高たち
(大頭左兵衛本)

去程に鎌倉殿梶原を召れいかに梶原承れ誠義経かむほむにおひてうたかふ所なしいそき義経をたいちし世をおさめむとの御諚にて長崎の四郎に三百余騎を下したふ長崎三百余騎を給りいそき奥にも付しかは催促まはしせいそろへやすひらかたちによりきしてるいの太郎を筆取にてはや着到を付る先そうりやうなれはやすひら次ににしきと四郎もとよしひつめの五郎のまくら殿の御兄弟其外の人にはけつその弥七木原の源五雲ゐの小太郎あつせの刑部中嶋のようとうし松嶋平泉小嶋のひやうとうをさきとして名字の侍七百余騎其外都合兵者七千三百余騎とはや着到を付る抑比はいつなるらん文治五年潤四月廿七日今日はひからよからす明日たつの刻にむかふへしとさため太田山口中村にすてに陣とつてひかへたり扨もたかたちの御所にはよゐまては侍八人大将ともに九人と聞えしか次日の御かせむに侍九人大将ともに十人の由来を委たつぬるに。紀州熊野の住人に鈴木の三郎重家なりある夜鈴木女房に語はなにかしおもふ事ありて此あかつきはうしうへまかり下候へし心のまゝに罷下君のめてたふましまさは。明年の夏の比たよりの文をまいらせむ夏の比しも過行は憂世はふしやうのならひ道の草葉の露霜ときえぬるよとおほしめし跡をはたのみたてまつる暇申てさらはとて自体か鈴木殿熊野そたちの人なれは山伏のすかたにさまをかへ笈とつてかたにかけ物うき竹の杖をつきそのふしふしによを籠てふちしろを立出てはや九重に付にけり人めしのふの旅なれはいつしか花の都をは霞と友に立出て大津の浦よりふねに乗かいつの浦にあかりつゝ北国道のうき難所を下らせ給ひける程に人の宿をからされはあるいはのにふし山にふし七十五日と申にははうしう衣川高舘の御所に着にけり鈴木何とかおもひけむ笈すゝかけをは片原に取かくし笈の中よりもうちかけ取いてきるまゝに十二ふかけたるあみかさをふかふかとひつこふて高舘殿の体を心静に見たてまつるに紀州ふちしろにて承りし時はひはむ当番訴訟人さなから御内にみちみち門外に駒のたてともなき様に承り及しかおもひの外に引かへて是は何とてさひしく御坐有らむふしきさよとおもひ門の唐居敷に腰をかけ御内の体を心しつかに聞ゐたりさても高舘殿にはかたきむかふよしを聞しめし侍たちをめさるるにいつもかはらぬ武蔵坊をさきとして以上八人御前に畏る判官御覧してかたかたか手にかけくひを取て関東へまいらせくむこうの庄にあつからは奉公のちうに後世をとへいかにいかにと仰けれともお返事申者もなし片岡亀井の六郎か目と目ときつと見合てこはくちおしき御諚哉誰かあつてわかきみの御くひを給はり鎌倉へかうさむをは申へき今まておちぬ人々は皆御供とこそおほすらんさはありなから此中にもおちむとおもふ人のあらはひらに暇を申て落よたれもうらみはのこらしと坐敷をきつと見わたせはよしたけ広綱一同に涼しく申されたる物やたれもかやうに申たき御返事にて候そやおもふにかたきあかつきよすへし大手からめてとふたてにわけぬ事あらし味方はたといふせいなりと両陣にむらかつていくさは花をちらすへしまたほのくらき早朝にあれは大手これはからめてなむとゝて声をはきけともすかたは見しわれも人も心しつかにある時に上へ申て御酒給はり最後の名残をおしむへし尤然へしとて種々の太瓶大つゝをおていへ申いたしつゝ君も御出ましまして女房たちのおしやくにて上にさかつきすはりけれは下は以上八人三献の酒過れは後にはたかいに入みたれておもひさしおもひとりししやくしもりのらくあそひまふつうたふつのむほとにかめゐかのふたる盃を武蔵殿におもひさしたつて舞をそまひにける。ほうらい山には千とせふる松のえたに鶴すくふいはほのかたに亀あそふ。しほり三頭かもの入くひしきの羽かへしをさつとさいてたちまはる所にて門外を見てあれはたちわきはさむた男のあみかさまふかにひつこうたるかからゐしきに腰をかけかめゐかまひを聞ゐたり。亀ゐの六郎もあれは誰なるらむとおもひしかけにとおもひよりなけれは舞すてにまひおさめしやくに手かけてゐたりしに門なる男の声として大のこはねをさしあけなふなふ御内へ案内申候はんとたつらかによははるなりをしつめてさしきには誰なるらんと聞所に西塔のむさし此声を聞よりもあれはかたきのやつはらか案内検見の其為に偽まなむて来つてさう何様けふの使をはあますましいといふまゝにはかまのそはをたかくとつて長刀おつとり出むとすかめいの六郎もつゝいてさしきをつむとたちむさしか袖をひつとゝめなふしつまり給へむさし殿ふしきや此声を聞たるやうにおもふとてむさしをとゝめてかめゐはしり出て見てあれは舎兄鈴木の三郎殿旅やつれにおもやせて一人こゝにたちたち給ふ亀井夢ともわきまへすするするとはしりより鈴木かたもとにとりつけはあにもおとゝにとりついてさていかにいかにとはかり也はるかにありて鈴木殿やあ何事かあるかめゐ亀井此由承りその事にて候そや君の御運もわれらか運も今此時につきはてゝあすをかきりとはやなりぬそれをいかにと申に秀平浮世にありし程は君をもたつとみ申せしかうゐむしやうのならひとて秀平去年の冬はかなくなりて候そやその子ともわかきみに心替りを仕り鎌倉よりのけむみには長崎の四郎殿を申下し給はりてさて国の大将にてるいたつてかむかひつゝ太田山口中村に陣とりてあると聞てさうなとやかほとに御身のおほしめしたつならは二年も三年もさきにおくたりましまして一旦らくをし給ひておもひてとおほしめすへきになむそつめたる御うむ哉今日下り給ふこそよろこひの中のなけきなれ今生にて見みえ申こそ何よりもつてうれしう候へ憂世のまうしうはれてあり上にもしろしめさるましとかめあやしむものあらしをちこち人の風情にておかへりあれや鈴木殿。すゝきこのよしうち聞てふかくなりかめゐ龍門けむしやうの土に骨はうつむとも名をはうつむかふかくさよしていしうしうふしふうふ三世の気縁なくしては何しに今日まいるへき鈴木かまいりて候と上へ申せかめゐとてわらむちぬきすて上にきたるうちかけぬいてふはと捨おとゝいつれて判官の御前をさいてそ参りける。判官御覧していかにめつらしや鈴木殿しやくあくによはうありゐんくはれきせむのたうりにより平家にきせしそのつみか義経か身にかそへきてあすをかきりとはやなりぬされは末の露もとのしつくとなるふせいいしやう他門をかたきにうけかくなりぬるとおもひなはうらみはさらにのこるましい是にある人々をも落たくは候へともかたきゆるさねは力及すわ君をは見しりたる者もあるましいとかめあやしむ者あらしをちこち人の風情にてはやはやくまのへかへられよ見し者とおもひては後世をはとふてたへ鈴木あつても此いくさに勝へきにてもあらすとうしてかへり候へ鈴木承つてこは口惜き御諚哉君におかせるとかなくしてうたれさせ給はむする前後をいかゝおはしけむ何そや鈴木めか月日こそおゝきに今日まいりあふたる事は三世のきえむのくちせぬ故いくささむして罷下さもあれ君の御最後所はいつくにてか御坐有らむと思ひやり申たる計にて。門の唐居敷に腰をかけ只一人すこすこと腹切らんする事共こそなむほう無念に候へきお具足一両給つて打死せむと申切ておちむするきしよくはなし判官御覧して此上は力及すいていてさらは鈴木に具足を一両とらせむとて上文字うつたるからうとのふたをあけ小桜おとしのよろいを取出させ給ひて此よろいと申はおくりの佐藤禅門か子ともかまうけの為にとて具足を二両おとしたつる兄次信は小桜舎弟たゝのふはうの花おとしにけつかうし相待る所にかれら兄弟はうたれぬ面目なけれと義経佐藤かたちへ打こえて子供か最後をかたつてきかす母の尼公はなけかすしかゝる家の面目さふらふ兄弟の者共か御供申て出しよりかへらん事はふしやうそとおもひまふけてさふらふそやさはありなからきやつはらかおとも申てくたるならはとらせむするそのために具足を二両おとしたつるこれこれ御覧さふらへや。待てかいなきこのかたみを見つる事のはかなさよたれによろいをまいらせむわかきみに参らせむ小桜おとしを義経にうのはなおとしをむさし殿にえさせたる具足也一にかれらかかたみといひまたはさねよき具足也自然の事もあるならは義経着せむ其為にこれまてもたせて侍れとも御辺にこれをとらするとておなしけの三枚かふとに打物そへ鈴木か前にとうとおいて旅やつれにさこそあるらむはやそこ給はれ鈴木殿鈴木面目ほとこして御世か御代の御時に千町万町給はつたるよりより今此鎧にしかしとかはらけ取上三はいくむたる鈴木殿か所存をはあふほめぬ人こそなかりけれ。かゝりける所に西塔のむさしはちつともしほれぬ眼より涙をはらはらとなかし異国をしらす本朝において我君の御内の人のやうにそろふたる事あるましいそれをいかにと申に一とせ次信忠信か打死伊勢と駿河か京鎌倉にての死様今又鈴木殿かお具足一両給つて千町万町の御恩にかへしとよろこふする事のゆゝしさよか程まてよきらうとうを持給ふわか君の御くわほうの程のうたてさはせめて大国四五ヶ国御ちきやうなきこそ口惜けれ。奥方の軍兵なむ千騎にてよせきたると申ともくしむしやのかりひやうおもふにさこそあらむすらん今はこの夜もふけ行らむのめやうたへや尤とてまふつうたふつさかもりするすてに其夜も夜半計の事なるに鈴木の三郎重家ゐたる所をつむとたつてちう門のらうにいておとおとかめゐをちかつけいかにかめゐ今度重家紀州ふちしろを出し時せむそ重代に伝るはらまき一両きて下るみなはうはいたちも聞しめせ此腹巻と申はかたしけなくも熊野の権現のいにしへまかた国のあるしとしふわうか中のふわうにて天下をおさめさせ給へはかいたい殊にしつか也然ともかの御門に御世をつかせ給ふへきわうしの更におはせねはいかならんする后にかわうしのたむしやうあるへきときさきのかすをそろふるにすてに千人いはゐ申てうあひにおほしめされけるきさきにわうしの御坐なけれはましてやうときかた様にいかてか更におはすへきされとも末のきさきにこすいてむと申すこそくわいにんとおはしませ御門ゑいらむなのめにて今ははや世のきささき御きしよくさらによからすこすいてむに打そひてすてに一のきさきとしたいりへうつし申さむとせむしありし折節数百人のきさきたちこれをねたみそねみつゝ御門御坐なき折ふしにものゝふをかたらひてこすいてむにみたれ入きさきをかいしたてまつり深山ふかくすてにけりされといかなるふしきにやしかいもやふれそむせすやかむの者もあふさすしまむする月にたんしやうあるしかも太子とおはします人住山にてあらされは人倫さらにたちよらすこらうやかむはたちよれともしきしふくす事もなくしゆこをくはへ申せしにいたはしや太子は母のしかいのにうみをふくし給へはたちまちにしきとなりやかむのものを供として年月をふる程にあまの岩戸の明暮とはや七とせに成給ふ。天下にはなけきにて遠国遠里はたうまて尋給へとましまさす世をうき事におほしめしすてにはや位をすへり給ふ折ふしたつとき人のましまして居所を尋るおりふし太子を見付たてまつつてたいりへかへつてそうもん申しむかけいしやうふしきのおもひをなしつゝ山中にいたつてくはしく見たてまつれはかたちはこすいてむにしてその面影もかはらす太子御年七歳人を見なれたまはねはしむらあたりへ立寄をおちおのゝかせ給ふをちけむ上人はしり寄太子をいたきとりこすいてむのしかいをは山中にひようをつき籠奉りて其後太子をは雲上へうつし奉る御門ゑいらむましまして太子をいたき取給ひちけむひしりをちかつけて委とはせ給へはひしりもいかて存せむ山中にいたつてしゆけせきしやうを心かけ居所をたつぬる折ふし太子を見つけ奉りて奏門申て候とありのまゝに申御門ゑいらむありあふ濁れる世に生れてかいをたもつこうゐむにかゝるつみを作る事は丸かとかにてあらすやかゝる物うき国にはありてゑきなき事とてはむりのひしやとなつけてこくうをかける車に今の太子もろともにすてにせうし給ひけり第一のしむかにのうみの大臣しけたかおくみの中将かねみつかれら二人を供として車のしちにせうしてひかしをさしてとひ給ふ吾朝紀の国むろの郡おとなし里にしては又熊野権現とあらはれて衆生をさいとし給へりこすいてむのわうしはにやくわうしにておはしますのうみの大臣はこもりの宮とけむせらるゝおくみの中将はひきやうやしやこれなりその御跡をしたひ申ちけむ上人とひ来つてひしりの宮とけむせらるゝ其外の神たちはしたいしたいきてうしてしよしや明神五体わうしくわむしやう十五社こむこう夜叉しよしやとけむし給ふもみな此時の人々そ然るにかめいよくきけしけたかより重家まて十六代とおほえたり重高のいにしへまかた国より吾朝へとはせ給ひし折ふし御門ひやうしの其ために此はらまきをめされてとひ来り給ふ也代々ちやくしにつたはれる家のたから今鈴木まて相伝す重代なれはみをはなさすこのたひもきて下り奥方のやつはらにとられて終に他門の宝となさむおしさよそれとても力なし重家は面目に君のきせなか給はりぬこのたひのつかれに二両かさねむ事かたし御辺これをとらするとて唐にしきおとしこかねさねの腹巻をぬいてかめゐにとらせけり亀井腹巻ひつたて是見給へや人々ろくみやうきやうの其中に人のくわほうは儀によつてしなむに生れてもそうりやうをつくへしととかれたるはこれなるへし此時家の重代をかめゐの六郎ゆつりえてちすちのやさきあたるともむないたに請とめてしなむす事のうれしやとおとりあかつてよろこふたるあつはれふしの手本やとほめぬ人こそなかりけれ。已に其夜も明かたの事なるに武蔵坊弁慶はゐたる所をつむとたつて四間所へつつと入いつもこのむかちむのひたゝれ水にをしのわいたてし三ひきりやうのゆこてさしいまたよろいはきさりけり二尺計なるうち刀を十もむしにさすまゝになしうち烏帽子おつこうて白綾たゝんてはちまきにむんすしめ人々御免候へとて四間のていより中門のろうにいてからうとに腰をかけ東向にそゐたりける鈴木の三郎重家もきよりやうしますりのひたゝれ君より下し給つたる小桜おとしのよろいをき同しけの三枚甲のをゝしめ三尺八寸のいかもの作りの太刀はいて卅六さいたる大中黒のそやおうて三人はりのまむ中にきりこれも四間のていより中門のろうに出からうとに腰をかけひかしむきにそゐたりけるわしの尾かたおかくまゐ太郎源八兵衛広綱備前の平四郎けゝのよろいかふとのおゝしめ太刀はき矢おひて皆なからからうとに腰をかけ目と目ときつと見合たる此人々のありさまははむくわいちやうりやうあむろく山も面をそむはつゝはちぬへし。其中にとつてもかめゐの六郎重清は一きはすくれて出たつたりはたにとつてはからくれなゐひつちかへせいかうのはつたるによせかけめゆいのひたゝれのくゝりをゆつてしめたりけりやうはいたうりのさうのこてひやくたむみかきのすねあてくまのかはのもみたひしろかねにてへりかねやつてあくちたかにふむこうたりしゝにほたむのわいたてしからにしきおとし金さねの腹巻さつくとゆりかけいとひおとしのよろい二両かさねてはらりときおとりあかつてたかひほかけゆつて上おひちやうとしめ九寸五分のよろいとをしをめての脇にさいたりけり一尺八寸のうち刀を十もむしにさすまゝに三尺八寸候ひしあふひ作の太刀はいて四十二指たるたかうすへうをはすたかにとつてつけおなしけの五枚かふとにくわかたうつてゐくひにき白綾のほろをさつとかけぬり籠のゆみの四人はりせめのせきつるかけさせまむ中にきりよこたえ四間のていより中門へゆるき出たるそのあり様物によくよくたとふれはめいほくたいしはくたわう吾朝にてはまさかとすみともよしの山にて名をあけし奥州のたゝのふもたゝこれほとこそありつらめきりやうによせて出たつたりやと声をそろへほめたりけりすてに其夜も明けれは奥方の軍兵もうつたつよしこそ聞えけれまつ大手へは時のしつけむ人長崎殿を大将にて三千八百余騎衣川ひかしの門へをしよするからめてはたて鳥の海二千五百余騎にて西の小門へをしよする御所の手はおほては鈴木兄弟かねふさたゝ三騎にてかためぬからめてはわしの尾片岡熊井太郎源八兵衛ひろつな以上五騎にてひかへたり弁慶はうきむしやにておほてのやくらにあかりいくさのけちをそしたりけるかめゐの六郎も同しくやくらにあかりかふとをぬいてとうとをき弓はりなをしつるくいしめしすひきしてこそゐたりけれあにの鈴木か見あけてきつと見てや御辺はやくらにあかりたるよな亀井か聞てさむ候此城は平城にて候へとも久しくこしらへたる城にて堀ひろうしてそこふかしいかにかたきかつめかけてうめくさむをこむとも三重の堀をはよも一時にはうめさうし重家重清兄弟と名乗て奥方のやつはらに手次を見せてくれさうす鈴木聞てあふよくいふたり亀井たゝし重家は長旅に腹巻にかたひかせ矢つほも矢つかもおほえねともさらは射て見む亀井とて同しくやくらにあかるかくてよせての人々はおほてからめてもみ合せときをとつとあくるろくしゆしむとうかくやらむ天地ひゝいておひたゝしゝ城には已上九人の人々いくさのはうとてやさしくも時をおつとそあはせける物によくよくたとふれは。いかつちわたるはるの野にふるすを出るうくひすのはつねをつくることくなり。時の声しつまりけれはてる井の太郎たかなう一陣に駒かけいたし大音あけて申いかに御陣へ申たき事の候昨日まては判官殿をしゆくむと仰申といへと鎌倉殿の御意にそむきおはしますさるによつて長崎殿みきよしよたいしお下向の上あめか下にありなからいはい申にをよはさるによつて義経の御しかいましまさはかいしやく申せとの御使にたかなう参りて候と申させ給へ人々とてゆむ杖にすかつてひかへたり武蔵坊弁慶はやくらのあよみいたをこほれよととふとふとふみならし何かういふはてるいめかれつのうつたるかふとをきようきこつからゆゝしくしよき馬にのつたれは秀平か子ともの中には誰なるらむとおもふ所に又らうとうのてるいめか此門外まてまいりきて馬の上にてなのりやうらうせきなり其陣をやあ引てのけとそ申けるてるいの太郎かこれをきゝかくの給ふはむさし殿か事めつらしきさう言哉君をふかくたつとめは臣をうやまふ道理あり鎌倉殿みきよしよたいしけふの大将給つてまかりむかつたたかなふにてわ人ともをは真実の物のかすとはおもはぬ也無用のくわうけむ申さむよりも侍はわたり者そかふとをぬいてゆつるをはつしいのちをつけとそ云たりけるむさし坊弁慶言葉なくしてたつたりけり亀井の六郎かむさしかあたりへたちよつてなふなふむさし殿神明をもたつとますふめいをもおそれすはうに任せすふるまひ候はうしやくふしんのやつめには何を仰候ともたゝ犬をけうすに似たるへし無用の論をとめ給へ君こそ御腹をめさるゝともわれらかかくて候はゝいくさは花をちらすへしかう申兵をいかなる者とおもふらむゆや権現の一のしむかにのうみの大臣しけたかよりも十六代のこうゐむ鈴木のしやうしかしなむ亀井の六郎重清年つもつて廿六てる井殿に矢ひとすちたてまつらんやうけて見よといひもあへす十四人はりに十四そくとつてからとうちつかいもとはすうらはすひとつになれときりきりとひきしほりまちをこふしにひつかけえいやつとかつてうつたるはとうつきなむとのことく也一陣にすゝんたるてるいかしやていたかのゝ四郎か駒ひつそはめてひかへたるよろいの袖の三のいためてのわいたておくりの板きものたはねするりととをしあひひきかけてうらをかけくつとぬけてあまる矢かうらにひかへたるてる井か馬のふとはらにはふくらせめてつつはとたつたかのはいたてなりけれはうけもあはせすめてかへしにしころをついてとうとおつれはてるいか馬はいたておひひやうふ返しにひつたと返したかひさおつてふしけれはてるいは馬よりおりたつた城にはむさし鈴木を先としていたりやいたりやとゆりあけゆりあけ咲けり寄てはいられて音もせすいこくのきむくわかゆみのいもたゝ是程こそありつらめとよせてもしたをまいたりけり。兄の鈴木かおとおと亀井かすかたを見上てきつと見て。あゝ射たりや亀井此五六年はなれ御辺いか程におひたつてあるやらむと心元なくおもひ紀の国よりはるはる下りてみてあれはようきこつからよりすくれたる長矢つかの大弓はよにもふしきにおもひしにをしてかつてのさたまつて射たりやかめゐあ射たりやかめゐ殿只今の其きしよくを紀のくににとゝめをく一族ともに見せはや。君も御出あつて御見物あれかしな重家も矢一射て見せ申さむといふまゝに十三そく三かけの中さしぬいてあふらひき矢さまひろひろとひかせいかにや奥方の軍兵今のかめゐかあに鈴木の庄司とはわか事也四国九国の御かつせむに度々の高名なをあらはし御代しつまつて其後紀州ふちしろは本領なれはあむとをたまはり所領に下義経の都下着をはしらて御供申さぬ也さはありなから此五六年君の御事かめゐかゆくゑひとかたならぬによりさうてはかうて紀州を罷いていそくとすれとかち路日かすつもつて昨日まて七十五日にて夕部つき今日の御かせんにあふたるはさてなむほうくわほうのものそ今のかめゐか矢程こそなくと請て見よとそいふたりけるおくかたの軍兵たてのはをつきかさして鈴木か射る矢を待かけたり鈴木此よし見るよりも十三そくみつかけ三人はりにからりとつかひもとはすうらはつひとつになれときりきりとひきしほりかなくりはなしにかつきとはなす一陣にすゝんたるてるいかいとこにまるたの藤次かたかのかたうのや一筋とすゝみかけたるむないたにたつよりはやくくつとぬけうらにひかへたるむきのゝ四郎かくひのほねにひつしとたつ二騎の武者かためすしてゆむてめてへとうとうとおちにけりつゝく軍兵これを見て此者ともか矢さきにはくろかねのたてをついたりともかなふへしともおほえすや此陣ひけやといふまゝにむらむらはつとひいたりけり鈴木兄弟やくらよりくたりこふしにけよきむしやをかいえりかいえりさしとり引つめさむさむに射たりけりやたねつくれはやくらをゆらりととむており駒引よせてうちのり衣川の中の瀬を水にかもめか一むすひ浪間をつたふ風情にてあふみのはなにてなみをたゝかせさむさめかいてわたしけりおくかたの軍兵此よしを見るよりも鈴木兄弟手とりにせよ太刀もかたなもいるへきかとておりかさなつてひしめいたり鈴木兄弟玉になれたるほうらいの鳥の風情かくやらむおとろくけしきはなかりけり大勢の中へわつて入西からひかし北から南くもてかくなは十文字八はなかたといふ物にわりたておむまはしてさむさむにきつたりけり鈴木の三郎重家十三騎きつておとせはおとおとかめゐかてにかけて廿七騎なきふするけにはかたきもこらへはこそかせに木の葉のちるやうにむらむらはつとひいたりけり此人々はてもおはすし川しつしつとわたしもとしいきおいかゝつてひかへたるはいこくのはむくわひちやうりやうもかくやとおもひしられてあり武蔵坊弁慶はやくらの上にてつくつくと見てあら面白と鈴木兄弟かかつせむしたるやうやさすかにあのかたかたは天下御用くしよのいくさをしならふたる人々にてかたきの色をさとつてかけ引つる心ねの面白さよしはらく人々やくらにあかつておまち候へ武蔵坊弁慶もてたつてこむといふまゝに四間所へつつといりうのはなおとしのよろいをきさきのなしうち烏帽子にて今度はしらゑの長刀をうちかたけおほてのやくらにはしりあかつてひかしむきにそたつたりける。抑比はいつなるらん文治五年閏四月の廿八日のいまたみの刻はかりなるにてりにてつたるあさ日に物の具のかな物は折からいろやまつさるらむ開た扇はくれなゐにて日にさしむかつてたつたりけるむさし坊かありさまはたうはつひしやもむ四天王のあれたるけしきもかくやらむ。いかにおくかたの軍兵なりをしつめてことの心を慥にきけ夫人間の命はてむくわうてうろうつもうたるゝも夢のたはふれ昨日まてはかたをならへひさをくみしかたかたかけふかたきとなる事もいむくわれきせむの道理によつてよをも人をもうらむましいさりなからなむちらかおむこくにすむていりとりかうたうしさかいのはうし論し廿騎三十騎こゝかしこにひきわけひきわけそらいむちしてつふてうつたらむにはにましいそ今日むさしかするいくさこそ手本よ見ならへ弁慶か長刀にてきりのこされたらんともからは見し者とおもひては後世をはとふてえさせよ弁慶末代の物語に舞を一手まはふそやはやいてたへや人々鈴木兄弟かねて用意やしたりけむつゝみを取出してたゝき上てそはやしける自体むさしは山徒にても乱舞延年の上手舞をは一手ならふたりてうしをうかかふてたつたりしかかすみにかすむて大きなる声をはつたとあけて一声をこそとつたりけれ。うれしやとうとうとなるは瀧の水。日はてるともいつもたえせし面白やいかたをくたすは大井川花をなかすはよしの川紅葉をくたすは龍田川都あたりに名河はさまさまおゝけれと遠国なから名所哉きり山たかねののこりの雪きえ谷のつらゝもとけぬれは衣川のみかさまさつておくかたの軍兵を弁慶か長刀にてみなとを指てきりなかすきりなかすともみ烏帽子といふきよくを一ひやうしはらりとふむてひらいた扇をやくらより衣川へさつとなけいれあふきのおつるよりはやくあふやくらをとむておりたりけり三のへたちのしらあしけ七騎八分あけ六さいに引よせゆらりとのつたりけりわしの尾片岡か先にかけむとすゝみけり弁慶か是を見ていていてむさしあらきりせむ跡をはこなせ若武者共とて先かけしてこそわたしけれむかひはしのふもとよしたけひまるたを先としておくにはわれとおほしきもの三百騎はかりてひかへたる陣の中へむさし駒をさつとかけ入たりおくかたの軍兵ちむをふたつにわけたりけりされとも爰にたかたの大郎と名乗てむさし坊にわたりあふ弁慶これを見てもつてひらいてよこてきりにかつしときるかふとのゆむてのふきかへしおもてのほうさきめてのかふりの板をかけてつむと切てそ落ける花崎このよしを見るよりもあつきつたりやむさし殿そこをひくなといふまゝにすきまもなくかゝりけり弁慶これを見てもつて破ておかみうちにちやうとうつ甲のまつかうきりわつてうしろはしころほろつけまへははつふりよたれかね四枚かなとうひつしきくさすりふたつにさつときりわられてゆむてめてへさむはけたり柴田の四郎かこれを見てあつ切たりやむさし殿そこを引なと云まゝにすきまもなくかゝりけり弁慶是を見てあふおく方の軍兵は心はかうにありけるそやしりそく風情を見せさるは手次の程を見せむとてもつてひらいてちやうとうつたりけり柴田も聞ふる兵者にてかふりの板にてうけなかしさらぬ体にてかけとをす二陣につゝいたるかめゐの六郎かむさし殿のきりのこし請とつたりやと云まゝにあふひ作三尺八寸よこて切にかむしときるかめゐかうてやつよかりけむ太刀のかねやよかりけむしまいとうをゝしかけ廿五さいたるそやをかけしやこしのつかひを車切といふ物にふつつときつておとしけりかみはぬけてとうとおつれは下は鞍にそのつたりけり是をはしめて七騎の人々入ちかへもみちかへさむさむに切てそまはりけるかゝりける所に土佐の八郎たかなうとかめゐの六郎しけきよむすとくむて二人か両馬のあひへとうとおつるかめゐふさうのかうの者かたきとくむならは大勢さためておりあふへしといろかねてさとりとさをとつておさへてくひふつとかきおとしたちあからむとする所へとさかめのとの十郎かすきをあらせすおりあひてかめゐかゆむてのかいなを水もたまらすうちおとすかめゐふさうのかうの者心は高砂やたかさこのまつのみとりとはゆれともいたてをおいぬれは太刀を杖につき今をかきりと見ゆるしやきやう鈴木の庄司大勢の中にてたゝかひしかおとおとかめゐかいたておい存命不定なるを見てかたきを四方へおつちらし我身をきつと見たりけれはいたてうすてのきらひなく十三所手おふたり今はかうとおもひてかめゐをかたにひつかけ城の内へつつといり高き所におろしをきやあそこて腹きれかめゐ南む阿弥陀仏ともろともに鈴木は生年三十三かめゐの六郎廿六さしちかへてしにけるをおしまぬものはなかりけり。去間弁慶は君の御前にまいりはや鈴木兄弟こそうちしに仕りて候へ判官聞しめされてかめゐか事はさておきぬあらむさんや鈴木。紀の国よりはるはる下り世になきしうのかたうとしてうたれぬるこそむさんなれ。けさよりよむ御経もはやほうなうの時分になるそふせいてたへやむさし殿弁慶承てこむとはそれかしかしにはむにあたつてさうと申もあへすおていへつんと入くろかねをあつさ五分にきたわせたるを桶かわとうと名付て刀たまりにきたりけりうのはなおとしのよろいいとひおとしのとう丸三両かさねてさつくときうはおひゆつてちやうとしめ一尺八寸のうち刀を十もむしにさすまゝにゑひらかたなくひかきかたな三腰まてこそさいたりけりなきなたこそりはをうちちかへくらの前輪にしめつけ弓手にくまておつ取てめてになきなたうちかけひさにて馬をのつたりけり弁慶かかけ出れはたゝ小山のうこくことくなり大勢の中へわつていりひさくちたかもゝ馬のはらはらりはらりと引やふれはたゝしやうきたをしのことくなり此いきおひにおそれ捨ふちうつてにくる所へ弁慶駒をかけよせくまてをさしわたしかふとのてへんにうちかけえいといふて引寄てさけ切してそ捨にけりいはむやかむわうもろこしまて其名をえたる弁慶けふを最後のかつせむに面を合るものはなしいかれる眼は黒雲の所々のはれまより朝日のうつろふことく也かたきをなひけておめく声らいてんいなつまはたゝかみしゝさう虎のほうる声かくやとおもひしられたり弁慶か二度のかけに奥方の軍兵は百八十騎うたれたり今はむかふかたきのあらされはえゝ物くさいいくさ哉さおもふつる事よとてこたかき所に駒うちあけてしはらく陣をそとつたりけるかゝりける所にしのふの庄司か子に小大郎生年十八歳に成けるか弁慶かいせむのかけあしに父をうたせ便隙をうかかつてひとや射はやとねらふ所にはや爰にて見付二はりに十二束とつてからとうちつかひかなくつてひやうと射た弁慶かのむとのむととひかへたるむな板にはつしとあたるこひやうのいる矢のかなしさはやたてに矢をはためすしてひそりけるその矢か内かふとへからりといつて笛のくさりにひつしとたつえゝ物々しといふまゝに矢をかいかなくつて見たりけれは鳥のしたにてや射たりけむやからはぬけてねはとまるさしもにかうなる弁慶も馬より下にとうとおつる。あらむねむや西塔のむさしとて鬼神のやうにいはれしかか程のほそやにあたつてはかなくならむ口惜さよ。最後にきやつをきらすはよみちのさはりとなるへし去なからいせむのことく馬に取乗おうならはおちてさうなくちかつくましい所詮そらしにをはしめてちかつかむ所を切てくれはやとおもひそはなる甲ひつかけて空しにしてそたるみけるしのふ此よし見るよりもなふあれあれ御覧候へさこそ人々のおにかみのやうにの給ひしむさし坊弁慶をは何かしか手にかけ射おとして候くひとつて見せむとて三尺八寸いか物作するりとぬいてまつかうにさしかさしもみにもふてそかゝりける弁慶しころの隙より見あけてきつと見てあつはれきりやうやよいきりやう哉あつたらわかいものを弁慶か手にかけうしなはん事のむさんさよ太刀のすむはのひたるやきやつに一太刀うたれてはあしかりなむと存れはちかちかとつめよせうしおきにかつはとおきらうせきなるやつめにてなみの程を見せむとてそはなるなきなたおつとつておつつめさらりとないたりけりたかもゝきつておとされのつけにかへす所をほそくひちうにうちおとしあけにそうたるなきなたゆんてのかたになけかけ駒引よせてうちのり城の内へつつといり駒をかしこにのりはなし大なきなたにすかつてたちたちとたゝよひあらくるしやかねふさよ君はいつくにおはします。兼房むさしか手を引て御前さしてまいる判官御覧してあれはむさしかさん候声を聞はいにしへのむさしすかたはたゝ鬼神のことし浦山しやむさしは生をもかへてたちまちにあら人神となりたるよなそれへそれへと仰けれは承と申て落縁につむとあかりよろいの袖をかたしいて今をかきりと見ゆるか兼房をちかつけて最後に若君を一目おかみ申さう兼房わかきみをいたき申むさしか手にわたす。弁慶若君をいたき申おくれのかみをかきなてかめわり山のたうけにてこさむならせ給ひし時むさしかうふゆをまいらせなむしは七歳まて物あやかりと承るわか君の御くわほうあやからせ給はゝはくふ頼朝に御あやかり候へかいりきはこしむふ判官弓はためともの御弓勢二さうをさとつてあくまのものゝおそれむは平のちゝふにあやからせ給へうち物めされものゝ骨きつて人におちられたらむは物そのかすにて候はねともかう申むさしめにあやからせ給へ命のなかくわたらせ給はむは三浦の大すけか百六になりしにあやからせ給へと申せし事の夢となりいまた十にもたらすして衣川の水のあはときえさせ給はむいたはしやとはらはらとなきけれはあゝいたはしやわかきみは何のよしみをもしろしめされさりしか弁慶かあらけなき出たちにもおち給はすむないたをくたりにあけのちしほに染かへしなかるゝちを御覧していたいけしたる御手にてかきなてさせ給ひつゝひしひしといたきつきわつとさけはせ給ふにそお前の女房お末の人兼房もむさしもきえ入やうになきゐたり。判官御覧して弁慶か最後に酒をのませよ承と申てなかえのてうしに紅葉のかはらけを参らする判官とりあけさせ給ひて是は二世まてのさかつきをさすそ給はれ弁慶余のかたしけなさに三といたゝきたむふたむふと一つうけゆくゆくとはほしけれともあら何ともなや笛かきれたる事なれはちにましはりて此酒かむないたをくたりにさらりさらりとなかれけり。判官御覧して弁慶か最後はちかつきたるそ念仏をすゝめよかねふさ念仏をすゝめけれは奥方の軍兵このよしを聞よりも城の内に念仏の音の聞ふるはいか様むさしか腹をきるか大かうの者のしかいのやういさ見ならひて手本にせむ尤然へしとてわれさきにとみたれいる判官御覧してあはやかたきのちかつくはかねふさふせきや射よ弁慶は腹をきれお経せむする間とて御坐をたゝせ給へは弁慶かたきのよははるこはねを力として大長刀にすかりて又たんちたんちとたゝよふ判官御覧して又うつて出るかむさしさむ候判官おもひつゝけてかくはかり後の世も又のちの世もめくりあへそむ紫の雲の上まて。弁慶承て返哥とおほしくてかくはかり六道のちまたの末に待そきみおくれさきたつならひありともとかやうに申て堀のふなはしをかふかふとわたりけりおくかたの軍兵此よしを見るよりもあらおそろしや又弁慶かかゝるはこゝを引やと云まゝにわれさきとそにけにける衣川さつとおつこしむかひのはゝたにてひようたうするつはものを十七八騎きりふせこなたのはゝたへかへらんとしたりしか次第にしやうねみたるれは西むきにつゝたつて長刀まなこにゆりたて光明真言となへつゝ生年卅八にして衣川のたち往生おしまぬものはなかりけり。奥方の軍兵このよしを見るよりもあらおそろしや又弁慶か人をたはかりてきらむとするはかり事よちかふよつてはかなふましとを矢に射よといふまゝに指とり引つめさむさむに射たりけりむさしにあたるその矢はあしをたはねてまきのいたとをつくふせひもとよりしゝたる弁慶にて其身をちつともいたますのまたてのしやうしこれを見ていたつて心のかうなる武者は立なからしするいはれのありと申そたれかあるゆきむかつて弓のはすをもつてそつとついて見よ承と申て廿騎卅騎かけよせかけよせしけれともてもとへよるものなかりけりのまたて是を見てえゝおくひやうなる人々かなそこのけそれかしつかむとて駒のたつなかいくつてかつしかつしとあよませよせゆみのはすをおつとりのへおつおつかつはとついたもとよりしゝた弁慶てかれ木をたをすことくにかつふとまるひけりまるひけるそのせんに持たるなきなたかひらりとするを見るよりものまたての庄司しゝたるものとはしらすし又切てかゝると心へきもたましゐも身にそはす駒より下にころひ落うきぬしつみぬなかれて衣川のいせきにせつかれて死たりしを貴賤上下をしなへにくまぬ者はなかりけり。

前頁  目次  次頁  校訂版