敦盛
(大頭左兵衛本)
そもそもこの度平家、一の谷の合戦に、御一門、侍大将、惣じて以上十六人の組足のその中に、物の哀れをとどめしは、相国の御弟経盛の御子息、無官の太夫敦盛にて、物の哀れをとどめたり。その日の御装束、いつにすぐれて華やかなり。梅の匂ひの肌寄の優なるに、唐紅を召され、練貫に色々の糸を以て、秋の野に草尽くし縫うたる直垂に、弓手の手蓋、両面の臑当、紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢、村滋籐の弓、連銭葦毛なる駒に、梨地蒔白覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召され、召されたる御馬、鎧の毛に至るまで、げにゆゆしくぞ見えられける。
御一門と同じく、主上の御供を召され、浜へ下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を、内裏に忘れさせ給ひ、捨てても御出あるならば、さまでの事はあるまじきを、若上臈の悲しさは、かつうはこの笛を忘れたらんずる事を、一門の名折と思し召し、取りに帰らせ給ひて、かなたこなたの時刻に早、御一門の御座舟を、遥かの沖へ押し出す。あら、いたはしや、敦盛は、塩屋の端を心ざし、駒に任せて落ちさせ給ふ。
かかりける所に、武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、今度、一の谷の先陣とは申せども、させる高名を極めず、無念、類はなかりけり。「あつぱれ、ここ元を、よからん敵が通れかし。押し並べてむずと組んで、分捕りせばや。」と思ひ、渚に沿うて下りしが、敦盛を見参らせ、なのめならず喜うで、駒の手綱うつ据ゑ、大音上げて申す。「あれに落ちさせ給ふは、平家方に於いては、よき大将と見籠め申して候。引つ返し、御勝負候へ。かく申す兵を、いかなる者と思し召す。武蔵の国の住人に、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、敵に於いてはよき敵候ぞ。まさなくも敵に、鎧の総角、逆板を、見せさせ給ふものかな。いかに、いかに。」と追つかけ申す。あら、いたはしや、敦盛。熊谷と聞こし召され、逃れがたく思し召しけれども、駒に任せて落ちさせ給ふ。
かかりける所に、遥かの沖を見給へば、御座舟、間近く浮かんであり。「あの舟を招き寄せ、乗らうずものを。」と思し召し、腰よりも紅に日出したる扇を抜き、はらりと開かせ給ひて、沖なる舟を目にかけて、ひらりひらりと招かるる。船中の人々に、人しもこそ多けれ、門脇殿は御覧じて、「母衣懸け武者の舟招くは、左馬の頭行盛か、無官の太夫敦盛か。あれを見よ。」との御諚なり。悪七兵衛承り、「いづくに候。」と申して、舟梁に突つ立ち上がり、長刀を杖につき、兜を脱いできつと見て、「いたはしの御事や。何として御座舟に召し遅れさせ給ひけむ。経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて、渡らせ給ひ候ぞや。召されたる御鎧、御馬の毛に至るまで、紛ふ所はましまさず。いたはしさよ。」と申しけり。
門脇殿は聞こし召し、「敦盛ならばこの舟を、押し寄せて助けよ。」水手、楫取承り、艪櫂、楫を立て直し、舟を渚へ寄せむとす。この程二、三日、吹きしほれたる北風の、名残の浪は今日も立つ。風は木を折つて、浪は恒沙の如くなり。白浪、船枻を洗ひ、砂を天に上ぐれば、只、雪の山の如くなり。小船こそおのづから、弓手へも馬手へも、思ふさまには扱はるれ。殊にすぐれたる大船に、大勢は召されたり。畳む浪に堰かれつつ、次第次第にいづれとも、磯へ寄るべきやうは無し。
敦盛、この由を御覧じて、「いやいや、この馬を泳がせて、あの舟に乗らうずものを。」と思し召し、駒の手綱かい繰つて、海上にうち出、浮きぬ沈みぬ泳がせらるる。いたはしや、敦盛。老武者にてましまさば、三頭に乗り下がつて、時々、声を立て給はば、御馬は逸物なり、沖の御座舟に、難なく馬は着くべきに、若武者の悲しさは、「馬に離れて叶はじ。」と、思し召されける間、前嵩に乗つかかつて、左右の鐙を強く踏み、手綱にすがり給ひて、浮きぬ沈みぬ泳がせらるる。馬、逸物とは申せども、畳む浪に堰かれつつ、泳ぎかねてぞ見えにける。
熊谷、この由見参らせ、「まさなの平家や。沖の御座舟は、遥かに程を隔てつつ、しかも浪風荒うして、いかでか叶はせ給ふべき。引つ返し、御勝負あれ。さなきものならば、中差を参らせむ。」と、弓と矢をうちつがつて、そぞろ引いてかかりけり。敦盛、御覧じて、「中々、錆矢に射当てられ、一門の名折。」と思し召し、駒の手綱を引つ返して、遠浅になりしかば、水鞠ばつと蹴させつつ、染羽の鏑打つつがひ、かうこそ詠じ給ひけれ。
梓弓矢をさしはげて引く時は返す事をば知るかそも君
熊谷も心ある弓取にて、「あつ。」と思ひ、左右の鐙蹴放つて、返歌と思しくて、かくばかり。
いたつきの早外れむと思ひしにやと言ふ声に立ちぞとどまる
かやうに詠じて、待ちかけ申す。
さる間、敦盛、弓と矢をからりと捨て、御佩刀引ん抜いて、「受けてみよ。」とて打たれたり。熊谷、さらりと受け流し、取つて直してちやうど打つ。二打ち三打ち、ちやうちやうと打ち合はせ、互に勝負見えざれば、「寄れ、組まむ。」「尤も。」とて、互に打ち物からりと捨て、鎧の袖を引つ違へ、むずと組んで二人が、両馬のあひにどうど落つる。あら、いたはしや、敦盛。心は猛く勇ませ給へども、老武者の熊谷にて、物の数ともせざりけり。易々と取つて押さへ、兜ちぎつてからりと捨て、腰の刀引ん抜いて、首を取らむとしたりしが、余りに手弱く思ひ申し、さしうつぶいて相好を見奉れば、薄化粧に鉄漿黒く、眉太う掃かせ、さもやごとなき殿上人の、年齢ならば十四、五と見えさせ給ひたり。熊谷、余りのいたはしさに、少しくつろげ申し、「さも候へ。上臈は、平家方に於いては、いかなる人の公達にて御座候ぞ。御名字を御名乗り候へ。」
あら、いたはしや、敦盛。老武者の熊谷に組み敷かれさせ給ひ、よに苦しげなる息を継ぎ、「げにや、『熊谷は、文武二道の名人。』とこそ聞きつるに、何とて合戦に、法なき事をば申すぞ。我等は天下の朝臣とし、雲客の座敷に連なつて、詩歌管絃に長じたりし身なりしかども、この二、三ヶ年、一門の運尽き、帝都をあこがれ出しよりこの方、武士の勇める法をば、あらあら知つて候。それ人の名乗るといふは、互の陣に群がつて、戦乱れの折から、矢なき箙を腰に付け、鍔なき太刀を抜き持つて、『これは、そんでうその国の何がし。誰がし。』と名乗つて、打ち物の勝負を決し、又、組んで勝負を決するとこそ聞きつるに、我は敵に押さへられ、下より名乗る法とは、今こそ聞いて候へ。あう。心得たり、熊谷。名字を名乗らせ首を取つて、汝か主の義経に見せむためな。よしよし、それは、世には隠れもあるまじきぞ。只、某が首を取つて、汝が主の義経に見せよ。見知る事もあるべし。それが見知らぬものならば、蒲の冠者に見せて問へ。蒲の冠者が見知らずは、この度平家の生け捕りの、いか程多くあるべきに、引き向けて見せて問へ。それが見知らぬものならば、『名もなき者の首ぞ。』と思ひて、叢に捨て置けよ。捨てての後は、用もなし、熊谷。」とこそ仰せけれ。
熊谷、承つて、「さては上臈は、武士の勇める法をば、詳しく知ろし召されぬや。世に物憂きは、我等にて候。君の御意に従つて、身を助けむとすれば、親と争ひ子と戦ひ、はからざる罪をのみ作るは、武士の習ひなり。『花の元の半日の客、月の前の一夜の友、清風朗月、飛花落葉の戯れも、今生ならぬ機縁。』と承る。この度の合戦に、人しもこそ多けれ、熊谷が参り合ふ事を、『先世の事。』と思し召し、御名乗り候へ。御首を賜はつて、只、奉公のその忠に、後世を弔ひ申すべし。」敦盛は聞こし召し、「『名乗らじもの。』と思へども、後世を弔はんず嬉しきに、さらば名乗りて聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。忝くも浄海の、御舎弟にておはします、門脇の経盛の三男に、いまだ無官は仮名にて、太夫敦盛、生年は十六歳。戦はこれが初めなり。さのみに物な思はせそ。早、首取れや、熊谷。」
熊谷、承つて、「さては上臈は、桓武の末にて御座ありけるや。何、御年は十六歳。何がしが嫡子の小次郎、生年十六歳に罷り成りて候が、さては御同年に参つて御座ありけるや。か程になき小次郎、見目悪く色黒く、情けも知らぬ東夷と思へども、我が子と思へば不憫なり。あら、無残や、直家。今朝、一の谷の大手にて、敵まれいが放す矢を、弓手の腕に受け止め、何がしに向かつて、『矢抜いて賜べ。』と申せしを、『痛手か、薄手かと問はばや。』と思ひしが、『熊谷程の弓取が、敵味方の目の前にて、問ふべきか。』と思ひ、はつたと睨んで、『あら、言ひ甲斐なの直家や。その手が大事ならば、そこにて腹を切れ。又、薄手にてあるならば、敵と会うて討死をせよ。味方の陣を枕とし、私の党の名ばし下すな。』と言うてあれば、『誠ぞ。』と思ひ、何がしが方を名残惜しげに一目見、敵の中へ駆け入つてより後は、その行方も存ぜず。さても熊谷がつれなく命長らへ、武蔵の国に下り、直家が母に会ひて、『討たれたり。』と言ふならば、甘露の母が嘆くべし。経盛とやらんも、花のやうなる若君を、渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給ふらむ。経盛の御愁嘆、さて直実が思ひをば、物によくよく譬ふれば、流水同じ水なれど、淵瀬の変はる如くなり。」
熊谷、余りのいたはしさに、又さしうつぶいて御顔を見奉れば、嬋娟たる両鬢は、秋の蝉の羽にたぐへ、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ。業平の古、交野の野辺の狩衣、袖うち払ふ雪の下、翠黛紅顔、錦繍のよそほひを、譬へば絵には写すとも、この上臈の御姿を、筆にもいかで尽くすべき。熊谷、心に案じけるは、「いや、この君の御首を賜はつて、何がし、恩賞に預かりてあればとて、千年を保ち、万年の齢かや。末代の物語に、この君を助けばや。」と思ひ、「なう、いかに、敦盛。平家方にて仰せらるべき事は、『武蔵の熊谷と申す者と、浪打ち際にて、組みは組んでありつれども、我が子の直家に思ひ替へ、助け申し候。』と、御物語候へ。」と、取つて引つ立て奉り、鎧についたる塵うち払ひ、馬に抱き乗せ奉り、直実も共に馬に乗り、西を指して五町ばかり行き過ぎ、後ろをきつと見てあれば、近江源氏の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結の旗差させ、五百騎ばかりで追つかくる。
弓手を見てあれば、成田、平山控へたり。馬手の脇には土肥殿、七騎で追つかくる。上の山には九郎御曹司、白旗を差させ、御近習にとつては武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として、声々に申すやう、「武蔵の熊谷は、敵と組んづるが、既に助くるは、二心とおぼえたり。二心あるならば、熊谷共に討ち取れ。」と、「我も我も。」と追つかくる。この君のありさまを、物によくよく譬ふれば、籠の内の鳥とかや、網代の氷魚の如くにて、洩りて出づべきやうは無し。「人手にかけ申さむより、直実が手にかけ、後世を某、弔はばや。」と思ひて、又むずと組んでどうど落ち、いたはしや、御首を、水もたまらずかき落とし、目より高く差し上げ、鬼のやうなる熊谷も、東西を知らで泣きゐたり。
熊谷、涙をとどめ、御死骸をかなたこなたへ、押し動かいて見てあれば、鎧の引合に漢竹の横笛、紫檀の家に篳篥添へて挿されたり。又、馬手の脇を見てあれば、巻物一巻あり。「何なるらん。」と思ひ、急ぎ開いて見奉るに、あら、いたはしや、敦盛の、都出の言の葉を、くれぐれとあそばしたり。この君、都に御座の時、按察使の大納言資賢の卿の姫君、十三に成らせ給ひしが、天下一の美人にてまします。仁和寺御室の御所にて、月次の管絃のありし時、敦盛は笛の役、同じ楽にて琴弾き給ひし御姿を、一目見しより恋となつて、歌に詠み、文に書きこさる。その文、数の重なりて、逢瀬の仲と成り給ふ。中三日と申すに、平家、帝都の花洛を去つて、西海の波濤に赴き給ふ。あら、いたはしや、敦盛。御身は津の国一の谷に、御坐ありとは申せども、御心はさながら都へのみぞ通はれける。
「思し召し出されたる時に、作られけるよ。」と思しくて、四季の帳をぞ書かれける。「まづ青陽の朝には、垣根木伝ふ鴬の、野辺に生めく忍び音や。野径の霞あらはれて、外面の花もいかばかり、重ね桜に八重桜。九夏三伏の夏の天にも成りぬれば、藤浪厭ふかほととぎす。夜々の蚊遣り火、下燃えて、忍ぶる恋の心する。黄菊紫蘭の秋にも成りぬれば、尾上の鹿、龍田の紅葉。枕にすだくきりぎりす、聞かでや萩の咲きぬらん。玄冬素雪の冬の暮にも成りぬれば、谷の小川も通ひ路も、皆白妙に四方なると、いへども消えて跡も無し。名残惜しき故郷の、木々の梢を見捨てつつ、今は又一の谷の、苔路の下に埋もるる、経盛の末の子の、無官の太夫敦盛。」と、書きとどめてぞ置かれける。
かれを見、これを見奉るに、いとど涙は堰きあへず。御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物、供に持たせ、大将の御前に参り、この由、「かく。」と申しければ、大将、御覧じて、「あら、不思議や。この笛は、何がし見知る所の候。一とせ、高倉の宮、御謀叛を企ての時、天下に小枝、蝉折とて、二管の笛あり。蝉折をば三井寺にて、弥勒に廻向し給へり。小枝をば御最後まで、持たせ給ふ由承るが、水無瀬光明山にて討たれさせ給ひし時、この笛、平家の手に渡り、一門のその中に、笛に器量を召されしに、『弱冠なれども敦盛は、笛に器量の仁なり。』とて、下されけると承る。今朝、一の谷の内裏役所にて、笛の遠音の聞こえしは、この人の吹きけるか。」とて、大将、涙を流させ給ひければ、知るも知らぬも押しなべて、皆涙をぞ流されける。「敦盛は名大将。熊谷、いしくも仕つたり。この度の勧賞には、武蔵の国長井の庄を取らするぞ。急ぎ罷り下れ。」との御諚なり。
熊谷が郎等ども、「所知入りせむ。」と喜ぶ所に、熊谷、何とか思ひけむ、涙の暇より、かくばかり。
人と成り人と成らばやとぞ思ふさらずは終に墨染の袖
かやうに詠じ、御前を罷り立ち、「何として敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄の通ふ所に、捨て置き申すべき。送り申してあればとて、よも罪科には行はれじ。いやいや、送り申さばや。」と思ひ、塩屋の端へ下り、小船一艘拵へ、侍一人、雑色二人三人申し付け、状を書き認め、八嶋の磯へぞ送られける。
さても平家は、元暦元年二月七日に一の谷を落ち、浦伝ひ嶋伝ひして、十三日の早朝に、八嶋の磯に着く。熊谷が送りの舟も、同じ日、八嶋の磯に着く。敵味方の事なれば、その間遥かに艪櫂をとどめ、大音上げて申す。「そもそも源氏方よりも、熊谷が私の使に罷り向かつて候。門脇殿の御内なる、伊賀の平内左衛門殿に、申したき子細の候。」と、高らかに呼ばはる。あら、いたはしや、平家は一の谷を落ち、海路遥かに落ち延びたれば、「左右なう源氏の勢のかかるべし。」とも思し召し寄らず。只この程の朦気に、浪枕楫枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ松浦舟、こがれて物や思ふらん、心細く思せしに、「源氏の舟よ。」と聞こし召し、「我先に我先に。」と、艪櫂を速め落ち行けども、「東国の源氏に会はむ。」と言へる平家無し。
大臣殿、御覧じて、「不覚なり、方々。『世は澆季に及んで、時、末法に帰す。』と言ふ。譬へば異国の樊噲が、渡つて乗つたりとも、あれ程の小船に何程の事のあるべきぞ。誰かある。行き向かつて聞いて参れ。」とありし時、平内左衛門承つて、「存ずる道の候。聞いて参り候はん。」と、屋形の内へつつと入つて、出で立つその日の装束は、華やかにこそ見えにけれ。肌には白き帷子、皆白折つて引つ違へ、褐の鎧直垂の、四つの括り緒ゆるゆると寄せさせ、楊梅桃李の左右の籠手、白檀磨きの臑当、熊の皮の揉み足袋、白銀にて縁金渡し、足口高に踏ん込うたり。獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、綿噛掴んで引つ立て、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通し、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打ち刀を、十文字に差すままに、三尺八寸候ひける、赤胴作り太刀佩いて、梨打烏帽子に鉢巻し、白柄の長刀を杖につき、我に劣らぬ郎等七、八人相具し、端舟下ろし、うち乗り、面に楯をしとませ、さざめかいて押し寄する。樊噲が勢ひも、あう、かくやと思ひ知られてあり。
送りの舟に押し向かつて、大音上げて申す。「そもそも源氏方より、熊谷殿の私の使とは、何事の子細ぞや。」送りの者、申す。「さん候。敦盛を、熊谷が手にかけ申す。余りいたはしく思ひ申すによつて、御死骸、色々の武具、又は進上を添へて、これまで送り申して候。急ぎ御座舟に御移しあれ。」と申す。元国、聞いて、「あら、不思議や。『敦盛は、御一門の御舟に召され、阿波の鳴門にまします。』と、承り及びて候。やはか討たれ給ふべき。もし偽りにて候らん。」送りの者、申す。「御不審は理。まこと偽りをば、只船中を御覧ぜよ。」と申す。元国、聞いて、「げにげに、これは言はれたり。」とて、送りの舟に我が舟を押し寄せ、長刀を杖につき、送りの舟をさしうつぶいて見てありければ、げにと、色々の縫ひ物したる直垂に、敦盛の御死骸と思しきを、押し包みてぞ置きにける。紫裾濃の御着背長、金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢、村滋籐の弓もあり。紛ふ所はましまさず。
元国、余りの悲しさに、長刀をからりと捨て、送りの舟に乗り移り、御死骸に抱き付き、泣けども更に涙無し。叫べども声は出ざりけり。ややありて元国は、涙を流し申すやう、「いたはしや。この君の、一の谷を御出の時、この着背長を奉る。おとなしやかに敦盛の、いつしか、『御一門、世が世にましまして、四海に風の治まりつつ、元国に、所知しらせ見るとだに思ひなば、いかばかり嬉しかるべき。』と、仰せられしその時は、元国が嬉しさを、何に譬へむ方も無し。まことの時には動転し、召されざる敦盛を、『一門の御舟に召されつつ、阿波の鳴門にまします。』と、申したる元国が、心の内の不覚さよ。今一度、『元国か。』と、仰せ出され候へ。」とて、消え入るやうに泣きければ、送りの者も供人も、『げに理や、道理。』とて、皆涙をぞ流しける。
送りの者、申す。「これは、使の身にて候。急ぎ御死骸を、御坐舟に御移しあれ。」と申す。元国、聞いて、「げにげに、思ひに忘じ、思ひ忘れ候。」とて、敦盛の御死骸を、我が舟に移し申す。大船に漕ぎ寄せて、この由、「かく。」と申しければ、門脇殿も経盛も、「何、敦盛が討たれたると言ふか。」「さん候。」と申す。「あら、不思議や。敦盛は、一門の舟に乗り、阿波の鳴門にある由を、風の便りに聞きし程に、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷が手にかかり、さては討たれてありけるか。」と、涙ながらに出給ふ。女房達にとりては、女院を始め奉り、宗徒の女官百六十人、裳袴のそばを取り、皆舟端に立ち出て、御死骸に抱き付き、「これは夢かうつつか。」と、一度に、「わつ。」と叫ばれしを、物によくよく譬ふれば、これやこの釈尊の、御入滅の二月や、十大御弟子、十六羅漢、五十二類に至るまで、別れの道の御嘆き、かくやと思ひ知られたり。
ややありて父経盛、落つる涙の暇よりも、「あら、無残や、敦盛。一の谷を出し時、故郷の方を見送り、心細げに立つたりしを、『勇めばや。』と思ひ、『あら、不覚なりとよ、敦盛よ。三台槐門の家を離れ、屍を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目を恥ぢよかし。』と言ひてあれば、さらぬ体にて渚まで下りしが、『笛を忘れて候。』とて、取りに帰りしその時、『共に帰らん。』と思ひつれども、敵味方に押し隔てられ、又二目とも見ざりしなり。情けある熊谷にて、形見、これまで送りたり。空しき死骸、この形見。今日は見つ、明日より後の恋しさを、誰に語りて慰まむ。なう、人々。」と宣ひつつ、悶え焦がれ給ひけり。平家方の人々は、今一しほの涙なり。
その後、熊谷が送りたる状を召し出し、「大将なればこの状を、義経ばし送られけるか。」使は是非を弁へず、只、「門脇殿。」とばかり申す。「とても、『伊賀の平内左衛門。』と、書きたる状にてある間、家長、文を仕れ。」「承り候。」とて、舟の船枻に膝まづき、状を賜はり差し上げ、高らかにこそ読うだりけれ。
「直実、謹しんで申す。不慮にこの君に参会し奉つし間、直に勝負を決せむと欲する刻、俄に怨敵の思ひに忘じ、かへつて武芸の勇み消え、あまつさへ守護を加へ奉る所に、多勢一度に競ひ懸かつて、東西にこれは居る。かれは多勢、これは無勢。樊噲、かへつて張良が芸を慎しむ。たまたま直実は、生を弓馬の家に生まれ、巧みを洛城に巡らし、命を同じうす。陣頭が夕、世々万々に及んで、自他我彼の面目を施せり。さてもこの度、悲しきかなや、この君と直実、深く逆縁を結び奉る所。嘆かしきかな、拙きかな、この悪縁を翻すものならば、長く生死の絆を離れ、一つ蓮の縁と成らんや。閑居の地所を占めしつつ、御菩提を懇ろに弔ひ申すべき事、まこと偽り、後聞隠れなく候。この趣を以て、御一門の御中へ御披露あるべく候。よつて恐惶謹言。元暦元年二月七日。武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実。進上。門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門尉殿。」と読うだりけり。
御一門雲客卿相、同音に、「あつ。」と感じ給ひ、「げにや、熊谷は、遠国にては、阿傍羅刹、夷などと伝へしが、情けは深かりけるぞや。文章の達者さよ。筆勢の美しさよ。か程優しき兵に、返状なくては叶ふまじい。」と、大臣殿の返状を、経盛の自筆にあそばして賜ぶ。使、文を賜はり、急ぎ一の谷に漕ぎ戻り、熊谷殿に見せ申す。熊谷、「いかにして、弓矢の冥加なくして、経盛の御筆を拝み申さむ。」と、三度頂き、開いて拝見仕る。その御書に曰く、
「敦盛が死骸、並びに遺物、賜はり畢んぬ。この度、花洛をうつ立つしよりこの方、何ぞ再び思ひ返す事のあらんや。盛んなる者の衰ふるは、無常の習ひ。会へる者に別るる事は、穢土の習ひ。釈尊、羅睺羅の存を愛し、楽天の一子の別れを悲しむにあらずや。いはむや凡夫をや。去むぬる七日に、うつ立つしよりこの方、燕来つて語らへど、その姿を見ず。帰雁、翼を連ね、空に音づれ通るといへど、その声を聞かず。されば、かの遺跡の聞かまほしきによつて、天に仰ぎ地に伏し、これを祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つ所によつて、七日が内にこれを見る。内には信心を致し、外には感涙袖を浸すによつて、生まれ来れるに会へり。喜悦の芳意なくしては、いかがその姿を再び見む。すこぶる須弥の頂低うして、滄海、かへつて浅し。進んでこれを報ぜむとすれば、過去遠々たり。退き応へむとすれば、未来永々たるものか。万端多しといへど、筆紙に尽くしがたし。これは、武蔵の熊谷の返し状。」とぞ読うだりける。
さる程に熊谷、よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。「『今月十六日に、讃岐の八嶋を攻めらるべし。』と聞いてあり。我も人も、憂き世に長らへて、かかる物憂き目にも又、直実や会はざらんめ。思へばこの世は、常の住みかにあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶怪し。金谷に花を詠じ、栄花は先立つて、無常の風に誘はるる。南楼の月をもて遊ぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりし次第ぞ。」と思ひ定め、急ぎ都に上りつつ、敦盛の御首を見れば、物憂さに獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙と成し申す。御骨を取り、首に掛け、「昨日までも今日までも、『人に弱気を見えじ。』と、力を添へし白真弓。今は何にかせむ。」とて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出て、東山黒谷に住み給ふ、法然上人を師匠と頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き替へ、蓮生坊と申す。花の袂を墨染の、十市の里のすみ衣、今きて見るぞ由なき。かく成る事も誰故、風には脆き露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はず。
かくて蓮生、黒谷に、念仏申してゐたりしが、「紀伊の国に御立ちある、高野山を拝み申さばや。」と思ひ、上人に御暇を申し、黒谷を又、夜を籠めて立ち出、都出の名所に東を眺むれば、誓願寺、今熊野、清水、八坂、長楽寺。かの清水と申すは、嵯峨の帝の御願所、すみともの造立、田村丸の御建立。大同二年に建てられ、よろづの仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。「敦盛の聖霊頓証菩提。」と廻向して、西を眺むれば、丹波に老いの山、下り口に谷の堂、峰の堂。北を返りて見送れば、内野を出て蓮台野、舟岡山の墓じるし、見るに涙も堰きあへず。南を眺むれば、東寺、西寺、四塚。年は行けども老いもせぬ、六田川原とうち眺め、山崎、宝寺。関戸の院をうち過ぎ、八幡の山を下向して、惟喬の親王の御狩せし、交野の原を通り、禁野の雉は子を思ふ、鵜殿に茂き籬垣の、宿を過ぐれは糸田の原。窪津の王子、伏し拝み、天王寺へぞ参らるる。天王寺と申すは、聖徳太子の御願なり。「七不思議のありさま、劫は経るとも尽きすまじ。亀井の水の流れの絶えぬぞ尊かりける。」と伏し拝み候ひ、天野へ参らるる。大明神と申すは、高野の鎮守でおはします。「御山に法師を授けて賜せ給へ。」と、懇ろに祈誓申し、早、高野山へ参らるる。
忝くも、高野山と申すは、帝城を去つて二百里。郷里を離れ、無人声。八葉の峰、八つの谷、峨々として岸高し。青嵐、梢を鳴らし、夕日の影のどかなり。相賀の寺より御影堂の谷。胎蔵界の大日、百八尊を表せり。さて又、大塔より奥の院へ。これも大日の三十七尊を表せり。金堂の本尊は、阿閦、宝生、弥陀、釈迦。これ又、大師の御作なり。大塔と申すは、南天の鉄塔を学んで、兜率天の摩尼殿をかたどり、十六丈の宝塔。上は千体の阿弥陀、中は千手の二十八部衆、下は薬師の十二神。「生々世々に際なく、衆生悪所の罪消え、来迎の三尊を拝むぞ尊かりける。」と伏し拝み候ひ、奥の院へぞ参りける。道のほとりの白骨は、砂をまくが如くなり。いよいよ念仏申し、奥の院へ参り、敦盛の御骨を籠め置き、蓮華谷の傍らに、知識院と申す庵室を結び、峰の花を手折り、閼伽の水をむすび、行ひ澄まし、蓮生、八十三と申すに、大往生を遂げにけり。
「悪に強ければ善にも強し。文武二道の名人。漢家は知らず。本朝に、かかる兵あらじ。」と、感ぜぬ人はなかりけり。
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