含状
(大頭別本)
去間高舘の御所には大手をかためし鈴木兄弟をはしめとし武蔵坊弁慶みなうちじにをしけれ共よせての軍兵はおぢてさうなく責入ものもなかりけり搦手にありし人々には鷲尾片岡熊井大郎源八右兵衛広綱備前平四郎此かたかた申やういつまで角てながらへんよせての陣へかけいつてうち死せんといふまゝに我さきにときつていづる寄手の軍兵も一信はさゝへけりさしもにたけき。人々なれば八方をさしかゝつで一方へをむむけその中へ切て入はりたてをんまはし蜘手かくなは十文字やつはながたといふ物にさんさんに切てまはる天はうづまひて地をあけに染かへ龍の水をゑ雲をわけ虚空へあがるごとく也いまた時もうつさぬまにくきやうの兵者共を九十三騎きり臥たりのこりの兵者ふせくへきやうあらずして風に木のはのちるやうにむらむらばつとひいたりけりむかふかたきのあらされば城のうちの人々もたがひに手にてを取くつでしづしづとひいて入こゝまての際ぞとておもひおもひに腹切ておなし枕にふしたりしをあふおしまぬものはなかりけり角て時刻もうつりければよせての軍兵申やう城のうちよりもつゝいて切て出ざるはみなはらをや切つらんさらばよせよといふまゝに大手搦てもみあはせ鯨波をどつとあぐる其時判官兼房めされいかに兼房弁慶をはしめとしいつれもうち死しけるよな御経もほうなう也義経はらを切べしたゞし満王丸と御前を先ともかくもよきやうに認よとの御諚也兼房承りかしこまつて候とていまだ四歳に成給ふ若君様に参り御最後也と申せは若君きこしめされてさいごとは何事ぞ兼房承り左候御さいごと申は西にむかはせ給ひ御手をあはせたからかに南無阿弥陀仏みだふつと御となへましませば西方の浄土とてゆゝしき所の候に武蔵が先にまいり待奉り候。兼房も御跡よりやかて参候べし若君様といひければあらいたはしや若君は何の心もおはせねば西にむかつて御手をあはせ南無阿弥陀仏みだぶつとたからかにのたまへば兼房はめをふさぎ心もとを一刀さし参らせ候らへばあつとばかりを御さいごにて衣川の水の淡と滅させ給ふ御有様哀といふも余あり。其後兼房は御前にまいりはや城のうちのもの共武蔵をさきとし皆うち死つかまつり候らぬかたきもちかづきて候らへば御自害をすゝめ申せとの御使に兼房参りて候と申もあヘず縁に手うちかけてはらはらとぞなきにける御前此由きこしめされみつから自害をせん事はおもひまふけたる事なればおどろくへきにてあらず扨満王丸をは何とはからひけるぞやきかまほしやとおほせありさめさめとなき給へば。兼房うけたまはり左候若君様をばたすけまいらせたくおほしめされ候らへ共君の御坐なき御跡にかたきの手にわたらせ給ひ候はゝかめいの御きずたるべければたゞたゞ失申せとの仰にて候うへ悼なから唯今がいしたてまつつて候と有のまゝにぞ申ける御前きこしめされてあらむざんや満王丸さてはむなしく成けるぞや今はうき世に思ひをく事さふらはずはやみづからをもがいせよと御はだのまもりよりしゆへんのじゆずを取いだし御手をあはせたからかに南無西方のみだによらいいとゞだに女は五障三従にえらまれて罪のふかひときくなれば弓箭にかゝるみづからをたすけたまヘやあみだぶつ南無阿弥陀仏とのたまへは兼房もおもひ切すでに刀をぬきもちて御端ちかくまいりつゝよそほひを見申せばくれなゐのかほばせは露をふくめるかいだうの花かともうたがはれ月もねたむべかりつる桂のまゆのほのほのとおもひみたれし黒髪のそのひまよりもあらはれてゆきのやうなる御はだにいづくにかたなをたつべきとあきれはてゝぞいたりける御前此よし御覧じておくれたり兼房よはやとくとくとのたまへばよはき心をひきたてゝ心もとを二刀水もたまらずさし申せば袖のしたにて御手をあはせ天上天下唯我独尊四大五形をつかさどりつゐにはつちにかへすなりとかやうにとなへたまひけり悼や御前の都に御坐の御時かり初ふりの玉章のしぢの端書かきつめて百夜もおなしまろねせんとあけくれなけかせ給ひつる君が心を哀とや思外にみちしばのおもきが露に打なひき娋瀬の中と成たまひ天下のまもりとおはせしがいつそのほとに引替てみやこの花を見すてつゝこしのそらにとかへる雁の鳴音を袖に友なひてはるはるおくだりましませしがいくほどもなきそのまに御とし廿四歳にて陸奥の草むらの露ときえさせたまひしを申はかりもなかりけり。去間兼房は君の御前に参り此よしかくと申判官きこしめされてあふ今こそ心やすけれ其儀にて有ならば義経腹をきるべし南無十方の諸仏。かまへてあつけんにおとさせたまふなと御刀をするりとぬき腹十文字にかききつて臓をつかんでくりいだしすむすむに切て捨しろき綾にて御疵のくちをまとひあふなむぼうきつたぞ兼房よかねふさこのよし見まいらせあつはれすゝしき御自害かなしはらく御まち候へとてともし火のありけるを屏風几帳にふきつけてむか霞にやきあげ腰の刀をひんぬいて腹十文字にかきやぶり御頚をたまはつて臓のなかへおしいれ猛火なかにとむで入焔となつてぞうせたりける兼房がふるまひは唯樊会も角やらんすでにほのほもしづまりければよせての軍兵はせあつまり九つのくびをとりあつめてかまくらへのほせらいてうの御目にかくるいづれもやけくびの事なれば是こそたれにて候へと見しれる人もなかりけり頼朝御諚には秩父殿は見しりたまひてやおはすらんそれそれ見たまへとおほせければ重忠御前にまいりいづれも御兄弟には御しるしの候ものをとのたまひてかうかいをぬきいだし御くちをはつて見たまへば案にもたかはずむかふば二重におひさせたまひたりなにとはしらね共巻物一くはんくはへたまふ兼て御契約の子細もや候らひけんはゞかるけしきもましまさずたからかにこそよまれけれ。源の義経おそれなから申上候その意趣はかたしけなくも清和の後胤とし多田の新発意満仲の家をつぐといへど父尊霊古反殿平治のたゝかひに懸負都をしりぞき給し時其とき義経二歳なり母の懐にいだかれ大和国宇多の郡龍門の牧に趣しよりこのかた一日片時も安堵のおもひに住せず然而平家の。一族退罰のために上洛せしむる手あはせに木曽義仲誅戮のゝち平氏ほろぼさんために有時は峨々とある岩石に駿馬に鞭をうつて仇のために命をうしなはんことをかへりみず又有時は満々たる海中のうへにして風波のなんを凌骸を西海の波嶋に曬むことを痛不天下にみちみてし平家を三とせ三月がそのうちにせめほろぼし三種の神器事故なく再度帝都におさめたてまつり一天四海をおだやかにせしことしかしなから義経が戦功にあらずやかやうに粉骨をつくしたてまつるもの也剰は大臣殿父子生捕て京都鎌倉をわたし源氏の会稽の恥辱を雪む処に盍虎口之讒言によつて莫太の勲功をもたせられわづかの梶原に真の兄弟をおもひかへらるゝうつふむふかうしてなげきせつなりねがはくは梶原ふしがかうべをきつて義経に手向たぶならはみらいやうやううらみ有べからず万端おほしといへど筆帋につくしがたし是は末後の義経が恨状とぞよまれたる御前なりし人々は一度にあつとまうしをのをのなみだにむせばるゝ去間頼朝は御兄弟の御別道理至極にせめられてかり衣の御袖を御顔にをしあてふししづみりうていこがれたまへば御前の人々も直垂の袖をしぼりかねたる有様哀なりともなかなか申計もなかりけり去間梶原は御前にありしが此よしを見るよりもかなはじとやおもひけん御前をまかりたちはだし馬にうちのつてくけ地をさしてにげにけり運のきはめのかなしさは駿河の国の住人に高橋のよ一が的をゐていたりける弓場のまへを騎打にしたりけり高橋これを見君のおほへはとにもあれさぶらひの的のまへ馬にのつてとをる事きくいなりといふまゝにもとよりはめし矢なればよひいてはなしけり扨もかちはらが弓手のわきにうけとめ馬より下にころびおちあしたの露ときえにけり二男平次は駿河の国にきこえたるもりの野べとかやいふ所にて誅せられ候ひぬ嫡子の源太をもきらるべきにてありしが度々の高名さまさまに申あげけるあひた命計はたすかりて紀伊国谷輪といふ浦にさすらへあしたには木をこりゆふべに水をくみすそをむすんでかたにかくる彼景季が配所のうきのありさまかくともつきぬもしほ草何にたとへんかたもなし梶原ふしを見し人にくまぬものはなかりけり。
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