牢破り

 さる間、景清は、阿古王が居たりける簾中へ向かうて申すやう、「今宵、某、死なんと狂へども、敵の心が臆病にて、自体、兵衛は討たれぬなり。暇申して、さらば。」とて、天井に上がり、破風、関板を蹴破つて、家の棟につつ立ち上がり、軒続きの在家を十四、五間走つて、それよりも林の中へつつと入り、世間を暫く聞きければ、近づく敵もなかりけり。
 それよりも観音の御前に参り、心静かに祈念して、京中まで出けるが、「かかる騒々しき時の京住まひは無益。これより四国、西国へも落ち行かばや。」と思ひしが、「いやいや。かやうの時にこそ、人をも頼め、頼まるれ。又、舅の大宮司を頼み、尾州熱田へ下らばや。」と思ひ、都をば、夜半ばかりに立ち出て、賀茂川、白河うち渡り、祇園林の叢烏、浮かれ心かうばたまの、黒髪も分かで行く、別れ路留めよ逢坂の、関の明神伏し拝み、大津打出の浜千鳥、友呼ぶ声に夢覚めて、憂き身の旅を志賀の浦、浪寄せ返る海士小舟、唐崎の一つ松、類なき身を思ふにぞ、憂き身の上と思はれて、いとど涙も堰きあへず。
 瀬田の唐橋うち渡り、雲雀上がれる野路の宿、露もたまらぬ守山、面影見する鏡山、馬淵畷。惟喬の親王の、憂き世の中を厭ひて立て置かせ給ひたる武佐寺を伏し拝み、入りて久しき五條宿、年を積もるか老曽の森。河風寒き旅人は、小夜の眠りに夢覚めて、愛知川渡れば千鳥鳴く、小野の細道、摺針山。番場、醒ヶ井、柏原、今須、山中うち過ぎて、荒れて中々優しきも、不破の関屋の板庇、月洩れとてやまばらなる、垂井の宿をうち過ぎて、実のならば花も咲きなん杭瀬河。大熊河原の松風は、琴の音をや調ぶらん。墨俣、阿志賀、及びの橋。光あり玉の井の、黒田の宿をうち過ぎて、下津、萱津を過ぎしかば、尾張の国に聞こえたる、熱田の宮に参り、三十三度の礼拝を参らせて、つつ立ち上がつて景清は、東をきつと見てあれば、まだ横雲は引かざりけり。
 かくて大宮司の館にも着きしかば、門ほとほとと音づるる。内よりも、「誰そ。」と応ふる。「いや、苦しうも候はず。景清なり。」と申す。内よりも急ぎ立ち出、門の錠を引きければ、景清、内にぞ入りにける。これにも幼き二人の若の候ひければ、あら、無残や、景清。二人の若を左手右手の膝に置き、おくれの髪をかき撫でて、「今度某、都にて、汝等が兄弟のある故、女の心が憎きにより、害してこれまで下りたるぞ。不憫なるや、若ども。」とて、涙ぐみてぞ居たりける。
 あら、無残や、阿古王。さてのみやまむものならば、いしかるべき事どもを、又、六波羅殿に参り、「かの景清と申すは、色好みの男にて、みづからにも限らず、尾張の大宮司の三の姫に契りを籠め、これも十年に成ると承る。落つるとも、余の方へは行き候まじ。舅と妻子を頼み、尾張へ落ちてぞ候らん。急ぎ討手を御下しあれ。」と申す。頼朝、聞こしめされて、「あら、恐ろしの阿古王や。九年まで契りし者が、重々の訴訟する、心の内の憎さよ。自余の女の見懲り、聞き懲りのためにもあれ。あれ、計らへ。」との御諚なり。「承り候。」と申して、阿古王を取つて伏せ、雑車にうち乗せ、九重の内を渡し、後にはかの女を、賀茂と桂の落合、稲瀬が淵の深き所を尋ねて、ふし漬けにしたりけり。上下万民押しなめて、憎まぬ者はなかりけり。
 その後頼朝、梶原を召しての御諚には、「尾張への討手には、誰をか下すべし。」との御諚なり。梶原、承つて、「尾張への討手には、しかるべうも候はず。それをいかにと申すに、かの景清と申す者は、合戦に於いて、討たるる事の候はねば、まづ舅の大宮司を召し上され、牢舎させられ候て、後日の御沙汰に及ぶべき。」と申す。頼朝、「げにも。」と思し召し、やがて御状をあそばされ、大宮司の館につけ給ふ。大宮司、この御書開いて拝見仕り、いつよりもきらびやかに引き繕ひ、御上洛とぞ聞こえける。かくて六波羅の御所にも着きしかば、咎をば何とは知らねども、ここの辻、かしこの門の脇よりも、究竟の兵がひたひたと折り合ひて、いたはしや、大宮司を、手取り足取り綱懸けて、やがて牢舎と見えにけり。
 梶原、差し寄つて申しけるは、「何とて大宮司は、君朝敵の景清に御扶持候ぞ。景清を出され候へ。出されぬものならば、いたはしながら、大宮司の御命を賜はるべし。」と申す。大宮司、聞こし召されて、「さては、某が咎はなけれども、君朝敵の景清を扶持したる咎によつて、牢舎させられ候ぞや。さらば景清を呼び上せ、敵の手に渡さばや。」と思はれしが、「待て、暫し、我が心。『大宮司も心変はりをし、景清を敵の手に渡したる。』なんどと言はれんも恥づかしや。無残や、我が姫の恨みの程をいかがせん。『情けなの父御や。まさしくみづからが、二世まで兼ねし景清を、敵の手に渡しつつ、切らせ給へる。うたてや。』と、淵にも瀬にも身を沈めば、跡の嘆きをいかがせん。氷は水より生ずれども、水より氷は冷やかなり。孫は我が子の子なれども、子よりも孫は不憫なり。我が身を物に譬ふれば、小笹の上に置ける露、水の上に降る白雪。深山隠れの遅桜、木末の花は散り果てて、今、下枝に一房、誘ふ嵐を待つ風情。我が子と孫の不憫なれば、某、このまま切らるるとも、景清を助けん。」と、案じ済ましておはします。かの大宮司の心の内、譬へん方もましまさず。
 梶原、差し寄つて申しけるやうは、「あら、いたはしや。大宮司は、この二、三日の内に切られさせ給ふべし。形見の物を尾張へ御下しあれ。」と申す。大宮司、聞こし召されて、「この際に臨んで、形見は無益。」と存ずれども、思ふ子細の候へば、「硯、料紙を賜び給へ。」「承る。」と申して、硯、料紙を参らする。墨磨り流し、筆を染め、その状にあそばされけるやうは、「今度、大宮司が上洛の事、別の子細ならず。その故は、君朝敵の景清に扶持したる咎によつて、牢舎させられて、大宮司は都にて切らるるなり。某、切らるるものならば、やがて討手下るべし。討手下らぬその先に、急ぎ信濃に下り、海野、望月、村上党を頼むべし。それよりも奥州へ下つて、平武者を頼むべし。かの平武者と申すは、大宮司がためには、甥ながら烏帽子子なり。彼等を頼むものならば、十万余騎は候べし。その大勢を引率して、急ぎ都へ攻め上り、宇治、瀬田、東寺をさし塞ぎ、阿弥陀が峯に城をして、絶えて久しき平家の赤旗、洛中へばつとうつ立て、奢る敵を追討して、草の蔭なる大宮司に、只一目見せて賜べ、兵衛の尉。」とあそばして、尾張へ下し給ひける。
 三日と申すに、この状、尾張へ着きにけり。景清、開いて拝見仕り、女房に語りけるは、「あら、めでたや。『大宮司は、この二、三日の内に御下向あるべし。』との御状なり。某は、大宮司の仰せに従ひ、奥州へ下り候。三ヶ年には上るべし。それ過ぎば、五ヶ年。五ヶ年過ぐるものならば、『陸奥にて景清、空しく成りたり。』と思し召し、後世をば弔うて賜べ。暇申して、さらば。」とて、熱田をば立ち出、やうやう急ぎ下る程に、遠江国浜名の橋に着きにけり。宿にて景清、思ふやう、「いやいや、奥州まで某一人、遥々下りたりとも、早、大宮司は都にて、切られさせ給ふべし。故もなき某が、『頼まれよ。』と言はんずるに、頼まるる者は一人もなくして、結句、『落人ありや。』とて、切られん事は治定なり。とても死せんず命を、所詮これよりも都へ上り、大宮司の御命に替はらばや。」と思ひ、それよりも引つ返し、又、都へぞ上りける。
 「とても上るものならば、一時なりとも疾く上らばや。」と思ひ、一足に弓杖二杖、三杖程づつ、躍り上がり、跳ね越え、ひらりひらりと上る程に、熱田をば辰の刻にうつ立つて、粟田口にも着きしかば、「さもあれ、今日の日は何時あらん。」と思ひて、振り仰のいて見てあれば、法性寺の八ツの太鼓を、どうどうと打つたりけり。「とても上りたるついでに、まづ清水へ参らばや。」と思ひ、観音の御前に参り、心静かに祈念して、それよりも六波羅の南表の築地を、ゆらりゆらりと跳ね越え、御前の鞠の懸かりに、仁王立ちにぞ立つたりける。
 折節頼朝は、縁行道してまします処に、かの景清を御覧じて、「あの鞠の懸かりに立つたるは、いかなる者ぞ。」と問ひ給へば、秩父の畠山、差し寄つて申さるる。「あれこそ君朝敵の景清にて候へ。」「景清ならば、あれ、計らへ。」との御諚なり。「承る。」と申して、御前の人々に、座間、本間、土肥、土屋、足助、中條、横地、勝間田の人々は、直垂の露を結んで肩を越し、太刀長刀の鞘外し、景清を真中に、ほう、押つ取り籠めてぞ見えにける。景清は、これを見て、「あら、仰々しの面々の振舞や。何がし、思ひ切るならば、方々を切り殺さんも、天に上がらんも、大地を割つてくぐらんとも、景清がままであり。さりながらこの度は、大宮司の御命に、替はらんために上りてあれば、太刀も刀も何ならず。」と、からりと捨てて景清は、心と縄をぞかかりける。
 頼朝の御諚には、「いかで雑兵の入つたる牢には入るべきぞ。初めて牢を作らせよ。」「承り候。」とて、櫟、白樫、栂、楠、長さ一丈に取らせ、地へは七尺入れ、上を三尺の詰め牢に拵へ、四五の木を取り寄せて、蜘蛛手格子に切り込うだり。一尺三寸の大釘を以て、丁々と打ち付け、釘の先を返さねば、牢の内は洞を掘つて、剣を植ゑたる如くなり。縄綱は苧にて、高手小手に縛めて、七尺豊かの景清を、二重に取つて押し入れ、髪をば七把に束ねて、天上の格子へ七方へ吊つたりけり。足をば牢より引き出し、三寸間の格子の、足の分を広うして、弓手馬手へ取り違へ、山出しで七十五人して引いたる楠の大物にて、上げほだしにぞ打つたりける。引つ詰め金と申すは、薄う平う打ちけるを、景清を痛めんために、丸う太う打たせたり。膝錠、詰め金、八双かけ金、とうとうくるり木。千引の石、材木を上に取り積んだり。腰に籐の綱、三筋縒つて付けさせ、首には根掘りの大づつを、三本までかつがせたり。無残や、景清。牢の内にて通ふ物は息ばかり、働く物は両眼なり。舌端よりその外は、少しも動く所無し。
 頼朝の御諚には、「景清を召し取る間までの事にてこそ候へ。かの大宮司と申すは、頼朝がためには外戚の祖父にてましませば、対面あるべし。」との御諚なり。「承る。」と申して、梶原の源太が牢の戸を開き、大宮司を具足し申す。頼朝、やがて御対面あつて、「この間の牢舎の御辛労、思ひ遣られていたはしう候。この度の勧賞には、重ねて所知を参らせん。急ぎ国へ下り給へ。」との御諚なり。大宮司、聞こし召されて、「あら、所知も所領も欲しからず。同じくは、景清を伴ひ下るとだにも思ひなば、いかがは嬉しかるべき。」と、御涙に咽ばせ給ひけり。さてあるべきにてあらざれば、大宮司、御暇申して、国に下り給ひけり。
 かくて景清、牢舎して、昨日今日とは思へども、七十五日に成りにけり。いたはしとも中々に、申すばかりはなかりけり。かかりける所に、六波羅の南表の築地を、京童三人、連れて通りけるが、先なる者が申すやう、「あの新造の牢には、いかなる者が入りたるぞ。」と申す。後なる者が申すやう、「あれこそ平家の侍大将、悪七兵衛景清が入りたる牢ぞ。」と申す。中なる者がこれを聞き、「なう、平家の侍大将、悪七兵衛景清は、平家の御代の御時は、二相を悟つて仏神の、化現などと聞きつるが、平家に離れ申し、景清が二相も何ならず。源氏方にも、まさる兵があればこそ、易々と生け捕つて、わづかの牢に押し籠めては置きつらん。弓取は、見ると聞くとは等しからざる。」などと申して、どつと笑つて通りける。
 景清、牢の内にてこれを聞き、「げにも、きやつばらは、道理を言ひつるものかな。景清程の兵が、わづかの牢に籠つて、憂き目を流す無念さよ。さらば、牢を破つて出ばや。」と思ふが、「いやいや。千引の石材に当たりて、科もなき牢守どもを打ち殺さんも無残なり。いかがはせん。」と思ひしが、「それも某が、余り穏便の至り。いざや、牢を破つて出、末代の物語にせさせばや。」と思ひ、億の力を出し、「ゑいやつ。」と動きけれども、千引の石材が重ければ、牢はちつとも働かず。元より観音を信じ申す事なれば、名号をこそ唱へける。「南無や千手千眼観世音、生々世々の稀有者。一文名号滅重罪、無量仏果得成就。」と、この文を三遍唱へ、弓手の足を、「ゑい。」と引いた。まことに観音の利益こそ、不思議の方便にてや候ひけん、一尺三寸の大釘が、ふつつと切れて、左右の足は内へ入る。高手の縄を一締め締むれば、ばらりばらりと切れてのく。七方へ吊つたる髪、「ゑいやつ。」と引きければ、髪の根が強くして、ふるふるばつと乱れたり。腰に付けたる籐の綱、寸々にねぢ切つて、かついだ根掘りの大づつを、微塵の如くぼつ砕いて、身をちつと細めて、牢の格子よりつつと出て、景清は、につこと笑つて立つたるは、人間の業にてなかりけり。
 景清、心に思ふやう、「とても出たるついでに、又、清水へ参らばや。」と思ひ、観音の御前に参り、心静かに祈念して、「南無や千手千眼観世音。さしも草、さしも畏き誓ひの末、一生一代、猶頼みあり。構へて景清を悪見に落とし給ふな。」と、懇ろに祈誓申し、奥の観音に参り、後生の事を祈り、それよりも西門に立ち出、都の方を眺むれば、その古ぞ偲ばるる。「いたはしや、平家の御一門。花の都に御座の時は、金花を連ね水晶を家に飾りしも、光車に御しては花遊の玉欄に臨み給ひしも、『人ひと盛り、花一時。淵は瀬と成る世の中。』とて、名のみ残りて今は無し。」とても牢より出る上、「これより四国、西国へも、落ち行かばや。」とは思へども、舅に憂き目を見せじため、元の牢に我と入り、心と死にをしたりけり。かの景清の心の中、何に譬へん方もなし。
 その後梶原、頼朝の御前に参り、「何とて景清を久しく牢舎させられ候ぞ。御意を受け、計らふべし。」と申す。頼朝、聞こし召されて、「ともかくも梶原、計らへ。」との御諚なり。梶原、「承る。」と申して、嫡子の源太に申し付くる。源太、承りて、究竟の兵を三十余人すぐつて、景清を牢より取つて引き出し、六條河原へばめいて出て、西向きへ引つ据ゑ申す。景清、何とか思ひけん、居たる所をづんど立つて、南向きにぞ直りける。源太、これを見て、「まことやらん、景清は、平家の御代の御時は、二相を悟つて仏神の、化現なんどと承り及びしが、最期にも成りしかば、心動転し給ひて、西方をさへ知らずして、南方へ向かひ給ふ事よ。」景清、これを聞き、「愚かなる源太殿。それ法華の名文にも、『十方仏土中、唯有一乗法。無二亦無三、除仏方便説。』と説く時は、西方と限らず、十方は皆、仏土候ぞ。早、切り給へ、源太殿。」源太、この由聞くよりも、「それは、御身と某が問答対決致さばこそ。口は利け劣るべけれ。受けて見給へ、景清。」と、三尺八寸いかもの作りをするりと抜いて、横手切りにがんしと切る。惜しむべし、歳の程三十七と申すには、首は前へぞ落ちにける。
 さる間源太、景清が首を取つて、急ぎ頼朝の御目に懸け奉る。頼朝を始め奉り、東八ヶ国の諸大名、各々御実検候ひけり。折節、秩父の畠山は、清水詣をし給ひて、首の実検にも合ひ給はず。六波羅の南表を打つて下向し給ふ所に、ここに一つの不思議あり。景清が牢に、又、人のあつて申しけるは、「あれを通らせ給ふは、秩父の畠山と見申したり。最期の時は、万事を頼み奉る。」重忠、聞こし召し、「それ弓取と申すは、今日は人の上、明日は我が身の上にて候へば、御心安く思し召せ。御最期の時は、必ず人を参らせん。」と、馬より下り、色代し、それよりもすぐに六波羅の御所に参り、「何とて景清を久しく牢舎させられ候ぞ。」頼朝、聞こし召して、「さて、景清といふ者が、幾たり候ぞ。一人は源太が手に懸け、六條河原にて誅し、首は未だこれにあり。それ、見給へ。」との御諚なり。
 重忠、謹しんで承り、暫しは御返事を申さず。ややあつて申されけるは、「これは、景清が首にても候はず。又、余人の首とも見えず候。」頼朝、聞こし召されて、「不思議の事を宣ふものかな。今までは景清が首とこそ思ひしに、秩父の言葉について、不審にこそ候へ。それ、よく見給へ。」との御諚なり。重忠、承つて、「いかにとして某も、詳しくは存じ候べき。それ、人間は水と見れば、魚は家と見る。天人は瑠璃と御覧ずれば、餓鬼は焔と見る。これを四見の不同とは申すなり。よくよく見奉れば、千手の御ぐしにておはします。忝くも、五智の宝冠より、金色の光を放ち給ふなり。」頼朝、聞こし召し、「羨ましやな。景清は、いかなる善根を仕り、かかる利益には預かるらん、畠山。」との御諚なり。
 重忠、承つて、「あら、愚かの御諚や候。善根を修する輩とは申すとも、名利を先立てん者は、無智無形の者に劣り候。たとへば無智無形の輩とは申すとも、諸神諸仏と頼み申さん者は、何の疑ひの候べき。それ、菩薩の三化の行と申すは、三つに下ると見えたり。或いは殺生、偸盗、邪淫、放逸の輩に、相交じはり給ふ時もあり。或いは乞食、非人に相交じはり、施行を受け給ふ時もあり。或いはかかる死縁に臨んで、その苦に替はり給ふなり。『五輪種子、周辺法界、鬼畜人天、皆是大日。』と説かれ、仏道ならぬ事無し。かの景清と申すは、その身は化現の鎧を着るとは申せども。瞋恚の火を消し、妄念の塵を払ひ、本来清浄の願に入つてありければ、観音は形を隨縁の林に分かち、影を機縁の水に映し給へり。大慈悲心、大平等心、大忍辱心、無染着心、空観心、せつ心、無上菩提心、これなり。八寒八熱の底までも洩らし給はぬは、大悲の利益とこそ聞け。これこれ、御覧候へ。」と、忝くも御ぐしを差し向かへ申せば、鎌倉殿を始めてその座にありし人々、感嘆、肝に銘じつつ、悲涙、袖を潤して、皆礼拝を奉る。
 頼朝、不思議に思し召し、景清が牢へ使者を立て、「さて景清は、いかなる仏神を頼み申して候。」と、御尋ねありければ、景清、承つて、「さん候。某、若年よりこの方、遠き敵を射て落とし、近き敵を切つて捨つる。かかる武芸をも嗜みて候へども、いかなる仏神をも頼み申さず候。さりながら、常は清水を信じ申して候。」と、御返事を申したりければ、頼朝、聞し召されて、東山清水寺へ御使立つ。まことに清水の有様は、申すも中々愚かなり。蔀格子も皆開きて、御帳をさつと押し上げ、御ぐしもなき御衣木、蓮華の上に備はりて、御身体よりあゆる血は、ひとへに瀧の如くなり。内陣に余りて、礼盤、長床まで、浮かぶばかりに見え給ふ。
 御使、この由見奉り、六波羅殿へ参りて、ありのままに申しければ、「さては疑ふ所なし。」と、諸寺の僧を千人請じ、一万座の護摩を焚き、御ぐしを御衣木に合はせ申し、「再び清水」と、はやり給ふぞありがたき。頼朝の御諚には、「か程、千手の不憫と思し召さるる景清に、対面あるべし。」との御諚にて、急ぎ御前に召され、「ひとへにおことを、清水の観音と拝み申すなり。又、おことを誅するものならば、千手の御ぐし、再び切るに似たるべし。この上は助くる。」との御諚なり。景清、承つて、「あら、ありがたの御諚や候。これと申すも景清が、十六の春よりも三十七の今まで、参りたる利生と思へば、ありがたさは限りもなし。」頼朝の御諚には、「平家の時の扶持は、いか程候か。」景清、承つて、「二万町賜はりて候。」「頼朝が世にも二万町、合はせて四万町、宛て行ふものなり。今日より後は悪心を翻し、頼朝に仕へ候へ。」
 景清、承りて、「あら、ありがたや候。命を助け給ふのみならず、あまつさへ御恩を添へて賜ぶ君は、世にもありつべしとも存ぜず候。さりながら、君を見申さん度毎に、『あれこそ主君の敵ぞ。』と、『あつぱれ、一刀恨み申さで。』と、思ふ所存は、つゆ塵程も失せ候まじ。それ、恩を見て恩を知らざるは、植木の鳥の、おのが住む枝を枯らすに異ならず。」と、秩父殿の御差添を乞ひ取つて、両眼をくり出し、薄折敷に並べ、頼朝の御目に懸け奉る。頼朝、御涙に咽ばせ給ひ、「それ、『唐土に鷙といふ鳥を三年飼うて、古人、一つの虎を取る。我が朝の恥ある侍に、恩をよく与ふれば、主の命に替はる。』とは、今こそ思ひ知られて候へ。いかに、景清。このまま都にありたきか。」景清、承つて、「花の都も何ならず。中々、思ひも寄らず。」と申す。「さあらば、妻子があれば、尾張へ下りたきか。」との御諚なり。景清、承つて、「行くも夢、留まるも夢、二世と兼ねしも夢なれば、下りて益も候はず。同じくは西国へ下して賜べ。」と申す。「易き間の事なり。」とて、「日向宮崎の庄を賜はる。」と、御判を据ゑて下されける。
 かくて景清、肌の守りに納めて御前を罷り立つ。又、清水へ参り、三百三十三巻の観音経を読誦して、三千三百三十三度の礼拝を奉る。ありがたや、「観音は、三十三身に身を変じ、十九説法、御法をのべ、衆生の願を満て給ふ。」と、今こそ思ひ知られたれ。内陣より金色の光射いて、景清が頭を半時ばかり照らし給へば、取つてなかりし両眼が、忽ち出来て、元の如く見えにけり。ここを以て案ずるに、「若我誓願大悲中、一人不成二世願。我随虚妄罪過中、不還本覚捨大悲。」仏は三世にましませど、千手の誓ひありがたし。
 それよりも景清、清水を罷り立ち、東寺、四塚うち過ぎて、月はなけれど桂川、舟に乗らねど久我畷、山崎、関戸うち過ぎて、兵庫にも着きしかば、「御一門の住み給ひし、福原の京とはここなりけり。」とうち眺め、須磨、板宿、播磨に成りぬれば、その名ばかりが高砂の、尾上の松とうち眺め、君に頼みを懸河の、西方浄土は近きやらん、ここは阿弥陀が宿であり。備前に吉備津宮、備後に鞆、尾道。それよりも景清、筑紫に下り、日向、宮崎の庄に着きて、里人を呼び出し、御判を拝ませ、三年と申すに、一間四面に光堂を建て置き、「新清水」と額を打ち、朝夕他念なく、千手の名号唱へ、八十三と申すに、大往生を遂げにけり。
 「悪に強ければ善にも強し。文武二道の名人に、漢家は知らで本朝に、かかる兵あらじ。」と、感ぜぬ者はなかりけり。

景清上下終

    嘉永三年二月吉祥日写之
流芳館 役人 弥兵衛

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