笛の巻
(毛利家本)

 さる間、東光の阿闍梨、常葉の御前に畏まり、「見苦しげなる草庵を結びて持つて候。庭の花の御興にも御出。」とこそ申されけれ。常葉、聞こし召されて、「呼ばずとも尋ね行き、坊中の案内をも見ばや。」と思し召さるれば、時刻移さず御出ある。忠節、興を尽くし、ここを先途とぞきらめきける。酒も半ばなりし時、常葉、仰せけるやうは、「いかにや、東光。牛若と申して、世に無し童、一人あり。別当に参らする。良くは、弟子とも思し召せ。悪しくは下の草切りとも、思し召され候へ。憐れむ人のなくしては、いかでか叶ひ候ふべき。よきやうに取り立てて御覧ぜよ。」とぞ仰せける。
 東光、聞こし召されて、やがて領掌申し、別当自身、御迎ひに参らるる。かくて牛若殿、鞍馬に上がり給ひ、学文せさせ給ふに、師が一字を教ふれば、二字と悟り、二字を教ふれば、百字に暗からず。筆を取つての筆法に、魚鱗、虎爪、水露の点、孔子、老子の筆の跡、文書の数を残さず、習ひぞ尽くし給ひける。「師門、他山のその内にも、かかる面妖の児学匠の、ありつべしともおぼえず。」と、褒めぬ人こそなかりけれ。
 六波羅におはします常葉、聞こし召されて、御喜びは限りもなし。「それ、児のもて遊びには、何々と申すとも、管絃に過ぎたる事は無し。その中にとつても、笛は一の名物なれば、よからん笛を求め、牛若に取らせばや。」と思し召し、都間近き淀の津の、弥陀次郎が元よりも、笛を一管買ひ取つて、鞍馬へ上せ給ひけり。牛若、なのめに思し召し、如月半ばの頃よりも、吹き始めさせ給ひつつ、その歳の暮には、百二十調の楽をば、吹きこそ覚え給ひけれ。
 或る時、牛若殿、「この笛の出処を尋ねばや。」と思し召し、弥陀次郎をぞ召されける。弥陀次郎、「召し。」と承り、急ぎ鞍馬に上り、牛若殿の御坊に参り、庭上に畏まる。牛若殿は御覧じて、「汝か、淀の弥陀次郎とは。」「さん候。」と申す。「この笛は、漢竹か、梵竹か。聞かまほしや。」と仰せければ、弥陀次郎承り、「さん候。その笛と申すは、一年、讃岐国屏風の浦にて、宝亀五年に生まれ給ふ、弘法大師、入唐あり。青龍寺におはします、恵果和尚を師と頼み、真言の秘密を究めさせ給ひ、『我、入唐のついでに、天竺霊鷲山におはします、大聖文珠を拝まん』ため、森々とある遠嶋を、分け越え給ひける程に、代州の沖を通り、衡州といへる国には、十の道分かてり。その中にとつても、江南といへるは、赤県の南なり。かの国にさしかかり、大沢の野辺を行き過ぎ、広沢の堤を伝ひつつ、般若台をぞ拝まれける。
 「かの般若台と申すは、南岳大師、久しくも行ひ給ふ御寺なり。今、日本に生まれては、厩戸皇子、聖徳太子とも申すなり。衆生済度の慈悲深き、南岳大師と伏し拝み、又五千里を行き過ぎて、玉泉寺とて御寺あり。かの寺と申すは、南岳一の弟子、智顗上人の御寺なり。かの天台に通ひ、御法を説かせ給ひけり。あなたへも五千里、こなたへも五千里、一万里の道なるを、夜日七日に行き帰り、御法を説き給ひけり。故に釈文にも、『荊楊往復途将万里。』と説かれたり。
 「かかる霊峰を分け越え給ひける程に、唐天竺の境なる、流沙の河に着かせ給ふ。かの河の広き事、三百二十余町なり。水碧天に浸し、浪半天に遡り、速くして漲れば、砂を洗ひ流せり。流沙の河と書いては、砂流るる河と読む。葱嶺の山の麓に、一つの橋渡る。石橋とこれを言ふ。石橋と書いては、石の橋と読む。故に、玻璃を並べて簀子とし、瑠璃を連ねて高欄とす。橋桁柱には、瑪瑙を造り延べてあり。遠く渡りて反れる事、虹を成せるが如くなり。見るに肝消え、膝震ひ、足すさまじく身の毛立ち、渡るべきやう更に無し。弘法、この由御覧じて、『さりともこれを渡らずは、白雲万里を隔たりて、何としてかは参るべき。渡るにこそ。』と思し召し、命を捨てて渡らるる。法力なれば相違なく、向かひに着かせ給ひけり。河上さしてよぢ登り、葱嶺の嶺に上がりつつ、遥かの空を見上ぐれば、夕日、程もなかりけり。手に取るばかり近くして、霞は谷の底にあり。雷電雲を響かし、風小雲を払つて、銀漢は殊に沈々たり。
 「かかりける処に、八仙童子行き合ひて、『いづくよりいづ方へ通るものぞ。』とありしかば、『これは、日域の弘法と申す者なるが、天竺霊鷲山におはします、大聖文珠を拝まんため、これまで参りて候。霊山への道伝ひを教へて賜べ。』とぞ仰せける。童子、聞こし召されて、『これより霊山浄土へは、白雲万里を隔たりぬ。歳を重ねて歩むとも、いかでたやすく参るべき。早、帰れ。』とぞ仰せける。弘法、聞こし召されて、『万里の道も一足の、下より続く事なれば、心長く歩まば、などか参らで候べき。教へて賜べ。』とぞ仰せける。童子、聞こし召されて、『汝は、芥子に譬へたる粟散国の小僧が、唐土を越ゆるだにも貴き事なるに、ましてや申さん、天竺を歩み尽くして参らん事、思ひも寄らぬ事なるべし。只帰れ。』とぞ仰せける。弘法、聞こし召されて、『国は小国なれども、名を日域と名付けて、日をかたどれる国なり。唐土広しと申せども、震旦国と名付けて、星をかたどる国なり。天竺その名高けれど、月氏国と名付けて、月をかたどる国なり。国は大小にはよるべからず。只、智恵こそ本にてあるべけれ。』
 「童子、聞こし召し、『面白し、弘法。智恵比べなるならば、いでいで、さらば参らん。さて弘法は日本より、これまで尋ね来れるは、愚痴の僧にあらずや。心の内を尋ねば、霊鷲山も心にあり。文殊も心の内にあり。胸のほとりに持ちながら、遠嶋を尋ぬるは、愚痴の僧にあらずや。』弘法、聞こし召し、『愚かなり、あの童子。法には事理の二つあり。心の内の文殊は、惣の文殊これなり。霊鷲山の文殊は、別の文殊これなり。別を嫌へば惣もなし。惣と嫌へば別もなし。事理惣別の不二なるを、あう、智者とは申し候ぞ。』童子、聞こし召し、『言葉の所顕、無益なり。面妖を現じて、奇特を見せよ。用ゐん。』『奇特は何を顕はさん。』『紙もなく墨もなく、筆もなくして只今、文字を一つ書いて賜べ。』
 「弘法、聞こし召し、『書かんず事は易けれど、童子の奇特、まづ見せよ。』童子、聞こし召し、『いでいで、さらば書かむ。』とて、走る雲に向かつて、『阿毘羅吽欠』と指を振る。嵐に雲は速けれども、文字はちつとも乱れず、鮮々とこそ見えにけれ。弘法、御覧じて、『殊勝なり、あの童子。いでいで、さらば書かん。』とて、流るる水の面に、『龍』といへる文字を書く。さしもに水は速けれども、文字はちつとも乱れず、帯を結べる如くにて、鮮々とこそ見えにけれ。童子、御覧じて、『あの字に点を打つてこそ、龍とは読まれ候へ。』弘法、聞こし召し、『打たんず事は易けれど、龍と成らんがいぶせさに、さてこそ点は略したれ。』『何程の事のあるべきぞ。只打ち給へ。』弘法、『いでいで、さらば打たん。』とて、一つの点を打ち給ひ、いまだその手も引かぬ間に、雷鳴つて雨降り、洪水出で来つたり。
 「水端を見てあれば、百尋の大龍が、頭を高くさし上げ、水に尾を叩いて、大木枯木の枝砕け、巌流れて下る音、地震の揺るが如くなり。弘法、御覧じて、『すはや、水よ。童子、逃げ給へ。』とありしかば、童子、ちつとも騒がず、虚空に上がり雲を踏んで、さらぬ体に立ち給ひ、『いたはしし、弘法。逃げ給へ。』とありしかば、弘法、ちつとも騒がず、盤石の印を結んで、川の面へ投げ給ふ。二十余丈に聳えたる、大盤石と成りければ、その上に跳び上がり、独鈷を握り、弘法、暫く念誦し給へり。
 「童子、御覧じて、『あら、尊しや、弘法。今は何をか包むべき。我こそ天竺霊鷲山の文殊なれ。あれにて待たん久しさに、これまで迎ひに来りたり。いで、本体を顕はさん。優填王は無きか。獅子、出で来よ。』と宣へば、雲の内に声ありて、『おつ。』と応へて程もなく、金の宝冠を戴き、赤衣に剣を帯びたりける。獅子には螺鈿の鞍を置き、御前に引つ立つる。童子、則ち文殊と成り、五色の光を放しつつ、獅子に召されたりければ、所はやがて浄土と成る。霊山浄土これなり。
 「そもそも文殊と申すは、浄瑠璃浄土のその中に、八大菩薩の惣一なり。行者を迎へ取つては、極楽浄土へ送らるる。或る時は、霊山浄土にて、法華の瑞相を説き、又或る時は即ち、寂滅道場にして、三世諸法の実義を立て、一念正受を一しゆにし、無相無意の相を着し、獅子の上にしては又、釈尊の右の脇に座し給ひ、一乗三昧発起し、弥陀の願を立て給ふ。かかるありがたき文殊を、目の当たりに拝み給ふ、弘法大師の御心、さこそ嬉しく思すらん。文殊、重ねて宣はく、『末世の衆生の迷ひには、有相執着これ多し。有想といへる心は、よろづの物をありと見る。これは有想の迷ひとて、地獄に堕つる始めなり。又、よろづの物を無しと見る、これも断空の迷ひとて、地獄に堕つる心なり。只、一念不生なるをこそ、文殊の智恵と申して、即今、仏に成るものなり。この道を守つて下向せよ。』とぞ仰せける。弘法、聞こし召されて、『御名残惜しくは候へども、さらば御暇申す。』とて、それよりも下向し給へり。
 「葱嶺の山の麓に、一つの瀧、落ちにけり。かの瀧の双岸に、三本の竹、生ひにけり。百節に節を込めつつ、この竹、千尋なりけり。弘法、剣を抜き持つて、かの竹の末の節を、三節込めて伐り給ひ、『契りのあらば日本にて、巡り逢へや。』と宣ひて、河にぞ流し給ひける。それより元の橋渡り、早、大唐に出給ふ。唐土の寺の初めは、揚州の白馬寺、殊更尊かりけり。帰朝の東風の吹きければ、明州に出給ふ。御船に召す時、持つところの仏具に、五鈷、独鈷、三鈷を、虚空へ投げさせ給ひけり。紫雲下つてこれを巻き、遥かの海を分け越えて、紀の国に聞こえたる、高野の峯に留まれり。三鈷の松と申す事、この時よりも始まれり。独鈷は花の都なる、東寺の塔に留まる。五鈷は越後の国、国上の寺に留まれり。
 「それよりも大師は、御船に召され、のろ嶋ときさみの嶋を、遥かの西に御覧じて、堀川といへる湊こそ、唐土の王の都より、流れ出たる大河なれ。それより三日走り過ぎ、かしらなしといふ津こそ、大唐国船の泊りなれ。きみ州といへる沖洲を過ぎ、高麗、唐土の境なる、もめい嶋を走り過ぎ、きやうの岬、はくたんしゆもころいのみせん、もも嶋、きとの嶋、もろみの嶋、舟越過ぎて、つちよりも、明くれば対馬の内院に着く。
 「壱岐のかさもと走り過ぎ、壱岐のもとをり目に懸けて、『あはや、筑前の箱崎や。博多の津こそ見ゆれ。』とて、各々勇む折からに、悪風、俄に吹いて来て、高麗の沖洲なる、きとの嶋まで吹き戻す。大師、秘印を結び、『我、又帰朝する事、異法のためにて候はず。衆生済度のためなれば、順風賜べや、龍王。』と、祈誓を深く申さるる。かかりける処に、鬢づら左右に結うたる童子、浪の上にたたずんで、『この風と申すは、大唐の仏達、大師に名残を惜しみ、今一度大唐へ、迎へんための風なれば、龍王の所為ならず。』とて、かき消すやうに失せにけり。
 「弘法、聞こし召されて、『その儀にてあるならば、まづ日本へ着けて賜べ。日本に着く程ならば、唐土の寺をまなぶべし。金剛峯寺と額を打つて、大唐の仏達を勧請申し、あれにて御目にかからん。』と、祈誓を深く申さるる。楫取どもがこれを聞き、『あそこなる法師は、何を言ひてささやくぞ。死なうず事が目に見えて、一人言をするや。』と、笑ふ者もありにけり。『誰も命は惜しい。』とて、嘆く者もありにけり。大師の祈誓、誠にて、追風ぞ吹きにけるとかや。過ぎにし桓武天皇の御時、三十七にて入唐ましまし、さて又四十三の歳、嵯峨の帝の御時、御帰朝とこそ聞こえけれ。されども人はなどやらん、知らざりけるぞ不思議なる。
 「筑紫の博多に上がり、縁笈取つて肩に掛け、都へ上り給ひしが、旧里は偲びあるにより、讃岐の国に渡り、屏風の浦に立ち寄り、父母の御墓を伏し拝み、或る磯辺を通らるる。寄り竹一つあり。取り上げ御覧ありければ、天竺流沙河にて、伐り流したる竹であり。希代不思議に思し召し、三つの節のありけるを、三節に刻み、笈の脚に結ひ付け、都へ上り給ひしに、三節の竹の夜に入れば、五音の声を出す。五音の声と申すは、宮商角徴羽これなり。三管の笛にゑり給ふ。大水龍、小水龍、青葉の笛これなり。
 「青葉の笛と申すは、竹は潮に枯れたれど、青葉は一つ節にあり。枯れざる徳に名付けたり。小水龍と申すを、朱雀院の鬼が取り、夜な夜なこれを吹きしを、天人、これを取らんとて、羽衣を以て撫でては天に上がり、撫でては天に上がる。故に名付けつつ、一重隠しとこれを言ふ。この三管の笛をば、天下の重宝なりとて、内裏に籠め置かれしを、狭衣の中将の、吉野山にて花見の興のありし時、この笛を申し受け、吹きて遊ばれたりけるに、万秋楽を吹きしかば、天人、これを聴聞し、五衰の苦を逃れて、菩薩と成つて舞ひ遊ぶ。その後中将、淀の津に住まひせし、小式部に賜び給ふ。小式部、歳老いて後、弥陀次郎が祖父の、弥陀太郎がこれを取り、我々までは三代なり。吹く事はなけれども、この笛を持ちぬれば、災難、更に来らず、仏神の加護に預かる。重宝にて候を、いかなる人の申しけむ、上様に聞こし召し、召し置かれ候へば、力に及び候はず。若君。」とこそ申しけれ。
 牛若、聞こし召し、「面白し、弥陀次郎。祝ひに三度語れ。」とて、押し返し語らせ、猶も飽かずや思しけむ、草子にとどめ給ひて、「笛の巻」と申して、鞍馬寺にありとかや。その後に弥陀次郎、御褒美に預かり、弥陀次郎も喜び、「家路へ。」とてぞ帰りける。

    元和四年七月日
行年七拾三歳 如滴(花押)

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