。
天明けければ、小山より御使立つ。千原、御前に畏まる。「汝は信田をば沈めてありけるか。」「中々。御尋ねまでも候はず。沈め申して候。」「それ程沈めけるには、などその時の検見をば乞はぬぞ。やがて心得たり。汝は、相馬重代の家人。いかさま心変はりをして、落としぬるとおぼゆるなり。ただ問はんには、よも落ちじ。あれ、拷問して問へ。」「承る。」と申して、無残や、千原を取つて伏せ、宙に上げ、七十余度の拷問は、目も当てられぬ次第なり。
五体身分切れ損じ、余り苦痛のある時は、「しや、落ちばや。」と思ひしが、「待て、暫し、我が心。千原は入り日の如くなり。信田殿を譬ふれば、出る日、つぼむ花なれや。余命を言ふとも、限りあり。替はれや、命。」とて、いかに問へども落ちざりけり。水火の責めを当てて問ふ。これにも更に落ちざれば、枯れ木よりも縄を下げ、上ぐる時には息絶えて、下ろせば少し蘇る。七日七夜は暇もなく、新手を入れ替へ責めければ、さのみはいかで堪ふべき。朝の露と消えにけり。
小山、大きに怒つて、「妻子はなきか。召し出して、重ねて問へ。」「承る。」と申して、二人の若、母諸共に引つ据うる。小山殿、御覧じて、「夫が言ひし事を、知らぬ事は、よもあらじ。ありのままに申せ。偽る気色のあるならば、やがて夫が如く成すべし。」と、大きに怒り給へば、女房、ちつとも憂ひたる気色もなく、「たとへば微塵になされ申すとも、知らぬ事をば申すまじい。ありし夜の暁、『只今こそ沈め申しに行く。』とて、小船一艘拵へ、信田殿を乗せ申し、沖をさして漕ぎ出る。みづから余りいたはしさに、急ぎ浜に下り、事の体を聞き候に、信田殿の御声にて、高声念仏し給へば、千原も共に申し、だんぶと物の鳴つてより、その後は音もせず。とてもかやうに失はれ申す命を、などや信田殿の御命に替はり申して、ひとまづ落とし申さぬぞや。これ偽りと思し召さば、辺りの浦人を召して御尋ねあれ。」と申す。「さらば、召せ。」とて、あまたを召して尋ねられけるに、「その夜の沖の体たらく、何事ありとは存ぜねども、皆この体。」と答ふる。「さては沈めてありけるものを、不憫に千原を問ひけり。」と、妻子を返し給ひけり。
その後、信田殿。猶も都の恋しくて、明けぬ暮れぬと上らせ給ふ。日数やうやう重なり、近江の国に聞こえたる、大津の浦に着かせ給ふ。門並こそ多きに、人を拐へて売る、辻の藤太が元に、宿かりそめに御泊りある。藤太は信田殿を拐へて売らんため、夜もすがら拵へたり。「御年もいまだ若に御座ある人の、いづくよりいづかたへ、御通りあるぞ。」と申せば、「これは坂東方よりも、都へ上る者にて候。」藤太、承り、「やあ、かちの御歩きのいたはしさよ。都までの御伴をば、この男が申さん。」と、痩せたる馬に鞍を置き、我が身も伴にぞ出立ちける。信田殿、心に思し召す。「されば、都ほとりは、人の志の深かりける。」と、送られ京へ上らせ給ふ。
五條に行きて博労座の、人商人の惣領、王三郎に言ひ語り、駒一匹に替へ取つて、藤太は国に下る。それよりも津の国の、堺の浜へぞ売つたりける。四国、西国を売り廻る。後には北陸道の灘を売られさせ給ふ。若狭の小浜、越前の敦賀、三国の湊、加賀の国に聞こえたる、宮の腰へぞ売りにける。物のあはれは多けれども、宮の腰にてとどめたり。
折節、春の事なるに、賤が業を教へて、「田を打て。」と責めければ、鍬といへる物を持ち、小田の原へは出給へど、打つべきやうは、ましまさず。かの三皇の古は、神農皇帝忝く、みづから鋤を担ひて、その一頃の田を返し、五穀の種を蒔きしかば、神農、感応めでたくし、尺の穂たけも長かりき。それは賢王聖主にて、国を育む道理あり。かの信田殿の農業は、涙の種を蒔くやらん、野にも山にも龍田姫、佐保の林にひれ伏して、泣くより外の事は無し。これを見る人々が、「いたづら者。」と申して、隣の里、隣国に、「買はん。」と言へる者は無し。もてあつかうて信田殿を、追ひ出し奉る。
あはれとよそに白雲の、立ち出ぬれば天の原、身はなか空に鳴神の、とどろとどろと歩めど、泊り定めぬ浮かれ鳥、なく音に人の驚き、あけぬる門をすぎの下、道ある方に迷ひ行き、身は飢ゑ人と成るまま、袂に物を乞食。草葉にかかる命をば、露の宿にや置きぬらん。定むる方の無きまま、足に任せて行く程に、能登の国に聞こえたる、小屋の湊に着かれけり。
折節、小屋の湊へは、「夜盗が寄せ来るべし。」とて、門々、門を切り塞ぎ、用心厳しかりけり。かかると知ろし召されねば、「世に無し者の浮かれたるに、慈悲ましませ。」とありしかば、内よりも尉一人立ち出、信田殿を見参らせ、「盗人のけご見こそ来つたれ。あれ、寄つて打ち殺せ、若者ども。」と下知をする。折節あり合ふ若者ども、信田殿を打ち伏せ申す。あら、いたはしや、助かりがたく見えさせ給ふ。かの浦の刀祢の女房は、情けありける者にて、「いたはしや。この人は、世に捨てらるる人の子の、親の行衛を尋ねかね、かかる遠国波濤まで、来りたるとおぼゆるなり。まつぴら我に賜べ。」とありしかば、若者ども、これを聞き、杖を捨ててぞ退きにける。かくて信田殿を、我が宿所に置き申し、よきにいたはり奉る。
遥か奥、外の浜に、塩商人のありけるが、かの浦へ舟を乗る。問ひは刀祢の元なれば、信田殿を見参らせ、「これなるわつぱを我に賜べ。」と言ふままに、押さへて塩に替へ取り、舟に取つて乗せ申し、十八日と申すに、外の浜にぞ上がりける。この商人は、情けも更に無き者にて、いまだ一両日も過ぎざるに、「塩焼き給へ、まれ人。」と、塩木をこらせ、塩釜の、火を焚かするこそもの憂けれ。いとど塩垂れ衣着て、下燃えくゆる釜の火を、焚くこそは物憂かりけれ。つらき中にも慰むは、塩屋の煙一むすび、末は霞に消え匂ひて、行方の程もしら浪の、よる夜袖を絞らして、常陸の国の恋しさは、いとど日々にぞまさりける。
秋も半ばの事なるに、かの浦の領主、塩路の庄司と言つし人、夜もすがら月を眺めて遊ばれしが、信田殿を御覧じて、「ここに塩焼くわつぱの、目の内の賢さよ。いかさまにも太夫は、世にある人を拐へて来りたるとおぼゆるなり。我が子にせん。」と宣ひて、押さへて奪うて取り、嫡孫と号し、かくて元服をさせ申し、塩路の小太郎殿と申して、上から下に至るまで、渇仰せぬはなかりけり。
かかりし時の折節、国司、国に下り給ひ、多賀の国府に着かせ給ふ。在庁、御家人馳せ集まり、日番当番を勤むる。国司よりの御諚には、「我、常陸の国にありし時、相馬と内木が椿事により、両方絶えて、年久しし。それも座敷の論、盃の献盃、定めなかりしによつて、詮なき事もありしぞかし。国司在国の間に、座敷の様をも定めむ。」とて、左は勝田の太夫、右は柴田の庄司、惣じて座敷は十三流れ。人数かれこれ三百余人。曇りたる物を着けざれば、晴れがましさは限りなし。その中に塩路の庄司殿、我が身老体なる間、養子の信田殿を出し申す。
並びの在庁、これを見て、「叶ふまじい。」と支ふる。国司よりの御諚には、「何とて塩路は、自身参らぬぞ。上を軽くする故か。その儀にてあるならば、塩路が本領、悉く召し上ぐべき。」との御諚なり。信田殿、聞こし召されて、「座敷を立たんも無念なり。名乗らばや。」と思し召し、系図を取り出して、国司の前に捧げらるる。国司、この由御覧じ、「何々、葛原の親王よりも六代の後胤、将門の御孫、相馬の実子、信田の小太郎何がし。」と、氏文、顕証なる間、「五十四郡がその内には、これにましたる俗姓なし。」と、国司の対座許され申し、直り給ふぞめでたき。
既に御酒盛七日と聞こえけり。在庁、御家人、暇を申して、屋形屋形に帰らるる。その中に信田殿も、暇を乞うて帰らるる。国司、御覧じ、「あう、いたはしし、いたはしし。奥州の国司を、三年が間、奉る。その間に国司は、都へ上つて、安堵を申して参らせん。」とて、国司、都へ上らるる。さる程に信田殿、昨日までは塩を焼き、憂き身を焦がし給ひしが、今日はいつしか引き替へて、五十四郡の主と成り、国を保たせ給ひけり。
さても常陸の国に候ひし、小山の太郎行重は、栄花栄えて際もなし。頃は七月七日とて、上下万民、宝物を揃へ、七夕に貸す習ひ。小山殿も、数の宝を揃へて、七夕に貸されける中に、信田、玉造の地券巻物を、いかに尋ぬれども無し。「いやいや、これは、余の人は知るべからず。御身の盗み取つて、他の宝に成しつるとおぼゆるなり。かかる後ろ暗き人を、頼みて何の益あらん。早々、御出候へ。」と、いたはしや、姫君を追ひ出し奉る。あら、いたはしや。姫君、元よりも、かくあるべきと期したれば、乳母ばかりを引き具して、小山が館を出させ給ふ。
「あさましや、みづから誰を頼みて、今更いづくへとてか迷ふべき。信田殿が身を入れし、内海に沈まん。」とて、浜路へ下らせ給ひけり。千原が後家は、参りて申す。「なう、いたうな御歎き候ひそ。信田殿の御命には、夫の千原が替はり申して候ぞ。数々の文どもを、とどめ置かせ給へども、参らせ上ぐる事も無し。これこれ、御覧候へ。」とて、ありし昔の文どもを、姉御の御手へ参らせ上ぐる。姉御、この由を御覧じて、「あら、嬉しや。信田殿は、いまだ浮世にありけるぞや。叶はぬまでも沙汰のため、都へこそ上りつらめ。いざや、乳母、これよりも都へ上り尋ねん。さりながら、かくて都へ上るならば、由なきあだ名や立ちなん。」と、たけと等しき御髪を、剃り落とし給ひけり。乳母もやがて、同じ姿に様を変へ、濃き墨染に身をやつし、都へ上り給ひけり。名所旧跡を、眺め越えさせ給ひつつ、三十五日と申すに、都に着かせ給ひけり。
西東の京を尋ぬれど、その行き方もなかりけり。清水に参りて、「南無大悲観世音。よろづの仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。今一度信田殿に、会はせて賜ばせ給へや。」と、祈誓深くぞ申さるる。熊野の道を尋ねんと、南海道にさしかかり、天王寺、住吉、根来、粉河をうち過ぎて、熊野に参りて、三つの山、心静かに伏し拝み、尋ね給へど行き方なし。四国、九国を尋ねんと、道者舟に便船乞うて、四国に渡り淡路嶋も、心静かに尋ねけり。筑紫下りの道すがら、長門の府、赤間が関、芦屋の山崎、博多の津、志賀の嶋まで尋ぬれど、その行き方もなかりけり。名護屋を出て、瀬戸を行く。平戸の大嶋、松浦、弥勒寺、静の里、くわんき、五島嶋、伊王が嶋も近く成る。壱岐の本堀通るにぞ、消ゆるばかりの我が心。日向の国に土佐の嶋、紀の里に淡嶋。豊後、豊前をさし過ぎて、肥後の国に聞こえたる、踊り堂の山を越え、恋はし、うしのみつし、阿蘇の岳を越え過ぎて、筑前の国に生の里。遠国波濤に至るまで、名所は尽きぬものなり。「信田の小太郎何がし。」と、問へど答ふる者はなし。
「筑紫の内に曇り無し。いざや、乳母。これよりも、都へ上り尋ねん。」と、周防の国にさしかかり、大内の郡、朝倉や、極楽市と聞くからに、立ち留まりてぞ尋ねける。播磨の国に入りぬれば、赤松河原、由比の宿、高田の渡り、矢野の宿。名所旧跡を、眺め越えさせ給ひて、堺の松に出させ給ふ。さうたの森、烏崎、人麿が岡を尋ぬれど、その行き方もなかりけり。須磨の浦、蓮の池と聞くからに、同じ蓮に乗らばやな。兵庫に着けば、湊川、雀の松原、打出の宿、昆陽野、伊丹、手嶋の宿、太田の町屋、芥川、神内、山崎、狐河。舟に乗らねど久我畷、月の宿るか桂川。浮世は車の輪の如く、巡り来ぬれば九重の、巡り来ぬれば九重の、花の都に着き給ふ。
九重の内に曇り無し。「いざや、乳母。これよりも、元の道にさしかかり、下らん。」と宣ひて、我をば誰かまつ坂や、逢坂の関の清水に影見えて、今や引くらん望月の、駒の足音聞き馴るる、大津打出の浜よりも、志賀、唐崎を見渡して、堅田の沖に引く網の、目毎に脆き涙かな。勢多の唐橋遥々と、尋ぬる人の面影を、映しもやせん鏡山。愛知の川瀬の浪散りて、裾は露、袖は涙の暇よりも、磨針山を越え行けば、荒れて中々優しきは、不破の関屋の板間洩る、月見、垂井の宿過ぎて、植ゑし早苗の黒田こそ、秋は鳴海とうち眺め、三河の国の八橋の、蜘蛛手に物や思ふらん。富士をいづくと遠江、恋を駿河の身の行方、待つ宵の、月も雲間を伊豆の国。信田にはいつか奥州まで、三歳三月がその間、「信田の小太郎何がし。」と、問へど答ふる者は無し。
その年の文月半ばに、奥州多賀の国府に着かせ給ふ。十四日盂蘭盆とて、上下万民、慈悲を施す日なりけり。信田殿も、父母の孝養のために、辻々に札を立て、施行を引かせ給ひしが、比丘尼達を御覧じて、「あれあれ、請じ申せ。」とて、持仏堂に請じ申し、よきにいたはり奉る。あら、いたはしや、姫君。夜もすがら御経あそばし、暁方に成りしかば、廻向の鉦打ち鳴らし、御声高く廻向ある。「この御経の功力によつて、一切の衆生悉く、無上菩提と成ずべし。殊には父相馬殿、母御台、信田殿、成仏解脱成り給へ。その中に信田殿、いまだ浮世にあるならば、この御経の十羅刹女の功力により、祈祷と成らせ給ひ、信田の小太郎に今一度、会はせ賜び給へ。南無三宝、南無三宝。」と、衣の袖を顔に当て、脆きは今の涙なり。
信田殿も、父母の孝養のそのために、持仏堂に御坐ありて、夜もすがら御経をあそばせし。廻向の声を聞こし召し、夢うつつとも弁へず。間の障子をさつと開け、詳しく見奉りしに、姉の成り行く姿なり。するすると走り寄り、御袂にすがり付き、「これこそ信田の小太郎にて候へ。」とて、消え入るやうに泣き給ふ。姉もこの事を、うつつと更に弁へず。「さて、いかに。小太郎か。これこそいにしへの、千手の姫で候なれ。憂き時は道理かな。嬉しき今の何とてか、さのみ涙のこぼるらん。」と、睦ましげなる御有様、よその袂も濡れぬべし。
信田殿、仰せけるやうは、「か程めでたき世の中に、何をさしてか歎くべき。いざ、させ給へ、姉御前。常陸の国へ打ち越え、恨めしき小山が頭を刎ね、父相馬殿の御墓処に懸け置き、会稽をすすぎ候はん。」「尤も、しかるべし。」とて、五十四郡がその内に、究竟の兵を三千余騎揃へらるる。
小山、この由聞くよりも、国に堪へがたうして、逃げて京へぞ上りける。しかるに国司は、安堵を申し賜はつて、国に下り給ふ。小山、道にて参り会ふ。急ぎ駒より飛んで下り、「この度の命を、まつぴら助けて賜べ。」と申す。「易き程の事。」とて、たばかり寄つて搦め取り、京苞と名付けて、信田殿に賜び給ふ。信田殿、なのめならずに思し召し、武蔵国妻恋が野辺に引き据ゑ、首打ち落とし給ひけり。
やがて信田殿、上洛ましまして、天下の御目にかからるる。御門、叡覧ましまして、坂東八ヶ国を信田殿に賜び給ふ。そのついでに、近江の国とかや、大津の浦を申し乞ひ、辻の藤太を搦め取り、十日に十の爪をもぎ、二十日に二十の指をもいで、首を挽き首にし給へり。「只人は情けあれ。情けは人のために無し。終には我が身に報ゆ。」と、憎まぬ者はなかりけり。番場の宿へ打ち越えましまして、「春草と小太郎が、萌え出て候ぞ。嬉しきをもつらきをも、などかは感ぜざるべき。」と、小嶋の庄三百町、番場の亭に賜びにけり。
やがて御身は、常陸の国へ下向ありて、「信田の河内にて討死したりし、浮嶋太夫が子孫はないか。」と問ひ給ふ。太夫が孫は三人、召し出し候ひ、三千町を賜びにけり。千原が後家、若、諸共に参れば、なのめならずに思し召し、坂東八ヶ国の惣政所を、若どもに賜び給ふ。やがて御身は信田の郡に御所を建てて、御歳二十五にて、御代に立たせ給ひ、日番当番勤めさせ、栄花に誇り給ひけり。姉の比丘尼、大方殿と申して、いつきかしづき給ひし。末繁昌と聞こえけり。
于時元和四年五月吉日
桃井 幸若小太郎大夫 安信(花押)
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