景清 附 籠破
(大江本)

今度頼朝の御代を召れし由来をくわしく尋るに御舎弟九郎御曹司御意たけく渡らせ給ふ由来なりとそ聞へける斯て建久元年に君うへ上京ましまして二度の御上洛同南都のくやふをのべ給ふごふれいなれば父ふ殿先陳とこそ聞へける去間重忠本田次郎を召れいかに近常承れ今度も重忠が先陳を給はるなり都のみにかきらず五城内の者ともかとふぞく一を成と聞本田どの御諚なり近常承てわつはに取てはたれたれぞ片田の熊王ほうらい丸福田の万ざいを先としてわつはども人に赤地のにしきのひたゝれを着せ丸巻の太刀をかつかせて弓手の脇をそ通しける地白廿人に打ゑほしをきせ白柄の長刀かつがせて馬手の脇をそ通しける父ふ殿の御勢は七千余騎頼朝の御勢者拾万余騎とそ聞へける先陳も後陳も平安堀を御立あり南都ゑとてぞいそぎける東大寺四つの門は勇城長野間小山宇都の宮各堅給ふ其中にとつてもてかいの門こそ大事ありとて父ふ殿の四天王ほうしやうをあさける程の兵五百余騎にて堅めらる斯て南都苦養はまつ最中と聞へける其中に取わけて物の哀を留めしは平家の侍大将に悪七兵衛景清にて物の哀を留めたり哀世の中にひんほどつらき事あらししたしき人にはとふさかりうとき人にはいやしまれひんじやの家に生るゝほどつたなかりける事あらし承れば鎌倉殿南都の供養と聞て有法江の庭とは存れとも君の敵てましませば忍ひ都へ登りつゝ頼朝を一刀切申大臣殿のきやうやうにほうぜはやと思ひければ尾張のあつたを立出て忍ひ都へ登りけり清水坂の片原にあこおふと申て遊女の有けるにあさからず契りければかれが宿所に立寄て南都のやうをくはしくとふあこおふ承契る情のせつなさありの儘に語りける景清なのめに悦ふて急き南都へ下り人の心を内をも引見ばやと存れば出立様こそ面白けれもゑきにをひのはらまきを草摺なかにさつくときもちの衣を上に着て上帯しつかとしめたりけりちやうけんのけさを以てほふかむりを仕り大臣殿より給りたるあさ丸と云打刀を十文字にさすまゝにぬつたりしけいぢをあい皮にて緒を立つめばきにはくまゝにつくしみの長刀の四尺八寸有けるかぬけば玉ちるばかり成をさやをはきつとはついて弓手の脇にかいかふて父ふ殿のかためてまします手かいの門は景清はあふさらぬていにて通りける父ふ殿の御内成本田の次郎か是を見てあらけのふこそとかめければ如何成人そふそふ是は父ふ殿の堅めてまします手かいの門とは知らざるか夫よりもとれと云景清は聞よりもあつことなしと存れば長刀前に取直し近寄て小こへ立申様のふくるしうも候はん北陸道の片原にすまい仕るつゝいの浄明めいしゆんなれや通してたべとそ申ける幕の内成父ふ殿此由を聞し召し大幕つかんで打あけあら不思儀の事共や只今のなまりの声は北陸道の片原のなまりのこへと聞て有夫よりももとれといへ運命つきはてちつともたてつく物ならばはからへとの御定なりさ承り候へとて其勢は三百余騎大刀長刀の柄はつしおとまりあれとて追懸る景清は見るよりもあらはれぬると存つれははいたりしけいちを戸有所になげすて三百余騎の真中にて長刀のきつてにはこむ手なく手ひらく手石づきおかいつかんではらりはらりとないたりけりくつきやうの兵を三拾騎計まつしぐらに切ふせ残りの兵ともにいた手うす手追せて四方へはつとおつちらしきりの方をむすんで我身にさつと打かけて春日山につつと入世間の体を聞居たり景清心に思ふ様しよせん爰にて叶すば明日ははん若寺に御参りと聞て有山伏の姿をまなびねらはばやと思ひかきのすすかけしかまのときんまゆはつかに引こふてたけとひとしき有笈お取てかたに打懸いの目すがいたる大まさかりを打かつき峯入したる山伏達を廿人計ともないはん若寺の御前にて頼朝の御参りお今やおそしと待居たり去間重忠此由を御らんじて荒おびたゞしの山伏達や面々はとこ山伏と見なしたるそ重忠は奥山伏と見なしたり奥にとつても松嶋岩嶋平和泉あけすか岩屋そとのはま大峯なんとを行として磯につかれたる行人達と見なしたりさりなから先よりは九番跡よりも拾貳番めにいかにもせいはからたかになまめいたる客僧を誠の山伏と思ふとふかくおかくなよかたかたあれこそ昨日手かいの門にてのひけたいしゆのたぐいなれ只追つめからめ取て君の御目に懸申せ本田との御諚なり近常承て其勢は五百余騎太刀長刀のさやはつしおとまりあれとて追懸る景清は見るよりもあらわれぬると存れは懸たりし笈をある所にぬき捨あさ丸をするりと抜て五百余騎を打やぶり又きりの法をむすんて我身にざつと打かけ人より先に景清はしのびて京へ登りける彼景清かふるまいは只はんくわいもかくやらんあらむさんや景清今はせんほうつきはてゝ我身をだいて立たりしがいかにもして主君の敵を討はやと思ふ心の内こそ哀れ成れ爰に一つのたとへ有一年高倉の宮三井寺を頼みぎやうごうならせ給ふ三井寺なんなく頼み申南都へちやうしやうおこさる南都の大しゆせん義あつて返状をかのしんきやうにかゝせられけるに清盛を平氏のそふこふ武家のちんかいと書て送る其咎によつて真行か手をなんはせのふ給り一千余騎を卒し南都へ責て登りける南都の大衆達しんきやう壱人に頼れ申清盛を敵に請叶ふましいとせんきして心替りをし給いたりあら無さんや西しやう坊か頼申すたいしゆたちは心替りし給へは今はせんほふつきはてゝこつかい人のまなひをししんのうるしをかい取てつきめこたいにしつかとさすみのうら返しきるまゝにやぶれたる笠を首に懸ほそき杖をたよりとし南都をば立出てふたゝび都へ登りけり奈良坂やはん若寺の当りにて討手の勢にそ行あゐける日比は片をならべひざをくみしほふばい達間の当りを通れどもあれはいかにさいしやうかとめかくる人もなかりけり夫れも心かかふなれば鰐の口をのがれてきしんが門迄立出てなるみがたに下りつゝ医師を求て療治をし本の如くに平養なつて斯てさいしやう熊野にこそ新宮の十郎行家の御手につけ申し治正四年の夏の比あつたの宮の願書の時に西しやう坊とそ書たりける其後信野に下りつゝ木曽殿の御手につき申し北国戸山はにうの宮の願書の時にさいしやう坊とは書すして木曽の大夫角命とそ書たりけるあわれうるしのなかりせばさいしやう坊か命はあやうかりつる物そかしかく申景清もそれにすこしちかふましこつかい人のまなびをしてわらわばや思ひて四條の町へ立出てしんのうるしを売取てつきめこたいにしつかとさす夏のうるしの物うさは五体をしむるそたへかたきむざんや景清は我身を急度見てかくなりはつるも誰ゆへそ主君の為と思へばうらみとわ更に思われずいかに二そうじんつうの重忠とは申すとも彼景清かふるまいを見知らるびやうはなかりけりみのうら返し着るまゝにやふれたる笠をは首にかけほそき杖を便りとし清水坂の片原に百四五拾人直居たるこつかい人にましわりなふ人直々にこなたへも施行たへと時そいとゝむかしを恋衣恋衣袖は涙に口ぬべし去間重忠本田の次郎を召れかゝる法ゑの庭にはすいぜんしやくまと申て大事の事の候そあのやうなるこつかい人は四季のちやうしを背なり先春はきのへきのとにてそうぢやうにてあろふす夏はひのへひのとにておふしきにて有べし穐はかのへ辛にてひやうぢやうにてあろふす冬は水のへ水のとにてはん式にて有へし土用わ土のへ土のとにていちこつにてあろふず是に依ていしおんにやうにもそふおふひやうばんいつとつかい候今は秋にて候程にひやうぢやうにてあろふするか不思儀や只今施行たべとかふつるこへを聞もひやうぢやうなり弓手の眼はしんのぞふより通して其色墨く見ゆる馬手の眼はかんのぞふより通して其色青く見ゆるそふこくそふぢやうの形ちまさしく御身はこつかい人にてわなして平家の侍大将に悪七兵衛景清と見たは父ふがひか事か「斯とふたるか無念ならばこふ申す重忠か君に御いとまを申武蔵へ下りてあらん時大御所へ忍入めんろふするがきにてもねらい度はねらい候へ此重忠かあらんず程はふつつと叶ましいとまつ白にいわれ申あふはづかしと存れば打うつむゐてそ居たりける景清意に思ふ様あの重忠と申は我等か父のかつさの守を元服の親と頼ませ給ふと承り忠わ我等か家の忠しげは父ふの重にて父ふの畑山重忠と名乗らせ給ふと承るゑぼし親とゑぼし子わ七生迄の喜縁と承わつて候に情なくも重忠の一度見ゆるし給わん所は無念なり其儀にて有ならば迚も死す命を重忠に参り合とにもいかにもならばやと思ふ心のうちを先として上成みのをさつとぬき捨いつくにか指たりけんあさ丸をするりとぬひてみけんにさしかざしあふをとまりあれとておつかくる父ふ殿は御覧して心得たりとの給ひて四尺二寸のこうびら抜て渡りあふてそ見へられけるあやうかりつる所に御馬廻りの人々か一度にはらりもをり立て重忠をおしへたて奉り景清中に取込て火水になれともふたりけりちたひかげ清心はごうなり力は強し持たる刀は剣しんけいかじゆつたならふ手をくだいてそ切たりける馬に取て切所小口と小脇尾の上さんづりやうの毛からつらとからはなつかいおさつふと切て落す人に取て切処まつこふ小ひたい左右の小手ふりあをぬけば打かぶとほろ付ととふ中小手の板のはつれをはらりはらりとないたりけり馬人のきらいなく乗こへ乗こへさんさんに切てそ廻りけるくつきやうの其数あまた切とゝめ残りの兵ともにいたでうすておふせて四方へはつと追散し惣て景清かねろふ所はとことこと谷の堂に峯のどうおとはかつらき常盤の里南都にては東大寺今度は清水詣てまで一度ならす二度ならす三十七度にをよんで心を尽しきもをけし君をねらい申せともくわほふいみしくましまして父ふ殿にさとられ申前後にかなふ事もなし去間頼朝梶原を召ての御諚にはいかに梶原承れ頼朝世を取たりといへどもとりたるしるしもなし夫をいかにと申に彼景清と云者に爰かしこにてせばめられよにも口惜存るなりいかにもして彼者をちうじて捨よと仰ければ梶原承て御前の罷立てしろかつし板を其数余多取寄札にけつらせ筆にて物をそいわせける平家の侍大将悪七兵衛景清を討てもからめても六原とのに参らせたらんする輩にはけしやうはのそみたるべし景時判とかきとめて京白河の辻々札立て十日計はさしたる印もなかりけりかかりける所に清水坂の片原にあこおふと申女北野もふてをしけるか京白河の辻々に立たる札をよふて見るに九年つれたる我妻の悪七兵衛景清を討たらんと書て立てありあこおふ余りの悲しさに此札をぬすみ取鴨川かつら川へも流さばやとは思ひしか共中にて心を引返しまてしばし我心それ日本六十六ヶ国に平家の知行とて国の一ヶ国もなし平家一みのものとては妻の景清はかりなりつゝむとすると此事ついにはもれて討りやうす景清討れて其後に不慮に思をせんよりも九年つれたる情には二人の若のあるなれば此事敵に知せつゝ景清を討とらせ二人の若を世に立て跡の栄花にほこらんと思ひすましたあこおふか心の内こそおそろしき此札をくわいちうし六原殿に参り札の面に任せ参りてさむろふと申上る頼朝なのめに思召あこおふを召れくわしくとわせ給へばあこおふ承りさん候景清か行衛を人々存ぜんも理りにて侍ろふ此間は尾張のあつ田にさむらいしか平家の御代の御時よりも清水をしんこふ申月に一度は参り給ふ明日は十八日必自か宿所へ来り給ふべし本より大酒の事なれば酒をすゝむる物ならば前後を知らて伏べし其時自か参らふずるにて侍ふ大勢そつしおし寄景清を討取せ給ふ自からに所知をたへなふ我君と申す頼朝聞し召れてうれしうそうあこあふごせ討て所知あとふへしそれそれと仰ければ承ると申てしや金三拾両あこおふに下し給ふあこおふ給わりて清水坂へ帰りつゝ其日の暮を待たるは情のふこそ聞へけりあら無ざんや景清是とは夢にも知らすして明日十八日清水へ参らばやと思ひ尾州あつたを打立て四日ちの所なるを其日の暮程に清水坂の片原なるわが宿所に立寄て門ほとほととおとづるゝ内よりもたそと答るいやくるしふも候す景清成と申すあこおふ斜に悦て急き立出て門を開き景清を内へぞしやうじける二人の若ともは父をはるかに見なれねば父があたりに立寄てむつましけなる風情なりあこあふ泪を流す風情にてあらいたわしや景清平家の御代の御時そ悪七兵衛景清とて公家にも武家にもにくまれす一時詣てし給ふにも中げん小物花やかに馬くらに具足じんじやうにてさこそゆゝ敷おわせしにいつしか平家に過おくれせいき玉ほこやつれはて御ともものふて景清はさこそ物浮をぼすべきかまへ置たる事なれば種々の肴を取出し景清に酒をぞしいたりける景清は見るよりもいとゝ敷子共はなみ居たりしやくに立たるは女房なりいづくに心か置るべきさしうけさしうけの呑程にさしもこうこうなる景清も敵の事をはつたとわすれ嬉ふそふあこおふごせ清水へは明日参ろふずるにて候いとま申てさらば迚あいの障子をさらりとあけれん中にうつりてとうの枕になみよりて前後も知らず伏たるはうんのきわめとぞ聞へけるあこおふなのめに悦て清水へは御代官にみつからか参らふずるにて侍ふとてうす衣取てかみにかけ門より外に出るとは見へしか清水へは参らすし急六原殿に参り此由かくと申上る頼朝なのめに思召更らば打立兵とて其勢は三百余騎はた一流れさゝせあこおふ先におつ立ておふ景水坂へぞ寄にけり比はいつなるらん八月は十七夜のさよ打更ての事成に月は出てくまもなししたの小草にいたる迄かくるゝ所はなかりけり去間あこおふごぜん形を見れは春の花姿を見れば秋の月みめもかたちも並なし落中一ばんの美人とは申せとも九年契りをこめたりし悪七兵衛を討せんとて大勢卒して寄たるはひとへに鬼神のことくなり三百余騎の兵を門のあたり築地の脇に隠し置我身は内へつつと入只今こそ下向申て侍ふおふ景清とそをこしける景清かつはとおどろきあさ丸をひさの上にどうと置あこおふをつくつくと見ていやいや御身は清水へと参らぬ人と見なしたり夫をいかにと申に日本六十六ヶ国に平家の知行とて国の一所もなし平家の一みの者とては某計也某か事を敵の方ゑ訴詔して景清を討とらせ二人の若共を世に立て跡の栄花にほこらんと思ふ共因果たちまちむくふてまつとう世には出ましきそあこおふ余りのふしぎさにいやさわない物をと申てかをに紅葉を引ちらし景清是を見て有事なちんしそ有事をちんすればもみちの色に見ゆるそさればげでんのりやうじおんぎやうにもなゝの子はなすとも女に心ゆるすなと申す縦の有程に空うたかかいに云たるそあこおふ御前いふこそおそかりけれ広縁におとり出築地のおふいに手をかけのひ上りて見てあればかしこへ廿騎三十騎甲の鉢をならべつゝ村雲立て扣けり内へはしり帰てにつことわらつて云様はいかにやあこおふごぜんわこせわさなしとちんすれ共ごづめんづあほうらせつかしやくをはやめてをそしをそしとせむるもいつかで是にはまつさるべき最期の別れいかゞせんやふ女房とこそよばわれけれあこおふ余りの悲しさに二人の若の手を引てあいの障子をはたと立れん中ふかく入にけり景清是を見てあらをかしのあこおふか振舞や縦ば鬼の大将八面大王か岩をたゝんて四十余丈に築地をつき黒金の門を立たりといふとも景清程の兵かなと一方打破らて置へきぞいわんや紙障子のひとへやぶらん事はやすけれ共日比の情とふざのゑしやく九年つれたる情にはごぜは心替とも景清は心かわるまし頓て言葉をかへらるゝいかに二人の若共よ母こそつらくとも今をかきりの事なれば父か顔を出て見よ若共と有りしかは無ざんや二人の若共は母の所を立はなれ父かひざになみよりて髪をなて父よ父よと計なり景清は御覧して己か母の心中程つたなかりける事あらし夫をいかにと申に何がしか事をば敵の方へそしやうして景清を討取せ二人の若を世に立て跡の栄花にほこらんと思とも因果忽むくふてまつとう世には出ましき斯あさましき心にて世にしも只は有まし又余の妻にもそふならは一つに是はけいしの中又は敵の子孫迚悪からふする度毎にじやけんの杖にて打時は父よ父よとよふならは草のかげにて景清が見んずることのむさんさよいかに聞候へ若共よ斯あさましき母にそわんよりしでさんづをなけきこしゑんまのちやうにて父をまてよと語りつゝ兄いやいしを引寄て弓手のひぢのかゝりを二刀かいしてをしふする弟のいや若か此由を見るよりもあらをそろしの父こせや我をはゆるさせ給へとて居たる所をつんと立さらば余所へも行かずしてころすべき父にすかりつく景清は御覧して何と申そいや若よころす父なうらみてころす父はころさずしてたすくる母かころすそ同しくは兄と打つれてゑんまの帳にて父をまてと語りつゝ心元を一と刀あつと計を最期にて兄弟の若共を三刀にかいしつゝ同し枕におし伏て刀をかしこへからりとすてつかれぬおしのゑいやこへうかれこひの風情にて我身をたいてたゝれたり景清心に思ふ様それ弓取の心をたけく持てわこふになるちつとゆるせばふかくになる只今爰許へ寄られたる人々の家名承て打死をきわめばやと思ひ只今爰許に寄れたる人々はとうかこう家か家名を承て討死を仕らんと大音上て申す寄手の人々是を聞江間の小四郎吉時御所の源太景末何も是に有りと声々によばわる景清聞てあふ江間殿と申は当君のこしうと御所の源太何もきらいはなし誠や平家の侍のこうおくの所を覚たり命のおしき時にこそなかいぐそくも同ふ候得又れいのあさ丸計てそうすわ参りそふと云まゝにさつとはしり寄門のくわんぬき取てかしこへなげすてゝ片戸をひらいて戸をまゑにあてそとなる敵は内へとひらりひらりと招けどそふのふ敵わ寄さりけりあゝまてば久敷に参そうと云まゝに三百余騎か真中にてひらりひらりと懸りしを物によくよくたとふれば玉ばんにたまらす龍か水を得雲をわけこくふへ上る如く也大勢の中にわつて入わりたて追廻してさんさんに切たりけり手元にすゝむ兵七八十騎切ふせ大勢へ手おわせ東西へはつとおつちらし走て門を丁と打てころしておいたりし若共にすがりつきばらりばらりとないて立たりけりかの景清か心中をばきせん上下をしなへてかんせぬ人はなかりけり。

上巻終

前頁  目次  次頁  校訂版