夜討曽我
(大頭左兵衛本)

 さる程に、「頼朝、信濃の国三原野の御狩過ぎ、それよりして相沢の原の射鳥狩。三日過ぎ、駿河の富士の裾野へ御出。」と聞こゆる。御寮のその日の御装束、いつにもすぐれて華やかなり。青狩衣に立烏帽子、尾花葦毛の逸物に、白鞍置かせ召されけり。御馬添へには五郎丸、赤地の錦の直垂を、下し賜はつてこれを着る。力は八十五人が力、萌黄の腹巻を着籠にし、君を守護し奉る。秩父殿、射装束、鷹据ゑて御供なり。和田の義盛、狩装束、鷹据ゑて御供なり。千葉、小山、宇都宮、いづれも狩場の出で立ちにて、鷹据ゑて御供なり。惣じて鷹は五十もと、犬は八十四疋。犬の鈴、鷹の鈴、轡の音がざざめいて、上下六万六千余騎、さしもに広き富士の、裾野に駒の立てどは無し。
 そもそもかの富士山と申すは、人王二十七代の帝、継体天皇の御代の時、善記三年三月十五日に、一夜が内に金輪際より、涌出したる山なり。あら、面白の名山や。南は田子の浦浪や、焼かぬ塩屋の煙立つ。西は海上、漫々として際もなし。されば余の山を、下に駿河の富士なれば、雲より上の八葉は、皆金銀の砂子にて、真砂に積もる白雪の、所々は叢消えて、嶺には煙、絶えもなし。麓に霞、棚引きて、山の帯かと疑はる。山は八葉九尊にて、両界を表せり。嶺には孔雀明王の、住み給へる池あり。麓に浅間大菩薩の、甍を並べて立ち給ふ。清浄堅固の霊地として、殺生戒を禁断し、猟師の入らぬ山なれば、鹿の数は多かりけり。
 三千余人の勢子の者、三日かけて、以前より嶺へ分け登り、禅定を真下りに、岩を起こし枯木を叩き、喚き叫んで狩り下す。多くの鹿、獣、裾野をさしてぞ落ちにける。鹿が射手にうち交じつて、駆け乱してぞ入れ組んだる。すは早、射てこそ取つたりけれ。弓手すがひ、妻手切れ、すがふ弓、送り矢。手先任せの向かひ鹿、面五寸の木の上を、宙にて返す、はし戻り。峨々たる山の岨伝ひ、ここを先途と見えたりけり。今日三日の巻狩に、鹿の数をとどむる事は、三千七百余頭なり。「天竺、震旦は、そは知らず。秋津洲がその内にも、か程の見物、よにあらじ。」と、諸人、興を催しけるは、理とこそ聞こえけれ。
 この度富士野の巻狩に、東八ヶ国の大名小名、或いは鹿の四頭五頭、とどめ、御所領賜はつて、皆所知入りと聞こゆる。あら、いたはしや、曽我兄弟の人々は、鹿に心の入らざれば、鹿の子の一つもとどめず。「いかにもして敵祐経に、巡り逢はで。」と巧みけるに、ここに弓手の岨、柏木原の中を見るに、射手のあまたある中に、四十ばかりなる男、平紋の弓籠手さし、夏毛の行縢引つ込うだるが、三つある鹿に目を掛け、雁股つがつて追つかくる。
 時宗、「誰そ。」と見るに、「あは、祐経。」と見るからに、気もそぞろき、身震ひ、「優曇華も海中に、開けけるよ。」と嬉しくて、鹿矢をばそろりと捨て、頼みし中差抜き出し、弓を伏せてうちつがひ、「矢壺は多しと申せども、我等が父の河津殿、『鞍の前輪の外れ、行縢の引き合はせを、射られ給ふ。』と聞くものを。報ひの矢なれば祐経をも、同じ矢壺を射て落とし、『河津が矢目に違はず。』と、諸人に見せ十八年が、遅速は同じからざれど、狩場と矢目は違はずや。打てば響き、叩けば鳴る。思ひはよそになかりけり。『身のせし咎の報ひぞ。』と、知らせばや。」と思ひて、早あらはれて出けるが、「待て暫し、我が心。五郎一人、無念を晴れ、十郎殿を空しくせば、今生の恨みのみならず、黄泉までも晴れがたし。父母孝養の矢なれば、兄弟して一矢づつ、弔ふにぞ。」と思ひ、辺りを見ければ幸ひに、尾を一つ隔て十郎殿、よそ目してこそおはしけれ。
 五郎、余りの嬉しさに、「鹿こそ通れ。十郎殿は、御覧ぜられて候か。」「鹿。」と言ふに心得、東西をきつと見る。尾を隔てたる敵なれば、見つけぬも一つ道理。五郎、余りに耐へかねて、「夏山や、茂みの鹿は射にくう候。その尾に上がつて勢子に逢ひて、行き方を問はせ給へ。」と申す時、「さてはこの尾のあなたに、敵のあるぞ。」と心得、岨を登りに駒駆け上げて、向かひの原をきつと見るに、げにも祐経、ここにあり。しかも辺りに人は無し。「天の教へ仏神の、与へ給ふ。」と嬉しくて、「十郎は兄なれば、一の矢をば何者か、妨ぐべき。」と思ひて、靭の底の秘蔵の止め矢、取つて、からとうちつがひ、矢先を支へ、筈返し、「定の矢を。」と心得、敵の矢壺ばかりに目を掛けて、馬の足は見ざりけり。心ははやれども、「人に色を悟られじ。」と、小駆けに進め、歩ませ行くに、乗つたる馬は国元よりも、飼ふは稀なり、乗り繁し。弱き馬に、強く手綱を乗る程に、とある伏し木に胸を突き、屏風を返す如くに早、真さかさまにどうど落つ。
 五郎、余りの悲しさに、急ぎ駒より跳んでおり、祐成を取つて引つ立て申し、「馬起こさむ。」とひしめく間に、祐経、名馬に乗つたれば、谷嶺隔ててうち延びぬ。行き方知らねばいづくをさして、尋ねて行くべき方もなし。兄弟の人々、宝の山に入りながら、空しく帰る風情し、討たでやみぬる兄弟、心ざしこそ無念なれ。祐成、仰せけるやうは、「あら、ゆゆしの敵の果報や。うたての我等が運命や候。果報いみじき祐経を、狙へど更に叶はず。ここまでの際なれば、いざや、ここにて腹切らむ。」時宗、承つて、「まことに、『弓折れ、矢尽くる。』とやらんも、かやうの事をや申しつらん。さりながらここは、人目も繁く候へば、閑所を求めて御自害、あるべきなり。」と申して、兄弟連れて帰る。
 かかりける処に、秩父殿と和田殿、この由を御覧じて、重忠、仰せけるやうは、「あれあれ、義盛、御覧ぜよ。河津が子どもの有様は、みなし子と成り果て、中々遁世籠居もせで、『親の敵や討たむ。』とて、年頃付き添ひ狙ふぞや。この狩倉へも見え隠れの、御供申してありつるが、御供のためには、よもあらじ。『便宜よくは敵に、流れ矢一つと心ざす、望みにてこそあるらめ。』と、思ひつるに違はず。只今の有様、目も当てられぬ風情なり。秋の雁に雁股を、さかさまにはむる習ひは候へども、弓矢取る身の心ざし、まこと、優しきものかな。あの殿ばらが分として、祐経を狙ふ事は、蟷螂が斧とかや。蜘蛛が網に相同じ。我等も若き子どもの候へば、明日は身の上にてや候はんずらん。いざや、彼等に心を添へ、夕さり夜討にせさせむ。」「尤も、しかるべし。」とて、行縢鼓打ち鳴らし、重忠、発句をこそ出されけれ。
  夏山や思ひ繁みの焦がるるは
義盛、やがて付け給ふ。
  今宵富士野に飛ぶ火燃え出づ
 か様に詠じ給へば、曽我兄弟は承つて、「狩場の庭の言ひ捨ては、事騒がしき御事かな。されどもこの言ひ捨ては、我等をとぶらひ給ふぞや。義盛の、『今宵富士野に飛ぶ火燃え出づ。』とあそばしたるは、『夕さりの暮程に、夜討にせよ。』との言葉なり。それをいかにと申すに、昔、大唐に、諸国の武士を召さむため、町の鼓と申して、町に一つづつの太鼓を掛け、烽火を添へて置かれたり。内裏に事のあらんとては、烽火を上げ、太鼓を打てば、遠嶋遠国までも一度に起こり、即時に都へ馳せ上り、帝都を守護し申すなり。この烽火をば名付けて、飛ぶ火とこれを申すなり。兵革の時の篝、我が朝にて夜討の時、松明といふ事、この御代よりも始まれり。異国の跡を語り出し、我等をとぶらひ給ふは、狂言ながら、まことなるべし。いざや、我等も連ね歌申さむ。」とて、十郎殿、取りあへず。
  上も無きこひの煙の顕はれて
時宗、やがて付けにけり。
  天の岩戸を開けて弔へ君
重忠、義盛、聞こし召し、「さては、『今宵を限り。明けなば跡を弔へ。』とや。哀れなり、いたはしし。世に憚りのなかりせば、とぶらひ矢をも射つべし。」と、涙を流し、日暮るれば、野宿に帰り給ひけり。
 この人々も嬉しくて、柴折り結ぶ草屋形に、泣く泣く帰り給ひけり。「馬よく飼へ、鬼王、道三郎。」と、人並々に下知し給へど、野辺の草より外に、何をか指して食はすべき。酒肴椀飯、余の屋形には、満ち満ちたりと申せども、曽我兄弟の屋形には、水より外は無し。「夕さり、敵に逢ふべき身が、疲れ直さでいかがせむ。町屋へ出て宿を取れ、道三郎。」「承る。」と申す処へ、長持あまた舁いて来た。「これは、どれより。」「三浦殿、秩父殿より、曽我殿への御雑掌。」と申す。「めでたし、めでたし。舁き入れよ。この間、人の酒を得て呑うで、その振舞のなかりつるに、還礼、ここにてあるべし。」曽我と秦野は隣家。招き寄せ、芝居に居、三々九度、五度、七度、情けをかけて盛り流す。元より祐成、時宗は、用心なれば、酔はざりけり。
 馬飼ひ、疲れ直して、酒も過ぐれば十郎殿、時宗に暇を乞ひ、警固見むために出給ふ。太刀脇挟んで敵の警固を、静かに見てぞ通りける。或る屋形を見てあれば、「明日、鎌倉入りあるべし。」とて、馬の湯洗ひ、庭乗りし、ひしめく屋形もあり。又、或る屋形を見てあれば、鼓太鼓打ち鳴らし、どめいてあそぶ屋形もあり。かく見て通れば、余り虚空に存じ、東へ廻つて家々の、幕の紋をぞ見たりける。
 まづ一番に釘抜き、松皮、黄紫紅。この黄紫紅は、三浦の平六兵衛義村の紋なり。石畳は、信濃国の住人に、根井の太夫大弥太。扇は浅利の与一。舞うたる鶴は庵原左衛門。庵の中に二つ頭の舞うたるは、駿河の国の住人、天智天皇の末孫、竹の下の孫八左衛門。伊多良貝は岩永党。網の手は須賀井党。追洲流しは安田の三郎。月に星は千葉殿。傘は那古屋殿。団扇の紋は児玉党。裾黒に鱗形は、北條殿の紋なり。繋ぎ馬、相馬。折烏帽子、立烏帽子、大一大万大吉、白一文字黒一文字は、山の内の紋なり。十文字は島津の紋。車は、浜の龍王の末孫、佐藤の紋。竹笠は高橋党。亀甲、輪違ひ、花靭、三本傘、雪折れ竹。二つ瓶子、河越。三つ瓶子は宇佐美の左衛門。二つ頭の右巴、小山の判官。三つ頭の左巴、宇都宮の弥三郎朝綱。鏑矢、伊勢の宮方。水色は土岐殿。四つ目結は佐々木殿。中白は三浦の紋。秩父殿は小紋叢紺。割菱は武田の太郎。梶原は矢筈の紋。ひた白は御所の御紋であり。「ここに、庵の中に木瓜を、ありありと打つたるは、我等が家の紋ぞ。」と思し召し、今一しほ懐かしくて、十郎殿、時を移して立たせ給ふ。
 かかりける処に敵の嫡子、犬坊と申すわつぱ、幕の内より一目見、父の御前に参り、「なう、十郎殿の御通り。」と申す。祐経聞いて、腹を立て、「十郎とは誰が事ぞ。相沢の十郎か。豊後に臼杵の十郎か。遠江に勝間田の十郎か。この度の御供に、十郎の仮名、数を知らず。ええ、汝は虚空なる事を、申すものかな。」と父に叱られ、時ならぬ顔に、紅葉をさつと散らし、「いつぞや三浦殿にて、乱舞せさせ給ひたる、相模の曽我の十郎の御通り。」と申す。祐経、聞いて、「あう、この者どもが祖父伊東殿こそ、人の栄ゆるを憎み、滅ぶるを喜びし人の末なれば、さやうに成り果てて候ぞや。昨日も某、谷越しに見て候へば、自体、曽我殿は、不足の仁とおぼしくて、痩せたる馬に腰張鞍、雑人のその中に、うち紛れゐたる有様は、山田の畔の案山子も、これにはいかでまさるべき。国元よりも、用の物は無し。疲れには臨んづ。推参のためか。呼うで、酒一つ盛れ。」
 犬坊、承つて、幕掴んでうち上げ、十郎殿の袂にすがり、「父の仰せにて候。御入りあれ。」と申す。見れば、敵の嫡子、犬坊なり。「尤も。」と同じ、犬坊とうち連れて、幕の内へぞ入りにける。祐経、片膝押し立て、忍びに刀の束に手をかけ、「わざとか、便宜候か。これへ、これへ。」と請ず。備前の王藤内、「祐経の色代の、ちつとやうある人。」と思ひ、只、「客はこれへ。」と請ず。「あなたへ直らばや。」と思し召すが、「いやいや、あれは他門にて、以前より座上す。こなたは一門の事。苦しからじ。」と思ひ、祐経が妻手の座敷に直らせ給ふ。あら、いたはしや、祐成の、いまだ左右の膝も直らざりけるに、祐経が初対面の言葉こそ、何より以て無念なれ。「面々、某を、『親の敵。』と宣ひて、狙ひ給ふ由を承る。それは、以ての外のひが事なり。御身の父の河津殿、由なき事によつて討たれさせ給ふを、長々しくは候へども、語つて聞かせ申さむに、よくよく御聞き候て、常は御入り候へよ。
 「たとへばこの君、十三にて、伊豆の田中へ配所ある。伊豆、相模の人々、寄り合ひ評定するやう、『誰か、この君、父左馬の頭の殿の、御恩に預からぬ人やある。世にある人を慰め申すは、それは時の興、花をかざす習ひ。世になき人を慰め申すこそ、侍の本にて候へ。』『尤も。』と同じ、山越えよりも頼朝を、伊東の舘へ入れ参らせて、三日三夜の酒宴は、殊にふれたる遊びかな。挙句には若侍、庭の懸かりにおり立つて、小声を上げて鞠を蹴、君の御目に掛かる時、頼朝、南を御覧じて、『南にあつて、山の高く見えたるは、いかなる山。』と問ひ給ふ。若侍、承つて、『山の見えて候は、柏が峠と申し候。たぎつて瀧の落つるをば、松が枝が淵とも申すなり。伊東川の川上、鎌田が淵とも申し候。大善寺山に続いて候、名誉の鹿の通ひ所、鹿を狩らせて御見物、我が君。』と申されたり。
 「頼朝、聞こし召し、『鹿は所望。』とありしかば、伊豆、相模の人々、赤沢山にて三日の狩倉は、心言葉も及ばれず。挙句には人々、名残惜しみの酒宴する。芝居の事なれば、ここに座敷中に青めな石の、丈五尺ばかりに見えたるを、相模の国の住人に、本間が年は十九、『憎い石のありやうかな。座敷の煩ひ、捨てむ。』とて、この石を押つ立て、持ちは持つて候へども、保つ所を知らずして、元の座敷に直りけり。かかつし処に同国の住人、大庭が舎弟、俣野の五郎景久、この由を見るよりも、居たる所をづんど立つて、直垂脱いで、ふはと捨て、この石を押つ立て、宙にづんどさし上げ、座敷を二、三度、持つて廻り候て、『これ程の石をば世の常の、つぶてにこそ打つべけれ。持たぬは国の名折。』とて、『遥か東へ捨てむ。』とす。
 「かかつし処に同国の住人、岡崎の悪四郎義実の嫡子、真田の与一義貞、その頃、年は十三なり。父の代官に、やさしく見ゆる花靭、戯蝶の直垂に茜の弓懸、紫竹の鞭、足がぶちなる駒に乗つて、遥か東を打つて通る。俣野、きつと見て、『なう、ここ元通らせ給ふをば、真田殿と見申したるぞ。この石を参らせむず。馬の上にて召されうずか、又、おり立つて召されうずか。なう、真田殿。』とぞ掛けたりける。真田、聞いて、『あら、どこともなや。嵩よりも投ぐる石を、下にて賜はる烏滸の者、やはか候べき。』と、笑つて通る。俣野、この由聞くよりも、『不覚なり、真田殿。三浦に取つて古郡、逸見の七郎、岡崎の悪四郎、大たう、三崎一門、九十三騎がその中に、真田殿は、聞こゆる器量の仁と承るが、この石召されぬものならば、それは三浦の名折にては候はぬか。いかに、いかに。』とぞ掛けたりける。
 「真田、無念に存ずれば、駒をかしこに乗り放ちて、竹笠、直垂、かなぐり捨て、『それ程の石をば、二つも三つも取つて投げよ。取らむ。』と申す。傅の文蔵、御袂にすがり付き、『いかなる事を仰せ候ぞ。めのと親、御供申し、この石召され、召され損ずるものならば、大殿よりの御不興は、ひとへに文蔵めが蒙らうずるにて候。いかなる事。』と教訓す。真田、聞いて、『やあ、教訓も事による。三浦の難と掛くるは無念なり。そこ放せ。』と言ふままに、控ふる袂を振り切つて、この石を待ちかけけり。自体、俣野は烏滸の者、『えいやつ。』と言うて投ぐる。五尺ばかりの大石が、花の如くな与一が上へ、ひらめいて落つるを、弓手に相付け、きつと取つて、妻手の肩にどうど置いて、『何ぼう取つたぞ、俣野殿。いでいで、この石、やがて返し申さむに、侍の本領に付けて召せや。えいやつ。』と言うて投ぐる。俣野、弓手に相付け、取りは取つて候へども、力の落つるしるしか、遥か東へ捨てたりけり。伊豆、相模の人々、この由を御覧じ、『俣野十人が力を、真田は持つてありや。』とて、一度にどつとぞ笑ひける。時に取つて真田殿は、あつぱれ弓矢の面目かな。
 「さる間、俣野、どつと笑はれ、ちつとも咎もなき四方を、はつたと睨め廻し、『面々は、何を笑ひ給ふぞ。かかる力業は、時による。相撲を取つて伊豆、相模の、人々を相手に持つならば、百日百夜打つとも、やはか笑はれ申すべき。』伊豆の人々、これを聞き、『こは無念の次第かな。同国の者が渡り合ひ、石を投げ、取り損じ、他国を掛くるは言はれぬ処。やがて心得たり。伊豆は四郡、相模は八郡。小国と思ひ成し、伊豆を掛くるは道理。伊豆、相模は、根切りの相撲たるべし。相撲を召されぬ程ならば、弓矢を参らん。』とひしめかるる。伊豆方に狩野の介茂光、相模方には土肥の次郎実平、二人行司に立ち給へば、既に相撲は始まりけり。
 「まづ一番に宇治川の十郎、よき相撲九番打つて入る。いばや川の弥二郎、十七番打つて入る。根府川、二十三番打つ。くぬいの太郎、九番打つ。俣野、この由見るよりも、『君の御坐にて候に、いつまで某出ざるべき。只今罷り出、一人転びしてあそばむ。』と言ふままに、紺の手綱に白き帯、二筋よつて辻に留め、場中へ躍り出、げにと自称の如く、よかつし相撲がつつと出れば突き倒し、つつと出ればはたと蹴倒し、手にもためずして、早五十九番打つたりけり。俣野、申す。『今は諸方に、相撲が尽きて候はぬか。打ち止めは景久候。』と言ふ。
 「土肥の次郎実平は、相模方の行司にてましませば、するすると立ち寄つて、『あつぱれ、相撲。取つて利いて、目速き相撲。心も利いたり、力も強し。げにや、相撲尽くれば行司出て、転ぶ由承れど、狩野殿は、年寄らせ給ふ。あつぱれ、土肥が年を、十も二十も取つて捨てたらば、俣野殿と一番、花々と参らぬか。』とて、からからと笑ひ給ふ。さる間、俣野はおとなの返事をこはく申す。『何候、土肥殿。座敷座上にて、盃疾く召されむこそ、おとなにてましますとも、かかるあそびは老若を嫌はぬ習ひ。あはれ、土肥殿にても御坐あれ、御出候へ。花々と一番参つて、老いの浪に柏が峠の、赤土を付け申さむ。』と申す。土肥殿、聞こし召し、『若き奴に言葉をかけ、恥かいたり。』と思はれけれども、物の上手にてましませば、さあらぬ体にもてなし給ふ。
 「その頃、伊東の姫を土肥に置かるる。土肥の姫を伊東に置かるる。伊東殿、御覧じて、『この辺に河津はなきか。土肥の次郎実平の、腹立て給ふ色をば見ぬか。是非河津、出て取れ。河津出て取らずは伊東出て、転ばむ。』とぞ狂はれたり。河津、承つて、『詮なきよ。』と存ずれども、父の仰せにてある間、『おつ。』と答へて御前を立ち、相撲の拵へ、思ふさまに仕り、俣野を引つ立て、連れて場中へ出る時、『げにや、人の力をば知るものを。無下に俣野は弱かりける。』と、心の内に存ずれば、『片手を放つて場中で打つて、伊豆、相模の人々の、瞋恚の怒りを休めばや。』と思ふが、『いやいや、名人に不覚をかかするは、かへつて河津が不覚なり。取つ手のやうをも、人々に見せばや。』なんど思ひつつ、はらりと開き、手先を取つて、くるりと廻る。
 「相撲の手には、向かう突き、さか突き、鴨が入れ首、水車。掛くれば外し、入るれば余す。桃花の節会の鶏合はせ、勇む心は春駒の、立ちとどめぬが風情にて、四十八手の取つ手をば、百様に乱したれば、伊豆、相模の人々は、『面白や。』とざめかるる。『いつまで。』と存ずれば、俣野を人際へかつぱと突き倒し、取つて引つ立て送る時、かくても入りたらば、いしかるべき事どもを、打てたる跡をきつと見て、『只今の相撲には、負くまじき相撲なれども、これなる木の根に消し飛うで、俣野は一期の不覚をかいて候ぞ。』兄の大庭がこれを聞き、『相撲の勝ち負け知らねども、木の根はここにあり。』と言ふ。伊東殿、御覧じ、『やあ、いかに、河津。世の常の辻相撲なんどこそ、人際なんど申す事は候へ。既に俣野は、坂東国に聞こえたる相撲の上手。物その数にはなけれども、関より東、三十三ヶ国がその内に、相撲を取つて名人と、呼ばれ申すは身の不肖。真鼻白に勝負をつけよ、河津。』とぞ怒られける。
 「河津、承つて、『人の情けのある時ぞ、我も情けは籠めらるれ。取る処。』と思ひて、はらりと開き、手先を取つて、くるりと廻す。俣野、河津に不覚をかかせむそのために、組み入りにつつと入る。余して後れをむずと取つて、前の辻、一締め締め、片手を放つて、続けて二番、どうどうと打つたるは、あう、中々生きたる甲斐ぞなき。兄の大庭がこれを見て、『相撲を取るは常の事。片手を放つて取る法か。それは相手を卑しむる処。生きては帰るまじい。』と言ふ。土肥と伊東が一つになつて、『やあ、な言はせそ。只打ち殺せ。』とひしめかるる。頼朝、聞こし召し、『いかなる事ぞ。』と御教訓あれば、御諚、背きがたきによつて、弓矢は止まりぬ。その相撲の遺恨によつて、御身の父の河津殿をば、いはう山のこなたなる、赤沢山の麓にて、『兄の大庭が討つた。』とも申し、又、『弟の俣野が討つたり。』とも申す。
 「その頃、某は都にて伝へ聞き、『こは無念の次第かな。その儀にてあるならば、国に下り、大庭が舘へ押し寄せ、一矢射て腹切らむ。』と思ひしに、御身の祖父伊東殿、『某が代官の仕業なり。』と宣ひて、国の留守にとどめ置く、大見、八幡を召し取つて、理不尽に切られ申し、恨みの矢をも射たけれども、一つには養子の父母、二つに烏帽子親、三つに伯父、四つに舅。思ひながらもさてありぬ。それをこそあらんめ、咎もなき祐経を、親の敵と睨めむより、常はさし入り給ひて、駒に水桶さするならば、郎等とはよも言はじ。家の子とこそ言ふべけれ。馬なくは面々、境に多き荒馬を、一疋取つて乗らぬか。直垂なくは、犬坊が脱ぎ替へを、取りて着給へや。今日よりしては、祐成と祐経と、中に意趣はあるまじい。和融の盃、差すぞ。」とて、盃に一つ受け、十郎殿に差いたるは、「座敷の恥。」と思はれて、無念、類はなかりけり。
 「あら、口惜しや。『問ふにつらさのまさる。』とは、かやうの事をや申すらむ。『恩して置かむ。家の子にせむ。』なんどと言はれ、親の敵ならずとも、死なでは何の曲あるべき。酌んだる酒を祐経が、面にさつといつ掛け、一刀恨み、とも成らばや。」と思へども、「待て暫し。我が心。時宗一人残し置き、『同じ黄泉路。』と言ひながら、本望をば遂げさせで、雑兵の手に掛け、憂き名流させむ事の無残さよ。」とやせむ、かくやあらましと、酌んだりし酒をば、干しかねてぞ見えにける。二人の女は色を見て、「御盃の長持ちは、御肴の所望かや。座敷に女のありながら、いざや、歌ひて参らせむ。」「尤も、しかるべし。」とて、今様なんど歌ひけり。
 祐成、思ひ直して、「時は変はると、日は変はらじ。即ち今夜、二人連れ、夜討にせむず敵なり。この世の中の思ひ出に、何とも申せ。咎むまじ。されども心苦しきは、王藤内が見る目は、西国武士の見る目なり。二人の女の聞く耳は、東国の人々の、聞こし召されむ処にて、『現在、親の敵を、目の前に置きながら、かかる自讃を言はせつつ、聞き長らへて立ちぬる。』と、言はむ後日の口惜しき。よしよし、それも夕さり、今の恥をばすすぐべし。かくて座敷に長居し、無念、度々重なり、所々の死にをし、時宗に恨みられむよりも、疾くして立つにこそ。」と思ひ、三献酌んで受け流し、「夕さりは、これにて御物語、申したくは候へども、北條殿の方様へ、申したき事の候。明日は五郎を伴ひ、参りて御目にかからむ。」と、座敷を立つて出さまに、敵の警固を思ふやうに見済まして、我が屋形にぞ帰りける。
 あら、無残や、時宗。草屋形にありけるが、十郎殿を待ちかね申し、太刀押つ取り出る。あら、いたはしや、祐成。しほしほとして出で来給ふ。時宗、見参らせ、「祐成の涙の風情は、何事を思し召し出されて候。」祐成、聞こし召されて、「某が涙の風情、別の子細ならず。敵、祐経に対面し、初対面の言葉の、こはかりし時刺し違へ、共にいかにも成るべかりつれども、御辺に名残惜しうして、再び逢うたるが嬉しさに、さてぞ涙のこぼるらん。」時宗、承りて、「あら、有難の御諚や候。慈悲は上より下るとは、今こそ思ひ知られて候へ。かく申す時宗ならば、『たまに逢うたる親の敵ぞ。』と思ひ、座敷に直らぬ間に刺し違へ、とにもいかにも成るべきものを、五郎が事を思し召し出され、これまでの御出は返す返すも、有難うこそ候へ。同じくは敵の体、御物語り候へ。承りたく候。」祐成、聞こし召されて、「あう、易き間の事。いでいで、語つて聞かせむ。
 「さても我が君頼朝は、御果報いみじく御座あるによつて、伊豆北條殿の賜はりにて、薄檜皮十八間に、ひた白の幕打つて、富士颪に揉ませたるは、只、白雲の立つたるが如し。内の陣を相見るに、君の御家の子、宍戸の安芸の四郎殿、前後を守護し申す。外の陣を見てあれば、伊北、きほう、斎院の次官親能、前後を守護し奉る。さて国々の大名には、まづ駿河の国に、吉川、船越、高橋党。遠江の国に、横地、勝間田、井の八郎。参河の国に、足助、中條、星野、行明。尾張の国に、本部、海東、熱田の大宮司、山田の左衛門。美濃の国に、土岐、遠山、平野の平次、蜂屋の冠者、あししの次郎。近江の国に、錦織、佐々木、山本、柏木、木村源三業経。屋形を並べ、ひつしと打つて、君を守護し奉る。伊勢の国には加藤の弥太郎。伊賀の国に服部党。大和の国には宇野が一党、三千余騎。筑紫大名に、大友諸卿、菊池、原田、松浦党、惟任、惟住、戸次、山住、屋形を並べ、ひつしと打つ。丹後の国には、田那部の小太夫、大内の季武。若狭の国には、安賀の高傔杖国正が末子、青の太郎、鳥羽の兵衛。越前の国には、雨夜、白崎、堀江、本庄。加賀の国には、富樫の文盛、林の六郎、井上左衛門。能登の国に、土田、建部。越中の国には、石黒、宮崎、南部の殿ばら、むく田の兵衛、宮路の左衛門。越後の国には五十嵐の小文治。信濃の国には、仁科、高梨、海野、望月、くばらぎの安藤次、安藤内、根津の甚平惟行、上の宮の諏訪の祝、下の宮の諏訪の祝、深山隠れの甲斐源氏、一條、板垣、南部、下山、逸見、武田、小笠原。下野の国には、那須、塩谷、宍戸、佐竹の人々。上総の国には、伊北、伊南、長北、長南、あひろ、河上、武射、山の辺。下総の国には、安西、神余、東條。武蔵の国には、横山党、平山党、私の党、丹の党、西野党、児玉党。七党これら惣じて、四十八党の人々は、屋形を並べ、ひつしと打つて、君を守護し奉る。相模の国には、土肥、土屋、座間、岡崎、さても懐嶋、山の内の人々、ひた、はらきの者ども、件の祐経。君の間近き屋形には、我等が一族に、武州に秩父殿、相州に和田殿。所司の別当に梶原平蔵景時。その外は、奈子田、星田、井田、富田、諏訪氏の人々は、屋形を並べ、打ち続け、君を守護し奉る。
 「敵の屋形は八千八流れなり。馬は築地、人は乱杭。鬼万国の鬼王、羅千国の羅王、鬼を搦めし白駝王、綱、公時、養由、田村、利仁、余五将軍、二相を悟る人なりと、たやすくこの陣で、親の敵を討つて、易々と出ん事、思ひも寄らぬ事なれど、わ殿と某が心一つであらうぞ。」と、弁舌は足らうず、言葉に花を咲かせ、二時ばかり物語、奥ゆかしうぞ聞こえける。時宗、詳しく承りて、大息ついて聞きゐたり。「さては案内、曇り無し。夜更けば、思ひ立つべし。宵の間の慰みに、文ども書き認め、故郷へ言伝てむ。」「尤も、しかるべし。」とて、矢立、巻物取り出し、油火すごく掻き立て、ありし昔の思ひより、今の憂き身の果てまでを、細かにこそ書かれけれ。十郎殿はともすれば、大磯の虎が名残を書かれけり。五郎が筆のすさみには、箱根の別当の御事。さてその外は、いづれも同じ文章なりけり。
 「時宗が悦び申しける事は、不思議に最後の時、大方殿に参り、不孝許され申し、父母孝養の命をば、富士の裾野に捨て置き、骨を野外に埋めども、名を万天に上ぐる事、父が子たれば取り伝ふ、家引き起こす弓矢の名、龍門に骨は朽ちながら、家門の名を埋まず、金玉の声は三十軸、遠嶋まで曇り無し。ひそかにこれをおもんみるに、刀を握り、剣を帯し、弓馬の道に携はり、戦場に出て命を捨つ、これ、後名のためなりき。ほぼ終年の嘆きには、悲しみを三五の時、これを受け、十八歳の愁嘆は、只二人のみ嘆きあり。年長け月日去つて後、時に建久四年、五月の末の伊豆の夜の、天は暗しと申せども、思ひは今宵晴るるなり。祐成判。時宗判。」と書きとどめ、次第の形見を取り集め、筆を捨ててぞ泣きゐたる。
 祐成には鬼王丸、時宗には道三郎、二人の者を召され、「文をば御上へ参らせよ。弓靭をば曽我殿へ。鞭と弓懸を二の宮の、姉御前の御方へ。肌の守りと鬢の髪をば、箱根の別当の御方へ。馬と鞍をばわ殿ばら、『恩無い主の形見ぞ。』と、思ひ出さむ折々は、念仏申し、得さすべし。わざと文には書かぬぞ。御上にて申すべき事は、『賜はつたる御小袖、身にまとひて死なむ事、生きての面目、死しての名。只、最後に母上を、拝み申す心地してと、かやうに着て出づる。』と、語り申せ。」と言ひながら、又はらはらと泣きゐたり。
 鬼王も道三郎も、涙にくれて御返事を、申しかねたるばかりなり。さのみ涙にむせびても、憚り多き事なれば、笏取り直し申すやう、「いづくにていか程に、見落とされ参らせて、かかる御諚の下るぞや。兄弟の人々の、あれ程多き敵を、『討たむ。』と出立ち給ふ処に、只二人ある下人が、見捨てて帰る法や候。あら、恨めしい殿の御諚かな。たとへば仰せに従つて、形見の物を賜はりて、曽我故郷に下りつつ、初めて人を頼むとも、『譜代の主を見捨てて、死なぬ程の言ひ甲斐なしは、何の用に立たむ。』とて、誰やの人か目をかけむ。たとひ入道仕り、世を厭ふ身と成りたりと、『恩を知らぬ奴ばらが、道心いかがあるべき。』と、後ろ指を指さるるならば、出家しても面目あるまじ。上臈も下臈も、死ぬべき時に死なねば、生き甲斐は更に候はず。いかにや、殿。鬼王、夜討の御供こそ申さずとも、臆病至極の冠者ばらが、腹切るやうを見せ申さむに、ここへ寄れや。」と言ふままに、大肌脱ぎに肌脱ぎ、腰の刀を引ん抜いて、「刺し違へむ。」とぞしたりける。
 祐成も時宗も、慌てて中へ跳んで入り、二人を左右へ押し分け、「あう、思ひ切つたり、汝等。されば、栴檀の林は荊棘までも香ばしし、王地の砂子は皆金玉と成る風情。我等が思ひ切つたれば、汝等も思ひ切りけるかや。見落とす事はなきぞとよ。心ざしに只下れ。国へ形見届けずは、『時の椿事、一但の、口論にも死したり。』と、人も思ひ母上の、思し召されむずる口惜しさに、わざと下すぞ、只下れ。たとひ『千騎万騎が、味方にあり。』と言ふとも、この富士野にては思ひも寄らず。只一人なりとも、忍び入らば討ち得なむ。人あまたにて叶ふまじ。早々、疾く疾く。」と仰せければ、「飽かぬは君の御諚。」とて、形見と文を賜はり、主なき駒の口を引き、「行かむ。」とすれど五月闇、涙にくれて道見えず。思ひ駿河の富士の嶺の、煙は空に横ほれて、隔ての雲と成りにけり。
 裾野の草は露茂く、まだ秋ならぬ道の辺に、蛍幽かに飛び連れて、身より思ひの余りに、虫さへ胸や焦がすらん。いとど涙の多かるに、何と蛙の鳴き添ひて、井手の屋形を別るらん。馬も心があればこそ、北風にいばひけめ。げに心なき畜類も、馴るれば慕ふ習ひあり。ましてや言はむ人倫に、形に影の添ふ如く、譜代相伝召し仕へ、明くれば「鬼王。」暮るれば又「道三郎。」と、召し使はれ申せしが、今宵離れて明日よりも、祐成とも時宗とも、誰をか申して慰むべき。同じ憂き世に生まるると、曽我の十郎時宗の、その殿人でなかりせば、か程に物は思ふまじ。「我等ばかり。」と思へども、昔を伝へて聞く時は、悉達太子は十九にて、王宮を忍び出、檀特山の法霊、阿羅羅仙人を師と頼み、御出家ならせ給ひし時、玉の冠、石の帯、御衣諸共に脱ぎ捨てて、金札を書き添へて、犍陟駒諸共に、王宮へ返し給ひけり。犍陟駒も車匿も、君の別れを悲しみて、山谷にいばひ、悲涙涕泣せし事に、今の我等も相同じ。それは仏の済度にて、終には巡り逢ひ給ふ。かの祐成や時宗に、今宵離れて明日よりも、又も逢ふべき君ならず。名残惜しとも中々に、申すもおろかなりけり。
 兄弟の人々、「あら、嬉しや。この者どもは今は早、富士の原をば過ぎぬべし。いざや、最後の出立ちせむ。」「尤も、しかるべし。」とて、祐成のその夜の装束には、肌に御上より賜はつたる小袖、引つ違へて着るままに、叢千鳥の直垂、下は紺の小袴の、そば高々とさし挟み、別当より賜はつたる、黒鞘巻の刀を差し、三尺五寸の赤銅造りの太刀佩いて、薪の松明、一尺二寸に束ねたるを、弓手の脇にかい込うで、「火は持つたるか、時宗。」とて、先に進んで出られけり。五郎がその夜の装束、これも肌には御上より賜はつたる小袖、引つ違へて着るままに、上には貲布に、墨絵に蝶を三つ二つ、所々に付けさせ、下は紺の小袴の、そば高らかにさし挟み、赤木の束の刀差し、別当より賜はつたる、二尺七寸の兵庫鎖の太刀佩いて、筒の火持つてぞ出にける。
 忍びて敵を狙ふ夜は、暗きに如くはあらねども、辻々の篝火は、天をも照らすばかりにて、草の下なる細道までも、隠るべきやうあらざれば、只日中の如くなり。されども舎人草刈の、馬飼ふ体にもてなし、屋形屋形の前を過ぐる。「怪しや、誰そ。」と咎むれば、「これは御内の草刈なり。」と、答へ仮屋の御所中へ、忍び入るこそ危なけれ。殊によつく静まつて、人気も更にせざりけり。「あう、心憎し、いぶせし。用心は誰もかうするものや。定めて人の待つらんに、咎めばやがて乱れ入つて、目貫を限りに打ち合ふべし。それまでは忍べ。」とて、松明に火を付け、静かに振つて見たりければ、あら、何ともなや。王藤内に諫められ、屋形を替へて、ここに寝ず。惣じて人を置かざれば、二人ながら呆れ果て、「さて、いかに成りなむ。」弓手は、やがて御所なり。妻手は秩父、前は和田、後ろの陣は横山。警固の武士は篝焚き、矢先を揃へ、楯を突き、「御用心。」と呼ばはるは、只、鳴る神の如くなり。「運が尽きて悟られ、敵、屋形を替へにけり。」兄弟の人々、羽抜けの鳥の中空に、立ち煩ふぞ哀れなる。
 かかりける処に、腹巻着たる男の、長刀持つて寄りければ、兄弟の人々、「あは、敵ぞ。」と思ひ、太刀取り直し、懸かり合ふ。されどもこの男、長刀取りも直さずし、小声になつて言ふやうは、「いや、苦しうも候はず。秩父殿の後見、本田の次郎親経と、申す者にて候。昨日、狩場の言ひ捨て、弓矢の情け問はむため、本田を出し立てられて候。祐経、宵までは、この屋形に候ひしが、王藤内に諫められ、御所の左の妻戸の、脇に宿して候。まづ松明をも踏み湿し、太刀をも鞘に納めよ。『誰そ。』と問ふと、物言ふな。親経に言はせよ。こちへ、こちへ。」と手をぞ引く。嬉しさ類限り無し。中門、渡り廊、馬の前行き過ぎ、「怪しや、誰そ。」と咎むれば、「秩父殿の後見、本田の次郎親経。火番なり。」と言ひければ、更に咎むる人は無し。
 和田の手の人々、義盛、かねて「今夜はひそかなれ。」と示され、人をも更に咎めず。御舅北條殿、五郎が烏帽子親なれば、色かねて悟り、「何事ありと、今夜は左右なく走り出るな。」と、忍び忍びに触れらるる。心得たる屋形には、東西ひつそとしたりけり。かくはすれども外様の者、「何事もあれかし。時の高名仕り、御感に罷り預らん。」なんどと思ふ者ども、入れ違へ廻れど、されども本田付き添ひ、引き廻し通れば、更に子細はなかりけり。祐経が臥したりし、妻戸の脇へ教へ入れ、「人数に親経も、御供せむ。」と言ひければ、祐成、聞こし召されて、「まことの時の心ざし、秩父殿の御芳志、本田殿の御情けは、とかう申すに及ばれず。もしもこの事しおほせず、雑兵の手に掛からむ時、御手に懸け亡き跡を、取り隠して賜はらば、最後の供にはまさりなむ。人あまたにて叶ふまじ。早、疾く疾く。」と仰せければ、「げにげに、これも言はれて候。さらば御暇申す。」とて、本田は早帰りぬ。
 「互に取り伝へたる、弓矢の情け、ここまで。」と、二人、目と目を見合はせて、「風はいつも吹けども、今宵の風ぞ身にはしむ。名残はいつも惜しけれど、今宵殊更惜しきなり。『一日が間に一千歳を、経る。』とは言ふとも、万年がその内にも、兄弟と成る事、かたかるべし。七度契りて兄と成る。六度結びて弟と成る。今宵離れてその後に、未来の契り、定め無し。いまだ敵に逢はぬ間に、別れの姿、よく見む。父幽霊が見たくは、祐成を見給へや。母高相と思ひて、時宗を見む。」とて、松明ばつと振り立てて、互に顔を見合はせて、もろきは今の涙なり。
 かかりける処に、風も吹かぬに妻戸が、きりきりばつと開いた。兄弟の人々、「あは、敵ぞ。」と思ひ、左右の脇に引つ添うて、澄まいて物を見たりければ、女にてこそ候ひけれ。「誰なるらん。」と思ひしに、大磯の虎が妹、ぎじゆと申して、十六歳に成りけるが、君の御家の子、宍戸の安芸の四郎殿に、最愛せられ申し、御所中にありけるが、曽我殿ばらの夜討の由を、夢ばかりほの聞き、「さもあらばこの妻戸の、掛金を外さむため、宵より待つこそ久しく候へ。なう、こなたへ入らせ給へ。」とて、かき消すやうに失せにけり。妻戸は開いつ、人は無し。「さらば、松明立てよ。」とて、松明に火をつけ、静かに振つて見たりければ、郎等どもは恐れて、寄りも付かざる座敷に、王藤内と祐経、只二人宿したり。
 祐成、御覧じて、「敵を見るに二人。我等も兄弟。御辺は傍に臥したる、王藤内を切れ。祐成は祐経を、切るべし。」とこそ仰せけれ。時宗、承つて、「こは口惜しき御諚かな。五つや三つの年より、十八年が間、心を尽くし狙ひたる、親の敵をばさて置いて、行方も知らぬ痩せ男を、切つては何の益あるべき。惣領にてましませば、一の太刀をばあそばせ。二の太刀に於いては、某が仕らん。」と申す。祐成、聞こし召されて、「あう、思ひ誤つて候。但し、寝入りたる者を切るは、死人を切るに似たるべし。あつたら親の敵の、生き顔見て、いざ切らむ。」「尤も、しかるべし。」とて、後や枕に立ち寄つて、太刀を逆手に取り直し、申しけるこそあはれなれ。
 「三千年に一度花咲き、実のなる西王母が園の桃、桃花の節会、優曇華。親の敵に逢ふは、稀なりといへども、思へば易かりけるぞや。いかにや、殿、祐経。大事の敵持つ身が、かく不覚に見ゆるか。起き合ひて尋常に死ね。王藤内が賢しら、今こそする処よ。起き合へやつ。」と言ふままに、歩みの板をどうど踏む。祐経が最後もよかりけり。「さつ、知つたり。」と言ふままに、驚きざまに枕なる、太刀押つ取り、ずばと抜き、「起きむ。」としける処を、「祐成、これにありや。」とて、以て開いてちやうど打つ。弓手の肩から妻手の乳の下へ、はらり、づんど切つた。「時宗、これにありや。」とて、以て開いてちやうど打つ。腰のつがいを切り離す。五郎が太刀は剣にて、畳三畳裏返し、歩みの板に切り付け、「えいやつ。」と言うて引く間に、祐成、又、はたと切る。時宗、鍔を返し、取つて直し、ちやうど切る。「せめては切つて慰み、日頃の念や晴るる。」と、躍り上がり跳び上がり、三刀づつ切る程に、果報いみじき祐経も、空しく成るぞ無残なる。
 傍に臥したる王藤内、太刀風に目を覚まし、かつぱと起きて逃げけるが、逃げば只も逃げもせで、「夜討は曽我の殿ばら。明日の所見、王藤内。」と罵つて、揉みに揉うでぞ逃げにける。祐成、御覧じ、「憎い奴が只今の言葉かな。『逃げば逃がさむ。』と思ひしに、『所見。』と言ふが憎げに。人と契るは、さは無いぞ。共に連れて獄卒の、呵責の責めの所見に、罷り立て。」と宣ひて、祐成の太刀にて高腿切つて落とされ、のつけに返す処を、「時宗、これにありや。」とて、以て開いてちやうど打つ。細首、宙に打ち落とす。一昨日、安堵賜はり、詮無い人に語らはれ、非業の死にをしたりし、王藤内が最後をば、貴賤上下押しなべ、憎まぬ者はなかりけり。

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