和泉が城
(大頭左兵衛本)

去間判官殿高舘の御所にうつらせ給ひ昨日けふとは申せとも三とせになるは程もなし秀平入道いつきかしつき申奥州五拾四郡の大名小名みな此君におもひ付申非番当番隙もなくいねうかつかう中々申計はなかりけり去問梶原ちやくしの源太かけすゑ二男平次をつかつけてさても判官殿奥州へお下向ありこいせいを申せは月にかさなり日にまさることさら此間はたかおの文学上人くらまのとうくわうはうならのとつこの御坊にてこきやうたいの御中なをし申さむとの御内たむと承る上は御一たいなれは終にこくわほく有へしもしさもあらは判官殿つの国わたなへふくしまにてのさかろのいこむ今まてもいかてかわすれ給ふへきさあらんにおきてはわれわれふしとも引いたされきられむ事はちちやう也いかゝはせむと申つゝあむしわつらふ計也。源太うけたまはり仰のことくこのきみ在鎌倉ましまさはわれらか家の大事是にすくへからすされはむかしか今にいたるまてちからにをよはぬかたきをはふつしむに申ならひの候かなはぬまてもはうくわむ殿をてうふくめされて御覧せよと申梶原けにもとおもひやかて若宮のへつたう僧正にまいり判官殿をてうふくすへきよしを一円にたのむ去間僧正かたくしたいありけれとも一命にかけてたのみ申間ちからにをよはすりやうしやうし吉日ゑらひ給ひ一所をきよめしやうこむし四面のたむをかさつててうふくのこまをそたかれける抑しゆそのたむと申はそくさいそうやくけいあひてうふくとて以上たむは四たむなりそくさいのたむはひかしむいてそおこなはるそうやくはみなみむきけいあひは西むきさててうふくは北へむいておこなはるくもつのやうこそおそろしけれにうもくに山うつきせうかうにとくしやのほねくゝにはひつしのいひをもりともしひにいもりのあふらあかにははくしやの水をたれおむしき日々にかはつて初七日はちさうの法二七日は阿弥陀の法三七日になりしかはとつてをしおろしてないはくけはくのゐむをむすんてうすさま明王こむかうとうしの真言にてかさねて七日いのりけり此法にてかなはすは僧正かめいをめさるへしととつこをもつてむねをたゝきさむこをもつてなつきをうちいたゝきをうちやふりちやうしやうよりもあゆるちをこまの火へとつてかけいらたかしゆすをゝしもむてせめにせめてそいのりける余につよくせめられて西方に立給ふ大いとくのめされたるちしやのうしかわつとほえて北へむかつてもろひさおつてふしけれはきやうしやこれにちからをえ一しきむりむ五たむの法ろくしかりていはちしもむしゆふとう延命大いとく明王ないはくけはくにさしかゝりせめにせめていのりけれは四七日のあけほのにたむの上に黒雲かかゝつてふとうのりけむになまちかついていきくひたむよりころひおちしゝつとわらふてうせけれは一方はしやうしゆしたりとてたむをやふらせ給ひけり。あらありかたや仏はくわうたいしひとは申せともいのるしるしそあらはれけるされとも判官殿にはおひ給はてひてひらかみの上となつてやまふの床にふし今をかきりと見ゆるかくて秀平小大郎二男はたての次郎三男いつみの三郎四郎もとよしひつめの五郎とて五人はなむしにて乙はひめにてそ候ひける今をかきりと見えしとききやうたいの者共を跡やまくらにちかつけていかにきやうたい物をきけそれゆみとりのなき跡に一門きやうたいふあむなれはかならす家をやふる也あにはおとゝをれんみむしおとゝはあににしたかふへし君をうやまいたてまつりたみをもふかくあはれむへしその外しむはいまつりこと秀平かなき跡にすこしもちかゆる事なかれいかにいつみの三郎たかたちとのへ参り君を御供申へしそれかしさいこに申たき子細有忠平承つていそきたかたち殿へまいり此よしかくと申上判官大きにおとろき給ひいせの三郎よしもりかめゐの六郎重清かれら二人を御供としてひてひらかたちにうつらせ給ふ秀平なのめによろこふて五人の子ともにかいしやくせられおきなをりてうつうかひしひたゝれのかみはかりを着しきみにたいめむ申たゝ今わかきみを申入事別の子細にて候はす秀平こそしやはのえむつきはてめいとくわうせむのたひにおもむき候子ともあまた候へとも御目にかゝり候ことくいつれもわかきものにて候程に恐なから君をせう人にたてまいらせ所領かわけたく存候まつあににて候程ににしきとの太郎にこそそうりやうを申付たく候へとも君御存のことく秀平かしそむにおひてちやくしにそうりやうをもたする事の候はねは家のそうりやうをはたての次郎安平に申付候。とうかい道にとつてはだての郡しのふの郡十五くむの所をそうりやうしきにて候程にたての次郎にとらせ候西海道にとつてはかつたの郡じはたの郡くもゐあんせかれこれ十五郡の所をはにしきとの大郎にとらせ候松嶋七くむをはいつみの三郎しほかま六くむをは四郎もとよしひつめの郡八くむをは末のくわむしやにとらするなりたけくまさいかいふむふたこほりをはおとの姫にとらするなりかたたの郡をはこけふむに参らするさて又出羽は十二郡小国にては候へともわか君にたてまつる御馬のくさかひ所ともおほしめされ候へしあらなこりおしのわかきみや君のかくて御坐有事御本意にてはあらねとも世にしたかへはくるしからす秀平むなしくなるならはかまくら殿よりもわかきみうつてまいらせよとたはかり御判下るへしそれをまことゝ心えてきみにふちうをいたすならは神慮のにくまれかふふつて秀平かしそむたえぬへし何とてか世の中のおもふやうにはあらさらん御きやうたいの御中なをり在かまくらの御供をも申さはやとおもひしにたゝ今むなしくなる事よ是のみ心にかゝるとてふかくのなみたなかしけり子共承つて御心やすくおほしめせ君にまたう二心あるましきよしを申す秀平聞てあらうれしや候その儀にて有ならはいまた今生にいきのかよふ時きしやうをかいてわれに見せよきやうたい承つてやすき間の事とて松しま大明神のこわうを申おろしあににしきとをはしめとしをのをの起請をそ書たりける抑起請文のいしゆは八幡大郎よしいゑ此国に下向有てあへのさたたうをせめほろほしわれらかせむそみたちの権大郎清平に此国のしゆこを給はつしよりこのかたその子に小次郎もとひらいまひてひらまて三代は国おたやかにおさまりかたしけなくも一天の君のせむしをかふふりゆみやの家の名をえし事しかしなからたうけの御恩たりなむそ此きみの御ひとしからすやこれをいはい申さはかみはほむてむたいしやく下は四大天皇下界の地にはいせ天照太神を始たてまつりわうしやうのちむしゆ八幡大𦬇かしまかむとりすはあつた別而はうちの神まつ嶋の大明神そうして六十六ヶ国の大小の神き冥道をおとろかしたてまつる所此君に二心あるならはひてひらかしそむたえはてこむしやうにては弓矢の冥加なかくすたり来世にてはならくにしつみくれむ大くれむの氷にとちられうかふ世さらに候まし起請文くたむのことし文治四年十二月廿三日にしきとの太郎よりひらはむと書けれは次おとおとも起請をかきをのをの判をすへたるはさてみのけもよたつはかり也。秀平これを見てきしやうの面しむひやうなりまつそうりやうやすひらかきしやうをはうちかみまつ嶋大明神の御ほうてむにおさむへしにしきとかきしやうをはわかきみにたてまつれいつみの三郎か起請をは入道かめいとのせうこにもつへしとてはたのまほりにかけにけるのこる二人かきしやうをははいにやいて水にいれきやうたい五人の者ともか次第次第にのふたりしはためしすくなき次第也。秀平是を見て今は心やすく候それ人のしするにはまつこの一句と申事の候某か一句にはいくさのやうを申へしひてひらむなしくなるならはさためてかまくら殿より判官打てまいらせよとのたはかり御判下るへし一度の使に御返事は申そ二度の使をはうつてすてよ三度にもなるならはかまくら勢かたつへしうつてむかふとふうふむせはくむひやうともあひふれさせたての大きときりふさきかめはり坂に関をすゑ五人の子ともは大しやうにて西塔の弁慶をいくさ奉行に定て目さましいくさせさすへしくむひやうつくるものならはたかたち殿に火をかけたつこくかいわやか切山かせむちやうへきみをうつし兄弟五人の者共はかつた村田あいたの城四十八のしやうくわくにおつとりこもつて五年も拾年もふせきたゝかふものならはかまくらせいのなかちむはおもひもよらぬ事にてありさあらは時刻うつつて御きやうたいの御中は終なをららせ給ふへしもしさもあらはなむちらは九郎にちうある侍とて関東へめし出されくむこうけしやうにあつかるへしたとひひてひらしゝたりともくさのかけにてそれかしかくろかねのたてとなつてまもるへきそや子ともとてさもかうしやうにの給へとも次第次第によはりけれは君をはしめて子とも共みななみたをそなかしける。猶々申たき事候へとも余にくたひれ候程にしはらくやすみ申さむと。是をさいこのことはにて文治四年十二月廿四日の明ほのに。九十八と申にはあしたの露ときえにけり子とも一族あつまりてなけくと申もおろか也殊更なけかせ給ひしはたかたち殿にてとゝめたりくわほうなきよしつねや二さいのはるの比はなれ申せしちゝこをはまたようせうの事なれは夢ともさらにわきまへすいまひてひらにはなるゝ事二親におくるゝおもひかなよしつねこそ世にあらはいかなるおむをもあたゆへきにあまつさへは秀平にゆつりをきつる事ともこそ何よりもつてはつかしけれ何となりゆくうきみそとりうていこかれ給ひけりたゝとにかくにおむにしくはあらしとて御いろをめされてのへまておくらせ給ひけりたゝよしつねの御くわほうのつくるゆへとそ聞えける。去間七日七日をは子ともうけとりおもひおもひにそとふらひける卅五日にあたる日はゑむまのちやうへ参る日なれはよしつねとはむと仰あつて。みつから御経あそはしかすのおそうくやうし様々の御とふらひ也くさのかけなるひてひらもさこそよろこひ給ふへし。四十九日と申日はまつ嶋のへつたうをくやうし申一七日の御ほうたん有さてもひてひら申せしことくあむにもたかはす百ヶ日も過さるにかまくら殿よりも判官うつて参らせよとたはかり御判にしきとかたちにつくにしきとか中のていにてきやうたい五人の者ともひらいて拝見仕その御書にいはく何とておくの一たうは世になきよしつねと一みしよりともにてきをなすてういはれなしはやあく心をひるかへしよしつねかかうへを切て関東へさゝくるならはけしやうには上野下野かいしなのむさし五ヶ国をあておこなふ同しゆりやうはのそみたるへし仍状如件文治五年三月一日源の頼朝判とよふたりけり。子共是を承つて仰のことくよにも御坐なき判官殿をしうとたのみ申せはおりましき所にて馬よりおるゝも無念也いさこのきみをうちまいらせ上野下野かいしなのむさし五ヶ国を五人してちきやうせむと申おのおの此儀にとうしけり其中に三男いつみの三郎たゝひらゑほしのさきをちにつけなみたをなかし申やうちゝ秀平われらに起請をかゝせ世にもうれしけにて過させ給ひしに今いく程もなき間にかやうのむほんをおもひたち父をちこくにおとし申さはてむめいいかてのかるへき此事におひてはおほしめしとゝまるへしそれにせういむなきならはたゝひらは御免あれ向後たいめむ申ましとさしきをたちてかへりしをほめぬ人こそなかりけれ。其後いつみの三郎はわかやとにかへり女房にいふやうはさても面目もなき申事の候そ其をいかにと申にきやうたいの人々のてきとなり給ひわかきみをうち申さむするたくみの候なむほうあさましきしたいにて候。女房聞てあらあさましき事やさふらふひてひら殿におくれさせ給ひ今いく程もなき間にきやうたいの人々のてきとなり給ひなはさてわかきみはなにとならせ給ふへきそたとひみつから女のみにてさふらふともたかたち殿にまいり君の御供申へしさてたゝひらはなにとかおもひ給ふらむ。いつみ此よし聞よりもさらさらへちの子細も候はすさためてきやうたいの人々の心中には今夜の内たかたち殿へ夜うちによする事も候へしみつき勢を参らせむとくつきやうのつはものを廿七きすくつてたかたち殿へまいらせてわかみはたゝうちとけて最後をしらぬそあはれなる。扨もにしきとかたちにはのこるきやうたいの者ともさもあれいつみの三郎かわれらをせいしかねさしきをけたてゝたつたる物哉時刻うつしてかなふましいつみに腹をきらせ九万八千のいくさ神のちまつりにせむもつとも然へしとててるいかなさは鳥の海に三千余騎を相そへいつみか城へそよせたりけるかのいつみか城と申は三方は衣川一方は堀をほりさかもきをひきようしんきひしかりけれともけには寄ては案内有又はにはかの事にて有間一二の木戸へをしよせ時をとつとあくる城の内のつはものおもひよりなき事なれはけうてむひしめいて見ゆる泉此よし見るよりも何をさはくそめむめむはちゝのゆいこむの旨を一はしいひつる所にかやうになさけなくよせむとは夢にもしらすいかにたれか有よせての大将はたれにてあるそ聞てまいれとけちをなすせきの四郎承りたちはきやおひ弓もつておほてのやくらにはしり上て大音あけてよははる唯今爰元へよせ来つたるは天下のうつてにてはよもあらしわたくしのしゆくいか又とうそく人かあやしやなのれきかむといふよせての大将てるいの太郎か是を聞むほむのおこりは存せねともそうりやう殿の御けちによりてるいかなさはとりのうみ三千余騎を給はつて是まて参りて候たゝひらは御腹めされよかたかたはかふとをぬきいつれもしうにてましませはそうりやう殿ヘかうさむ申ていのちをつけとそいふたりけるせきの四郎かこれをきゝからからとうちわらひわとのはらかならひかやしうのせむとを見捨てかうさむする法やあるうけて見よといふまゝにとかりやとつてうちつかひよつ引てはなしけり一陣にすゝむたる鳥の海の三郎かむないたにはつしとあたりかけすうしろへぬけたりけりよせても他門てあらされはあゝいたりやいたりやとほめたりけりさてもたかたち殿といつみか城とはそのあひ十八町の所なれは時の声やさけひの音てにとるやうに聞えけれははうくわむむさしをめされいつみか城にあたつてときの声の聞ふるはいかさまきやうたいのものともにうたるゝとおほえたりこれといふによしつねかみの上也いそきみつけとそおほせけり承と申て御所さふらひ卅五きいつみからうとう廿七騎ほそなはてにかゝつて駒をはやめてうつたりけり道にてむさしいふやうはまてしはしかたかた此かつせむと申はいつみに野心かあらはこそたゝわかきみへの心かはりのかつせむ也たかたちの御所へさためてうつてむかふへしをしへたてられかなふましいさや御所へかへつて君をしゆこし申さむとてみちよりもひきかへすこれと申もたゝひらかうむのつきたる所なりいつみからうとう申やうしうのせむとて候へは暇申てさらはとて駒にむちをもみそへてもみにまうてそうつたりけるてるいの太郎かこれを見てすはやたかたちよりもみつき勢のあるそとてさうへはつとそのいたりけるちむをふたつにかけわつてうちへ一所にくわはつたりてるいの太郎か申やうこれほとの城くわくを時刻うつしておとさぬはむけにふかくとおほえたりいていてたかなう先かけせむわれとおもはむものあらはつつけやといふまゝに長刀をよこたえてまつさきにこそすゝみけれつゝくつはものたれたれそみはの六郎うたの藤次あいたの兵衛をさきとして七十五騎にて切ている城の内のつはものすきさしたかなう先として廿七騎切ていて爰をせむとゝたゝかふたり此者ともと申はかたきみかたといひなからあるいはおちおいきやうたいなれはたにむよりははつかしく一足もしりそかすしのきをけつりつはをわりきつさきよりもくわえむをいたし爰をせむとゝたゝかふたり寄てはあいた中村ふる堀きやうたいうたるれは城の内のつはものは堀のはたにて十七騎まくらをならへてうたれたりあるいはておひくたひれて城の内へそひいたりけるよせてはさすかまうせいなれはあらてをいれかへせめけれは一二のきとをもうちやふられてつめの城にそこもりける。去間いつみの三郎たゝひらはきやうたいにむかつてかつせむすへきにあらすとて物の具もせてゐたりしかみかたことことくうち死しはや城中へみたれ入と聞えけれは此上はちからをよはすとてひろゑむさしていつる女房これを見ていむけのたもとをひつとゝめそれゆみとりの跡におもひをのこしぬれはふかくの死をするよしを承はつてさふらふそや兄弟の若ともをはなにとなれとおほしめし捨てはゆかせ給ふそやともかくもよきやうにはからひ給へたゝひら殿。いつみ此よし聞よりもけにけにこれもいはれて候とて有し所へたちかへり七つ五つに成けるきやうたいの若ともをゆむてめてのひさにをきおくれのかみをかきなて。あらむさんの若ともやいく程そはぬ物ゆへにしむしのちきりとむまれきてあまつさへちゝかてにかゝりはかなくならんむさんさよ父か手にかゝるをうらみとはしおもふなよ。たゝおちたちをうらむへしたすけたくはおもへともとむよくふたうのおちとものたすくる事はよもあらしたゝひらかてにかゝりしてさむつをなけきこしゑむまのちやうへ参るへし念仏申せわかともとなみたと友にすゝむれは何の心はしらねともいたいけしたるてを合せあみた仏みた仏と四五へむ申時にこそ目くれ心はきゆれとも心よはくてかなはしと腰の刀をするりとぬきあに花若をひきよせて二刀かいしてをしふするおとおとの花みつか此よしを見るよりもあゝおそろしの父こやわれをはゆるさせ給へとてゐたる所をつむとたちはゝか所へにけけるをおくれのかみをむすととりなむち一人ゆかはこそ父母もあにもゆくそとてたゝ一かたなかいしつゝ同し枕にをしふせてわかみをたいてなきゐたる心の内そあはれなる。はゝ此由を見るよりもあらためしなのしたいやとてきやうたいにいたきつきしはらくまてよわかともよやかておつつき手をひかへしてさむつをゆくへきそとなきしつみてそゐたりける。去間たゝひらゐたる所をつむと立てあら名残おしや女房ふうふのちきりも今はかり暇申てさらはとて一間所へつと入いとひおとしのよろいのまたみのときとかゝやくをくさすりなかにさつくときたかひほうはおひしつかとしめたちはきやおいゆみとつて大庭さしておとり出る女房此よし見るよりもいかにたゝひら御み十八みつから十四の秋よりも片時もはなれ申さす今此時にいたつてわれをは捨をき給ふかしはらく御待候へとて一間所へつつと入くれなゐのふたつきぬむすととつてきるまゝにもえき匂ひの腹巻をくさすりなかにさつくときたかひほうはおひしつかとしめしらゑの長刀かいかうていつみとともにきつていつる心のかうなるも道理かな西国八嶋のかせむによしつねの御供申能登のかみのやさきにかゝつてむなしくなつたりけるさとう次信かいもうとなり奥州五十四くむか其中にかくれもなき大力のかうのものたゝひらやくらにあかれは女房木戸をかためておふたみかたのくむひやうにしはらくいきをつかせむとてうたてとつてさしかさし大手の木戸へむかひしはけにたのもしき次第哉。忠平やくらの上より大音あけていひけるはたゝ今こゝもとへよせ来つたるはてるいかなさは鳥の海かなむちら程の云かいなしにかくいふへきにはあらねともたしかに聞てよくかたれちゝのゆいこむきしやうのはち二代相恩のしうのきうこうかれこれもつててむめいいかてのかるへきあつはれたゝひらいのちか二つほしきそとよ一つのいのちをはきみの御ためにたてまつり今ひとつのこしをききやうたいの人々のなれるはてを見たきそとよたゝ今それかしかはなつやなむちらにいるやにあらすきやうたいの人々にうらみのやひとすちうけて見よといふまゝに三人はりに十三そくとつてからりとうちつかい本はすうらはすひとつになれときりきりと引しほりかなくりはなちにかつきとはなす一陣にすゝんたるかなさはの九郎かむないたにはつしとあたりたつよりはやくくつとぬけうらにひかへたるはむはの兵衛かかふとのゆむてのふきかへしにひはなをちらいてたつたりけり是をはしめに仕りやたはねといてをしみたしさしとり引つめさむさむにいたりけりくつきやうのつはものを十七八騎はらりといられすこしやころを引しりそくやたねつくれはやくらをゆらりととむており打吻のさやをはつしてふうふともにきつて出るたゝひらか手なみをかねてしつたる事なれは嵐に木の葉のちることくおもてを合るものはなしにくるものをおつつめもろひさをなきおとせはうつふしにふすもあり甲のまつかうを唐竹はりにわられてゆむてめてへのくもあり忠平かてにかけてくつきやうの兵を廿七騎なきふすれは女房かてにかけてよきつはものを七八騎ての下にてきりふせのこるつはものともにいたてうすておうせて四方へはつとおつちらし夫婦てに手を取くむてしつしつと引たるは人間のわさにてなかりけり。惣してよせては二百よき打死す城の中のつはものは五十よき打れのこるつはもの共あるひは手おひ又落行けれは今は竹わう丸月わう丸とてわつは二人そ候ひける忠平二人の者を近付汝らふせきやいよ忠平は心安はらきらんといひけれは竹王丸は大手の木戸に走いて爰をせむとゝふせきたゝかふ月王丸はひうちつけ竹取出しちやうちやうとうちつけて屏風しやうしに火をかけ天下霞にやきたてる去間忠平は兄弟のわかともかしかいのあたりにとうとゐていかに女房子ともとつれてゆけやとて先かいせむとしけれは。女房刀にすかりつきあらおろかや忠平自いのちおしむにあらねとも女はなにとしゝたりともくるしからぬ事にてありさすかに御身は名をえたる弓取にてましませばあしくしかいをし給ひてはかはねの上のふかくなり先御腹を切給へ御供申さふらふへし和泉此よし聞よりもけにけに是もいはれたりさらは忠平切へしと腰の刀をひむぬいてよろいのうはおひ切てのけゆむての脇にかはとたてめてへきりゝと引まはしかへす刀をとりなをし心もとにさしたてはかまのきゝはへをしおろしさうをつかむてくり出しすんすんに切て捨いかにいかにと云けれは女房此よし見るよりも涼しくきらせ給ひけりしはらく御待候へとていつみの刀おつ取てきつさきをふくみてうつふしにかつはとふす女房は廿九忠平は卅三その外の者共も同し煙となつたりしはためしすくなき次第也忠平か心中きせむ上下をしなへてかむせぬ人はなかりけり。

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