屋嶋
(毛利家本)

 さる間判官、山伏の姿をまなび、下らせ給ひける程に、七十五日と申すに、遥か奥、佐藤信夫に着かせ給ふ。判官、武蔵を召され、「日は暘谷を出、部州を照らし、やうやう西山にかからせ給ふに、いづくにても宿取り候へ。」武蔵、承り、我が笈に若君を入れ申したれば、亀井が笈に取り替へ、連尺掴んで肩に掛け、ここに登れば、弓手に当たつて丸山一つ聳えたり。かの丸山の麓に、棟門高き屋形あり。
 「この家に立ち寄り、宿取らばや。」と思ひ、堀の舟橋うち渡り、笈を梅花に寄せかけて、内の体を見たりければ、いにしへ由ある人の住みたるが、住み荒らしたると思しくて、門はあれども扉無し。築地はあれど、覆ひも無し。瓦も軒も朽ち果てて、旧苔は門を閉ぢ、葎は壁を争ひて、軒の檜皮は毀れ落ち、ちりちり水は漏り行けども、掬びてとむる人も無し。さて、出居を見てあれば、一張の琴に一面の琵琶をば、立て並べては置きけれども、弾く人のあらざれば、常に松風吹き落ちて、ざらりと弾かんより外は、琵琶、琴調むる人も無し。昔の変はらぬ物とては、南殿の桜、星の光、月の光と日の光、水の底にて年を経る、蛙ばかりぞ音をば鳴く。
 内の体のいたはしさに、宿取らうずる事を、はつたと忘れ、時を移して立つたりしが、西面を見てあれば、持仏堂と思しくて、宝形造りの御堂あり。立ち寄り、拝み申すに、阿弥陀の三尊と、名誉の人麿を絵像に写し掛け、堂の辺りには、四節の四季をまなぶ。まづ東は春に似て、大庾嶺の梅の花、昔ながらの山桜、伏見小枝の花までも、木々の梢に咲き乱り、鶸、こがら、鴬の、軒端の梅に羽を休めて、音を出しかねたる所には、けいけいほろろの雉子の声、けいならば、けいにては無くして、何ぞや後のほろろの音、いつも春かと見えにけり。南は夏に似て、洲浜に池を掘らせたり。池のその中に、蓬莱、方丈、瀛州とて、三つの嶋をぞ築かせたる。嶋より陸地へは反橋を架けさせ、橋の下には浦嶋太郎が釣舟、童男丱女がうつほ舟を、五色の糸にて繋がせて、常楽我浄の風吹かば、汀へ寄れと繋いだるは、いつも夏と見えにけり。西は秋に似て、四方の梢の色付き、白菊、絶えぬ風情。北は冬かとうち見え、山岳は峨々と聳えたり。売炭翁は、おのが衣は薄けれど、冬を待つこそ優しけれ。冬にも成れば炭を焼く。炭窯の煙の青うて細く立ち昇るは、いつも冬と見えにけり。
 「ああら、面白や。」とうち眺め、山伏の声立てて、宿取る法のあらざれば、腰に付けたる法螺の貝の、緒を解き延べて、武蔵、宿取りの貝を吹く。久しう経てど、人音もせず。「人は無きやらん。」と思ひ、「立ち出ん。」とせし時、風も吹かぬに妻戸が鳴る。そなたをきつと見たりければ、六十に余り、七旬に及うだる尼公の、朽葉の小袖、髪に掛け、水晶の珠数爪繰り、口に仏言を唱へ、十三人の山伏達をつくづくと御覧じて、何と物をば仰せもなく、我が子の事を思ひ出して、先立つものは涙なり。「承れば、御大将判官、山伏の姿をまなび、この国へ御下向の由を申すが、我が子の嗣信、忠信、西国方にて討たれずし、御供申して下るならば、埴生の小屋に立ち寄り、宿取り立つたるらんも、これにはいかでまさるべき。」と、思ひ廻せば小車の、遣る方なきは心かな。
 「いにしへの山伏達は、よう連れ給ふ時は、五人、六人こそ御下りありしに、この度は、上下十三人まします。中に少人も一人ましますや。『法は万法、行は万行。』とて、よろづの行の中に、山伏の行程もの憂き事は、よもあらじ。あれ程美しく、花のやうなる少人を、馬にも乗せ申し下れかし。さなくは若き山伏の、肩にも乗せて下らずし、邪見の真砂を踏ませ申す事のいたはしさよ。少人の父母の、国元にましまして、さこそ嘆かせ給ふらめ。みづからが明け暮れと、子どもが事を思ふにぞ、いとど思ひの変はらず。」と、涙にくれて立ち給ふ。
 「なう、いかに、山伏達。これは、みづからが住み荒らして、見苦しく候程に、御宿は叶ひ候まじ。日の暮れさせ給はぬ先に、他所にて御宿を召され候へ。」武蔵、聞いて、「いやいや、この家にて宿取り損じ、野宿取つて叶はじ。」と思ひ、「ああら、うたての仰せや候。一通り一時雨、一村雨の雨宿りも、百生の機縁と承る。費長房、丁令威は、鶴の羽がひに宿を借る。達磨尊者、芦の葉に召す。張博望がいにしへは、浮き木に宿を取るとこそ、承り及びて候へ。我等ばかりと思ひなば、とても寝られぬ月の夜の、野に臥すとても力無し。御覧ぜられ候へ。十羅刹女の御跡を継がせ給ふべき、少人を只一人具し申す。出居までが嫌ならば、軒の下の御芳志の、あるべきなり。」と借りにけり。
 尼公、聞こし召されて、「げにげに、この里にて、みづからが御宿を参らせずは、誰やの人の心ありて、参らすべきぞ。こなたへ御入り候へ。」とて、山伏達を請ぜらるる。各々、移らせ給ひて、例時懺法を尊うあそばす。懺法過ぎぬれば、瓶子一具、蝶花形に口包ませ、女房達に抱かせ、尼公、出合はせ給ひ、人の親の子を思ふ道程、哀れなる事、よもあらじ。子どもが行方の聞かまほしさに、みづから立ち出給ひて、行方も知らぬ山伏達に、すずろに酒を強いられけり。
 酒も半ばなりし時、尼公、武蔵が袂を控へ、「昼を宿を召されし時、『都の人。』と仰せ候程に、吹き来る風も懐かしう候。もし御大将判官殿の御行方ばし、知ろし召されて候か。夢ばかりみづからに、語りて御通り候へや。」弁慶、聞いて、「さては我が君の御下向が、遠国遠里に隠れもなくて、問はするぞ。」と思ひ、尼公をはつたと睨んで、「ああら、可笑しの仰せや候。山伏の名は、世の常多しと申せども、大将判官坊と言ふ名をば、聞いたりとも存ぜず。さりながら山伏は、五人は五国、十人は十国、知つたる方も候らんに、余の方へ御尋ね候へ。この法師に於いては、いさ知らぬ候。」と、愛想なげに答ふる。
 尼公、聞こし召されて、「げにげに、尤も、御道理。人の行方を尋ね申すとて、我が先祖をば申さずし、『御語りあれ。』と申す程に、御語り無きは、理候。いでいで、みづからが先祖を、語りて聞かせ申さん。これは、両国の秀衡が妹、出羽の庄司が後家、嗣信、忠信兄弟が、我は母にて候ぞや。一年、御大将判官、この国へ御下向あり。佐藤、秀衡催し、十万余騎に着到付け、御上洛の御時、君は、向うに見えて候、丸山の麓に御陣を召す。夫の庄司、雑掌構へ、参ずる。『嗣信、忠信兄弟、君の御伴。』と申す時、佐藤殿、御覧じて、『いかに、兄弟よ。西国への御供は、国を隔て、関を越え、遥々の道ぞかし。我また老体にて、子どもが姿を再び相見ん事も難し。兄御供を申さば、弟は国にとどまれ。弟御供を申すならば、兄は国にとどまつて、老体の父母が成らうずるやうを見果てよ。』
 「兄が申しけるやうは、『御諚、尤もにて候に、忠信は、とどまり候へ。何がし御供。』と申す。又、弟が申しけるは、『大人しやかに嗣信は、国にとどまり給ひて、父母を慰め御申しあれ。何がし御供。』と申す。これが喩へかや、『諸仏念衆生、衆生不念仏。父母常念子、子不念父母。』と説かれ、諸々の仏は衆生を思ひ給へども、衆生、仏を思ひ申さず。高きも賤しきも、親は子を思へども、子は親を更に思はず。若き者にて候程に、都を見んずる事を、『嬉しき。』と申し、『太刀よ、刀よ。馬、物具。』と用意する。力及ばず佐藤殿、白河二所の関まで君の御供を申し、子どもを閑所に近付け、『いかに、兄弟よ。とても御供申すならば、命を全う、高名を極め、佐藤が家の名を上げて賜べ。西国の合戦は、奥の軍には似るべからず。化粧軍にてある間、駆くるは易けれども、引くが大事にありと聞くぞ。駆けうずる時も、兄弟連れて駆け。引かうずる時も、兄弟連れて引け。まばら駆けするな。城を落とさば、嵩へ廻れ。嵩に付いて落とさば、遥かの渚に下つて、小河に付いて落とせ。小河流れば、大河に出よ。大河に付いて落とさば、やあ、必ず里に出づべし。群鴉立つならば、手負、死人のあると知れ。沖に鴎訪れば、敵の勢と思ふべし。
 「『西国にて兄を討たせ、国元に候父が見たう候。母が見たいなんどとて、兄が形見を取り持つて、忠信、国に下つて、老した我を恨むるな。弟を討たせて嗣信、国へ下るなよ。かくは言うてあれど、花のやうなる兄弟を、死ねとは更に思はぬぞ。但し弓取は、名こそ惜しう候へ。人は一代、名は末代。名に付いたらんその疵の、末代までも、よも失せじ。構へて命を全う、高名を極め、殿ばらも名を上げ、庄司が名をも上げて賜べ。』と、かやうに仰せ候ひて、君に御暇申し、宿所に帰らせ給ひて後、彼等が恋しき折々は、兄弟が植ゑ置きし花園に立ち出、常は慰み給ひしが、恋風や積もりけん、さて定業や来けん、一日二日とすぎの窓、限りの床に臥し給ふ。みづから余りの物憂さに、いまだ庄司、存生にありし時、兄弟の者どもに、毛切れのしたる鎧着せ、都へ上せたりつるが、心に懸かり思ふなり。『鎧縅し立て、喜ばせんと思ふ。』とて、兄の嗣信は小桜を好めば、小桜縅に結構す。さて弟の忠信は、卯の花を好めば、卯の花縅に結構し、『今や遅し。』とかの者ども、待つしるしこそなかりけれ。
 「あら、いたはしや、庄司殿。今を限りと見え給ふ。みづから悲しさに、両の物具取り出し、二人の嫁御にこれを着せ、中門に立たせ、『嗣信参りて候ぞ。忠信参りて候ぞ。なう、父御前。』と申す時、今を限りの庄司殿、かつぱと起きさせ給ひて、御方達が姿をば、つくづくと御覧じて、『そのいにしへの面影の、ありとのみばかりにて、今の心は慰みぬ。三月の名残には、小桜ばかりや残るらん。さて四月の名残には、卯の花ばかり残りけり。それ天竺の習ひに、恋しき人の面影を見んと思ふ時には、せついせき山に上がり、岩の角を叩いて、駅路の鈴を振るとかや。大国の習ひには、反魂香を焚くとかや。さて我が朝の習ひには、夢にならでは見えばこそ。これは、うつつに面影を見つる嬉しさよ。恋しの嗣信や。ああら、恋しの忠信。』と、これを最後の言葉にて、朝の露と消えさせ給ふ。庄司に離れて三年なり。子どもに別れ、七年。なう、客僧。」と宣ひて、袂を顔に押し当てて、はらはらと泣かせ給ひけり。
 判官、御座を立せ給ひ、弁慶を召され、「今までは、『いかやうの者ぞ。』と思ひてあれば、さては、何がしが命に替はりたる、嗣信、忠信兄弟が母にてありける事よ。せめて二人に一人をも、具し連れ下つたる身にてもあらず。何のいみじさに、『義経。』とは名乗るべきぞ。武蔵、心得て、彼等が最後の体を、よそよそながら見た体に語つて聞かせ、慰めて賜べ。」と仰せければ、弁慶、承り、「御諚の如く、不憫に候。語つて聞かせ申さん。」とて、元の座敷に直り、思ひ寄らざる物語を、二つ三つ語り出し、只今思ひ出したる風情にて、横手をちやうど合はせて、「ああら、いたはしや候。その嗣信とやらんの最後所をこそ、この法師が見て候ひしか。御望みにてましまさば、語つて聞かせ申さん。」と言ふ。
 尼公、聞こし召されて、「ああら、嬉しや候。彼等が行方を聞かんには、十物十、百物百をなりとも積んでこそ、御目に懸かるべけれ。」とて、巻絹三十疋、武蔵が前に積ませらるる。さて又、彼がために縅し立てたる物具を、取り出させ給ひて、「なう、これこれ、御覧候へや。彼が恋しき折々は、この物具を取り出し、これを見てこそ慰みしに、只今参らせ候ひて、明日より後の恋しさを、何に頼りて慰まん。さりとては力なし。彼等が行方を聞かんには、明日の事をも思はれず。いでいで、さらば参らせん。」と、二領の物具の、綿噛掴んで引つ立てて、武蔵殿が前に置く。嗣信、忠信の忘れ形見、「夫の行方を聞かん。」とて、砂金百両、三つなりの橘形に積ませつつ、四間の出居へ抱き出て、武蔵殿が前に置き、上から下に至るまで、『物語聞かんず。』とて、三戸を潜めて音もせず。さても武蔵は、屋嶋の磯の合戦を、事こまかにぞ語りける。
 「そもそも年号は元暦元年、頃は三月下旬、四国讃岐の八嶋の磯を通りし時、源平の合戦、真最中と見ゆる。その時、山伏六人候ひしが、二人は、『見ん。』と言ふ。三人は、『通らん。』と申す。中にもこの法師、『かやうの事を見置きてこそ、人にも語る処。』と思ひ、笈を下ろし、小松の枝に掛け置き、遥かの渚に下つて、源平の合戦を、しづしづと見物す。日をきつと見たりければ、申の半ばの事なるに、沖の平家方よりも、六尋ばかりなる小舟一艘、ざざめかいて押し寄するを見れば、人三人乗つたりけり。一人は楫取、一人はわつぱ、今一人は大将。
 「大将と思しき人の、肌には何をか召されけん。精好の大口の、そば高らかに押つ取つて、卯の花縅の鎧を召し、梨子打烏帽子押つ込うで、白綾畳んで鉢巻にむずと締め、びやうどう作り五人張、締めの関弦掛けさせ、真中握り、横たへ、手矢ばかり押つ取つて、惣門の渚へ、舟をざざめかいて押させらるる。陸近くなりしかば、舟梁に突つ立ち上がつて、大音上げて名乗られけり。『只今、平家方よりも進み出たる兵を、いかなる者と思ふぞ。一品式部卿葛原の親王に九代の後胤、門脇殿の次男、能登守教経。惣門の渚へ度々に於いて向かふといへど、未だ東国の大将に見参せず。東国の大将に見参。』とぞ名乗られける。源平、鳴りを静めて、名字名乗りを確かに聞く。
 「又、源氏の陣よりも、大将と思しき人の、進んで出させ給ふ。その日の御装束、華やかにこそ見えにけれ。肌には何をか召されけん。赤地の錦の直垂、緋縅の鎧、同じ毛の五枚兜に、鍬形打つて龍頭据ゑたるを、猪首に召され、古年刀の腰の物、二尺七寸の黄金作りの御佩刀、足緒長に結んで提げ、二十四さいたる切斑の矢、筈高に取つて付け、三人張の真中握つて、丈七寸ばかりに真黒なる馬に、金覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召されたつしが、味方の中をばしづしづと歩ませ出づ。間近く成りしかば、鐙踏ん張り、鞍笠に突つ立ち上がつて、大音声にて名乗られけり。『只今、陣頭に進み出たる兵を、いかなる者と思ふぞ。事もおろかや、清和天皇に十代の後胤、源九郎義経。惣門の渚へ度々に於いて向かふといへど、未だ能登殿とやらんに見参せず。能登殿ならば、花珍しう見参。』とぞ名乗られける。
 「能登殿、聞こし召されて、『大将の御目にかかりたる、しるしなうて候べきか。小兵には候へども、中差を一筋奉らんに、いづくと矢壺を賜はつて仕らん。』とありしかば、源氏の大将、逃れがたくや思しけん、腰よりも紅に、日を出したる扇抜き出、はらりと開き、胸板をほとほとと音づれ、『矢頃は、真秀と候ぞ。ここの程をあそばせ。』とぞ仰せける。既に御命、危うく見えさせ給ふ処に、又、源氏の陣よりも、伏縄目の鎧を着、葦毛の馬に乗つたる武者一騎、進み出、君の矢面に駆け塞がつて、大音声にて名乗るやう、「只今陣頭に進み出たる兵を、いかなる者と思し召す。奥州の住人、佐藤の庄司が二人の子、兄の嗣信なり。能登殿の大矢を、真只中に受け止めて死んで、閻魔の庁にての訴へにせん。』と呼ばはりけり。
 「能登殿、この由聞こし召し、『あつ。剛なる兵かな。一騎当千とは、かかる者を言ふらん。志の侍を、教経が手に掛けて、射落としてあればとて、負けうず軍に勝つべきにてもあらず。又、助けてあればとて、勝たうず軍に負くべきにても、あらばこそ。志の侍を助けてこそ。』と宣ひて、はげたる矢をゆるされけり。いしかつつる処に、わつぱの菊王丸が、支へ申しける事は、『なう、御諚にて候へども、嗣信、忠信は、剛の者にて候ぞ。それをいかにと申すに、一の谷の落ち足、屋嶋の落ち足にも、ここにては嗣信、かしこにては忠信と名乗つて、先帝、女院の御座舟を恐れずして、錆び矢を射かけし狼藉人で候ぞ。その上、軍陣にて敵一騎討たるれば、味方千騎の強り。味方一騎討たるれば、敵千騎の強りと承りて候ぞや。その上、この者どもは、異国の樊噲、張良を欺く程の人で候。軍神の御手向に、只一矢候。』と、支へてあり。
 「能登殿、この由聞こし召し、『いしうも申したる菊王丸かな。その儀にてあるならば、中差一筋取らせん。』と、十五束三つがけ、剣のやうに磨いたるを、五人張にからりとつがひ、本弭末弭一つに成れと、きりきりと引き絞り、まちを拳に引つかけ、『えいやつ。』と勝手うつたるは、やあ、胴突なんどの如くなり。一陣に進んだる、さても嗣信が胸板に、ばつしと当たり、血煙が、ばつと立ち、押付へ、ぐつと抜けにけり。無残や、嗣信が最後はよかりかり。『答の矢射んず。』とて、弓と矢をうちつがつて、うち上げて、『引かん。あう。引かん。放さん。』と、二、三度、四、五度しけれども、精兵の大矢に、肝の束ねは通されつ。何かは以て堪ふべき。弓と矢をば、からりと捨て、弓手の鐙、蹴放つて、妻手へかつぱと落ちにけり。今思ひ合はすれば、御身の御子息か。いたはしさよ。」と申しけり。
 三人の孫、二人の婦子、尼公、諸共に一度に、「わつ。」と叫び給へば、義経を始め奉り、十三人の人々も、八嶋の磯の合戦を、只今見る心地して、篠懸の袂を絞られけり。尼公、涙を留めさせ給ひ、「さて、なう、嗣信は、その手にて、はかなく成りて候か。弟の忠信は、何と成つて候ぞや。」判官、不憫に思し召し、「猶も語つて聞かせよかし。」と思し召し、武蔵が方を御覧じければ、弁慶、やがて心得、「ああら、無残や、嗣信。その後、遠浅の事なるに、兜の忍びの緒が切れて、髻は波に揺られぬ。能登殿の童、菊王丸、『嗣信が首取つて、見参に参らん。』と、舟より下に跳んで下るる。
 「忠信、この由見るよりも、『兄の頸を平家方へ、渡しては悪しかりなん。』と思ひ、四人張に十四束、取つて、からとうちつがひ、よつ引いて、ひやうど射た。勇みに勇んで下り立つたる、菊王が膝の口に、したたかに当たる。大事の手なれば、受けもあへず、犬居にどうど伏す。忠信、この由見るよりも、『わつぱが頸取つて、兄の孝養に報ぜん。』と、打物抜いてさしかざし、ゆらりゆらりと寄つたりけり。能登殿、御覧じて、『わつぱが首を源氏方へ渡しては、弓矢の恥辱ぞ。』と思し召し、舟よりも跳んで下り、菊王が上帯かいつかんで、舟の内へ『えいやつ。』と言うて、投げられたり。ああら、無残や、菊王丸。この手にて看病するならば、死ぬまじかりつる手なれども、大力に舟の船枻に、したたかに投げ付けられて、頭、微塵に砕けて、終に、はかなく成つたりけり。
 「事、仮初とは思ひけれども、源氏に侍討たるれば、平家にも郎等死んだりけり。能登の守教盛、この由を御覧じて、『隙間数への忠信に、只中通され候ひては、悪しかりなん。』と思し召し、沖へ舟を出させらるる。門脇の平宰相、『能登守教経こそ、陸の軍にし負けてあれ。教経討たするなや。続け、兵。』と仰せけり。『承る。』と申して、筑紫大名に大友諸卿、菊池、原田、松浦党、惟任、惟住、戸次、山住、この人々を先として、七百余騎に過ぎざりけり。舟一面に押し並べ、馬どもをば海上に追つ引いて、舟腹に引つ付け引つ付け、ざざめかいて泳がせらる。陸近く成りしかば、駒を引き寄せ引き寄せ、ひたひたとうち乗つて、一枚はぎの渡り楯を、駒の頭に突きかざして、七百余騎が牟礼、高松へ、一度にざつと駆け上げたり。
 「源氏二百余騎、面の広き畳楯、一面に突かせ、矢衾作つてさし取り引き詰め、散々に射たりけり。平家の軍兵どもは、ひと支へも支へずして、渚へざつと引きにけり。悪七兵衛、これを見て、『憎し、きたなし。返せ、戻せ。』と、おめき叫んで駆けにけり。源氏二百余騎、矢種尽くれば、打物の鞘を外し、『わつ。』と言いて駆け合はせ、平家の追はるる時もあり。源氏の追はるる時もあり。追うつ返しつ、駆けつ戻いつ、あう、申の半ばより酉の下りまでは、駆け合ひの合戦に、源氏、平家疲れつつ、相引きにざつと引いたりけり。
 「西塔の武蔵坊が、この由を見るよりも、『是非、某、一合戦仕り、見参に参らん。』と、好む処の長刀、水車に廻いて、『西塔の弁慶が、只今、懸かるなり。平家方の軍兵ども。憎し、きたなし。返せ、戻せ。』と、大声を上げてぞ駆けにける。平家の軍兵ども、弁慶が懸かる時に、中をあけて通しけり。元より弁慶、敵に会うて速き事、猿猴が梢を伝ひ、弥荒鷹が鳥屋をくぐつて、雉子に会ふが如くなり。大国のしうぢくわいは、函谷の関を破つて、敵に会ふが如くなり。元より武蔵、腕の力はおぼえたり、長刀の鉄はよし。長刀を押つ取り延べて、向かふ者の真向、逃ぐる者を、押付、母衣付、高腰、胴中、草摺の余りを、当たるを幸ひに、はらめかいてぞ切つたりける。手元に進む兵を三十六騎、はらはらと切り伏せ、大勢に手を負ほせ、東西へばつと追つ散らかし、長刀、肩にうち掛け、あう、味方の陣へ引いたりける、武蔵坊が有様は只、樊噲もかくやらん。平家の軍兵ども、舟よりも上がりし時は、七百余騎とは見えしかども、わづか二百騎余りに討ちなされ、沖へまばらにざつと引く。源氏二百騎も、八十三騎に討ちなされ、瓜生山に上がり、各々陣取り、静まりければ、戌亥の刻に成りにけり。
 「判官、武蔵を召され、『奥州の忠信は、いづくにあるぞ。具して参れ。』『承る。』と申して、御前を罷り立つ。『この辺に、奥州の佐藤殿やおはします。忠信は、いづくにあるぞ。大将の召しのあるに、急いで御参りあれ。』と、高らかに呼ばはる。ああら、無残や、忠信。昼、舎兄嗣信の、手負ひぬると見るからに、合戦、心に入らず。とある山の端に、そなたばかりを見送り、心細げに立つたりしが、『大将の召し。』と承り、武蔵と連れて、君の御前に畏まる。判官、御覧じて、『いかに、忠信。兄の嗣信が行方をば知らぬか。』忠信、承り、『さん候。兄にて候者、手負ひぬるとは見候ひしかども、駆け合ひの合戦、暇もなくて、その行方も存ぜず。』と申す。『あう、げにげに、それはさぞあるらん。急ぎ具して参れ。』忠信、承り、『ああら、ありがたや。御意下らずとも尋ねたく』思ひしに、まして御諚の上。『おつ。』と答へて御前を立ち、傅に信夫の十郎光遠を供として、遥かの渚に下りけり。
 「頃は三月二十日余りの事なれば、月は出ずして道見えず。涙ぞ道のしるべなる。太刀を杖に突き、遥かの渚に下りつつ、昼の軍場を、『この辺ぞ。』と思ひて、牟礼、高松の西東、洲崎の堂の北南、渚に沿うて尋ねけり。『この辺に、奥州の佐藤殿やおはします。嗣信やまします。』と、静かに呼うでぞ通りける。軍乱れの事なれば、手負、死人の臥したるは、算を乱した如くなり。手負どものによふ声、耳に触れて哀れなり。乗り越え乗り越え尋ぬるに、いとど哀れぞまさりける。牟礼、高松の事なれば、洲崎に寄する波の音、浜千鳥の友呼ぶ声、我を問ふかと思しくて、心細さはまさりけり。ああら、無残や。嗣信は、大事の手負ひてありけるが、弟の忠信に、最後の名残や惜しかりけん、死にもやらずして、上げ舟の辺りに下人の男に、看病せられて居たりしが、忠信が声と聞き、磯うつ波と諸共に、『誰そよ。』とこそ答へけれ。
 「忠信、するすると寄つて、『いかに、嗣信。心は何とましますぞ。御手は大事に候か。いかに、いかに。』と申す。ああら、無残や、嗣信。我が身の事をば何とも言はず、暫くありて息を継ぎ、『やあ、君は御手も負ひ給はぬか。味方はいか程に討ちなされたるぞ。さて、御事は手をも負はぬか。』忠信、承り、『さん候。味方はわづか、八十三騎に討ちなされ候ひぬ。大将、御手も負ひ給はず。何がしも、手も負ひ候はず。御心安く思し召せ。』嗣信、聞いて、『あう、嬉しいものかな。その儀にてあるならば、今生に息の通ふ時、大将の御目にかかりたいぞ。具して参れ。』忠信、なのめに悦うで、急ぎ洲崎の堂よりも、遣戸を取り寄せて、嗣信を舁き乗せ参らせて、先を忠信舁きければ、後を信夫ぞ舁きにける。涙ぞ道のしるべなる。
 「武蔵殿、常陸殿、亀井、片岡殿、駿河殿、『弓取と申すは、今日は人の上、明日は我が身の上ぞかし。いざや、佐藤を見継がん。』と、遥かの渚に下りくだり、嗣信を舁き乗せて、牟礼、高松に上がりければ、東の山の端に、月ほのぼのと出にけり。『早、舁いて参りたる』由を申し上ぐる。『近う舁け。問ふべき子細あり。』『承る。』と申して、御座間近く舁き寄せければ、忝くも判官の、御座を寄せさせ給ひ、嗣信が頭を、御膝の上に舁き乗せ給ひ、『いかに、嗣信。心は何とあるぞ。手は大事なるか。思ひ置く事あらば、只今申せ。明日にも成るならば、奥州へ人を下すべし。いかに、いかに。』と仰せけれども、何と御返事を申しかね、うちうなづいたるばかりにて、胴の内に、によふ声あり。和田、秩父、左右にして、『ああら、無残や、嗣信。さこそ心剛なる武者とは申せども、最後近付きぬれば、力無し。不憫なる次第かな。』とて、各々、涙を流されけり。
 「後にて介錯仕る弟の忠信、『手負に力を付けばや。』と思ひ、荒らかなる声を上げ、『ああら、あさましの嗣信の御振舞や候。譬へ事は候はねども、鎌倉の権五郎景正は、鳥の海の弥三郎に射られ、その矢を抜かで折り掛け、三日持ちて廻り、答の矢を射おほせてこそ、今、鎌倉の御霊の宮と、斎はれ給ふとは承れ。それ程こそおはせずとも、か程の細矢一筋に、さやうにやみやみと弱り給ふか。忝くも枕上は、三代相恩の主君、弓手は秩父の重忠、妻手は和田の義盛なり。後にてかやうに申すは、忠信にて候ぞや。何事をもかごとをも、御前で申させ給へ。』とて、さしもに剛なる忠信も、今の別れの悲しさに、籠手の鎖を濡らしけり。
 「嗣信、聞いて、『何と申すぞ。権五郎景正は、その矢を抜かで、答の矢を射おほせけるよな。やあ、それは、薄手にてあればこそ、三日持つて廻りつらめ。景正に嗣信が、劣るべきにはあらねども、能登殿の大矢は、大国までも隠れなきに、只中を通されて、嗣信にてあればこそ、今までも長らへて、御前で物を申せ。えい、何事も何事も、皆偽りと成るぞとよ。国へ形見を下すべし。肌の守りをば、老してまします父母の二人に。一人長らへてもましまさば、雪見の窓の折れ竹の、世はさかさまの事なれど、形見にこれを参らせん。鬢の髪をば、若どもが母に取らすべし。鞭と弓懸をば、二人の若に取らすべし。太刀をば信夫に取らするぞ。鎧は毛切れしたりとも、わ殿、取つて着て、嗣信に添うたと思ふべし。構へて忠信よ、嗣信が浮世にあるやうに、心遣ひを仕りて、傍輩に憎まれ申すな。えい、御暇申して、我が君。暇申して、傍輩達。あら、名残惜しの忠信や。』高声に念仏十遍ばかり唱へしが、かすかなる声を上げ、『武蔵殿は、いづくにぞ。弟の忠信に、目懸けて賜べ。』と言ひ捨て、惜しかるべし、惜しむべし。朝の露と消えにけり。上下万民押しなべて、哀れと弔はぬ人ぞなき。判官、不憫に思し召し、『只今も孝養したけれども、昼、平家、負け軍にてある間、もし夜討にや上がらん。』と、要害構へ、用心、暇もましまさず。天明けければ、讃岐の国、志度の道場の聖を請じ奉り、嗣信を孝養し給ふ。
 「『無残や、かの者が、度々所望せし事を、叶へぬ事の無残さよ。所望と申すに、別の子細ならず。あれに候、大夫黒が事。一年、義経、奥州に下り、佐藤、秀衡を催し、十万余騎に着到付け、上洛の時、秀衡、大黒、小黒とて、二疋の馬を秘蔵して持つ。小黒と言つしは、あの馬より、丈抜群に上つて候へども、心後れたるによつて、小黒と名付く。大黒とは、あの馬の事候よ。秀衡、申せしは、それ、弓取の、戦場に臨んで高名を極むる事、馬物具に如くは無し。これに召され候ひて、御代を開かせ給へとて、何がしに得さする。某が手に渡つて、乗り心よし。足の速き事は、飛ぶ鳥の如し。楽の名によそへて、青海波と名を付くる。鎌倉殿の生食、磨墨、蒲殿の虎鴾毛、何がしが青海波とて、和朝に上越す馬は無し。
 「『元暦元年正月二十日に、宇治川渡し、同じき二月七日に、一の谷鉄拐が嶺を落とし、平家の首多く取つて、大内を渡し、院の御目にかかり、大夫の判官に成され申す時、馬も、源氏に吉事の馬なればとて、大夫黒に補する。されば、延喜の帝の御時は、白鷺を抱き取つて、五位になされしためしこそ候へ。馬の大夫司は、ためし稀なりとて、大夫黒にぞ補せられける。東寺四塚の辺にて、無残や、嗣信。何がしが辺りへ、駒かしかしと歩ませ寄せ、あつぱれ御馬候や。奥にて見参らせしより、丈抜群に上つて候。あはれ、この御馬を賜はり、君の真先駆け、討死せんずる命は、露塵ほど惜しからじと、度々所望せしかども、いやいや、嗣信に劣らぬ程の忠の武士多し。自余の恨みを着じと思ひて、取らせぬ事の無残さよ。最後なれば、忠信、引きたうこそ思ふらめ。よしよし、恩を見て恩を知らざるをば、鬼畜木石に譬へたり。いでいで、義経も大夫黒引いて、命の恩を報ぜん。』とて、忝くも御手を、大夫黒が水鞚に掛けさせ給ひ、嗣信が死骸の周りを、かなたこなたへ引き廻し、その後忠信、賜はれり。げにや嗣信、この世にて、『欲しし、欲しし。』と思ひし念や通じけん、馬は北の物なれば、北風にいばいて、白泡噛うで、終に空しく成りにけり。以下の者、これを見て、『正しく嗣信賜はりて、冥途まで乗るよ。』とは、言はぬ者こそなかりけれ。伝へ聞く、大国の太宗皇帝は、髭を切つて灰に焼き、功臣に与へ賜びにき。疵を癒し、血をしめし、戦士を撫でしかば、命は義によつて軽し。命は恩のために遣はす。いかにもその身の殺さるる事をいたむまじ。本朝の義経は、忠ある侍に、大夫黒を引かれけり。これを見る人々、『いよいよ勇みあるべし。』と、感ぜぬ人はなかりけり。
 「翌日の合戦に、源氏、七騎に討ちなされ、志度の浦とかや、松が鼻といふ所に、陣取つてまします。熊野別当湛増、一千余騎の勢にて、味方に参らるる。源氏の御勢、一千余騎に成り給ひ、誇る平家を事ゆゑなく平らげ、三種の神器、事ゆゑなく、都へ返し給ひけり。弟の忠信、吉野山まで御供す。吉野山にて大衆達の、心変はりのありし時、その時忠信、判官司と着背長を申し賜はり、一人、峯にとどまり、『判官殿。』と名乗り、吉野法師を待ち受け、散々に合戦し、そこにても討たれずし、都へ上つて、腹切つて空しくなる。その人々の事ならば、今生の対面は、思ひも寄らぬ事なり。念仏し給へ。」とて、武蔵殿が笈よりも、嗣信の形見、忠信の形見を取り出し候ひて、尼公にこれを奉る。
 尼公、形見取り上げ、顔に当て、胸に当て、流涕焦がれ悲しむ。何に譬へん方も無し。判官、御覧じて、「心尽くしに、いつまで包むべき。」と思し召されける間、「これこそ、いにしへの源九郎義経。」と、御名乗りありければ、尼公、承り、「子どもが事は、さて置きぬ。三代相恩の君を拝み申す事、嘆きの中の悦び。」と、喜ぶ事は限り無し。これに暫くとどめ申して、平泉へ使を立てにけり。秀衡、悦んで、嫡子錦戸、次男泰衡を先とし、三千余騎の勢にて御迎へに参り、平泉へ入れ申し、衣川高舘と申す所に、新造に御所を立て、柳の御所と申して、秋田、酒田、津軽、合浦、外の浦、日垸飯を構へて、いつきかしづき申す。かの秀衡が心中をば、貴賤上下押しなべ、感ぜぬ人はなかりけり。

前頁  目次  次頁  翻字版