木曽願書
(大頭左兵衛本)
ここに信濃の国の住人、木曽冠者義仲は、平家を攻めむそのために、五万余騎を率し、信濃の国をば打つ立つて、越後の国府に着き給ひ、木曽、宣ひけるやうは、「平家、大勢にてある間、越中の広みへ出るならば、定めて駆け合ひの合戦あるべし。但し、駆け合ひの合戦は、勢の多少によるべからず。いつも我が戦の嘉例なれば、勢を七手に分かち、方々よりも向ふべし。」と、まづ叔父の十郎蔵人行家に、一万余騎を相添へ、志保の手へ廻し、搦手へこそ遣はされけれ。残る四万余騎を、手々に分かち、楯の六郎親忠に、七千余騎を相従へ、北黒坂へ向けられけり。仁科、高梨、山田の次郎、これも七千余騎にて、南黒坂へ遣はされけり。樋口の次郎兼光、五千余騎にて倶利伽羅の、堂の後ろへ廻されけり。根井小弥太五千余騎、松長のぐみの木林、柳原に引き隠す。今井の四郎兼平。六千余騎を相従へ、鷲の嶋を打ち渡り、日の宮林に陣を取る。木曽殿一万余騎にて、倶利伽羅の北の外れ、小矢部の渡りをし、羽丹生の森に陣を取る。
木曽殿の謀り事に、「旗差を先に立てよ。」とて、旗差を先にぞ立てられける。五月十一日の巳の刻ばかりに、黒坂の峠へ駒を駆け上げ、白旗三十流ればかり、一度にさつと打つ立てたり。平家も加賀を打つ立つて、砺波山に打ち上がり、源氏の勢を御覧じて、「あら、おびただしの大勢や。ここは山も険阻にて、谷も深うして、搦手左右なくよも廻さじ。馬の草飼、水便どもに、しかるべき所なれば、まづまづ陣を取れや。」とて、大勢ざつと下り立つて、あう、山路に陣を取つたりけり。
木曽は、八幡の社領、羽丹生の森に陣を取り、四方をきつと見渡しければ、北の外れにあたりつつ、夏山や峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、片削造りの社壇あり。前に鳥居ぞ立ちにける。里の人を召されて、「あれに御立ちましますは、何の宮、いかなる神を崇め申すぞ。いかに、いかに。」と問ひ給へば、「八幡大菩薩を崇め奉る。当国の新八幡宮、羽丹生八幡と申すなり。」木曽殿、なのめならずに御喜びあつて、手書に覚明を召され、「いかに覚明。我、幸ひに当国の、新八幡の御宝前に参る事、今度の戦に疑ひなく勝ちぬとおぼゆるなり。一つは後代のため、又は当座の祈りのために、願書を一筆書きて、捧げむと思ふはいかに、覚明。」
覚明、承つて、「この儀、尤もしかるべう候。」とて、箙の方立より小硯を取り出し、畳紙押し開き、願書を書かんと仕る。覚明がその日の装束は、褐の直垂に伏縄目の鎧を着、黒つ羽の征矢負うて、塗籠籐の弓脇挟んで、木曽殿の御前に膝まづいて、これを書く。「あつぱれ文武二道の、さて達者かな。」と褒められたり。かの覚明、いまだ南都にありし時、高倉の宮、三井寺を頼み、行幸ならせ給ふ。三井寺、難なく頼まれ申し、南都へ牒状遣さる。南都の衆徒、僉議あつて、返牒をかの信救に書かせられけるに、清盛を、「平氏の糟糠、武家の塵芥。」と書いて、その名を得たる名人なれば、いかでか書きは損ずべき。
その願書に曰く、「帰命頂礼。八幡大菩薩は、日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。宝祚を守らむがため、蒼生を利せむがために、三身の金容を顕はし、三所の権扉を押し開き給へり。ここに、頃年よりこの方、平相国といふ者あつて、四海を我がままとし、万民を悩乱せしむ。これ、仏法の冦、王法の敵なり。義仲、いやしくも弓馬の家に生まれ、わづかに箕裘の塵を継ぐ。ひそかにかの暴悪を見るに、思量、顧みるにあたはず、運を天道に任せ、身を国家に投ぐ。試みに義兵を起こさむと欲する刻、兇徒を退けむと、闘戦、両家の陣を取る。士卒いまだ合はせずといへど、一致の勇みを得、今心悦と守る所に、今一陣に於いて旗を上げ、戦場にして忽ちに、三所和光の社壇を拝す。機感の純熟、既に明らかなり。兇徒誅戮、疑ひ無しや。歓喜、涙こぼれ、渇仰、肝に染む。
「なかんづく、曽祖父前陸奥守義家朝臣、身を宗廟の氏族に帰服して、名を八幡太郎と号せしよりこの方、その門葉たる者、帰敬せずといふ事なし。義仲、その後胤として、頭を傾けて年久し。今この大功を起こす事は、たとへば嬰児の貝を以て巨海を量り、蟷螂、斧を怒らかして、隆車に向かふが如し。しかりといへど、君のため、国のために、これを起こす。身のため、家のためにして、これを起こさず。心ざしの至り、心信、空にあり。頼もしきかなや、喜ばしきかなや。伏して願はくは、冥顕、威を加へ、霊神、力を合はせ、勝つ事を一時に決し、冦を四方へ退き給へ。しからば則ち、丹祈冥慮に叶ひ、宝剣、加護を成すべくは、一つの瑞相を見せしめ給へ。寿永二年五月十一日、源義仲。敬白。」と書きたりし。かの覚明が筆勢、褒めぬ人こそなかりけれ。
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