靡常盤
(平瀬氏本)
爰に物のあはれを尋ぬるにときはの母にてとゝめたりそれをいかにと申に六波羅かたの兵ときは御前をたつねかね九條の院におはします母のにこうを生捕て六波羅へ参らする清盛御覧して親子の中の事なれは知らてはいかゝ有へきとなんはせのをに仰付七十余度のかうもんは目もあてられぬ次第也せのをなんはにいふやうは心よはくて叶ましおとして申てとはんとて一所をかまへたゝらをたてあかゝねをわかしみやう火さかりにもゆる時いかににこう御覧せよあのとうゑんにあて申さんはやはやときはの行かたをおかたりあれと申にこう御らんして見るにたにも身の毛たつましてほのほに身をよせはしようねつ地獄のくるしみも是にはいかてまさるへきよしそれとてもちからなし迚もいきかい有ましやしぬへき物と思ひきり更に物をものたまはすせのをちからにをよはすいかになんは大事のめしうとをせめころしては叶ましいと清盛にかくと申すきよもり聞召いていてすかしてとはんとて大口ひやくゑの出立にてにこうのあたりに立よらせ給ひいかににこう聞給へ平家の運をひらくる事出る日つほむ花なれや源家を物にたとうれは入日のことしいかににこうのあはれみて子共をかくし給ふ共つゐにはもれてきこゆへしにこうのをしへて取ならはにこうにもときはにもほうけよをあたへはこくむへしはやはやときはの行かたをおかたりあれと有しかはにかうきこしめしめつらしの御言葉や道理をわけてその給ふらん身つからか耳にはみなひか事のみ聞えさふらうそれをいかにと申にときわは生年廿八孫いま若は七ツつき乙若は五ツすゑの牛若は二歳也かれらか年を合すれとにこうか年のなかはなり身つからいく程いきんとてさかりのそんしをうしなふへき其上源家はこかねにたとへていとに朽ははてし也ときわか子共も三人いつれも男子にてさふらへはかれらか中に一人運をひらかぬ事あらし其上頼朝は天下の御めにかゝり源氏のしやうのさうありとくん王も宣旨有し也てんもんはかせ六こくしんもんせんのかみもふたを打かねて源氏の大将と天下に此沙汰かくれなしもしさもあらはすゑの世にのこりいたらん平しともうきめにあはむ事あらしまして源家のすゑの代を切からさんとおほす共いすゝ川のすゑつきす八幡山の月影の光りをやとする事なれはいかてやみにはまようへきみやうりよちけんにまかする上しなん事をはなけくましはやとくとくと仰けり此間のかうもんは物の数にてかすならす誠や聞はかうもんは眼をぬき足手を切血をしほりてせむるときくなとそれていにせめ給はぬ事おほしといへとも清盛の末の世に有へき事を今みるそ此合戦と申は大悪けきののふよりか朝敵となつてほろひしやそれも天下をかろくして世をさかさまにせしゆへ也是にもみこり給はすあまこそいやしくと宣旨なりとて免さるれは君朝敵の尼たるへくさあらん時は清盛も礼儀をたゝ敷すへき身か大口ひやくゑの対面はうへなき人の振舞かや世をしらんとおほさはこはきをやはらけよはきをなてきをおもくすへきなり君々たれはしんしんたり御身の今のふる舞はまさかとの其かみすみとものらふせき扨さたたうかとうあく今のふよりかけきらんもこれにはいかてまさるへき今たにもかくありまして平家一へ舞の御代ともなる物ならは君の位をうはい取て天下はやみと成へき也さあらん時に清盛も必ほろひはつへきなり末の代にこのあまか申すてし事のはを思ひ出し給ふへしいけて物をいはせんよりもとくせめころせとおゝせけり清盛聞召案に相違のいひ事なれはせめころしては叶まし先なんちらにあつくるとの御諚也去間ときわ御前は是をは夢にもしろしめさす大和の国宇多のこほりきしの上の加藤次兵衛か宿所に数日とをくらせ給ふ有時商人来たつて都の事を語りけりときわ物こしにて聞召都には何事かあると問給へはあき人承さん候都はめてたく候かこゝにあはれなる事の候義朝の御台所雲の上のときわ御せんといふ人きんたちあまた引具し行かた知らすうせ給ふを六波羅方の兵ときわ御前を尋かね九条の院におはします母のにこうを生捕て六波羅殿へ参らする清盛おほせけるは親子の中の事なれはしらてはいかゝ有へきとなんはせのをに仰付様々のかうもんはめもあてられぬ次第也子をおもふ道にはかゝるやみにもまよふとかたり捨てそとをりけるときは聞召こはいかに浅ましやわか子を思ふことくにさこそにこうも身つからを不便とおほしめさるらん子をはまふけて又みれと親を二度みる事なし今は力にをよはれす三人の若子共を母うへの御命に取かへはやとおほしめし人にとうへき事ならねは我身一ツにおもひかへ八幡まふてと事よせて出させ給ひけるとかや加藤次申けるはゆかんもいまた打とけす弥生の比になるならは花みかてらのまふてには御なくさみもおほかるへしとをしとゝめ申ときは聞召子共のための願なれは今参らてはかなはしと仰けれは加藤次ちからにをよはすと若達をは下男にいたかせよはにまきれて出給ふ西をはるかになかむれは雲をおひたるたかま山すゑは葛城雪白く花かとのみそうたかはる初瀬の寺の鐘の声おのへにひゝく朝ほらけ三輪の山本すきかてにふるの中道在原や寺ゐの跡もなにしおふむかしおとこそ忍はるゝ奈良の都をみわたせは堂塔軒をならへたり興福寺と申は大[⿰衣戠]冠の御願所こうはく女と申は異国の王の后となり御父の大[⿰衣戠]冠大からんをたてさせ給ふとつたへきこしめされて三国一の重宝五寸の釈迦のれい像をすいしやうの塔に入数のたからをそろへつゝをくらせ給ひけるとかやすみかは他生なれとも親子の思ひ浅からす心さしは一ツにて遠きも近き心なりされはくしのことはにもけをへたつるといへとも心かよふを憐といふ我も都におはします母上の御命に三人の若共をかへむとおもふ心さし七堂のほとけ達不便と思召るらん七堂と申は興福寺のうちにありみなとりとりの御願しよありかたさよとふしおかみ行は程なく木津川やはるかにみれは八幡山いかてか八幡の捨ははてさせ給はしなみのをちかたやましははら宇治にこそまよひけれめくり来てみれは水車なかれはたえぬうたかたの槙の嶋こそうかりけれさんぬる正月十八日の雪の日をまよひくらして伏見山またきさらきの十八日にめくりきぬ清水へまふてたく思へとも心にまかせぬ事なれは余所なからふしおかみ九条の院にまいらせ給へは数の女官立出ときわを中に取こめて行かたしらすと聞しほとにさりともとこそ思ひしに雉のかくれのことくにてあらはれ出たるかなしさよ人目にめれぬ其さきにとくしのへとそ仰けるときわきこしめし忍ふへき身にてさふらはは何しに是まて参るへき母上の御命にかはらんため三人の若を引具し参りてさふらふと申されけれは女院きこしめし親かうかうの心さし世にはあらしと思へ共すゑも久しき事ならすやよくよく思ひさためよと再三御諚くたりけりときわ此由承り仰はかたしけなけれとも君と親をくらふれはきみに命はすてやすし親と子をあわすれはいかてかおやをおろかにせん神明よりもかたしけなく仏体よりもたつときは君と親にておはします思ひきりぬる事也と重而そうし申さるゝ女院聞召君と親とのために命をすてんと申こそあまり思へは不便なれそれそれしやうそく出たゝせよ承と申て十二一えにくれなゐのちしほの袴給りけり今若は七ツなり紫すりのひとかさね精好の大口すゝしのひとえ直垂きせめのとを十人つけ給ふをと若は五ツ也しらねりぬきのはたつけにけんもんしやのひたゝれきせめのとを五人付られたり牛若は二歳也ねりぬきに紅梅かさねひきまはしの帯はかりめのとを三人付給ふときわに官を給りけり大納言のすけの局ににんせらるる最期の乗物也とて八ようのくるまを給りけりいく程のるへきならね共はいしんか錦のこゝちしてうれしさたくひなかりけり彼ときわと申はきうわ六年近衛の院の御とき美女そろへの有し時こき七たうへ勅使をたてみめよき女を千人すくり千人の中より百人すくり百人の中より十人すくり十人の中よりも三人すくつて中にもみさめなきとてときはとかれをなつけたり宮中につかへしを常は院の御心かよはしおほしめさるれとおほろけの人にもまみえぬる事さらになしされは彼義朝は雲の上のときわを風のたよりにつたへきゝいもせは人をゑらはねとうき恋路にそまよいにきすてに彼義朝は天下にきこうる忠しんを恋ゆへ身をいたつらになしなん事の無さんさよ更はときわをとらせよと事にのせて給はりぬむさんやなときわは雲の上のをきふしれうかんにしたしみこうひのやうに有し身をくたされてはいしんにまみえん事のかなしさに身はいたつらになさるゝとあたなはたゝしものうやとうらみなからも義朝の屋形にうつりけるとかやかくてとし月をふる程に忘れ形見をまふけをきかゝるうきめをみる事よと女院はるかにをもかけを御らんしをくり給へは数の女くはん立出てたおれふしてなき給ふ事のうちのなけきをみれは中々物うきにはややれとこそおほせけれ牛飼車をとゝろかし六波羅へすくにやり入る門のけいこ是をみてけうみやうなくは御車をえこそは通すましけれとをしとゝめ申さのみはいかてつゝむへきときわのくるまといひけれはいまた子細もいはせすして三人の若共を一人つゝいたきとつてこむせんさしてそ参ける清盛御らんしてされはいつく嶋の利生のはやさよたすけをきてかなふましい急き是より次第に容すへしはやとくとくとの御諚也いたはしやときはこせん母のそせうを申さんとせのをに付て仰けりけにや親子おんあいはわりなきなかといひなからすゑも久しき若ともを老たるにかへんと思ふ心さしたくいあらしと思ひつゝ心のあるもあらさるも袖をしほらぬ人はなく清盛このよし聞召けにけにさこそおほすらんとといそんしたるにこうをたき出して渡しけりときわ母にいたきつきかの若共を一まつとおもふ心にまきれつゝ母こを跡に捨申かゝるうきめをみせ申も身つからゆへの事なれはめんほくなさはかきりなくにこう此よし聞召出る日よりも頼みある若共をうしなひてこのとしよりをたすけんとやうれしく更にあらすやとたおれふしてそなき給ふときは聞召されて仰はさにてさふらへといかに子共をあはれみても前世の果報つたなくは世をしる事も有ましや今こそかやうにうんつきはてかたきの手にわたる共親に孝ある徳により来世にては必一ツ蓮に生るへし何よりも母上をみ奉つるうれしやとよそめもおほしめされすゝ声をあけてそなき給ふ清盛ときはのなけきを物こしよりきこしめしたとひなけきはとにもあれときはきこふるひしんときく我世にあるしるしにひとめみはやと思召玉章をねんころにしたゝめときわのなけきふし給ふかたはらへをくらせ給ふときわきこしめしつまのかたき子共のてき名を聞たにもうらめしやと更にみ入給はす御使かへり清盛にかくと申清盛きこしめし返事のあらんほとかゝむとて其日のうちに御文のかす廿三つうとそきこへけるときわ御覧してみくるしき事かなといちいちに引さきゑんよりしもへすて給ふ御使かへり有のまゝに申きよもり聞召あめか下の其内に某か消息をさかんものはおほえね母には科はなけれともときわか心のにくけれはいかにもあらくかうもんせよ三人の若共も兄より次第に容すへしをそしをそしとのたまひてあらうみのしやうしを立てはあけあけてはたてれいの長刀ひきつつてしんの板をとうとうとつきならし給へはきんしゆとさまの人々は一度にさしきをはらりとたつて方々へにけんとす清盛このよし御らんしてしつまれかたかたふ覚なりあふ一たんはかりのをとしてありもりくにこうへ参て申さるゝかやうに御文のしけき事も若君様の御氏神の御はからひとこそ存候へ御返事の御座あらはわかきみ様もめてたくわたらせ給ふへし御けうくむあれと申さるゝにこうけにもとおほしめしときわのまへにひれふしわかれしつまのためならはそんしをそたてをきてこそ草のかけなるはうれいも嬉しくおほしめさるへけれ其上御身一人にかきらす昔もさるためしあり異国のかんのしやう王と御てう王と数度のたゝかひ有しときしやう王かけまけ給ひくわんくむみなちりうせ后の宮も王子達も御れいさんにこもらせ給ふ彼しやう王の后の宮ようかんひれいにおはしますてう王叡覧あつてきさきの宮にいはゝむとの勅諚なりきさき聞召れてくんしの法にもれしとて更になひかせ給はねはてう王いからせ給ひ王子五人をいけとつてすてに死さいにをよひし時王子たちをたすけんためなひかせ給ふと承るそれのみならすならの葉のすゑはの露をなかめしにさいこ中将にはよゝの后もなひかせ給ひしとなり石と成しはまうふせきかゝみをわりしとくけんもおもはぬ中のちきりなりたゝ清盛になひき給へ御身か名はくたす共すゑも久しき事ならすやさらすは御身もみつからも扨三人の若共もさいこのきわめ今てありいかにいかにとのたまひてなみたもあせももろ共に床にうかふとおほえたりときわきこしめし母の仰のわりなさに兎角物をものたまはす思ひ入てそおはしけるにこう御覧してすこしくつろく色かとてそはよりも返事をしたまひけり御使の見給ふことく身つからか返事也百夜のしゝのはしかきも数かさなれはなとゝ申こと人のさふらふそやよりより異見を申へしと仰けれはもり国急きかへり清盛にかくと申其時きよもり気色をかへ御座になをらせ給ふさる間ときわの御返事あり清盛御らんして筆のたてとふんしやう書なかしたるにほひすみあらおそろしや主たにもいまた見ぬさきに文にて人をころすやと打もをくへきこゝちもなくまいつひらいつみ給へは奥に咲山のことはありいもか契りはさためなや後の世懸て契れとも一重にかはる縁もありいねかりそめと思へ共なからへはつる縁もありすゑもとをらぬ池水のあた名は余所にたつか弓引かへしてもいられはこそかゝる時のみのうさも心つくしをいかにせん人目もまみへさふらはゝ三人の若共を実子に御なし有へきとのちかひの証文たゝ敷はともかくもとそかゝれける清盛御らんしてこはいかにせんと案しわつらはせ給ひしか蜘蛛のいにあれたる駒はつなく共れんほの中のむすひめはつなきもはてぬならひなりたとへは三人の若を実子になしてあれはとてなんの子細の有へきとかたしけなくもいつく嶋の大明神をしよけんとして三人の若達に敵をなさしとちかひつゝときはのかたへをくらるゝときはこの由御覧して清盛はさありとも或は孫子一そくの御世ともなる物ならはさためて相違有へしとおほしめされける間八人のきんたち卅人の御一門十人の侍大将の起請文なくてはあたなはいかてたちなんと重而おほせ出されけり清盛聞召か程まてきしやう書扨のみやまん無念さよと御一門の人々に起請かけとのふれ状はあふけに浅間敷次第也しけもりきこしめしけにけいせいと書てはみやこかたむくとよまれしも今こそ思ひしられたれと仰せなから書給ふ御一門の人々も思ひ思ひに起請書心々の判をすへときわの方へをくらるゝ其後ときわは清盛になひき給ひけりにこうは大方殿ときわは北の政所いねうかつかう中々申はかりもなかりけり扨こそ寿永の秋のころ平家都をおとされほろひはて給ひしも起請ゆへとそ聞えけるかのときわの心中をは貴賤上下をしなへかんせぬ人はなかりけり
文禄貳年七月十四日
上山与兵衛尉 宗久(印)
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