張良
(内閣文庫本)
さる間張良は、天下を治めんそのために、鷲峯山へぞ参られける。かの御寺の御本尊は、十一面観世音。かの御寺に参り、夜も三十三巻、昼も三十三巻の、観音経を読み、三十三度の礼拝を参らせ、「大慈大悲の願なれば、軍にたやすく勝つといふ、利生を賜べ。」と祈念して、七日籠らせ給ひけり。満じける暁、忝くも御本尊は、御帳の内よりも、あらたに御声を出させ給ひ、「我は大悲の誓ひにて、衆生済度のためなれば、汝に利生を与ふべし。この前に流るる川について、百日、下へ下るべし。百日下へ下るならば、浄明国に着くべし。かの国の中程に、一つの橋渡るべし。かの橋の詰に、七日立つて待つならば、八十の翁来るべし。その翁に行き会ひて、諸願の利生をば蒙るべし。」と示さるる。
御示現に任せて、御手洗の川に着き、やうやう下らせ給ひけり。百日と申すに、浄明国に着きにけり。かの国の中程に、一つの橋こそ渡りけれ。柱には瑠璃を延べ、行桁には黄金を敷き、簀子は硨磲と瑪瑙なり。橋は高し。雲に添ひ、虹を成せるが如くなり。されども示現なりければ、「向うに渡りて人に逢ひて、問はばや。」と思ひつつ、既に簀子を踏み伝ふ、かの張良の心ざし、末頼もしく聞こえけり。「橋を見じ。」と目を塞ぎ、やうやう渡り給へば、中程に成りにけり。
向かひをきつと見てあれば、八十余りなる翁の、白き狩衣召されて、芦毛なる駒に乗りながら、さしもに狭きこの橋を、とどろ駆けして渡さるる。張良、きつと見て、「後へも渡り戻りて、馬乗りをたやすく通さばや。」と思ひしが、「我は先より渡る者。あの馬乗りは後なり。帰さば馬を帰すべし。我は何しに帰るべき。渡るにこそ。」と思ひて、面も振らず渡りけり。只中にて馬と人が、真つかな詰めに渡り合ふ。既にそこにて馬と人、「うつ違へむ。」とせし時に、弓手の沓を張良が、袖の口に引つ掛け、橋の簀子へ落としけり。張良、仁義正しくして、老いたる人は必ず、父母の如くに思ふとて、この沓を取り上げ、翁に与へ奉る。さしかけて、「履かん。」とて、取り外し、落とさるる。猶取り上げて参らせる。いかがはしてこの沓を、又こそ落とし給ひけれ。
「取り上げん。」とせし時、勇める駒に蹴られて、橋より下へ落ちて行く。翁、この由御覧じて、「あれを、あれを。」と仰せければ、「この沓を取らん。」とて、張良、共に落ちにけり。かの橋の高さは、三十余丈なりけり。沓は水に浮かべば、張良、水に落ち付いて、「沓を取らん。」と泳ぎ寄る。川の底、乱顛し、臥し丈五丈ばかりなる、大蛇一つ浮かび出づ。頭に角は十六、鰭に剣を挟み立て、眼は只、夕日の、水に映ろふ如くなり。紅の如くなる、舌の先を振り立てて、既に「張良を、呑まん。」とこそはしたりけれ。張良、きつと見て、少しもひるまず泳ぎ寄つて、大蛇に乗り、拳を握り、角の間、七つ八つ張りければ、大蛇、怒りをとどめ、頂き上げて、張良を橋の詰に下ろし置く。終に沓をば取り上げ、翁に与へ奉る。
翁、御覧じて、「あつ、剛なるや、張良。臆病にて兵法の、叶ふべしともおぼえねば、汝の剛臆を見て、兵法を伝へんため、種々の雑相現じたり。いざ、さらばこのついでに、翁が浄土を拝ません。道遠くして叶ふまじい。この翁が乗つたる、馬の尾筒に取り付き、片手にて目を塞ぐべし。」「承る。」と申して、左手にては尾筒を取り、右の手にては目を塞ぎ、「仰せの如く仕つて候。」と申しければ、やがて霞の鞭を当てさせ給ふ。馬は天に上がれば、刹那が間に南方の、観音の浄土に着き給ふ。
翁、御覧じて、「こここそ我が常に住む、都なれ。」と仰せければ、馬は平地に飛び下りぬ。翁、即ち観音にて、三十二相を顕はして、眉間百毫、雲を分け、左右眼、月の輪の如し。御眉、既に桂を書き、御唇は蓮の傾くが如くなり。御衣の袖薫じて、異香、まどかに匂ひあり。左右の天童、幡を差し、御迎ひに参れば、にさうかんの天童は、雲の袖を翻し、二十五の菩薩達、十三、十二、左右に分け、歌舞の菩薩は声々に、曲を成し、舞ひ遊び、簫、笛、琴、箜篌、琵琶、鐃、銅鈸までも、尊からずと言ふ事無し。糸竹の調べ細やかに、感嘆、肝に銘じたり。さて張良を引き具して、台に入らせ給ひけり。あら、有難の御事や。浄土を拝むめでたさよ。
やがて翁は陰陽巻と申す、巻物を取り出させ給ひ、「この巻物の徳用は、他心通を明らめ、世の吉凶を顕はし、天下大平、国土安穏、寿命定穏なるべき事どもも、この巻物の内に候ぞ。賜はれ、張良。」張良、余りの忝さに、三度頂き、懐中す。一巻の書、これなり。その後、左右の童子を出し、浄土の阿竭陀煎と申して、さらさら言葉もなき酒を、吠瑠璃の壺に入れ、命長柄の銚子、幸ひ開く盃、珍味の菓子を肴にて、「賜はれ、張良。」張良、余りの忝さに、たぶたぶと受けて、「干さん。」とせし時、翁、御覧じて、「暫く、張良。盃、控へよ。汝が浄明国にて沓の煩ひに、酒の威徳を語つて聞かせん。
「昔、那掲羅国の大王は、父母の恩を報ぜんため、須弥の半腹に上がり、白石の塔を三十六、塔に組む。かの塔建つて、七ヶ年と申す時、塔の中よりも、摩訶曼陀羅華、摩訶曼殊沙華とて、種々の蓮華が咲き、蓮散つて、百味の菓子と成る。或る時、化仏菩薩は、須弥の半腹に上がり、白石の塔を拝み、『ああら、めでたや。むかしやうにこそ、石に花の咲きて、実のなるとは申せ、これは、さながらめでたさよ。」と、一つを取つて服するに、天の甘露の如し。今一つを取つて笈に入れ、南陽県といふ山に捨つる。かの南陽県といふ山は、高さも四万由旬、広さも四万由旬にて、菊より外の草生ひず。かの菊の葉の広き事、周り八十尋に広ごれり。その菊の葉に置く露が、下の木の実に落ち合ひて、不老不死の薬と成る。薬師の浄土で不老山、この浄土にて阿竭陀薬、人間に与ふれば、その名を和らげて、即ち酒と申すなり。殊に、かの阿竭陀煎は、一度呑めば一千人、二度呑めば二千人が力付きつつ、寿命定穏なる酒なり。賜はり給へ、張良。」
張良、余り忝さに、続けて三度酌みにけり。二献になれば、「肴。」とて、扇を一本出さるる。「この扇と申すは、畳めば八つの骨、開けば二十五の骨あり。二十五の骨は、二十五の菩薩。八つの骨は、薬王菩薩。この扇を持つならば、たとひ願はずと、すぐに浄土へ参るべし。延命草と書きて、命を延ぶると読まれたり。それを肴に今一つ、賜はり給へ、張良。」張良、承りて、又三度こそ酌みにけれ。
三献に、「肴。」とて、鞭を一つ出さるる。「滄海浮とは、かの鞭。この鞭を腰に差し、海河を渡るに、舟に乗らねど水上、平地の如く、走れども、水の底にも沈まず。水中に入れども、その水、身にもしまぬなり。『身を隠さん。』と思ふ時、隠形の法を誦し、木の葉の下に隠るれど、人の目には見えぬなり。かかるめでたき重宝ぞ。それを肴にて今一つ、賜はり給へ、張良。」張良、承り、よき肴、よき酒、仰せは重し。元よりも張良は大酒にて、差し受け差し受け呑む程に、八十一度賜はりぬ。およそ力は、八万一千人が力なり。有難しとも中々に、申すに及ばざりけり。
「酒はよく賜はりぬ。下向せん。」と思へども、道を忘れて、知らばこそ。「その料にこそ、延命草と滄海浮をば賜はれ。招かばや。」と思ひて、我が故郷を招きけり。隔てて遠き故郷に、只一時に着きて、栄華に栄え給ひけり。
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