鞍馬出
(内閣文庫本)

 さても六波羅の御所には、「牛若殿の悪行の、身に余る。」と聞こし召し、御一門さし集まつて、御評定はとりどりなり。「かの者生ひ立つものならば、当家のゆゆしき大事たるべし。討つて捨つるか。忍びて流すか。何と。」と評定ある。母の常盤は聞こし召し、あるにあられぬ御身にて、忍びて文をあそばし、牛若殿につけ給ふ。牛若、文を御覧じて、「かやうに母の御手より文を賜はり、いづくの国、誰やの人を頼みて、下るべしともおぼえずや。所詮牛若、御本尊より外、頼み申す方もなし。」と、かうたうに御参りあり、夜と共、祈誓を申されたり。
 「そもそも毘沙門と申すは、四天の中の第一に、八天童の尊者たり。仏法護持のために、弓箭を守り給ふなり。牛若が一期の本望は、身のため起こす謀叛ならず。父母孝養のそのために、平家を討たんと思ひ立ち、兵法稽古の嗜みなり。多聞の十種の福をば、父母孝養せん者に、与へむといへる誓ひなり。本誓今に違はずは、牛若にこそ賜ぶべけれ。」と、深く祈誓を申し、うちまどろみたる御夢に、「白き兔と鼠とが、袂に入る。」と御覧じて、うち驚き思し召す。「卯は東の物。子は北の生き物なり。東北の隅をば、丑寅とこそ名付けたれ。いしやなてんと申すは、この方におはします。故に名付けつつ、多聞天と申すなり。毘沙門の住みかをば、へいしらまなやしやうとて、米の降る都なり。いかさまも牛若は、丑寅の方に立ち越えて、世に出よとの示現かや。あら、不思議やな。北と東の間には、誰やの人を頼みて、下るべしともおぼえず。」と、まだいとけなき御心に、つくづくと案じ給ひけり。
 既に天晴れ、まだ早朝の事なるに、道者四、五人入堂す。尊者と思しき男の、有徳の人と思しくて、御鉢に金をまき入れ、珠数さらさらと押し揉んで、「千五百里の道の間を、安穏に守り給へ。」と、深く祈誓を申さるる。その後、隔子の内よりも、五十ばかりなる僧出、「御道者は、いづくの人ぞ。わざとの参りか。便宜候か。」「いや、便宜ながら、わざと参りて候ぞ。」傍なる法師がこれを聞き、「御辺はいまだ知らぬか。あれこそ都に隠れもなき、三條の金商人の吉次殿よ。」と言ひければ、「あう、さる事あり。珍しや。奥よりもいつの頃の御上りぞ。」「去年の冬、罷り上りて候が、余寒やうやううち解けば、この間に罷り下り候べし。」
 「さもあれ、音に承る秀衡殿と申すは、いか程の分限の人ぞ。」「秀衡殿と申すは、五十四郡の惣追捕使。白川の関よりも東は、残る所ましまさず。在庁、国民相従ひ、勢を持つ事は、その数を知らず。日本半国より猶多き分限とこそ承れ。」「さて、その人は奥州の住人か。」「いや、都の人と承るが、一年源氏の御大将、八幡殿と申せしが、奥へ下らせ給ひ、貞任、宗任、泰任を平らげ、御上洛の御時、奥州の守護代を、かの基衡に下し賜ぶ。五十四郡の国人は、皆基衡に思ひ付く。強きをやはらげ、弱気を撫で、民を憐び、政、古法に任せて執り行ふ。国の靡き従ふ事は、草木の風に靡くが如くなり。かくて奥を治めつつ、秀衡殿の代々は、吹く風も声を止め、立つ浪も岸を洗はず。よき大将と承る。秀衡殿と申すは、俗姓よき人にて、国をもよく治め給ふ。七珍万宝飽き満ちて、只、長者の位と申すなり。」
 牛若殿は聞こし召し、「これは、多聞の託宣や。秀衡は先祖の下人。頼み下るものならば、情けなくは、よもあらじ。吉次を頼み道連れして、下らばや。」と思し召し、吉次と深く約束を召され、東光坊に御帰りあり。常の所に御入りあつて、旅の出立ちをし給ふに、涙も更に堰きあへず。いつも御身を離されぬ、金作りの御佩刀、古年刀の腰の物、これぞ忍びて持たれたる。召し使はれし童の、藍摺の直衣に、御身の召されたる精好の大口を召し替へさせ給ひ、御ぐし唐輪に高く上げ、七歳の御年より住み馴れさせ給ひたる東光坊を只一人、小夜に紛れて出給ふ。さすがに御寺の御名残、かたへの児達、小師、同宿の名残ども、愛念深き人多し。未来をかけて契りし者、今も知らせてあるならば、前後を守護し行くべけれども、人目を忍ぶ旅なれば、只一人ぞ御出ある。心ざしこそ哀れなれ。師匠に名残の惜しければ、「記念のため」と思し召し、一首の歌をぞ残されたる。
  思ひきや身を奥山に住まひしてこのみ一つに成り行かんとは
 かやうに詠じ給ひ、庭の名木名石どもを、いつの世にかは立ち帰り、又見んずらん。あぢきなや。桃李物言はねば、我出ぬるを、よも告げじ。梅鶏舌を含むとも、など暁を知らせぬぞ。さて本坊を立ち出て、地主権現伏し拝み、閼伽井の水も冴え曇り、影さへ宿す月もなし。七つに曲がる鞍馬坂、夜更けて物憂き道辺を、貴船の神の社こそ、かつ頼もしく聞こえけれ。名残ぞ惜しき市原の、立ちとどまりてみぞろ池、千早振るらん上賀茂の、道をただすの森過ぎて、夜はほのぼのと白川や、吉次に今も粟田口、早、松坂に牛若殿、程なく着かせ給ひけり。
 待つ吉次は見えずして、美濃の国の住人、関原の与市、わうばんを請け取つて、夜を日に継いで上りしが、その夜は大津に泊り、松坂の辺りにて、牛若殿に参り逢ふ。牛若殿は御覧じて、「源氏の者への門出に、平家の郎等に逢ふ処は無念なり。いかさま、きやつに見合ひ、都に披露せさせては、悪しかりなん。」と思し召し、扇をかざし、編笠を傾け、さらぬ体にて御通りある。与市が馬と申すは、明け六歳の野取の駒、物を見ては切れ易し。宵に降つたる雨水の、道にたまりてありけるを、そぞろに蹴上げける程に、牛若殿の直垂は、只、絞るばかりに濡れにけり。牛若殿は御覧じて、「駒の足立ち、しどろなり。悪しくも行き合ひけるや。」とて、そなたも見ず逃げ給ふ。与市、らくにほこつて、逃ぐる心のいたいけさに、手綱も取らで蹴掛けたり。
 牛若殿は御覧じて、「しかるべくは御馬を、静かに打たせ給へよ。我等、かやうなる童こそ、蹴上げの水をば厭はずとも、都方の弓取の、咎むる方も候べし。手綱に余らばその馬を、捨てて御通り候へ。あつたら馬を捨てうより、やあ、下りて引け。」との御諚なり。与市、無念の言葉を聞き、「子程の者に当てられて、返事をせぬものならば、京田舎のもの笑ひと成るべし。」又、知らぬ体にて通りたらば、さして難にも成るまじきを、運の極めの悲しさは、「あれ程の童、当つれば路次の狼藉、当てねば時の恥辱。太刀の峯にて打ち臥せて、追ひ失へ。」と下知をする。
 「承る。」とて、若党三人、中間六人、以上九人の者どもが、太刀長刀の鞘外し、「声ばかりにて脅さん。」と、「をれは、をれは。」とぞ脅しける。牛若殿は御覧じて、「おのれらが有様は、稲荷祭か祇園会か、賀茂の祭の物真似か。具足に風を引かせんとや。恐ろしうもないぞ。」とて、からからとぞ笑ひける。与市、この由聞くよりも、「憎い奴が言葉かな。具足汚しに切りばしすな。太刀の峯にて打ち臥せて、追ひ失へ。」と下知をする。「承り候。」とて、真中に取り籠むる。
 牛若殿は御覧じて、「僧正が崖にて習はせ給ひし天狗の法、出合ふ処。」と思し召し、御佩刀するりと抜いて、眉間にさしかざし、大勢の中へ割つて入る。向かふ者を拝み切り、馬手へ廻るは車切り、弓手へ受けて左太刀、寄せて返すはさざ浪切り、木末を揉むは嵐切り、天狗倒しの笑ひ切り。ここはと思ふ秘事の手をば、残さずこそは使はれけれ。牛若殿の御佩刀、閃くと見えしかば、手の裏いまだ返さぬ間に、六人死んで三人は、痛手負うてぞひれ伏しける。
 与市、この由見るよりも、「あれ程の童、たとへば十四か十五かに、いか程も余らじ。手並見せん。」と言ふままに、駒駆け寄せてちやうど打つ。牛若殿は御覧じて、「きやつは日本一番の、烏滸の者にてありけるや。ぢきに切つて捨てては、思ひ出のあらばこそ。なぶり切りにき奴をして、あそばばや。」と思し召し、受け太刀になつてぞ廻りける。与市、この由見るよりも、「さればこそ、このわつぱ、逃げて行くか。いづくまで。逃がさん。」と、やあ、なげかけなげかけ切つたりけり。
 牛若殿は御覧じて、「いつまでき奴をなぶるべき。」と思し召し、弓手に切れて、かい違ひ、与市が馬の三頭を、開き打ちにちやうど打つ。馬は打たれて跳ねければ、鞍だまに取られて、真つさかさまにどうど落つる。「起きん、起きん。」とする処を、走りかかつて峯打ちに、ちやうちやうとぞ打つたりける。少しもくぼき所にて、雨水に濡れにけり。牛若殿は御覧じて、「あう、勿体も候はず。児と女には御免候かや、馬より下るる慇懃さよ。御供の者はいづくにあるぞや。あ、あの馬引いて与市殿を乗せ申せ。それそれ。」とありしかど、返事する者なかりけり。牛若殿、馬を引き寄せ、「これに召され候て、御帰り候へや。与市殿。」とありしかば、与市、余りの恥づかしさに、馬も下人もふり捨て、山科寺の傍らに、深く忍うでゐたりけり。
 それよりも牛若殿、奥へ下らせ給ひて、天下を治め給ひけり。

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