十番斬
(毛利家本)

 建久四年五月二十八日の、夜半ばかりの事なるに、曽我兄弟の人々は、親の敵祐経を、思ひのままに討ち済まし、小柴の蔭へざつと引き、暫く息をぞ継ぎにける。祐成、仰せけるやうは、「いかにや、五郎。本望をば遂げぬ。いざや、腹を切らん。」時宗、承り、「御諚、尤もにて候。さりながら頼朝は、我等が祖父伊東の敵。余の者千騎万騎より、ついでを以て乱れ入り、御寮を一刀切り申し、名を後世に残すべし。」祐成、聞こし召されて、「げにげに、これは言はれたり。但し、親の敵祐経に、とどめは刺してありけるか。」時宗、承り、「あれ程に成つては、何の子細の候べき。」祐成、聞こし召されて、「それはさも無し、五郎。明けて実検あらん時、『慌てたるか、臆したるか、若毛の致す処か。あつたら親の敵を、討ちはよく討つたれども、とどめを刺さで討ち捨てに、したる。』なんどと言はれては、屍の上の恥辱たるべし。」
 時宗、承り、「さらば、御待ち候へ。とどめを刺いて参らん。」と、ありし所に立ち帰り、松明ばつと振り立てて、祐経を見てありければ、後も枕も見も分かず。されども死骸を引き上げ、空しき顔をつくづくと見て、「構へて冥途黄泉まで、我等恨むる事なかれ。日頃作りし罪科の、只今報ふと思ふべし。我等が父の河津殿に、手向けんための名刀なり。さこそ尊霊河津殿、嬉しく思し召さるらん。」言ひもあへず時宗は、腰の刀をするりと抜き、小耳の根に刺し立てて、少し働くやう成るを、押し動かして言ひけるは、「いかにや、殿、祐経。この刀と申すは、御辺が秘蔵せし刀。いつぞや頼朝の、箱根詣のありし時、御辺は時の御供にて、『まことやらん、この山に、河津殿の三男、箱王丸があるなるに、見参らせん。』と呼び出し、何がしに対面し、『大人しく成らん程、脇指にせよ。』とて、この刀を取り出し、某が脇に差し、『早、帰れよ。』と言ひし時、『親の敵と聞くなれば、外をば求むべからず。この刀にて只中を、一刀。』と睨みしを、小師の法師が色を見て、『寺中に大事を掛けじ。』とて、押し隔て、かき抱き、本坊に帰りぬ。さてその後にこの刀、失はで持つ事は、たとひ年月送るとも、御辺は元の主なれば、返さんずそのために、今まで持つてあるぞとよ。鉄はかねてぞ知つつらん。試み給へ。」と言ふままに、妻手の小耳の下よりも、「弓手へ通れ。」と三刀刺す。刀目が繁くして、口と一つに成りにけり。明けて実検ありし時、「宵の座敷の雑言に、口を裂かれけるか。」と、御評定は取り取りなり。されども遊女二人が、始め終はりを語るにぞ、とどめにこそは成りにけれ。
 宵には晴れてありけれども、敵討ちけるその時刻に、天かき曇り五月雨、卯の花くたしは降りに降る。辻々の篝の火も、一度にばつと消えければ、東西俄に暗くなつて、前後も更に弁へず。されども思ひ切りつつ、大音上げて呼ばはる。「只今、御寮の仮屋の御前にて、親の敵祐経を、討つて出る兵を、いかなる者と思し召す。伊豆の国の住人、伊東が孫、河津が子、十郎祐成、五郎時宗ここにあり。当君の御内に、弓取達はおはせぬか。など出合ひて討ち留め、名を後代に上げ給はぬぞ。」と、声々に呼ばはる。暗さは暗し、雨は降る。御陣、俄に震動して、弓一張、太刀一振に、二人三人取り付いて、我人の奪ひ合ふ。繋ぎ馬に乗りながら、鞭を打つ者もあり。味方同士が折り合ひて、敵と思ふ所もあり。前後不覚にひしめいて、早、上を下へぞ返しける。
 されども一番に、「大楽の平馬丞。」と名乗つて、「夜討は誰そ。珍しや。我々が目の前にて、狼藉をばせさすまじい。手並の程を見せん。」とて、喚き叫んで切つて出る。祐成、聞こし召し、「か程に多き人中に、一人名乗つて出るこそ、類少なき兵なれ。曽我の十郎、ここにあり。受けて見よ。」と言ふままに、小柴の蔭よりつつと出て、以て開いてちやうど打つ。弓手の腕首打ち落とされて、言葉には似ざりけり、早、幕の内へぞ引きにける。
 二番に、「愛甲の三郎。」と名乗つて、五郎にむずと渡り合ひ、二の腕切られ、引いて入る。三番に、「御所方の黒弥五。」と名乗つて、十郎殿に渡り合ひ、胛切られ、引いて入る。四番に茂木殿、五郎にむずと渡り合ひ、膝の口を割られて、御内をさして引き給ふ。五番の度には伊勢国の住人に、吉田の三郎師重、十郎殿に渡り合ひ、高腿薙がれ、引いて入る。六番には、「吉川。」と名乗つて、五郎にむずと渡り合ひ、小鬢を切られ、引いて入る。七番には、「品川。」と名乗つて、十郎殿に渡り合ひ、妻手の小脇を切られて、幕の内へぞ引きにける。八番の度には、甲斐の国の住人に、市川の別当太郎忠速、大音上げて呼ばはるやう、「夜討と言はんに、何程の事のあるべきぞ。手並の程を見せん。」とて、喚き叫んで切つて出る。時宗、これを聞き、「汝は音に聞こえたる、碓氷の峠なんどにて、盗みこそ能なりとも、晴れ業の切り合ひは、これ初めてにてあるらんに、受けて見よ。」と言ふままに、以て開いてちやうど打つ。細頸、宙に打ち落とされて、朝の露とぞ消えにける。九番に筑紫武者、臼杵の七郎師速、十郎殿に渡り合ひ、真向割られ、引いて入る。
 十番の度には、仁田の四郎忠綱、大音上げて呼ばはるやう、「何さま東西暗うして、物の間、色の見えぬに、松明出せ。」と呼ばはつたり。祐成、聞こし召し、「松明好みする奴に、手並の程を見せん。」とて、ここを先途と切り結ぶ。天地に閃く太刀の影は、只電光の如くなり。その暇に松明を、「我劣らじ。」と差し出す。箙、靭、蓑、笠、まして傘なんどをば、「よき松明。」と火をつくる。万灯会にも殊ならず。いとど勇める兄弟が、この火の光に力を得て、ここを先途と切つたりけり。その夜、五郎が手に掛け、五十一人に手を負ほする。すぐに死するは只一人、別当太郎ばかりなり。「とても今夜は過ごすまじい。罪作りに。」と思ひければ、人をも左右なく切らざりけり。名字を名乗つて出るをこそ、十人とは記されけれ。兄弟が手に掛けて、闇討の捨て刀、数をも知らぬ処なり。
 さて祐成と忠綱、ここを先途と切り結ぶ。少し足立ち片下がり、上手になつて十郎殿、「仁田を下へ追ひ下ろさん。」と、走りかかつて打つ太刀を、忠綱、さらりと受け流し、柄を継いで、裾を薙ぐ。十郎の妻手の力足、膝の口を刺し下げ、つつと切つてぞ落としける。弓手の足ばかりにて、半時躍つて戦うたり。これやこの陵王の、暮日に向かふ鉾の手、入り日を返し一躍り、後ろを防ぎ越す刀、百手を砕き戦へど、さのみはいかで堪ふべき。犬居にどうど転び、「辺りに五郎やある。祐成こそ只今、仁田に逢ひて、討たれ候へ。同じ黄泉路と言ひながら、忠綱に逢ひて討たるれば、恨みとは更に思はず。御辺は命を全うして、君の御前に参りつつ、我等が有様申して死ね。早、首取れや、忠綱。」仁田、頸を打ち落とす。満ずる歳は二十二、惜しまぬ者はなかりけり。
 さても時宗は、弓杖二杖三杖ほど隔て、大勢の中にて、ここを先途と戦ひしが、祐成の最後の言葉を聞き、早、打つ太刀も弱り果て、前後不覚に成りければ、「かくては叶はじ。」と思ひ、敵を四方へ追つ散らし、御内を指いて、切つて入る。ここに御所の五郎丸と申して、十八歳に成りけるが、八十五人が力なり。腹巻のその上に、薄衣かづき、髪揺り掛け、太刀脇に挟み、「今や、いつや。」と相待つる。これをば知らず時宗は、妻戸をばつと蹴破つて、御内を指いて、切つて入る。五郎丸、やり過ごし、「得たりや、あう。」と言ふままに、弓手すがりに抱いたりけり。時宗、これを見て、「女と思ひ、見損じて、抱かれぬる。」と後悔す。されども事の数にせず、宙にづんど引つ立てて、あう、七、八間こそ走りけれ。五郎丸、これを見て、「かなはじ。」と存ずれば、「夜討をば組み留めたるぞ。折り合へやつ。」と呼ばはつたり。この声に従つて、折り合ふ人々、誰々ぞ。三戸の九郎源八、須田の太郎、民部少輔、「我も。」と思しき大力、七、八人折り合ひて、手取り足取り縄掛けて、大将殿へ追つ立つる。無念、類はなかりけり。
 さる間頼朝、夜討、間近く参る由を聞こし召し、御腹巻を召され、小長刀横たへ、揺るぎ出させ給ふ。ここに大友の市法師と申して、九つに成りけるわつぱ、君の御前に畏まり、「いかなる御事候ぞ。既に君は、征夷将軍にてましませば、野心の者なんどをば、居ながらこそ鎮め給ふべきに、かかる小事なんどに、御手を下ろさせ給はん事、軽々しくもや候べき。」と、とどめ申したりければ、頼朝、「げにも。」と思し召し、とどまり給ふ処に、案の如く夜討捕つて、庭上に引つ据うる。頼朝、御覧あつて、「あう、いしくも申したる市法師かな。父大友が伝へ聞き、さこそ悦び申さんずるに。烏帽子子にせん。」と宣ひて、大友の左近将監義尚と召され、大隅、薩摩を下さるる。時の面目、世の聞こえ、何事かこれにまさるべき。
 その後頼朝、夜討に御対面のそのため、御装束を改め、青狩衣に立烏帽子召され、広廂まで御出あり。「夜討はいづくにあるぞ。近う召せ。」との御諚なり。「承る。」と申して、時宗を引つ立てて、萩が小坪に引つ据うる。頼朝、御覧あつて、「曽我の五郎時宗は、汝が事か。」「さん候。」「親の敵祐経を、討つは道理と言ひながら、京、鎌倉の下り上り、道の末にても討たずして、頼朝が祝ひの座敷に血をあやす條、言はれなし。これ一つ。敵ならば祐経、一人をこそ討つべきに、当番の者どもに、手を多く負ほする條、言はれなし。これ一つ。敵討つてのその後、内所を指いて切つて入り、頼朝に敵を成す條、言はれなし。疾つく申せ。」
 時宗、承り、「さん候。祐経は、君の御おぼえめでたくし、よき者あまた召し使ひ、京、鎌倉の下り上りにも、五十騎百騎には劣らず。悲しきかなや、我々は、君の御勘当を蒙り、身は一人身と成り果て、兄弟より外、見継ぐ者なきにより、付き添ひ廻り狙へども、隙がなくして討ちもせず。この狩倉の人混みを、幸ひと存じ、紛れ入つて討つて候。仰せの如く、かねては、『祐経一人をこそ討つべき。』と存じつる処に、当番の面々が中々に名乗り出、臆病刀使うて、逃げ足踏むが憎さに、脅しにちつと太刀風を、負ほせつるばかりなり。重恩をまさに蒙り、妻子を扶持し身を立てて、人と成る方々が、これ程御所中へ、夜討の入つて乱るるに、誰こそ、『進み、命を捨て、君の御前に罷り立たん。』と、仕つたる者もなし。外様なれども仁田と、御内の五郎丸より外、御用に立つべき者は無し。御一族にておはします、茂木の四郎殿こそ、四番目に御出あり、膝の口を割られて、足がかなはで御引きあれ、その外の手負ども、皆召し出して御実検あれ。向かふ疵は、よもあらじ。皆、逃げ疵にて候べし。
 「かかる臆病者どもに、あつたらしき御所領を、いたづらに賜ばんより、我等に少し下され、御芳志に預からば、これ程までは憎まじい。たとへば祖父伊東は、謀叛人にて候へば、子孫我等に至るまで、御憎みあるは御道理。さりながら、『怒る処には怒りを立て、恩に報へば、敵も味方と成る。親子兄弟なれども、欲心、内に含めば、外に敵対。』と書かれたり。『先非悔い、後々の是に従へ。』と、古人も教へ置かれたり。祖父伊東も、ひが事無し。昔、源平両家の時、天下の弓取達、二張の弓に一筋の弦を掛け煩ひ、昨日源氏へ引く弓を、今日は又引き替へて、平家に引く輩もあり。かやうに人はせしかども、伊東は心二つ無く、きれて弓箭を取りしなり。かやうに弓矢取る者は、頼もしき弓取、当千とこれを名付けたり。それに伊東が子孫を、疎み果てさせ給ひて、命を継ぐべき便りもなし。籠鳥の雲を乞ひ、壺中の魚のわづかに、泡に息継ぐ風情にて、生きて甲斐なき憂き身と成り、とても飢死に及ばんより、親の敵と討死し、名を後代に上げんため、我君。」とこそ申しけれ。
 頼朝、聞こし召されて、「さ程に剛の者なるが、何とて五郎丸には、左右なく捕られぬるぞ。内所を指いて切つて入り、頼朝に敵を成す條、言はれなし。疾く申せ。」時宗、承り、「あう、御尋ねあらば申すべし。さん候。祐経は、親の敵と言ひながら、さしも恨みは残らず。『責め、一人に帰す。』と、申しても余りあり。恨み申しても尽きせぬは、君の御身にてとどめたり。それをいかにと申すに、たとへば祖父伊東こそ、謀叛人にて候とも、『名にある者の子孫を、いかでか絶やし果てん。』と、二人が中に一人をも、召し出され申し、懸命の地の片端をも、安堵を成し賜はらば、たとひ祐経討ちたくとも、思ひ堪へて本領に、慰みても過ぎぬべし。されば弓取の命に替へて、惜しきは懸命の本領なり。それに一所も残さず、召し上げらるるのみならず、あまつさへ親の敵、祐経に一円に下され、上見ぬ鷲と振舞ひし。かかる恨みの数々の、その源を尋ぬるに、君の御身にてとどめたり。『祐経よりも先にぞ。』と、心を懸け申せしに、それに手に立つ者もなし。五郎丸、衣かづき、髪揺り掛けてありつるを、『女。』と思ひ、見損じて、左右なく捕られ候ひぬ。五郎丸だになかりせば、あつぱれ、君の御命は、危ふかりつるものをや。」
 頼朝、聞こし召されて、「あつぱれ、大剛の兵かな。たとひ、さありとも我が前にては、『さなし。』とこそ言ふべきに、思ひの色を残さず申しつる事、神妙にこそ思し召せ。但し、『親の敵討たん。』とて、継父曽我には知らせけるか。京の小次郎、越後の禅師、二の宮の姉婿、母には知らせざりけるか。疾つく申せ。」時宗、承り、「さん候。小次郎は、本所に祗候仕り、暇なき身にて候へば、寄り合ふ事なきにより、知らする事も候はず。越後の禅師は、『経読み念仏申し、親の跡弔ふ、その子を殺して何にせん。』と、知らする事も候はず。二の宮の姉婿は、『世になき小舅に与し、一所懸命失はん。』と、よも申さじと存じ、知らする事も候はず。母には知らせたく候ひつれども、人の親の習ひにて、『若き子どもを出し立て、年寄、跡に残りゐて、物思はぬ。』といふ親の、世にもあらじと存じ、知らする事も候はず。継父は、なさぬ仲。継子継父の昔より、仲よき事のあらざれば、知らせず。」とこそ申しけれ。
 「げにげに、それはさぞあるらん。今は問ふべき事もなし。早々、暇取らせよ。」と、仰せける処に、祐経が嫡子、犬坊と言ひしわつぱ、いづくよりかは来りけん、声も惜しまず、「わつ。」と泣き、持つたりし扇にて、時宗が面を、ちやうちやうとぞ打つたりける。時宗、これを見て、につこと笑ひ、「あう、いしくも打つ犬坊かな。羨ましやな、汝は宵に父を討たせ、今朝、手に懸けて打つ事よ。悲しきかなや、我々は、五つや三つの歳よりも、父を汝が親に討たせ、十八年のその間、野に伏し山に隠れ居て、十九や二十に余つて、討つたるだにも嬉しきに、さこそ犬坊が、心も尽くさず、をこのけなく、打つを嬉しく思ふらん。これも君の御恩ぞよ。わ殿が腕に叶ふまじ。打つて腹だに居るならば、いか程も打てや、犬坊。」と、顔振り上げて打たせけり。御前なりし人々、「弓取に当座の恥辱を与ふる事、勿体なし。」と申して、犬坊を抱き入る。
 かかりける処に、仁田の四郎忠綱は、祐成の頸を引つ提げて、御前に畏まる。頼朝、頸を御実検ある。あら、無残や、時宗。只今までは剛の眼を見張つて、ちつとも悪びれざりし気色も変はり、涙を流し、うつぶしになり、「あら、いたはしや。早くも変はり給ひたるや。竹馬に鞭を打ちしより、一つ所に起き臥し、少し見えさせ給はねば、とやあるらん、かくや渡らせ給ふらんと、心を尽くし申せしに。悲しきかなや、今は早、五体分別続かねば、ありし形も変はり果て、いたづら事と成りにけり。疾くして我もかく成りて、同じ道に。」と思ひければ、包めどこぼるる涙は、庭の白洲に落ちにけり。
 「大剛一の時宗なれば、鷹が岡にて切れ。」との上意なり。「承る。」と申して、時宗を引つ立てて、鷹が岡へ急ぐ。「只世の常の弓取だにも、最後の体は面白きに、大剛一の時宗が、最後を見ん。」とて、貴賤、群集を成す。時宗、人の多きを見て、「あら、口惜しや。か程の広座にて、縄の恥に及ぶ事よ。よしよし、それも時宗が山賊海賊を、したる身にてもあらばこそ。父母孝養のそのために、付いたる縄にてある間、神の前にて御注連縄、仏の前にて善の綱、経の紐とも言ひつべし。心あらんず弓取達は、寄つて手掛けて結縁せよ、人々。」と言ふままに、あう、鷹が岡へぞ急ぎける。
 鷹が岡にも着きしかば、九品の松の下に、敷革敷かせ、直り、時宗申しけるやうは、「この松の下にて、切られん事はひとへに、九品の浄土とおぼえたり。いかに、太刀取、縄取も、少しの暇を得させよ。時宗が末期の一句に、浄土の三部経を、あらあら談じて聞かすべし。有難きかな、弥陀依正法万徳の位、三世の諸仏出世の本懐は、衆生成仏の直道なり。坐禅修行の田地に至りがたき者は、六字を唱へて極楽に往生す。一指を捧ぐるその時は、大千世界もここにあり。竹を撃ち、桃を見て悟道する事、分明なり。妙楽大師の御釈に曰く、『諸教所讃、多在弥陀。』と説く時は、西方を以て先とせり。唯心の弥陀、己身の浄土なれば、本来無東西、何処有南北と観ずべし。それ六字の名号を集むる経論は、華厳経にて南の字を作り、阿含経にて無の字を作り、方等経にて阿の字を作り、大般若にて弥の字を作り、法華経を以て陀の字を作つて、南無阿弥陀仏と申すなり。十方三世仏、一切諸菩薩、八方諸聖教、皆是阿弥陀。」と説く時は、聴聞の老若、頭を地につけ時宗を、拝まぬ人はなかりけり。
 かの時宗と申すは、幼かりける時よりも、勤行怠らず。一心三観の月は、無明の闇を照らし、観念の窓の前には、眉に八字の霜を垂る。一実中道の車は、無二無三の門に轟き、一乗菩提の駒は、平等大会の苑にいばふ。等覚一転の時鳥は、妙覚大乗の峯に鳴き、入重玄門の鴬は、下化衆生の谷に囀る。諸行無常の春の花は、是生滅法の風に散り、生滅滅已の秋の月は、寂滅為楽の雲に隠るる。万山に芬々し、かくの如くとあるものを、「只、念仏を申すべし。」と、及ぶも及ばざりけるも、皆念仏を申しけり。これは鷹が岡にての事。
 さても君の御前には、和田、秩父、北條殿、取り取りの御訴訟なり。「かの時宗と申すは、大剛一の兵、又は名にある者の、子孫にて候へば、助け御置き候へかし。」と、各々申されたりければ、頼朝も内々、助けたく思し召さるる処に、人々の訴訟を嬉しく思し召され、自身、安堵の御状をあそばし、新平右馬丞に賜ぶ。さる間右馬丞、立て文持つて走り、「その時宗、な切つそ。和田、秩父、北條殿、君へ申させ給ひ、助け給ふべき御教書なり。これこれ、拝み申せ。」とて、時宗が膝に置く。籠手の縄を許されて、高らかにこそ読うだりけれ。
  下す状。相模の国の住人、曽我の五郎時宗。早く寛宥す。それ、科を転じて忠と成す。信仰は人にあつて、しかも冥の知見たり。親に孝の深き者は、天道の助けあり。これによつて頼朝も、憐愍を励まし、非を出して理に成せり。天下、ここに感応す。若干の弓取、刀剣を差し置き、涙、袖を潤し、遠近に聞く者、悲涙、肝に銘じたり。これを更に誅罰し、死罪に成し終はんなば、箕裘の家絶え、弓馬の道は永くすたりなん。仰いでも猶余りあり。樊噲に比ぶれば、時宗はまされり。張良に合はすれば、高祖の成せし威勢たり。一天四海がその内に、隠れぬ剛の者なれば、先の非を返し、今より後は頼朝に、忠臣たるべし。本領なれば、宇佐美、楠美、河津三ヶの庄、永代安堵の御状、かくの如く。源頼朝判。
とぞ読み上げける。貴賤上下の見聞衆、一度に「あつ。」と感じつつ、「ゆゆしの人の果報や。」と、喜ばざるはなかりけり。
 さる間時宗、御教書頂き、涙を流しつつ、「あら、有難や。同じくはこの御状、舎兄祐成諸共、拝むとだにも思ひなば、いかがは嬉しかるべきに、惣領の祐成、今は浮世におはせねば、時宗一人長らへて惣領を継ぐとも、生きたるしるし、あるまじい。只々、切らせ給へ。」と、申し乞うてぞ切られける。見る人、目を驚かし、聞く者、これを感じけり。
 君も哀れに思し召し、「上古も今も末代も、かかる弓取、有難し。余り剛の者なれば、現人神に斎へ。」とて、富士の裾野に社を立て、兄の宮、弟の宮と申して、斎はせ給ひけるとかや。今当代に至るまで、親の敵を討つ人、この社にて祈れば、忽ち叶ひけるとかや。

    慶長十七年壬子大族上吉日
桃井 幸若小八郎大夫 安信(花押)

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