文覚
(大頭左兵衛本)

 ここに、源氏の御代に出させ給ふべき由来を詳しく尋ぬるに、元は津の国、渡辺源氏の大将に、遠藤武者藤房がその子に、遠藤瀧口盛遠と申せしに、出家しての戒名を、文覚とこそ申しけれ。その頃、あらざる大行を企て、真言教に心を懸け、極熱に笠をも着ず、厳冬の冴ゆる夜、衾の数をも重ねず、大峰、葛城七度通り、熊野の那智の瀧に三七日打たれ、正身の大聖明王に逢ひ奉りしかば、既に権者とこそ申しけれ。その後、都へ上り、愛宕山の麓、高雄の神護寺と申す古寺に御座ありしが、「かかる破壊仏閣を、建立すべき事こそ幸ひなれ。まづ鐘楼建立あるべし。」とて、洛中洛外を勧進して廻られしが、東山院の御所、法住寺殿に参り、「これは高雄の神護寺の、鐘撞堂の勧進に参りて候。御奉加あれ。」と文覚は、勧進帳を高らかにこそ読み上げけれ。
 頃は卯月上旬の事なるに、遅桜散る木の下は寒からで、空に知られぬ卯の花の、雪は御庭に散り敷きて。山ほととぎす村雨に、濡れてさ渡る折節に、雲上の管絃講は半ばなり。上臈達は御覧じて、「騒々なり。後日に参れ。御奉加あるべし。」との御諚なり。文覚、聞こし召されて、「何、雲上の管絃講とや。簫、笛、琴、箜篌、琵琶、鐃銅の遊びは、一旦の栄花。鐘撞堂の勧進は、末世のためにあらずや。管絃講とどめ、御奉加あれ。」と文覚は、又勧進帳を高らかにこそ読み上げけれ。
 上臈達は御覧じて、「騒々なり。あの法師を追ひ出せ。」とありしかば、「承る。」と申して、青侍七、八人、ばらりと立つて、文覚を引つ立て、「『後日に参れ。御奉加あるべし。』との御諚にて候に、重ねて参る事こそ奇怪なれ。急ぎ出よ。」と言ふままに、素首を突いて追ひ出す。文覚、御覧じて、心にあたはぬ事なれば、いかにも静かに歩み出る。「急ぎ出よ。」と言ふままに、文覚の持たせ給へる勧進帳を引ん奪うて、二つ三つに引き裂き、かしこへがばと投げ捨て、又取つて引つ立てて、あう、門の外へぞ引き出す。
 文覚、御覧じて、「そもそもこれは何事ぞ。否ならば幾度も、その由をこそ言ふべけれ。黒衣の上の恥辱を、与ふる所は遺恨なり。つらつら物を案ずるに、千手の二十八部衆、薬師の十二神将と、降三世、軍荼利、夜叉明王の、降魔の利剣を引つ提げて、悪魔を退治し給ふに、何ぞ文覚が帯したるこの剣は、いつの用ぞ。」と思し召し、薄墨染の衣の袖を、くるくると繰り上げて、馬手の脇よりも、氷の様なる剣を抜き、追つ伏せ追つ伏せ刺す程に、青侍を七、八人、時刻も移さず刺し殺す。守門の武士ども集まつて、高手小手に縛めて、庭上の小庭に引つ立てたり。
 上臈達は御覧じて、「ぼつかう者の文覚とは、あの沙門が事か。急ぎ運気を刎ねよ。」と議せられければ、既に死罪に及びけり。されども法皇よりの宣旨には、「たとへばあの沙門こそ、破戒の者と言ひながら、解脱幢相の種々の法衣を身にまとひたる者を、剣の先に懸くべきぞ。七條大路に土窟を構へ、落とし入れ、百日を待つべし。百日過ぎば掘り起こし、跡をば弔うて得させよ。」との宣旨なれば、官人等、鋤鍬を持つて出、七條西の洞院に、二丈五尺に土穴を掘つて、文覚を落とし入れ、上にも土をはね覆ひ、百日日数を送りしは、げに哀れなる次第なり。
 かくて十日ばかりうち過ぎて、文覚の牢の辺りに声あつて、「この内の聖、聖。」とありしかば、文学、聞こし召されて、「かやうに土窟に籠りて後、問ひ来る者もなきものを。一向に我を失はむとの宣旨にてありけるな。濁悪世中なる間、よし、それとても力無し。」「候。」とぞ仰せける。「別の子細にても候はず。中堂薬師、医王善逝よりの御諚には、『たとへばあの沙門こそ、破戒の者と言ひながら、あらざる大行を企て、いまだその願、成就せず。今一度助け置き、諸願成就せさせむ。』との御諚にて、十二神の中よりも、金毘羅大将、御使に参りて候。土窟の暗き闇ならば、瑠璃の壺を得さするぞ。壺の光で照らして行け。食事の望みのあるならば、とても薬を得さする上、薬を服して命を継げ。それ賜はれ、文覚。」とて、げにあてやかなる御手にて、瑠璃の壺をぞ下されける。「げに。」と暗き闇をば、壺の光で照らしけり。食事の望みのある時は、薬を服して命を継ぐ。何にその身の衰ふべき。痩せず黒まず文覚は、日数を送り給ひけり。
 又十日ばかりうち過ぎて、「この内の聖、聖。」とありしかば、「候。」とこそ仰せけれ。「中堂薬師、医王善逝よりの御諚には、『さやうに土窟に籠らむよりも、我が山に来り、経読み陀羅尼を満て、百日を待つべし。』との御諚なり。文覚、聞こし召されて、「かやうに土窟に籠りては、何としてかは出づべきぞ。」金毘羅大将、腹を立て、「さやうの心中にてこそ、かかる無明の苦を受くれ。神通自在たるべくは、などか出ざるべき。」文覚、「げにも。」と思し召し、「居たる所を立つ。」と思へば、その身は芥子の如くにて、出られけるぞ殊勝なる。さて金毘羅とうち連れて、中堂薬師に参り、経読み陀羅尼を満て給ひて、明かし暮らすとせし程に、早百日に成りにけり。満じける夜半に、忝くも御本尊は、御帳の内よりあらたに、御声出させ給ひ、「いかに聞くか、文覚。日数も今日は百日とおぼゆるなり。人の心を破るは。菩薩の行にあらずや。急ぎ土窟に罷り帰り、法皇よりの御尋ねに逢ふべし。』との御諚なり。文覚、聞こし召されて、「承り候。」とて、急ぎ土窟に帰らるる。
 さる間、法皇よりの御諚には、「ありし時の聖は、日数もけふは百日とおぼえたり。急ぎ土窟を開け、跡をば弔うて得させよ。」との宣旨なれば、官人等、鋤鍬を持つて出、土窟を開けて見てあれば、痩せもせず黒みもせず、いとど気色はあてやかに、につこと笑つて出給ふ。官人、肝を潰しつつ、東西へばつと逃げ散つたり。文覚、御覧じて、「なう、何とて仰天し給ふぞ。これは、ありし時の聖にてはなきか。」と、文覚に力をつけられ、やうやう心を取り直し、文覚を守護し奉り、法住寺殿へぞ参りける。上臈達は御覧じて、御目を見合はせ、舌を巻いて怖ぢさせ給ふ。法皇、叡覧ましまして、「殊勝なりとよ、文覚。ここに譬への候ぞ。『愚者の作る善は、善共に罪。智者の作る罪は、罪共に善。』とは、今こそ思ひ知られたり。さらば、ありし時の勧進帳を、高らかに読み候へ。聴聞あるべし。」との御諚なり。文覚、聞こし召されて、「勧進帳はあらばこそ。時刻移して叶はじ。」と思し召され、持つたる扇を押し広げ、勧進帳を文覚は、高らかにこそ読み上げけれ。
 「沙弥文覚、敬つて申す。殊には貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せしめむと請ふ勧進の状。それ、ひそかにおもんみれば、真如、広大なり。生仏の仮名を立つといへど、法性随妄の雲、厚く覆つて、十二因縁の嶺に棚引いしよりこの方、本有心蓮の月の光、かすかにして、いまだ三徳四曼の大虚に顕はれず。悲しきかなや、仏日、遥かに没して、生死流転のちまた、冥々たり。只、色に耽り、香に耽る。誰か狂象跳猿の惑へを謝せむ。いたづらに人を謗じ、法を謗ず。これ豈、閻羅獄卒の責めを免れむや。ここに文覚、たまたま俗塵をうち払つて、法衣を飾るといへど、悪行、猶心に逞しくして、日夜に罪を作り、善苗、又、耳に逆つて、朝暮にすたる。痛ましきかな、再び三途の火坑に帰つて、長く生死の苦輪をめぐらさむ事を。その故に、無二の憲章千万軸、軸々に仏種の因を観ず。隨縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に至らずといふ事無し。
 「かるが故に文覚、無常の観門に涙を流し、上下の真俗を勧め、上品蓮台の縁を結び、等妙覚王の霊場を建てむとなり。それ高雄は、山うづ高うして、鷲峰山の梢を表し、谷閑かにして、商山洞の苔を敷けり。巌泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人倫遠くして囂塵無し。咫尺殊なうして、信心のみあり。地形すぐれたり。尤も仏天を崇むべし。奉加、少しきたり。誰か助成せざらんや。ほのかに聞く、聚沙為仏塔功徳、忽ちに仏因を感ず。いはむや一紙半銭の宝財に於いてをや。願はくは建立成就して、金闕鳳暦、御願円満。ないし都鄙遠近、隣民親疎、堯舜無為の化を謳ひ、椿葉再改の笑みを開かむ。殊には又、聖霊幽儀、前後大小速やかに、一仏真門の台に至り、三身万徳の月をもて遊ばむ。よつて勧進修行の趣、蓋し以てかくの如し。治承三年三月の日。文覚房。」とぞ読み上げける。
 法皇、叡覧ましまして、「殊勝なりとよ、文覚。さては、権者にてましましけるや。今日よりして文覚、上人に補せ置き申す。急ぎ我が山へ上がり給へ。御奉加あるべし。」との宣旨は、面目とこそ聞こえけれ。しかりとは申せども、諸卿、残らず一同に、奏聞申されけるやうは、「たとへばあの沙門を、素直に置かせ給ふならば、狼藉、国に余るべし。死罪をばやめられて、流罪させられ候へ。」と、奏聞申されたりければ、右大将宗盛の卿、この由を承り、「もし、さもあつて候はば、何がしに申し賜はつて、伊豆の大嶋観音堂へ、流し失ふべし。」と、奏し申されたりければ、法皇、叡覧ましまして、その頃、平家の事を、是非を無駄にし給はず。「ともかくも、宗盛がままたるべし。」との宣旨なり。宗盛、文覚を賜はり、「構へて本道は無益なり。熊野の灘を渡し、舟路たるべし。」との御諚にて、福井の庄の下司、次郎太夫有治に仰せ付く。有治、文覚を賜はり、上下三十六騎にて、文覚を守護し奉り、法住寺殿をぞ出にける。
 あら、いたはしや、文覚。「都の内を出し事、今ばかり。」とや思しけむ、七條大路に立ち出て、東を遥かに眺むれば、音羽の山の松風に、己と琴や調むらん。麓に落つる瀧壺は、名に流れたる清水寺、本尊は千手千眼。「若我誓願の御誓ひ、洩らし給はずは、今一度都へ帰し給へ。」と祈誓して、西を遥かに眺むれば、丹波に老の山、嶺の堂、谷の堂、嵯峨法輪寺、太秦の薬師に猶も名残あり。北には鞍馬、赤山。鬼門に当たりて比叡山、中堂薬師の十二神。さて我が山の十二神、金毘羅大将、七千の夜叉。北野を拝し奉り、「文覚がこの度の、遠流の罪を宥めつつ、今一度都へ帰し給へ。」と祈誓して、南を遥かに眺むれば、八幡山に立つ霧の、石清水にや懸かるらん。「皆得解脱弘誓力。金剛八幡、願はくは、源氏を守り賜び給へ。」と、祈誓を申させ給ひつつ、四塚作り道、鳥羽殿の御山荘、よそながら伏し拝み、刑部左衛門何がしが、その旧跡を見るからに、いとど涙も堰きあへず、念仏申し、経を読み、その幽霊を弔ひて、淀の津に着きければ、早、河舟に移されて、水に任せて流れ行く。弓手を遥かに眺むれば、琴の音調ぶる禁野の里。かの在五中将の、眼白の鷹を手に据ゑし、交野の原の狩衣、今きて見るぞ由なき。馬手は山崎、関戸の院、誰か建てけむ宝寺、雛を育つる鳥飼野、冠の里はこれかとよ。絵の具剥げたる古仏、早、渡辺に着きしかば、海上遥かに楫を取り、追手の風に帆を上げて、浪路遥かに吹かれ行く、心ざしこそ哀れなれ。
 文覚、仰せけるやうは、「あつぱれ、源氏の世なりせば、か程の罪に、よも遠嶋までは流されじものを。これも平家の奴ばらが、超過するによつてなり。これより伊豆の大嶋へ、何十日にも行かば行け。源氏を守るしるしには、食事をとどめ、服すまじ。」とて、舟底に入らせ給ひ、枕取つて引き寄せ、うち臥し給ひてその後は、起きさせ給ふ事もなく、又、寝入り給ふ事もなし。臥しながら仰せけるは、「さて、ここはいづくを通るぞ。」「天王寺の沖。」と申す。文覚、聞こし召されて、「異国にては南岳大師、我が朝にては聖徳太子、衆生済度の慈悲深し。さりとも仏法方の文覚をば、よも捨て果て給はじな。
 「さて、ここはいづくを通るぞ。」「住吉、堺、宇治の湊、和歌、吹上や、玉津嶋、布引の松、紀三井寺、藤代峠、由良の湊、切部の王子、千里の浜、南部、田辺の沖過ぎて、那智の沖。」とぞ申しける。文覚、聞こし召されて、「我、この御山に参り、三七日瀧に打たれ、正身の大聖明王に、逢ひ奉りしその時は、早、権者とこそ言はれしに、何と行ひ成したる文覚が行ぞや。ここは、いづくぞ。」「浜の宮、佐野の松原、太夫の松、新宮の湊、井田の里。」伊勢の国、志摩の国、尾張、三河の沖過ぎて、天龍の灘に着き給ふ。
 さる間、かの灘と申すは、東国一の悪所なり。富士の高根に黒雲が、二浪三浪ざつとかかると見えしかば、「あは、景色の変はるは。水綱を解いて帆薦を下ろし、帆柱を立て直せ。」と、言へる時刻もなかりけり。伊勢の国くづが嵐といふ風が。真十文字に吹いたりけり。熊野なる新宮嵐は後ろに吹く。一方ならず四、五方より、揉み合はせたる風なれば、枯木は枝を下ろして吹き、木葉を洗ひ、草の根を返して、上ぐる浪はひとへに、煙の立つが如くなり。四方の風が一度に、ばつと揉み合はせて吹く時は、今はこの舟、叶ふべきやうあらずして、片腹を立てて、くるりくるりとめぐりけり。舟の内なる者どもが、声を揃へて一同に、「南無阿弥陀仏。」と申しけれども、舟底なる文覚は、何思うた気色もましまさず、空いびきしてこそ臥されけれ。
 守護の武士、楫取ども、この由を見るよりも、「あら、無道なあの聖や。たとへば便船なんどにて、乗つたりと申すとも、かかる風波の難ならば、御経読み、陀羅尼を満て、龍神納受の祈祷なんどもあるべきに、この沖にて我々が、死せんずる事どもは、あの文覚故とおぼゆるなり。舟底よりも引き出し、海へ入れん。」と言ふもあり。又、或る方の意見には、「私ならぬ文覚なれば、いかがはせむ。」と申すもあり。かやうに色々沙汰しけるを、聖は聞こし召さるれども、いよいよ聞かぬ体をして、空いびきしてこそ臥されけれ。
 かかりける所に、艫打つ波が余つて、文覚のつぶりの上を、ざつと打つてぞ通りける。その時文覚、腹を立て、臥したる所をかつぱと起き、舟の舳板に突つ立ち上がつて、大音上げて、「いかに、この沖を上人が通るを知らぬか、えい。さこそ流人と言ひながら、龍王だにも侮りて、この浪風を立つるは、大龍めが業か、小龍めが業か。雨風やめぬものならば、龍宮とは言ふまじきぞ。文覚、分け入つて。ためしを立つてくれうぞ、えい。龍王め、龍王め。」とぞ怒られける。守護の武士、楫取ども、この由を見るよりも、「さればこそ、文覚には早、物が憑いて、狂はするぞ。『龍王め。』と雑言せば、いかで浪風やむべきぞ。これにつけても我々が、死せんずる事どもは、疑ひあらじ。」と申しつつ、いよいよ念仏しけれども、聖はちつとも動転せず、「龍王め。」とぞ怒られける。文覚の御心、末頼もしくおぼえけり。
 かかりける所に、鬢づら左右に結うたる天女一人、浪の上にたたずみ、上人に向つて申しけるは、「我をば誰とか思し召す。龍宮の乙姫に、こひさい女とはみづからなり。聖人の、この浪の上を御通りあるを、拝み申さむそのために、津の国渡辺よりも、これまで付き添ひ奉り、暇を伺ひ申せども、舟の内に御寝あつて、起きさせ給ふ事もなし。『かくて、大嶋の御堂に上がらせ給ひては、いつの世にかは拝み申すべき。』と思ひ、この浪風を立て申す。聖人の御姿を拝み申す事の有り難さよ。今は十六の角落ち、成仏得脱、疑ひ無し。いざさらば、洪波の風、やめて参らせむ。」と、かき消すやうに失せければ、今まで荒れて恐ろしき、闇海の面、平々とし、追手の風が吹きければ、守護の武士、楫取ども、上人を礼し奉り、艪櫂、楫を立て直し、風に任せて吹かすれば、都を立つて文覚、伊豆の大嶋まで、五十五日に着き給ふに、食事をとどめ給ひしは、源氏を守る謂はれなり。かくて文覚、大嶋の観音堂に上がらせ給へば、送りの人々も御暇申し、都へこそ帰りけれ。
 ここに文覚の御弟子、覚文坊と申しておはせしが、一時も離れ申さねども、今度は流罪の事なれば、力及ばず一人都にとどまりて、嘆く事限りなし。かくてもあられぬ事なれば、御跡を尋ね申し、本道にかかり、夜を日に継いで下る程に、大嶋の観音堂に参り、上人に逢ひ奉り、喜ぶ事限りなし。かくて師弟の人々、観音堂に御坐ありけれども、辺りの里人、参り尊む人もなし。「何としてかは近づけむ。」と思し召し、相形の法を行はせ給ふ。
 かかりける処に、蛭が小嶋に御坐ある兵衛佐頼朝は、伝へ聞こし召されて、御傅に盛長を召されて、「いかに盛長、承れ。大嶋の観音堂へこそ、都より有験智徳の上人の御下りあつて、相形の法を行はせ給ふが、露程も違はぬ由を承る。いざや、参りて御占一つ、問ひ申さむ。」「尤も、しかるべし。」と、主従、御舟に召され、大嶋の観音堂に参り給ひ、後ろ堂の縁の板を、たうたうと踏み鳴らし給ふ。
 折節文覚は、初夜の勤めのそのために、高座に上がらせ給ひしが、後ろ堂の縁の板の鳴つたるを聞こし召し、御弟子の覚文坊を召して仰せけるは、「あら、不思議や。唯今、後ろ堂の縁の板の鳴つたる音を、聖は不審に思ひ、支干を取つて見てあれば、遠くは百日、近くは五十日の内に、日本国の主に成らせ給ふべき人の、足音と聞きたる事の不審さよ。」と、師弟子、御物語ありければ、頼朝、後ろ堂にて聞こし召し、「あら、めでたの占形や候。これに増したる事あらじ。いざ、戻らむ。」と仰せけり。盛長、承り、「かかる有験智徳の上人に逢ひ奉り、猶々行く末めでたかるべき事ども、御尋ねあれ。」と申す。頼朝、「げにも。」と思し召し、勤め一座の過ぐる程、後ろ堂に立ち休らはせ給ふ。
 かくて勤めも過ぎければ、「唯今のまれ人、こなたへ。」と仰せけり。頼朝、座敷に直らせ給ふ。文覚、御覧じて、「あら、不思議や。御身は誰人ぞ。童名は文殊子、元服し給ひてその後、右兵衛佐頼朝にてましますか。」「さん候。」と仰せけり。「御身の父義朝の、成れる果てを見たきか。」とありしかば。頼朝、聞こし召されて、「見たく候。」とも、「見たからず。」とも、中々申すに及はず候。「いでいで、さらば見せ申さむ。」とて、傍なる笈を引き寄せ、絡げ縄ふるふると引つ解いて、上段よりも錦七重に包みたる、しやれたる頭を取り出し、「これこそ御身の父の成れる果てよ。見給へよ。」とありしかば、頼朝、御覧じて、さらにまことと思さねば、さあらぬ体にもてなし、傍なる机の上にさし置き給ふ。
 文覚、御覧じて、「程ふりたる事なれば、定めて御疑ひあるべし。そのしるしを見せ申さむ。」とて、机なる頭に向ひ、「右兵衛佐頼朝こそ、これまで尋ね来り給へ。義朝、義朝。」と、二、三度、四、五度呼び給へば、しやれたる頭の御眼より御涙そそぎ、それかあらぬかと、御声かすかに聞こえければ、その時頼朝、机なる頭取り上げ、御袖の上に置き、高々とさし上げて、只生きたる人に物を宣ふ風情にて、「さても、西坂本までは御供申して候ひしが、暗さは暗し、雪は降る、下がり松の辺りにて、追ひ遅れ奉り、夜もほのぼのと明くるまで、龍華の山に迷ひしが、北近江草野の庄司に助けられ、彼が所に年を送り、春にも成らば御後を、尋ね申さむと思ひしに、尾張の国野間の内海にて、長田に討たれさせ給ひ、御首上り獄門に、懸かれる由を承る。せめては変はらせ給ふ御姿をなりとも、見参らせんと思ひ、草野の里を立ち出て、忍び都に上りけり。今津川原を通る時、弥平兵衛に生け捕られ、憂き六波羅に渡されて、六條河原にて既に死罪に及びしを、池の尼公に助けられ、この国へ移されて、二十余年の春秋を、送り迎へて過ぎ行けども、少しも父の御事を、忘れ申す事もなし。命の内に御姿を、見参らする嬉しさよ。あれは文殊か右兵衛佐かと、今一度仰せ候へ。」と、消え入るやうに泣き給ふ。文覚も覚文も、さて御供の盛長も、声を惜しまず泣きゐたり。
 文覚、この由御覧じて、「それは、五逆罪の人なれば、涙をかけぬ事にて候。それ、こなたへ。」と仰せあり。やがて元の如くに納め給ふ。文覚、仰せけるやうは、「この法師があらん程は、御心安く思し召せ。平家を調伏すべし。」とて、やがて十二ヶ條の巻物を、書きこそ記し給ひけれ。「そもそも十二ヶ條と申すは、第一に天地の祈祷。第二に国王の祈祷。第三に父母の祈祷。第四には源氏の祈祷。第五には源氏を守る衆生の祈祷。かくの如くの五ヶ條は、五体五行五節の、祝ひをかたどる所なり。今残る七ヶ條は、平家を失ひ滅ぼすべき、調伏の七不思議を、顕はす七つの数なりけり。これは御身の遥々と、来り給へるこの度の、御引出物。」とて参らせらる。頼朝、なのめに思し召し、三度頂き、守りに掛け、「万事は頼み奉る。さらば、御暇申す。」とて、又御舟に召されて、奈古屋の御所にぞ帰られける。これぞこの源氏の、繁昌の始めと聞こえけり。
 その後、文覚は、白木の輿をささせ、南の縁に舁き据ゑて、虚空に向つて仰せけり。「文覚こそ、只今上洛仕れ。輿舁きやある。」と仰せければ、「おつ。」と答へて程もなく、力者二人来り、御輿を舁き、虚空へ上がると見えしかば、刹那が間に王城の、あう、祇園林に着き給ふ。昼は人目を憚れば、夜に入れば文覚、四條の町へ立ち出、数の供物を買ひ集め、祇園林のその中に、三重に壇を築き、七重に棚を結ひ、百八十本の幣串を切り立て、数の人形を作つて、平家の宗徒の雲客の、名字名乗を書き記し、調伏の法を行はる。三七日に満ずる時、上段中段下段の、百八十本の幣串が、一度にばつと乱れ合ひ、平家の宗徒の雲客の、御首切れて明王の、利剣に立つと見えしかば、「一法は成就したり。」とて、壇を破つて出給ふ。さてこそ寿永の春の頃、平家、都を落とされ、終に戦に勝たずして、滅び果てさせ給ひしは、文覚の憤り、強き故とぞ聞こえける。

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