岡山
(平瀬氏本)

 その後、佐藤庄司が後家、心の内に思ふやう、「それ人間は老少不定、夢幻の世の中。昨日見し人、今日は無し。我れ存生の間に、嗣信、忠信が子どもに、君の御前にて烏帽子を着せばや。」と思ひ、秀衡に、「かく。」と語る。秀衡、これに同じ、吉日選み、五人の子どもを引き具し、高舘殿へぞ参りける。二人の嫁、三人の孫、尼公、諸共に、高舘殿へぞ参らるる。君も、「哀れ。」と思し召し、御前に召されて、嗣信、忠信兄弟が、ありし昔を思し召し、今ひとしほの御涙、遣る方なうぞ見え給ふ。
 尼公、涙をとどめ、「これまで参る事、別の子細にて候はず。嗣信、忠信兄弟が子どもに、烏帽子を着せたく候ひて、参りて候。」判官、なのめに思し召し、「それそれ、秀衡、計らへ。」とありしかば、「承る。」と申し、髪を生やし、烏帽子着せ、御前に畏まる。判官、御覧じ、嗣信が若をば、佐藤の三郎義信、忠信が若をば、佐藤の四郎義忠と付け給ふ。尼公、なのめに喜び、「いかに、和泉の三郎。かねて申せし御太刀を、我が君に奉れ。」「承る。」と申して、御前を罷り立ち、佐藤が家の重代と思しくて、黄金造りの丸鞘巻の御太刀を、我が君に奉る。御前の御方へも、唐綾の御小袖、巻絹取り添へ参らする。さて、その外の人々にも、太刀、刀、馬物具を、思ひ思ひに引いたりける。
 尼公、涙を流しつつ、「あはれ、同じう候はば、『嗣信、忠信兄弟の者ども、今生に長らへ、若どもを引き具し、御前にて烏帽子を着る。』と思ひなば、いかがは嬉しかるべき。」と、流涕焦がれ泣きければ、二人の嫁と若どもも、声も惜しまず泣きにけり。君も、「哀れ。」と思し召し、御涙をぞ流されける。御前にありし秀衡も、袂を顔に押し当つる。亀井、片岡、伊勢、駿河、その外、上下の人までも、皆涙をぞ流しける。父亡き後の元服に、先立つものは涙なり。判官、御盃取り上げさせ給ひ、嗣信が若に下さるる。盃の交替、当座の会釈、まことに大人しく見えければ、御前にあり合ふ人々も、皆、涙をぞ流されける。
 判官、御覧じて、「げにげに、盃の交替、眼の内、少しも変はらぬ嗣信なり。汝が父嗣信は、西国にて義経が命に、替はりたる者ぞとよ。今日よりして義経を、汝が父と思へ。」と仰せあつて、御前近く召され、おくれの髪をかき撫で、御涙を流させ給ふ。又、御盃を取り上げさせ給ひ、忠信が若に下され、「汝が父忠信は、吉野山にて防ぎ矢射、その後、都に上り、腹切つて、大剛の者と言はれしも、汝が父が事なり。剛なる者の子なれば、汝等までも頼もしく思ふなり。父に似たる事よ。」と仰せあつて、今ひとしほの御涙、遣る方なうぞ見え給ふ。
 判官、御涙をとどめさせ給ひ、伊勢の三郎義盛を召され、小桜縅、卯の花縅の鎧を召し出させ給ひ、「父が形見にあの鎧を、若どもに取らせよ。」「承る。」と申し、綿噛掴んで引つ立て、二人の若が前に置く。尼公、涙を流しつつ、「あら、ありがたの御諚かな。侍ほど剛なるべき者は無く、剛なる者の子ならずは、か程までは候はじ。汝等、成人仕り、小弓に小矢をうちつがひ、君の御前に罷り立ち、討死を仕れ。構へて不忠を致すなよ。もしも不忠を致すならば、『父に劣れる若ども。』と、傍輩達に言はれつつ、後ろ指を指さるるならば、家を継ぐと、甲斐あらじ。この事ならでは、他事も無し。形見は由なきあだなる物。この物具を、かくて再び見るならば、涙は袖に堰きやらで、明け暮れ嘆き沈むならば、冥途に赴く兄弟が、猶もや修羅の苦を受けん。とどめ置かせ給ひて、御覧ずる折々は、跡弔はせ賜び給はば、草の蔭にて兄弟が、さこそ喜び申すべき。いつまで語り申すとも、言の葉は尽きすまじ。御暇申して、我が君。」と、皆一族を引き具して、佐藤が舘へ帰りしは、哀れなりける次第なり。
 さる間、秀衡、佐藤が舘に帰つて、佐藤が家に伝はれる、家子郎等召し出し、「君よりの御諚には、佐藤が家の家督をば、二人の若に下さるる。相構へてその旨を、全くせよ。」と言ひ含め、二人は佐藤が家を継ぐ。今一人の若をば、「父の菩提を弔はせん。」と、尊き寺へ上せ、まだいとけなき若なれば、秀衡、養育仕り、判官の御世を待ちけるは、あう、末頼もしくぞおぼえける。
 その後、二人の嫁達、髪を下さんそのために、弁慶を請ぜらる。武蔵、左右なく出で来る。尼公、申されけるは、「いかに、武蔵殿。嗣信が御方は、信夫が姫。忠信が御方は、築山が姫にて候。都の伝てを、『よしや。悪しし。』と待つ程に、早、七年の春秋を、送り迎へて候ぞや。今は形見を見るなれば、かくて二人の嫁達の、心の程もいかばかり。まことの左右を聞くなれば、『誰を頼みのうつほ舟、主無き人に繋がれて、憂き身の果てはいかならん。』と、皆、故郷に帰りなば、この尼一人残りゐて、思ひ焦がれて生きて、よも明日まで命長らへじ。浅ましさよ。」と宣ひて、衣引きかづき、倒れ臥し、流涕焦がれ給ひけり。
 二人の嫁達、これを聞き、「うたての尼公の仰せや。『兄弟の人々、西国にて討たれ給ひぬ。』と聞きしより、『憂き黒髪を剃りこぼし、身を墨染になさばや。』と、千度百度思ひつれども、定めなき世の習ひにて、『もしも命長らへ、再び故郷へ帰り給はば、うつつなき姿にて、見え参らせんも恥づかしさ』に、今までかくては候へ。この上は、武蔵殿。髪下して賜べ。」とありしかば、弁慶、聞いて、「まだ若き姫達なれば、もしも時の道心は、翻す事の候に、暫く御待ち候へ。」と、左右なく髪を剃らざりけり。二人の嫁達、これを聞き、「情けなの武蔵殿の仰せや。『賢臣は二君に仕へず。貞女、両夫にまみえず。』と、申す事の候。」と、我と髪を切り給ふ。武蔵、これを見、「五戒を破るも咎たるべし。この上は、力及ばず。」と、五戒を授け、丈なる髪を剃りこぼし、花の姿を引き変へて、十市の里の墨衣、今着て見るぞ哀れなる。よし、それとても力無く、「亡き人故。」と思へば、恨みとはさらに思はずや。
 さる間、尼公、額には四海の波を畳み、腰に梓の弓を張り、年は六十二歳なり。嗣信が後家は二十八、忠信が後家は二十三。三人の人々は、濃き墨染に身をやつし、奥州五十四郡を、残らず修行し給ひ、岡山といふ所に、柴の庵を結び、香を盛り、花を摘み、過去精霊と廻向し、同じ日の同じ時、空より紫雲棚引き、二十五の菩薩天降り、大往生を遂げ給ふ。この人々の心中をば、貴賤上下押しなべ、感ぜぬ人はなかりけり。

    文禄二年八月十四日  上山与兵衛尉 宗久(印)

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