清重
(大頭左兵衛本)

 判官、武蔵を召され、「いかに、武蔵、聞くかとよ。諸国の大名、高家達のその中に、義経に心ざしの、せつなき人もあるらん。急ぎ廻文を廻し、頼うでみむ。」との御諚なり。弁慶、承つて、状を書いて、参らせ上ぐる。判官、御判を据ゑさせ給ふ。「さて、この状を、誰やの者にか触れさすべき。」「誰々と申すとも、伊勢の三郎義盛、駿河次郎清重、彼等二人ぞ候らん。」と申す。急ぎ二人を召されて、「いかに、方々。この状を、諸国の武士に見せて賜べ。万事頼む。」と仰せけり。
 二人の人々、承つて、「御諚、尤もにて候へども、世間のやうを案ずるに、合戦は久しく候まじ。同じくはとどまつて、御供せむ。」と申す。判官、聞こし召されて、「それは、さる事なれども、軍の供をせむ事も、この廻文を廻さむも、以ては等しかるべし。只頼む。」との御諚なり。二人の人々、承つて、「この上は、力及ばぬ次第。」とて、山伏の姿にさまを変へ、笈に御判を隠し持ち、高舘殿を出にけり。仮初ながら別れとは、後にぞ思ひ知られたり。かくて二人の人々は、奥近き国、下野、上野、常陸、下総、甲斐、信濃、武蔵の国へうち越え、秩父殿を始め申し、七党の人々に、御判を拝ませ奉り、本田の宿へぞ出にける。
 義盛が言ふやうは、「中道越えよりも、駿河の国へ出む。」と言ふ。清重、聞いて申すやう、「日本の花の都は、日の本の王城。但し、当時は猶、『鎌倉が花やかなる、新京たり。』と聞いてあり。四十に及ぶ清重が、聞こゆる名所を見ざらんは、不覚の至りと存ずるなり。このついでに、鎌倉を一目見ばや。」と申しけり。義盛がこれを聞き、「か程の大事を持ちながら、遊山見物、無益なり。もしもこの事めでたうて、奥鎌倉の御和平あらば、見飽かうずる鎌倉を。しかるべくは、駿河殿。すぐに伊豆へ。」と申しけり。清重、聞いて、腹を立て、「かからむ用のためにこそ、変へたる色見ゆれ。諸国一見山伏の、いか程多く通らむ中に、駿河ばかりが怪しめられんは、清重ばかりが運候か。御身は一年鎌倉へ、下り上りを繁くして、見知れる人もありこそするらん。いづくと合図を指し給へ。やがて追つ付き申さん。」と、入間の宿を上りに、鎌倉指して行く程に、力及ばず義盛も、「同道申したけれども、仰せの如く某は、大略、人が見知りたり。駿河の国なる、竹の下にて待ち申さむ。疾く追つ付かせ給へや。」と、義盛は伊豆の国、駿河次郎は鎌倉へ、行き分かるるを最後とは、後にぞ思ひ知られたり。
 さる間、清重は、二股川、鶴が嶺、雲居が岡を遥々とうち眺め、化粧坂にうち上がり、鎌倉内を見渡せば、心言葉も及ばれず。あら、面白の鎌倉や。神宮寺の松風は、旅人の夢やさますらん。仏閣、棟を並べつつ、民の在家は軒続き、谷七郷に築地の数、以上八百余門なり。由比の浜に大鳥居、泉が谷に飯嶋は、名にし負うたる名所かな。将軍の御所を真中に、東向きにぞ建てられける、諸大名の在鎌倉、日夜朝暮の番数行、ゆゆしかりける御果報かな。「あはれ、我が君判官を、かやうにいつき申さで。」と、思へば猛き清重も、涙こぼるるばかりなり。その夜は若宮殿に参り、夜もすがら、「現世安穏、後生善所。」と祈誓し、「さこそ義盛が、竹の下の宿にて、待つらむものを。」と思ひ、明けければ、笈取つて肩に掛け、急げば程なく音に聞く、片瀬川にぞ着きにける。
 かかりける処に、梶原の源太景季、五十余騎のその勢にて、焼鳥狩して帰りしが、川中にてむずと行き会うたり。「日頃見、見えし事ぞかし。怪しめられ、悪しかりなむ。」と存ずれば、笠を傾け清重は、さらぬ体にて通りけり。運の極めの悲しさは、南来の風が一揉み、ばつと吹き揉うで来て、清重が着たりける、笠緒をづんど吹き切つて、兜巾と連れて川に落ち、あう、浮いつ沈んつ流れたり。清重、これを見て、「月代、人に見知られ、悪しかりなん。」と存ずれば、篠懸の左右の袖を、さつと翳いて、笠を追うてぞ走りける。弓杖ふた杖み杖にて、程なく追つ付き候ひて、濡れたる笠をうち着つつ、あう、さらぬ体にて通りけり。
 源太、目速き男にて、「ここを通る山伏の、川風に笠を取られしが、額を見れば月代の、白く見えつる怪しさよ。山伏ならば通すべし。やうあらば、召し捕れ。」と、駆け足速き駒どもに、面々に鞭を揉み添へ揉み添へ、「いかに、ここ元を通り給ふ山伏に、物申さむ。」と言ふままに、「いや、我も、我も。」と追つかくる。清重、これを見て、「一足なれども弓取の、敵に後ろを見する事、不覚の至り。」と存ずれども、君の御判と国々の、人々の御請けの判どもの、顕はれんずる悲しさに、耳にもさらに聞き入れず、五町ばかり行き過ぎ、小高き所に走り上がつて、笈をひつたと下ろし、笈の肩箱よりも、火打ち、着け竹取り出し、ちやうやうと打ち着け、御判と御請けの判どもを、刹那に焼いて捨てたりしは、「剛なる故の早業かな。」と、褒めぬ人こそなかりけれ。
 その後、大勢取り籠むれば、笈の足に結ひ付けたる、三尺八寸のいか物作り、するりと抜いて、真向にさしかざし、大音上げて名乗るやう、「いかに、方々が、見咎めたるは道理なり。判官殿の御内の侍、駿河次郎清重と、申す者にて候が、君の御意に違ひ申し、奥をば出され参らせて、二張の弓を引かじため、山伏の姿にさまを変へ、諸国一見廻りしが、運が尽きて源太に、見合ひぬれば力無し。今に於いて某が、判官殿の御内に、有り無しなんどの陳法を、すべき身にてもあらばこそ。四国九国の戦ひにも、駿河次郎が振舞を、見ても聞いてもありつらん。そこを引くな。」と言ふままに、大勢の中へ割つて入り、割り立て追ん廻して、散々に切つたりけり。駿河次郎が振舞を、物によくよく譬ふれば、松吹く風が枯葉を散らし、小鳥千羽に鷹一もと、放ち合はせた如くなり。手元に進む兵を、二十七騎切り伏せ、大勢に手を負ほせ、東西へばつと追つ散らし、「剛なる者の自害のやう、見習へ、源太。」と言ふままに、太刀の真中押つ取つて、腹十文字にかき切つて、三十八と申すには、片瀬川にて討たれたる、かの駿河の次郎清重を、あう、褒めぬ人こそなかりけれ。
 さる間、源太、郎等あまた討たせけれども、清重が頸を取り、なのめならずに喜うで、急ぎ頼朝の御目にかくる。頼朝、御覧じて、「義経が郎等の首ならば、由比の浜にかけよ。」とて、由比の浜にぞかけられける。さる間、義盛は、竹の下の宿にて、約束の日数を、いかに待てども遅かりけり。余り久しく存ずれば、「海道に立ち出、道行き人にも問はばや。」と思ひ、早、海道にぞ出にける。かかりける処に、二人連れたる旅人の、京の方へ通りけるが、義盛を見るよりも、「山伏を見申せば、一昨日の事の哀れさよ。人間有為の習ひとは申せども、弓箭にかかる事は、嘆きの中の嘆きよ。」と、語り捨ててぞ通りける。
 義盛がこれを聞き、「やうありげな。」と思ひて、急ぎ追つつき旅人の、袂を取つて引つとどめ、「なう、いかやうなる山伏が、何と成りて候ぞ。我等がやうなる者ならば、聞かまほしや。」と申しける。旅人、聞いて言ふやうは、「さん候。一昨日の事なるに、鎌倉を出てこなたなる、片瀬川といふ所にて、判官殿の御内の侍、駿河の次郎清重と、申す人にて候が、梶原の源太景季に、見会ひぬれば力無し。笈踏み破り、肩箱より、火打ち、着け竹取り出し、ちやうやうと打ち着け、御判とおぼしき巻物を、刹那に焼いて捨て給ふ。その後、大勢取り籠むれば、笈の足に結ひ付けたる太刀抜いて、大勢の中へ割つて入り、そくばくの人を滅ぼし、吾が身も腹を切り給ふ。頸をば取つて鎌倉へ、上せられて候ぞ、山伏。」とてぞ通りける。
 義盛がこれを聞き、「さばかり某がとどめつるを、用ゐずしてうち越え、さては討たれてありけるぞや。かくと申して某が、奥へ罷り下るならば、いかばかり判官も、御心細く思すべし。とても逃れぬ朝顔の、日蔭を厭ふ風情にて、奥州下りも由なや。」とて、明くれば宿にて暇乞ひ、竹の下をぞ出にける。それよりも義盛は、都間近き国々の大名小名に、御判を拝ませ申し、すぐに京へぞ上りける。
 たそがれ時の事なるに、備中殿の篝の前を、笠を傾け義盛は、あう、さらぬ体にて通りけり。番の兵、これを見て、「夜陰に通る山伏は、やうあつておぼゆるなり。笠を脱がれ候へ。」と、一度にばらりと下り立つたり。義盛、この由見るよりも、「自体、我等が習ひにて、嶺渡りをする時は、木の葉を敷き、木の根を枕と仕り、夜をも昼をも嫌はず行く。出羽の羽黒の山伏が、熊野へ参る。」と答へたり。番の兵、これを見て、「何の山伏の行にても、あらばあれ。笠を脱がれ候へ。」とて、義盛が着たりける白打出の笠を、引き落として見てあれば、案の内の義盛なり。番の兵、これを見て、一度にどつと笑つて、「道理にて御身は、夜は通らせ給ふ。」とて、真中に取り籠むる。
 義盛、この由見るよりも、笈焼く暇があらざれば、ばらばらと踏み破つて、かしこへがばと投げ捨て、一尺八寸の打ち刀、するりと抜いて、真向にかざし、大音上げて名乗るやう、「いかに、方々が、見咎めたるは道理なり。判官殿の御内の侍、伊勢の三郎義盛なり。但し、当家の番の者、合はぬ敵と存ずれども、弓取の、死に所をば定め得ず。そこを引くな。」と言ふままに、大勢の中へ割つて入り、割り立て追ん廻して、散々に切つたりけり。手元に進むよき兵を、十七、八騎切り伏せ、大勢に手を負ほせ、東西へばつと追つ散らし、「剛なる者の自害のやう、見習へや。」と言ふままに、刀の真中押つ取つて、腹十文字にかき切つて、四十三にて討たれたる、義盛が心中をば、貴賤上下押しなべ、感ぜぬ人はなかりけり。

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