和田宴
(毛利家本)

 相模の国の住人、和田の義盛、一門九十三騎を引き具し、山下宿河原長者の宿所にうち寄り、夜日三日の宴は、面白うこそ聞こえけれ。長者もかねて、相構へたる事なれば、幸定、春女、善菊、愛と申して、虎に劣らぬ遊君を、十八人出し、和田殿ともてなす。されども和田の心ざす、虎は座敷になかりけり。使を立てて召さるるに、一度の使に参らず、二度の使に返事もせず、三度にも成りしかば、和田、大きに腹を立て、「異国を見ねば、そは知らず。本朝に於いて、武州に秩父、相州に義盛なんどが、うち寄つて宴をせむずるに、召さずとも出合ひ、酌をも取り、今様をも歌ひ、推参せんこそ本にてあるべきに、か程に召すに出合はぬ、虎は不思議の者かな。『山下内を出よ。』と言へ、朝比奈。」とぞ怒られける。
 長者、「悪しかりなん。」と思し召し、虎御前の居たりし、一間所に立ち寄り、障子を隔てて宣ひけるは、「いかに、虎御前。たとひ万々の事ありとも、只今出て、和田の前にて酌取つて、三浦へ帰し申されよ。それ普天の下に生を受け、王土にその身を置く事は、大事にてあらずや、虎御前。」とありしかば、虎、この由を承り、「あら、うたての母の仰せや候。『賢臣は二君に仕へず、貞女両夫にまみえず。』と、申す本文こそ候へ。貧なる者と思ひながら、祐成に契約し、又、祐成を引き替へて、和田に契約あらんとや。思ひも寄らぬ事なるべし。『虎はこれにありつるが、世に無し者の十郎と、契りを籠め、鎌倉の方へ。』とも、申させ給へ、母上。」と、召せども虎は出ざりけり。
 長者、至極の腹に据ゑかね、「いかに、虎御前。昔も親に孝ある輩を、わ御前に語つて聞かすべし。それ伯瑜は、母に打たれ、打つ杖をば悲しまで、弱る杖に音をぞ泣く。晋の孟宗は、母の願ひ物に、時ならぬ師走に笋を求むるに、雪、空山に降り満ち、笋、さらになかりしに、諸天、これを憐み給ひ、雪の中に笋三本育つ。これを取り、八旬に余り給ふ、母の願ひを満てけると聞く。郭巨といへる者は、母を養ひかね、我が子を土に埋まむと、打ちける鍬の下よりも、黄金の釜を掘り出し、再び長者に成ると聞く。
 「さる程に、人の子の胎内に宿り、胤を下ろす謀り事は、梵天よりも糸を下ろし、大海の底なる針の耳を通すよりも、受けがたうて産まるるなり。二百七十余ヶ日は、胎内に宿り、神仏にも忌まれ申し、九品の浄土へ参る事も無し。たまたま人に産まれ来る、その時の苦しみは、生きたる牛の皮を剥ぎ、せんからたちのその中へ、追ひ入るより耐えがたし。玄冬素雪の冬の夜は、衾を重ね、育めり。九夏三伏の夏の夜は、松風に戯れて、空吹く風を招き寄せ、およそ妻子を育めり。三歳に成るまで呑みける乳味を、凡夫、いかでか知るべきぞ。忝くも釈尊は、檀特山の傍らにて、静かに算段して見給ふに、およそ一百八十石に記さるる。この理を聞く時は、『白き骨は父の恩、ししむらは母の恩。報じても報じがたきを、父の恩。』と説かれ、『謝しても謝しがたきは、母の恩。』と説かれたり。慈父恩高如須弥山、悲母恩深如大海。いづれを報じ尽くすべきぞや、虎御前。只今出て、和田の前にて酌取つて、三浦へ帰し申さずは、惣じてあの十郎殿の、馬鞍見苦しうして、これまでの宿通ひを、思ひとどまり給へ。」と、荒らかに宣ひて、長者、座敷に直られしは、十郎殿のためには、面目なうぞ聞こえける。
 祐成、双眼に涙を浮かべ、「それ、天人の五衰、人間の八苦とて、八つの苦のその中に、あはれ、げに貧苦ほど、物憂き事は、よもあらじ。貧苦だにも成りぬれば、親しき人には遠く成り、疎き人には卑しまれ、今日この頃、祐成なんどが頼めたらんずる、遊君を恐らくは、あの殿ばらが分として、『遊君出せ。宴せん。』なんどと言はじなれども、世に従へば力無し。侍が侍に向かうて、腕首を握り、詰飭するは習ひなり。世をも人をも葛の葉の、葛の葉の、恨むべきにて無しや。」とて、樊噲そねむ祐成も、我が身の程を観じつつ、袂を顔に押し当てて、泣くより外の事は無し。
 虎、この由を聞くよりも、「何を宣ふぞ、十郎殿。昔の人の、目に見え候か。東方朔の九千歳、鬱頭藍弗の八万歳、龍智和尚の二万歳、浄名居士の翁の一千歳二千歳を、経るとは申し候へど、名をのみ聞いて、今は無し。明日を知らざる心にて、今日の楽こそ嬉しけれ。とどろとどろと鳴る神も、思ふ仲をばよも裂けじ。一人まします母の不孝は蒙るとも、座敷へは出まじき、十郎殿。」と語りけり。
 祐成、聞こし召されて、「優しの女の申し事や。か程優なる者を、座敷へ出さぬものならば、長者の恨み、深かるべし。」と思し召し、「いかに、虎御前。只今の言葉は、山ならば須弥山、海ならば滄海よりも、猶頼もしう候が、但し、違ふ言葉の候ぞ。それ、親の不孝と申すは、私ならぬ事なり。大地を戴いてまします仏の御名を、堅牢地神と申す。釈尊、問ひ給ふやう、『大地を戴いたるは、いか程重きぞ。』とありしかば、地神、答へて曰く、『須弥の山に、灯心を一筋置いたる譬へより、猶軽く候が、ここに重き物あり。主の勘当を蒙り、親の不孝を得たる者の通る時、大地が割れて、身が入れば、辺りの木草、枯れ果て、河を渡るに瀬絶えし、底の鱗も生を滅し、地神が頭に七尺の、剣を立つるより耐へがたし。』と宣へば、釈尊も、阿弥陀仏、三世の諸仏達、舌を巻いてぞ怖ぢ給ふ。
 「又、五障と申すは、五の巻の提婆品に、『一者不得作梵天王、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身。』と説かれ、女に五つの障りあり。又、三従と申す事あり。幼き時、父母の家とて家を持たねば、親に従ふ苦一つ。若く盛んなる時、夫の家とて家を持たねば、夫に従ふ苦一つ。さて老しての後、子どもの家とて家を持たねば、子に従へる苦一つ。されば仏の説かれたり。『三界に垣も無し。六道にほとり無し。女に三つの家無し。』と。ここを仏の説き給ふ。この理を聞く時は、不孝に過ぎたる科ぞ無き。只今出て、和田が前にて酌取つて、三浦へ帰し給へ。さなきものならば、名残惜しうは侯へども、祐成は曽我へ帰るべし。」
 虎、この由を聞くよりも、「うたての人の仰せや候。母御の、『御不孝あらん。』と、仰せ候をさへ、御身に替へて思ひしに、御身のさやうに宣はば、さらば出む。」と言ふままに、十二ひと重のそばを取り、座敷へぞ出にける。積もる年は十七歳、海道二番の遊君、おとなげなくも義盛の、虎に心を懸けられしは、理とぞ聞こえける。
 虎御前、出て和田殿ともてなす。されども盃の交替、心に入らず。義盛、御覧じて、「いかに、虎御前。御身の盃の、心に染まず見ゆるは、いかさま、夫の十郎が内にあるか。居たらば、『出て、酒呑め。』と、使を立てよ、虎御前。」虎、なのめに喜うで、十郎の方へ使を立つる。祐成、「出じもの。」とは思はれけるが、「只今出ぬものならば、臆したり。」と思し召し、俄の事にてある間、掛烏帽子にぞ着たりける。夏野の摺り尽くしの直垂、九寸五分の鎧通し、だみたる扇押つ取り添へ、前半に差いたりけり。大幕掴んでうち上げ、「祐成、これに候。」と、座敷をきつと見渡せば、着座には義盛を始め、虎も長者も、一門九十三騎、車座にばらりと居流れて、祐成が居うずる座敷は無し。ここに和田の右座に、畳が一畳空いてあり。和田は三浦の大将とて、恐れを成して、直る者もなかりけり。祐成、御覧じて、「あら、事々しや。和田と言ふに、三浦の大将。祐成は伊東の大将。真互角なる侍が、和田が居うずる座敷に、祐成が居まじいか。」と、おめず臆せず憚らで、右座にむずと直る。
 かくて盃三献通つて後、母の長者、蒔絵の盤に、紅葉のかはらけを据ゑて出し、「いかに、虎御前。この盃一つ呑うで、いづ方へも、思はうずる方へ差し給へ、」虎、この由を承り、「あら、難かしの母の仰せや候。和田へならば義盛へ、十郎へならば祐成へ、『差せ。』とは仰せなくして、『思はうずる方へ。』とは、和田に差すならば、十郎の恨み。又、十郎に差すならば、和田の恨みあり。」とやせん、かくやあらましと、案じたりし有様を、物によくよく譬ふれば、明石の浦の人麿の、硯と筆と料紙を、傍に置かせ給ひて、出る舟入る舟、立つ浪吹く風によそへて、『三十一字の言の葉に、洩らさじ。』と案じ給ひしも、これにはいかでまさるべき。
 深く物に譬ふるに、大国の事なるに、帝一人おはします。帝の御名をば、玄宗皇帝と申す。しかるに皇帝に、三千人の后あり。第一の后を虞氏君と申す。さてその次の后を、弘農の楊玄琰の御娘、楊貴妃とこそ申しけれ。しかるに楊貴妃、三国一の美人たり。帝、寵愛なのめならず。公卿僉議、まちまちたり。「賤しき婢侍の子ども、楊貴妃が、一の后に備はらば、百敷や大宮人を振り捨てて、我々、内裏を罷り出ん。」と奏聞す。右をくだりに楊玄琰の一党、「虞氏君の、一の后に備はらば、百敷や大宮人を振り捨てて、我々、内裏を罷り出ん。」と奏聞す。帝、この事を叡覧ましまして、「やうやうしの有様や。あなたを斎へば、こなたの恨みあり。又、こなたを斎へば、あなたの恨みあり。いづ方の恨みをも、負はぬやうに。」と思し召し、天宝十二年七月七日の日、紫宸殿の額の間へ、二人の后召されて、瑠璃の盤に、白石黒石の投子に、水牛の角の賽を、銀の筒に入れ、「早く三番一得の、勝負に賭けて位を、争ひ給へ、后達。」と宣旨ある。
 后は聞こし召されて、「恨みも恋も残らず。さらば打たん。」とて、賽の目を合はせらる。初めの勝ちは楊貴妃、その次は虞氏君。手詰めの勝負に成りて、折葉に成りければ、楊貴妃の請ひ目に、重三を請はれたり。虞氏君の請ひ目には、重四を請はれたり。両の心、幾ばくぞ。重三にも重四にも、片切つて下りずし、筒の内でこの賽、二つづつに割れては、四つに成りてぞ出にける。楊貴妃の請はれたる、重三も下りてあり。虞氏君の請はれたる、重四も下りてあり。帝、叡覧ましまし、「あう、優しの賽や。汝は牛の角なれど、人の心を千々に知つて、さやうに振舞ふかや。さらば、官を成せ。」とて、賽の目に朱をさいて、その時までは、重一、重二、重三、重四、重五、重六と申せしを、朱三、朱四と申す事、この御代よりも始まれり。その賽と申すは、物の心を知つたれば、二つに割れ、四つで出、二人の后、備はる。「その如くみづからも、差したき方は両方なり。盃は一つ。二つに割れて、のけかし。」と、千種に物を案じける、虎御前の心中を、譬へん方はなかりけり。
 かくて時刻も移りければ、長者、御覧じて、「あら、遅や、虎御前。所詮その盃、一つ呑うでいづ方へも、思はざらん方へ差し給へ。」虎、この由を聞くよりも、「これはさながら母御は、物に狂はせ給ふか。この御言葉のなかりせば、老人なり、客人なり、和田へこそ差すべきに、この御言葉を聞きながら、和田に差すならば、海道七ヶ国の遊君の、名折りたるべし。何でうこの盃を、和田へは差すまじいもの。夫の十郎に差さうず。男なれば、取つて呑まうず。呑む程ならば、朝比奈か古郡が、座敷を立てぞせんずらむ。その時みづから、上こそ女なりとも、心は男子に違ふまじ。『あら、情け無しとよ、和田殿。色ある人に色無きは、花見て枝を手折るかや。ここをばひたすらみづからに、許させ給へ。』と、さゆる体にもてなし、朝比奈が妻手の脇なる、刀を引ん奪うて、和田の心もとに刺し立て、返さん刀にてみづから自害し、夫の十郎に腹切らせて、死出三途の大河を祐成と、手に手を取り組んで行かばや。」と、只一筋に思ひ切る。
 「なう、いかに、御一門の人。母御の、『思ひ差しせよ。』と仰せ候程に、よその希望も候まじい。」と夫の十郎に、盃、むずと差す。祐成、御覧じて、「呑うでは事悪しかりなん。いかがはせむ。」と思し召すが、「いやいや、呑まぬ程ならば、臆したり。」と思し召し、「あら、珍しの御盃や候。」と、持つて三度ぞ酌んだりける。
 義盛、気色を引き変へ、「やあ、十郎。只今の盃は、呑むまじい盃なれども、まさしう義盛を下げて、取つて呑うずるものかな。それ盃は、呑む法があるぞ。自然、若い殿ばら、河狩、狩倉うち過ぎ、遊君の元へ寄つて酒を呑むに、宴、乱舞に成りて、思はしき遊君が一つ酌んで、『この盃は、あれにまします客人へ。』と差いたるを、取つて呑うずるこそ面目なれ。差すは日頃の女、呑むは日頃の夫。二人の者が立ち出て、又、座敷に人も無いやうに、杯を差し通はし呑うずる処、義盛が存じには、抜群に違うて存ずるなり。それ、老いたを以て敬ふを、父母の如し。若きを以て愛するを、師弟の如し。知るを以て人倫、知らぬは鬼畜木石。傍輩の懲らしめに、座敷を取つて追つ立てよ。早、立てよ。」とぞ怒らるる。上をまなぶ下なれば、下座なる若者、傍なる打ち物を引つ倒し引つ倒し、鎺元をくつろげ、「仰せにて候ぞ。立て。」と追つ立つる。
 いたはしや、祐成。唐の鏡で身は一つ。「立つもさすがなり。遺文三十に至つて、軸々に猶、金玉の声あり。河津殿の御名をくたさじもの。」と存ずれば、「いかに、和田殿。大名なれど、三浦の大将。祐盛は、身こそ貧なれど、伊東のこれは大将。真互角なる侍に、当座の恥を与へ給ふものかな。只今座敷を立てうずる者は、そも、乙畑に孫太郎、糸久に源八、荏柄の平太胤長、朝比奈ぞあるらん。只一人が立たざれば、後ろの体の寂しきに、義盛も立ち給へ。」と、刀の鯉口を三寸ばかりくつろげ、袂の下に隠し置き、半時かうて待ち居た、いや、祐成の心中は、深淵に臨んで薄氷を踏むが如くなり。
 あら、いたはしや、祐成。心に思し召し返す。「時宗がこの事を、度々誓文しつるものを。『なう、十郎殿。それ、宿通ひと申すは、有徳なる人のを人の羨み、貪なる者の宿通ひをば、必ず人の憎み候ぞ。馬の乗り合ひ、笠咎めにて、祐成、討たれ給ひなば、時宗一人残り居て、親の敵と申し、御身の敵と言ひ、何としてかは討つべきぞ。平に思ひとどまり給へ。』と、度々誓文しつるものを、用ゐずしてうち越え、朝比奈か古郡が手にかかつて、討たれむ事は治定なり。死せん命は、露塵ほど惜しからねども、年頃の親の敵、祐経をば討たずして、生涯を失ひ、何かせん。朝比奈の三郎が、『座敷を立て。』と言ふならば、さあらぬ体にもてなし、立たばや。」とこそ思はれけれ。
 かく思し召すが、曽我へや通じけん、五郎時宗は、古井と言つし所に、矢の根を磨いて居たりしが、余りの眠さに碁盤引き寄せ、枕にし、豊かにこそ臥しにけれ。「舎兄祐成、枕上に立ち寄らせ給ひ、『いかに、五郎。それ、張良が四十二ヶ條の兵法の巻物を、学したりと言ふとも、酒を過ごしぬれば、何にも劣りぬ。千日したる用心も、目を強く寝れば、只一夜に無に成るぞ。起きよ、起きよ。』と二、三度、四、五度、起こさせ給ふ。」と夢に見て、かつぱと起き、辺りを見れど、人も無し。「不思議や。」と思ひ、下女を近付け、「十郎殿は。」と問へば、「宵よりも大磯にて、これは留守。」と申す。
 時宗、聞いて、「さては敵、工藤祐経が、一騎打つて通るを、『五郎だにもあるならば、恥ある矢をも一筋射て、腹切らむ。』と思し召すが、かく面影に立つか。さらずは坂東、海道、十五ヶ国の人々の、打つて通らせ給ふが、『十郎殿は只一騎。』と、下目にかけて睨むるが、かく面影に立つか。その儀にてあるならば、諏訪の上下も御知見あれ。舎兄祐成の影を、人に踏ますまじいものを。」と言ふままに、帳台へつつと入り、上文字打つたる唐櫃の蓋を開け、祖父伊東殿よりも伝はつたる、逆沢瀉の腹巻、四人して持ちけるを、綿噛掴んで引つ立てて、草摺長にざつくと着る。刀と申すに、敵工藤祐経、箱根詣のありし時、「見苦しげなれども。」とて得させたる、赤木の柄に銀の目貫、胴金打つたりし、小刺刀を差いたりけり。太刀と申すに、河津殿、奥野の帰り足の時、大見の小藤太、八幡三郎が、一二の射翳を固め、放しける矢に当たつて、闇々と討たれさせ給ひし時、「これをば箱王に取らせよ。」と、形見に下し賜はつたる、四尺八寸ありけるが、抜けば玉散るばかりなるを、白き手綱にて、真中をむずと結うて、輪束に掛くる。
 御馬屋へ走り出て見ければ、折節、鹿毛なる駒に湯洗ひして、置きにけり。鞍置かむ暇のあらざれば、端綱、腹掛引つちぎつて、洗轡をはめさせ、引き寄せてうち乗り、「廻れば三里、すぐに打てば五十町。廻らば時刻も移りなん。」と思ひ、曽我中村にさしかかり、掻き煽つてしとと打ち、しとと打つて掻き煽ち、駒に白泡噛ませ、只一打ちに急いだる、時宗が心中、「明日は無間果羅国の、閻浮の塵とも成らば成れ。」今日に於いて時宗、あつ、頼もしうぞ見えにける。刹那が間に、長者の宿所に着く。
 門外を見てあれば、鞍置き馬が幾らもあり。「大御門より入らんは、大腹巻に大太刀。座敷の体、事無し。」と思ひ、小御門に廻る。ここに下女が一人、行き合うた。「やあ、この屋形に、何事かありつるぞ。」と問へば、下女、承り、「さん候。宵よりも和田の義盛、一門九十三騎を引き具し、うち寄らせ給ひ、宴の候座敷へ、十郎殿も虎御前も出させ給ひて、盃の口論、只今半ばなり。」と申す。時宗、聞いて、「さてその盃を、和田に差いたりけるか、十郎に差いたりけるか。」「虎御前の優しうましまして、十郎殿の御方へ、差させ給ひて候。」「さてその盃を、臆して取つて呑まざりけるか。」「なう、御心安く思し召せ。取つて参りて候。」時宗、聞いて、からからとうち笑ひ、「日本六十六ヶ国に、大剛の兵は、又二人ともなかりけり。舎兄祐成にてましますや。賢人なる女、世に多しと言ふとも、虎にましたる賢女、よもあらじ。虎なればこそ差いたれ。祐成なればこそ、多い敵のその中で、臆せいで取つて呑うであれ。呑うだりや十郎殿。差いたりや虎御前。」と、いや、太刀の束を叩いて、一人感じて立ちにけり。
 「さて、いづくから行くぞ。」「こなたへ入らせ給へ。」とて、面廊、廻廊、孫廂をさし過ぎ、障子を一間隔て、「あれなるは新左衛門、古郡左衛門、海老田兵衛、芦名兵衛、洲崎の孫太郎。ここなるは十郎殿。」と、一々に教へけり。時宗、これを聞き、「たとひ何者なりとも、舎兄祐成に、跳んでかかるものならば、障子の一間ものものしく、ばらばらと踏み破つて、大将とかしづく和田が細首、宙にづむど打ち落とし、朝比奈が眉間、唐竹割りといふものに、二つにさつと打ち割り、残りの奴ばら、年にも足らぬ初冠ども、物の数にて数ならず。将棋倒しをする如く、散々に切つて捨て、舎兄祐成と刺し違へて死なんは、あう、案の内」と存ずれば、踏んじかつて立つたりしは、多聞、持国、増長、いや、作り据ゑた仁王に、ちつとも違はざりけり。
 かくて時刻も移りければ、義盛、御覧じて、「朝比奈はなきか。汝は日頃の自称には、似ぬものかな。あの十郎を取つて追つ立てよ。早、立てよ。」とぞ怒られける。朝比奈、心に案じけるは、「あう、差いたるも道理。又、呑うだるも道理。その上、弓取は、今日は人の上、明日は我が身の上なるべし。さすがに名ある人々に、いかにとして恥を見すべき。げにやらん、この殿ばら兄弟は、魚と水との如くにて、兄が酒を呑む時、弟が呑まず。弟が呑めば兄が呑まで、互に用心すると聞いつるもの。今もや、五郎時宗が内にあるらんに、悪しう懸かつて座敷をば立て損じ、真向割られ、悪しかりなん。」と存ずれば、人も囃さぬ舞を、立つてぞ舞うたりける。薄折敷のそばを取り、その頃、海道にはやりし、硯割りといふ歌の、題をはつたと上げて、半時踏んでぞ廻りける。
  よしや悪ししとて、切り捨てられし呉竹も、呉竹も、元に一よはあるものを
  よしや悪ししとて、突き捨てられし庭草も、本しのぶとてあるものを
「義盛、この事を、御腹居させ給ふべし。十郎殿も虎御前も、心にかけ給ふなよ。一向この義秀に、許し給ふべきなり。」と、半時踏んでぞ廻りける、朝比奈が心ざし、生々世々に至るまで、忘れがたくぞおぼえける。
 舞も過ぎ時分の事なるに、障子の内に金物の音が、からりと鳴つた。「さればこそ。」と思ひ、「ここをちつと御免あれ。」と言ふままに、間の障子をざつと開け、内を見入つて見てあれば、何は知らねども、七尺豊かなる大男、胸板見たれば真白なるが、五尺余りなる大太刀を、七、八寸くつろげ、懸からば切りよげに見えしかば、鬼のやうなる朝比奈も、只、膝震うてぞ立つたりける。「いかにや、御身は五郎殿にてましますか。舎兄祐成も座敷にましますに、など出て宴をし給はぬぞ。」とありしかば、時宗、聞いて、「畏まつては候へども、御覧ぜられ候如く、白衣にて候。」
 朝比奈、心に案じけるは、「げにやらん、五郎は、蛇に綱を付けたりとも、『馬ならば乗らむ。』と、広言すると聞きつるもの。座興ながら実に、力の程をも試さばや。」と思ひ、「げに、御辺は出まじいか。」と、言ふままに走りかかつて、腹巻の草摺二、三枚、胴の板に引つ締め、前へ、「ゑいや。」と引きけれども、ちつともさらに働かず。「げにこれは、強かりけるや。三浦一門は九十三騎、連判は四百八十余人が中に、小林の朝比奈とて、名にし負うたる某が、五郎を只今座敷へ、引き出さぬものならば生害なり。」と、思ひて朝比奈の三郎が、力の出来るしるしに、左右の腕とかいなに、力筋といふ物が、十四、五、二、三十、ふつふつと出にけり。胸を生ふる力毛、碁盤の面に銅の針を、磨り並べたる如くなり。胴の筋が額へ上がり、額の筋が胴へ下がり、物によくよく譬ふれば、九重の藤が松を絡んで、麒麟が友を恋うたるに、ちつとも違はざりけり
 「あう、仰々しの有様や。宇佐美、楠美、河津、三ヶの庄の内にして、『荒馬乗つての大力の五郎。』と呼ばれて、朝比奈程の小男に、闇々と引かれて、座敷へは出まじいもの。げに強う引くならば、三枚の草摺が切るるか、膝の節が違ふか、踏まへた板が大地へ落ちつくか、三つに一つは定のもの。」と思ひて、踏んじかつて立つた。満身をいららげ、前へ、「ゑい」と引いた。後へ、「ゑい。」とのいた。草摺切れてのきければ、立ち所を去らずして、踏んじかつて立つた、いや、曽我の五郎時宗を、『大力。』と申して、怖ぢぬ者こそなかりけれ。
 三枚の草摺を持つて、父の御前に参り、「五郎時宗こそ、裏に居られて候へ。これを肴にて、宴をし給ふべし。」と申しければ、義盛、気色を引き変へ、「何、五郎殿の内にましますか。舎兄祐成も座敷にましますに、など出て宴をし給はぬぞ。」とありしかば、時宗、聞いて、「畏まり入つては候へども、白衣で候。」とて音もせず。さる程に十郎殿、「弟の五郎時宗が、内にある。」とだにも聞きければ、只、鬼万国の鬼王と、羅千国の羅王を、欺く程の兵を、千騎万騎持つたるよりも、猶頼もしうぞ思はれける。「いかにや、五郎があるか。大人侍の召しのあるに、など出て御酌を申さぬぞ。」「白衣にて候。」「御免あるぞ。只、参れ。」「承る。」と申して、大腹巻を着ながら、大太刀を持ちながら、しどけなげにぞ出にける。
 古郡の妻手の対座に、詰め座にちやうど直つたり。古郡殿、御覧じて、「これ程広い座敷に、詰め酒盛は支用候ぞ。そこ、ちつとくつろげ給へ。酒盛せん。」時宗、聞いて、「何候、古郡殿。『参れ。』と仰せあればこそ参りたるに、『座敷を立て。』と仰せあらば、只今罷り立たむ。」と言ふままに、腹巻の草摺二、三枚、膝の上に揺り掛け、猶詰め掛けて直つたるは、興をさめてぞ見えにける。
 義盛、御覧じて、「いかにや、五郎殿。御身、幼少にて箱根に上り、別当の御坊にて学問し、その後、伊豆に下り、北條を頼み、助五郎時宗と、名乗らせ給ふとは承れども、見参はこれが初め。それそれ。」とありしかば、萌黄匂の腹巻に、太刀取り添へてぞ引きにける。時宗、「只今の引出物、取らばや。」と思ふが、「いやいや、明日に成るならば、坂東、海道、十ヶ国の人々の、伝へ聞こし召されて、『無残や、曽我殿ばら兄弟は、身の貧なるに従つて、引出物にめで、遊君を和田へ奪はれたる。」なんどと申さむ時は、後難なり。」と存ずれば、「いかに候、義盛。只今の引出物、賜はりたくは候へども、存ずる子細の候。あれにまします若き人に、預け申す。後日に三浦へ参り、賜はらん。」と言ふままに、綿噛をかい掴んで、下座へがらりと投げにけり。
 義盛、御覧じて、「只今の風情は、料簡候か、五郎殿。座興候か、時宗。」時宗、聞いて、「何候、和田殿。世にある人の上にこそ、料簡、座興も候へ。貧なる者の座興は、知らぬで候。」と申す。義盛、聞こし召し、「いやいや、悪しかりなん。」と思し召し、「よう候、五郎殿。暇申して、長者。」とて、座敷を立たせ給へば、九十三騎、ばらりと立つて、ここやかしこにて、駒引き寄せ引き寄せ、ひらりひらりうち乗る。その中に和田殿、大将でましませば、縁の端へ馬引かせ、「乗らん。」とし給ふを、時宗、これを見、「以前に舎兄祐成に、小目を見せた如くに、脅さばや。」と思ひて、四角なる眼を五角にくわつと見開き、「いかに、和田殿。この屋形と申すは、和田殿も建てられず、十郎殿も建てられず、又時宗が、建てたる事も候はず。坂東は八ヶ国、海道は七ヶ国、十五ヶ国の人々の、辻酒盛のそのため、建て置かれた屋形なり。これからの乗り打ち、尾籠候ぞ、和田殿。下りさせ給ひ候へ。下りられぬ程ならば、諏訪、八幡も御知見あれ、時宗が只今下ろすべし。」とぞ脅しける。
 義盛、聞こし召し、「いやいや、き奴ばら、身を捨つる者に寄せ合はせ、ここにて事をし出し、若党を討たせ、悪しかりなむ。」と思し召し、「よう候、五郎殿。年は寄つつ、目は見えず、日は暮方に成り候ず。鞍具足見むために、引かせてこそは候へ。それそれ、若党。馬引けや。」とありしかば、「承る。」と申し、十間坂まで引いたる。五郎に怖ぢた処なり。兄弟の人々、袴のそばを高く取り、「弓箭の礼儀はこれまで候。早々、召され候へ。疾く疾く召され候へ。」と、引橋までぞ送りける。
 その後、兄弟、屋形に帰つて、「もしも三浦より、夜討に寄せやせん。」とて、夜廻り、辻堅め、用心厳しかりけれど、一門の中なれば、寄する事こそなかりけれ。かの人々の心中をば、貴賤上下押しなべ、感ぜぬ人はなかりけり。

    元和二丙辰暦皐月中旬
桃井 幸若小八郎大夫 安信(花押)

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