なすの与市
(大頭左兵衛本)
なすの与一助高は。大将の御前にゆみとりなをしかしこまる。判官御覧じて。御辺を是まてめす事は。別の儀にてもあらす。沖の平家がたよりも作物をいたしてあり。御辺は弓の上手ときく。ひとやいよとの御諚なり。与一謹而かしこまる。判官御覧して。あらやうやうしや仕れと仰けれは。重而辞退を申。あしかりなむと存知。与一申けるやうは。扇をいむする事はいとやすく候と御請を申。御前を罷立。馬引よせてうち乗。和田祖父児玉党。大勢ひかへておはします。陣の前を通る時。与一申けるやうは。それ物の面白きは。夏山や。青葉まじりの木の下に。ひわとこがらと鴬と。そむぢやう其木のえたに。いく声なくと目には見すして。声ばかりとむでにかけ。いのちもころさす羽もちらさすひきめかふらの。めはしらにおこふでとるぞ大事なる。あれ体にまのあたりにさしあらはれたる分のもの。与一冠者にてあらすとも。ゆみとつてひかむものかなめきはより射ちぎつて。海上の花とちらさん事いとやすく候と。からからとわらひけれとも。与一もやうゆうならされば心細さはかぎりなし。しほてむなかひのひたる程。駒海上にうちひて。沖をきつと見てあればあふきたてたる其間七八段ぎりと見ゆる。爰はとをしと存れば。しばらく陣をぞとつたりける。沖の平家三万六千余騎。月卿雲客相残らす。唯今出たるなしうち烏帽子の小男は。扇の射てか面白しとさゝめきわたつて見え給ふ。先一番にすゝむふね。女房達の御坐舟也。そつのすけ殿ふげむじとの。さらしな殿おば捨殿。じやうどうしの丹後のおつほね。あはの内侍にかつさのおつほねを先として上らふ女房百六十人下ともに二百八十余人が。まむまくをあけさせ。あつはれ時の見物かなとざゝめきわたつて見え給ふ。其沖を見てあれは先帝を始たてまつり。御一門にとつては。右大臣宗盛。御子の中将ときざね。四位少将ありもり蔵人の大夫業盛。修理大夫経盛。能登のかみのりつね。扨僧号にとつては。三井の僧都けむしむ。ぎやうめい坊のあしやり法性寺の執行能円。扨侍に取ては。越中の次郎兵衛かつさの。五郎兵衛悪七兵衛景清。ひだの三郎左衛門此人々を先として。諸国のじゆりやうけむひいし。かりむしやにいたるまで。あつはれ時の見物哉とさゝめきわたつて見え給ふ。去間与一は。くかをかへつて見てあれば大将をはしめ奉り。武州にちゝふとの。相州に和田殿。田代の冠者のふつら。川越の太郎重家。小山の判官。うつのみやの弥三郎ともつな。山なさとみを先として。源氏六千余騎が渚へさつとおり下て。いゝやあてむずらん。いゝやそむせむと。手にあせをにきつて。こゝをせむとゝおぼしめす。うしろはうりうおほはか。前はむれたかまつ。八くり八嶋もちかかりけり。比は元暦元年三月十八日の事成に。昨日吹たる西の風いまたなみこそしつまらね。ふねはうきゝの物なれば。風に任てたゝよふたり。能登のかみのはかりことに。けむじに恥辱をかゝせむため。くるりをかまへてたてたれは。浜風ははけしゝひらりくるりとまふたるは陸をまねくかことく也。与一か馬と申は。明六歳の野とりの駒。なみかせにたはふれて。あかつつおちつ此馬が手綱をうつてそくるひける。ふねもさしきになをりかね。扇やつほに定まらねは。乗たる馬もくるひけり。もつたるゆみにあせたつてあふあましつべうこぞおほえける。去間与一はうしほをむすひてうつとし。わうじやうの方をふしおかみ。南無やなすのゝ龍神氏神正八幡大𦬇。なみかせしつめてたひ給へときせいをふかく申。ふりあふぬき見てあれは。寔に氏神八幡の御かこにてや候ひける。風も少しづまつて今はかうと見ゆる。与一心におもふやう。女のたてたる分の物。中さしにている事は花見てえたをたをる風情とおもひ。上矢のかぶらをぬき出し。さつとつまよつて見てあれは。まちつと此矢羽ひろくし。浜風にふかれあしかりなむとおもひ。うしろわに乗。前輪にをしあて。腰の刀をするりとぬき。はしりはを二三度。さつさつとかいて捨けれは。源氏平家御覧して。誠のいてそよくするとほめぬ人こそなかりけり。其後与一鐙ふむばり鞍かさにつつたちあかり。大音あけてよははるやう。けむし六千余騎の中よりも。扇のいてにさゝれ申まかりむかつたしよくわんを。いか成者とおほしめす。下野の国の住人かな村の大夫に十八代の後胤。伊名の所司か子。なすの与一助高とて生年拾八歳に罷成。そもあふきと申は上下によつてしやべつの候。かみかかなめかいつくとやつほを承つて仕らんと申。大臣殿きこしめし。あつはれかうのものかな。扇ならはいつくにてもいさいたらんをかちとはおもはて。やつほをこふたるやさしさよ。じよのものはかなふましい。以前にあふきたてたるたまむし出て。や所をとり伝ていさせよとそ仰ける。かの玉むしか由来を委たつぬるに。もとは九国の住人花見の太夫がばつし。はぎやの八郎に京腹のいもうと。あさ名をばあふふのまひとめされしか。一とせ女院北山へ花見の御遊のありしとき。百首つらねて参らせあぐる。日本一番のときはにおとらぬひしむとて。四季に名をこそかへらるれ。春はあをやきいとさくら。夏はまたふちのはな。秋は七夕のあまの川瀬に関すへて。たえたえみゆるは瀧の水。ちかふていろの。ませはとて名を玉むしと付らるゝ。梅地の織紅梅。十二ひと重のきぬのつまをたかたかとおつとつて。ふなばりにつつたちあかつて。かれうひむがの声をあげ。あらいまめかしの射て殿や。日本はひろしと申せとも花の都にてとゞめたり。車は千里をかくるといへども。くさびをもつて本とせり。針をさけてはみつをい。かうかいさけてはまちをい。はさみ物にはくしを射。扇をたてゝはかなめを射るとは申せとも。かなめの辺はめつらしからず。くもての辺をあそはせと。袖かさしてたつたるは。かなおかゝ絵図に。うつすとも筆もいかてかをよふへき。与一此よし聞よりも。ことに大事の所を。やつほにさゝれつものかな。射んず物とおもひて。かぶらをうしほにうちひて。三人ばりに十三そく。取てからとうちつかひ。もとはずうらはずひとつになれときりきりとひきしほり。かつてつよにぞはなちける。精兵のいるやのくせとして。手もとにはならずしてにほひにほひに遠なりし。あふきのくもての辺をは。ひふつつと射きつたり。あふきはやうの物なれは。花のことくにさつとちる。かふらはいよいよとをなりし。大臣殿のめされたる。御座ふねのせかいのうちにし海上へさんふと入たりけり。平家三万六千余騎。ふなはたをうちたゝき。いたりやくかのけむし。あふいたりやしよくわんと。しはらくなりはしつまらす。大将は御覧して神妙なりとの御諚にてやかて御判を出さるゝ。去間与一はたくるくるとひむまいて。あはのなるとををしわたり岩やかせとをうち過。花の都に着しかば。関東に下つて頼朝にかくと申す。神妙也との御諚にてやがて御判をいださるゝ。ふたつの御判給り。一門のこらずひきつれ所知入とこそ聞えけれ。
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