三木
(毛利家本)
ここに尾張の国の住人、織田の弾正忠、平の朝臣信長、若きより昼夜弓箭を捨てず、武勇を好み給ふ。これによつて、去る永禄の初めつ方、美濃、尾張両国の敵を切り従へ、江州佐々木の一党を追伐し、程なく上洛あつて、この頃都を守護し、驕れる三好家の輩を悉く退治し給ひ、五畿内は申すに及ばず、丹波、播磨の国まで、懇願を入れずといふ人無し。しかれば禁中を重んじ、平家の元を務めて、宰相の中将にて参内ましまし、その後、大将を兼じ、右大臣に経上がりて、栄花の春を迎へ、栄耀の秋を極め給ふなり。
さりながら、御心に少し御不足の事やおはしましけん、辞状を書いて禁中へ上げ給ふ。その言葉に曰く、
当官の事、次第の昇進、いよいよ恩沢に浴すべきといへども、征伐の功、いまだ終はらざるの條、まづ一官を辞せんとす。東夷北狄、既に滅びぬ。南蛮西戎、何ぞ属せざらん。万歳安寧、四海平均の時に当たつて、重ねて勅命に登用し、棟梁塩梅の忠を致すべし。しかれば、顕職を以て嫡男信忠の卿に譲り与ふべきの旨、宜しく奏達に預かるべきものなり。
卯月一日 信長判
頭の右大弁殿へ
卯月一日 信長判
頭の右大弁殿へ
とぞ書き給ふ。「かくて武官にましまして、日本を平らげ給はんとの御心中。」とぞ聞こえける。さて諸国へ軍卒を遣はし給ふ。東国へは徳川三河守家康、瀧川左近将監一益。北国へは柴田修理亮勝家、佐々内蔵佐成政、前田又左衛門利家。丹波の国へは惟任日向守光秀。南方大坂表へは佐久間右衛門尉信盛。西国へは羽柴筑前守秀吉なり。
さて播州東八郡の守護、別所小三郎長治、秀吉に対し、矛盾の濫觴を尋ぬるに、天正六年三月の初め、秀吉、御下知に任せて、かの地に下向の事は、長治一味、同心の故なり。同じき月の七日に、秀吉、播州国衙の賀須屋が舘に陣を布く。ここに長治が伯父、別所山城守賀相といふ侫人あり。長治に相語つて曰く、「秀吉、この地に入りて、自由の働きあり。禍、終に我が身に及ぶべし。」とて、戈を逆しまにして、味方の勢に陣触し、中途より立ち帰り、三木城郭に楯籠り、一夜の談合様々なり。「中に就いて、この旨、上聞に達するならば、程なく上勢下るべし。さあらん時は、要害の普請、出城の始末、不覚たるべし。」とて、まづたばかり状を書いて上せらるる。「公儀に対し、矛盾にあらず。秀吉、乱入狼藉の余りあり。一旦城郭に楯籠り、御気色を伺ひ奉るべき」由、使者を立て、その間に居城を構へ、出城の普請をぞ極めける。
今度大敵を防ぐべき城々は、志方には櫛橋左京進。神吉には神吉民部少輔。高砂には梶原平三兵衛。野口には長井四郎左衛門。淡河には淡河弾正忠。端谷には衣笠豊前守。これ皆要害、主人堅固なり。残る小城をば悉く引き払ひ、上月、中村、高橋党、服部、後藤、長谷川、神沢、大村、三枝、上原、魚住、賀古、賀須屋、来住野、垂井、飯尾党、さて又、藤田の六十三騎、この人々を先として、人質誓紙取り交はし、勇みに勇んで三木の城へぞ籠りける。譬へば異国の韓信、樊噲が寄せたりとも、危ふかりとは見えざりけり。
秀吉、この由聞き給ひ、「あら、思ひ寄らずの事どもや。小三郎長治をば、この行く末の案内者と頼み、一廉の受領をも成し、『心を隔てじ。』と思ひしにより、当国の人質は申すに及ばず、他国の人質まで取り集め、長治に預けけるこそ不覚なれ。咋日の花は今日の塵、昨日の友は今日の怨。飛鳥の川の淵ならで、瀬に変はり行く習ひとは、今こそ思ひ知られたれ。よしよし、当国の面々、悉く敵に成るとも、何程の事のあるべきぞ。有馬中務少輔、小寺、明石は、心変はりにてはなきか。別所孫右衛門重棟は、惣領兄弟の義について、一味するか。」と問ひ給ふ。
中務少輔、小寺、明石は、元より異儀も候はず。重棟は、秀吉の御前に畏まり、左右眼に涙を浮かべ、只、「面目を失ひ奉る。」とばかりなり。秀吉、御覧じて、「汝が兄、山城守賀相が、ひとへに謀り事とおぼえたり。長治に対し、状を遣はし、事の子細を尋ねよ。」と仰せければ、重棟、承り、則ち状を調へてぞ遣はしける。使、両三度に及ぶといへども、賀相に諫められ、終に返答にあたはず。扱ひ、既に破れたり。秀吉、この由聞こし召し、軍兵を引率し、三木の城へぞ寄せられける。
かの城郭と申すは、前には河水漲つて、後ろに高山聳へつつ、林に続いて人家あり、岩岨立つて道狭し。殊更功者の拵へて、黒み黒みに人数を伏せ、鉄砲軍を先として、弓弦を鳴らして待ちかけたり。秀吉、御覧じて、谷々を放火させ、先手の者を追ひ払はせ、その日はまづ、元の陣へぞ引き給ふ。翌日には、長井四郎左衛門がふまへたる、野口の城へぞ寄せられたる。「是非この城を攻め取り、軍の先兆とすべき。」との議定なり。城には待ち設けたる事なれば、櫓の上、塀の狭間より射出す、鏃、鉄砲、雨の如く、霰に似たり。一陣、少し引き退く。二陣には、石俵、竹楯、鉄砲楯をかざし連れ、堀際へ寄せ来り、則ち土手を築かせらる。
かの所と申すは、播州にての広みにて、山遥かに海遠し。中に田地漫々たり。頃は三月中旬に、青み渡れる麦芒の、風に靡きて散乱す。数万人の人足にて、かの麦を薙がせつつ、堀の埋め草にぞしたりける。井楼を高く上げ、三日三夜、入れ替へ入れ替へ攻め給ふ。八方に法螺を吹き、鐘を鳴らして、大鼓を打ち、鬨の声、鉦囃子、只雷電に異ならず。物によくよく譬ふれば、風に吹かるる小舟の、逆浪に浮き沈み、漂泊するが如くにて、城の内なる輩は、あう、前後を忘じて居たりけり。長井、堪へずや思ひけん、降参申し、命を助けられん事を望む。秀吉、弓矢のはかをやらんがために、許して城を受け取り給ふ。
しかるに別所、中国の守護毛利家と、契約を成す事、年久し。この時、飛脚、早打、暇もなく、合力勢をぞ乞はれける。毛利右馬頭輝元、元より律儀を立つる方なれば、「援兵を遣はす。」とて、小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春に、二万騎をさし加へ、備州、作州の境に陣を張り、計策を巡らす。この旨、右大将聞こし召し、「後詰のそのために御出勢。」とぞ聞こえける。御嫡男信忠卿を大将とし、都合その勢一万五千余騎、播州灘におり下り、所々に陣をぞ取られける。かの境目より、中国の人数も上らず、官軍も下らず、互に手立てを見合はせらる。
信忠の御諚には、「某加勢のしるしに、別所が与力の持ちし神吉の城、この要害を攻め破り、競ひを取らん。」と思し召し、即時に人数をうち寄せ、四方八面に楯を突き、「火水に成れ。」とぞ攻め給ふ。城の内には、「押し静め、人を討たん」の謀り事、近々と引き付けたり。美濃、尾張の人々は、元より心剛にして、手負死人を踏み付け、数千人の者ども、堀の埋め草と成るまで、無理に懸かつて攻めたりけり。元より小城の事なれば、大軍を受け保たん事、蟷螂が立車に向かつて、張飛を頼むに似たり。かかりける処に、神吉民部が同名に、藤太夫といふ者あり。「惣領民部が首を切つて、御味方に参るべき」由を申す。信忠、聞こし召し、「急ぎ参れ。」との御諚にて、民部は首をぞ討たれける。
ここに三木よりの加勢に、梶原の重衛門、入道して冬庵といふ者あり。藤太夫が心変はりの由を聞き、「あら、頼みても頼みがたきは人の心や。甥と言ひ惣領と言ひ、三世の機縁を結び来し、その甲斐もなく、心変はりをしけるぞや。殊更人質を長治に参らせて、まだいわけなきみどり子を、武士の手に懸けて、引き裂かさせん無残さよ。この行く末に長らへて、たとひ身を持つ世なりとも、『義理を違へし人なり。』と、後ろ指をさすならば、生きたる甲斐はあるまじ。」と、一人言にぞ申しける。その後、寄せ手の兵は、城大将が首を見て、「落居したる。」と心得、「内へ入つて見ん。」とて、あう、「我も、我も。」と乱れ入る。冬庵、この由見るよりも、「ここにて切つて出、寄せ手の兵どもを一々に追つ乱し、高名せばや。」と思へども、「とても討死すべき身の、あまたの人を滅ぼし、罪を作りて何かせん。さらば最後を急ぐべし。」と、大手の櫓に取り上がり、腹十文字に切つたるを、褒めぬ人こそなかりけれ。
信忠の卿は、この競ひを以て、三木の城に押し寄せ、その辺、見及ばせ給ひ、二里三里の間に、相城二つ三つ付けさせ、それより御馬を入れ給ふ。秀吉は、平山といふ峯を拵へ、居城と定め、敵城をこそ目守られけれ。
その後、三木の城内の各々評議して、「敵の人数は、三千四千に過ぎず。城の内に楯籠る士卒、七、八千。まことに、大軍を以て小敵の擒と成る事、無念極まりなし。是非引き出し、一軍し、勝負を決すべき」由議定して、長屋表に取り出、平畠に人数を立つる。平山よりこれを見て、先勢五百ばかり打ち出し、秀吉も物具し給ひ、平山の腰、平みを陣取り、先勢を谷間に下ろさるる。三木方には、室田、穂積、岡村、加藤をけいしへいと定め、先手の見合はせしたりけり。その日の大将は、山城守賀相、長治が舎弟小八郎治定、この両人とぞ聞こえける。鉄砲軍始まれば、「川を渡りて懸からん。」と、馬一面に揃へつつ、轡を鳴らし、ざざめかいて、向かひの岸に乗り付け、勇みかかれる勢、天魔をも退け、波旬をも欺けり。谷に陣取る先勢、錣を傾け待ち懸けしに、その陣へは懸からずし、本陣の山を目に懸けて、打つて上るこそ優しけれ。
秀吉、御覧じて、「今日の軍に勝つべき事は、案の内。走り懸かる敵間、十町に過ぎたり。人馬の息合ひ、限りあり。近々と引き付け、残らず討たん。」と下知しけり。羽柴小一郎秀長、この由を承り、「『人に先を越されじ。』と逸るな、面々。」と人々を諫め置き、一番鑓をぞ入れられける。秀長の人数、一度にばつと切り懸かる。秀吉、続いて込み懸かる。三木方の兵に久米の五郎久勝、志水弥四郎直近、一足も去らず、「大将はいづくにぞ。討死せん。」と名乗りつつ、大勢の中へ割つて入る。されども物の数ならず、この両人も討たれけり。残りの兵ども、向かふをば切り伏せ、逃ぐるをば追ひ討つ。山城、名馬に乗つて引く。小八郎治定、取つて引つ返し、馬よりも下りにけり。樋口の太郎、折り合ひて、細首、宙に打ち落とす。その外の兵ども、城の内まで追つ込み、御元の人の首数を、二、三十討つ取つて、あう、勝鬨上げてぞ引かれける。
その頃、摂津国の守護たりし、荒木摂津守村重、「信長公に対し謀叛して、天下を覆さん。」とや思ひけん、まづ京都より播州への通路を止むる。秀吉、この由聞き給ひ、急ぎ村重が舘に至り、「こはいかに、村重。望みのあらば、秀吉に申されよ。公儀に於いては計らふべし。御身、かく成り上がり、この国の守護と言はるる事、誰が恩とか思ふらん。恩を怨にて報ずるかや。天道のあるならば、後の報ひのいかならん。なう、村重。」と仰せけり。村重、少しも同心の気色、見えざりければ、それより京都に馳せ上り、御人数を引き下し、高槻、茨木の両城、調略を以て御味方と成し、有岡一城に攻め成し、さて播磨への伝ひの城、切所切所に付け並べ、都よりの通路をば、心安うぞし給ひける。
その後、毛利の輝元、小早川の隆景、三木の城見継ぐべき手立てとして、数百艘に舟装ひして、明石の浦魚住に押し上ぐる。軍使には乃美兵部丞、児玉内蔵太輔。その外、紀州、雑賀の士卒、海際に要害構へ、舟引き付けてぞ居たりける。秀吉、この由聞こし召し、「三木と魚住の通路をとどめん。」と思し召し、君が峰を初め、四方八面を囲まれけるとかや。周りの付け城、三十ばかり、その隙々に番屋を立て、塀、柵、乱杭、逆茂木、表には荊棘を引きつつ、裏には堀を掘らせけり。飛ぶ鳥はそも知らず、地を走る獣も、逃れつべうはなかりけり。
城の内にはこの由を見て、「敵の人数、たとひ追々加はるとも、五、六千にはよも過ぎじ。その勢を以て、六、七里の間を囲まれけるこそ不思議なれ。西国よりの兵糧、魚住に着いてあり。いかにもして入れん。」とて、精兵百人すぐつて、弓に手矢を取り添へ、忍びにかかつて魚住へ出し、この者どもを案内者と定めつつ、天正七年九月十日、芸州の住人に生石中務少輔、手嶋一介、並びに紀州の住人、土橋平丞、渡辺藤左衛門を先として、七、八千の士卒を引き、「表は要害厳し。」とて、後ろの方へ廻つて、兵糧を運ばする。
宵よりも出ぬれど、早、明け方に成つて、大村坂へ着きぬれば、合図の狼煙上げさせ、塀柵を切り崩す。三木の面々懸け合はせ、兵糧をば入れずして、谷の大膳亮がへ攻め上がり、数刻防ぎ戦ひたり。大膳は、「外構へを取られじ。」と、乙の丸へぞ下りたりける。先駆けしたる三木の者、あう、早、外構へに押し寄する。大膳、この由見るよりも、大手の門を開かせ、大長刀の鞘外し、勇みに勇んで切つて出、手元に進む兵を、七、八騎薙ぎ伏する。しかれども、大膳が運の尽くる悲しさは、長刀の鍔元、二、三寸置いて、づんど折れて力無し。その後、打物抜き持つて、大勢の中へ割つて入り、数十人に手を負ほせ、刀の刃尽きぬれば、脇指抜いて腹切つて、そこにて討死したりしを、惜しまぬ者はなかりけり。
三木方の兵ども、その儘に引くならば、何もなからん処に、「かさの丸を取らん。」とて、人数をば引かざりけり。秀吉、早々駆け付けらるべき処に、「敵、一手には働かじ。北方の襲ひにて、南方よりの手立て、変はるべき。」と見合はせらるる処に、かくの如くの注進あり。「すはやつ。」と言ふ儘に、風に従ふ旗先、敵陣へさし向け、馬に鞭を荒く当て、一刻に駆け付け、声をどつと掛けにけり。敵も名ある侍にて、「左右なく太刀場を取られじ。」と、面も振らず懸かりけり。
秀吉、御覧じて、「三木の城と大村の間を、押し隔てん。」と思し召し、笠坂の上よりも、すぐに人数を下ろさるる。山城は三千余騎にて、大村前に備へけり。その中へ秀吉、三百ばかりにて御馬を入れ給ひ、割つ立て、追ん廻し、散々に切り給ふ。三木方の者どもは、風に木の葉の散る如く、四方へばつと逃げにけり。そこにて取つて引つ返し、鑓前にて討死する者、二、三百。その中に取つても、別所甚太夫、同三太夫、同左近の将監、光枝小太郎、同名道夕、櫛橋弥五三、高橋平左衛門、三宅与平次、小野権左衛門、砥堀孫太夫、以上、軍の大将。この外、雑兵六百余人討たれつつ、首塚にこそ築かれけれ。その外、撫で切り、打ち捨ては、数をも知らぬばかりなり。
かくていよいよ城の弱るを見て、又、付け城を寄せらるる。南は八幡山、西は平田、北は長屋、東は大塚。城への近さは五、六町、築地の高さは一丈余り。上には二重塀に石を入れ、虎落、掻楯高く結ひ、重ね重ねに柵を築き、川の面に蛇籠を伏せ、簗杭打つて柵掻き、橋の上にも番を据ゑ、渦巻く水の底までも、人の通ひを用心す。内には大名小名の、陣屋を宿屋造りに建てさせ、小路を通し、辻々に門を切り、昼夜によらず往来の、人を選みて通しけり。暗夜になれば、町々の篝火灯明の、光は月の如くにて、数は星に異ならず。秀吉、近習の人々を、六時に分かつて三百人、番屋番屋の名字を書き付け、付け城の主人に、判形据ゑさせ廻されたり。もしも油断の輩は、上下によらず成敗し、重き者をば磔、軽きは誅殺す。人々これを見、舌を震つて恐れけり。
あら、無残や。城の内には、旧穀悉く尽き、既に餓死する者、数千人。初めは糠、藁を食とし、中頃は牛馬鶏犬を殺し食らふ。後には手負死人の、ししむらを割いて食ふとかや。異国の楽羊ならでは、人を食らふさまの、ありとは更に聞かざりけり。
天正八年正月六日、宮の上の要害、調略を以て、秀吉自身乗り込み、その日又、諸軍を寄せらるる。堀際、三町に過ぎず。秀吉、宮の上より下げすみ給ひ、同十一日白昼に、南構へに人数を付け、山下を放火し、秀吉、秀長は、彦之進が持ちし鷹の尾、並びに、山城が構へに駆け入り、敵数輩討つ取り、ここを先途と戦ひたり。敵の士卒は、詰の丸にぞ籠りける。これが譬へかや、神無月、神無月、時雨の雲の立田山、梢まばらに散り果てて、下枝に残る紅葉葉の、嵐を待つに異ならず。
長治、これを見て、舎弟彦之進を近付け、「やあ、何とか思ふ。とてもこの城、久しく保つべきにても無し。『今夜、腹を切らん。』と思へども、敵陣へ案内し、『残る士卒ども、咎なうして与する輩、助けて賜べ。』と、懇望の状を書いて出すべし。いかに。」とありしかば、彦之進承り、「尤も。」と申しつつ、則ち状を調へて、敵陣へこそ出されけれ。
只今申し入るる意趣は、去々年以来、敵対の事、故なきにあらずといへども、今更素意を述ぶるにあたはず。しかしながら、時節到来、天運、既に極まれり。何ぞ臍を食ふに耐へん。長治、並びに同名山城守、同彦之進、両三人、来る十七日申の刻、腹を切るべきに相定め畢んぬ。残る士卒、雑人以下、咎なうして悉く首を刎ねられん事は、不憫の題目なり。御憐愍を以て、助け置かるるに於いては、今生の悦び、来世の楽しみ、何事かこれに過ぎん。この旨、宜しく御披露に預かるべし。よつて恐々謹言。
正月十五日 別所小三郎長治
浅野弥兵衛尉殿へ
正月十五日 別所小三郎長治
浅野弥兵衛尉殿へ
とぞ書かれける。
この旨、則ち披露の処に、秀吉、これを見給ひ、「真に文武二道の侍なり。」と、暫し感じ給ひつつ、「雑兵を助けん。」との返答に添へられ、酒肴用意し、「最後の遊宴あるべし。」とて、城の内へぞ贈られける。
長治は、秀吉の返答を聞き、「あら、嬉しの事どもや。いざ、さらば酒盛せん。」とて、両日両夜の遊山こそ、いつにすぐれておぼえたれ。「嘆きの中の悦びとは、今この事をや申すらん。小蝶の夢の戯れ、槿花一日の栄え。たとひ千年を経るとても、限りなくては叶はず。なまじひに某ら、弓馬の家に生まれつつ、名をくたさじ。」と思ふこそ、げに哀れなる心なれ。「今夜ばかりを名残。」とて、夫婦の人は閨の戸の、とぼそもささで、「十六夜の、月やあらぬ。」と来し方を、思ひ出つつ諸共に、十四十五の春よりも、はかなき契りを結び初め、連理の枕、水鳥の、鴛の衾の下に只、起き臥し馴れし呉竹の、世は定めなき習ひとは、知らざりけるぞ愚かなる。
暫しまどろみて、明けければ十七日早朝に、起き出、行水し、香を焚き、髪を上げさせ、日長けければ、彦之進を召し寄せ、「山城に使を立て、『兼日に定むる如く、今日申の刻、生害あるべし。』と申せ。」彦之進承り、この旨、山城に言ひ渡す。山城返答には、「我等両三人、腹を切り、諸卒を助けて何にかせん。城の内を焼き破り、諸共に炎と成つて、骸骨を蔵すべし。」とぞ申しける。城の内の者ども、この由を聞くよりも、「すはや、山城、先約を変ずるぞ。山城一人の覚悟にて、残党を殺さんとや。」諸卒は皆、一統したる事なれば、「山城を討たん。」とてこそ寄せにけれ。山城、櫓に上がつて、「火を掛けて焼き崩さん。」としけるを、家来の者も敵なれば、首を打つてぞ出しける。
長治はこれを聞き、「元よりも覚悟の前。我等一類の末後、この時に期したり。」と、三歳のみどり子を、膝の上に舁き乗せ、「あら、果報つたなの事どもや。かかれとてしもうばたまの、この黒髪は撫でずして、『一筋を、千筋に成れ。』と願ひ来し、その行く末を引き替へて、あまつさへたらちねの、手にかかる事の無残さよ。」と、心の猛き長治も、暫し涙にむせびけり。「かくては叶はじ。」と思ひ切り、腰の刀を引ん抜いて、心元を一刀。「あつ。」とばかりを最後にて、朝の露と消えにけり。女房がこれを見て、「自害をせん。」としたりしを、長治は見るよりも、取つて引き寄せ刺し殺し、同じ枕に押し臥せ、衣引きかづけ置かれけり。
友之が女房も、同じ如く生害し、「今は思ひも残らず。」と、兄弟はうち連れて、表をさしてぞ出にける。さて客殿の縁の板に、畳一帖敷かせつつ、左右に居直りて、皆人々を召し出し、「暇乞をすべし。」とて、気色を違ヘずにつこと笑ひ、「この三年が間の籠城を、相届くる志の切なさは、海よりも深く、山よりも猶高し。いづれの日かこの恩を、報ぜんと思ひ来し、その甲斐もなくして、かく成り果つる無念さよ。さりながら、某等両三人が生害し、さて各々を助くるこそ、嬉しかりける次第なれ。さらば方々、最後の名残、これまで。」と、脇指取つて直し、弓手にがばと突き立て、妻手へさつと引き廻す。
三宅肥前治忠入道、首をちやうど打ち落とし、治忠が申しやうこそ哀れなれ。「このさき、御恩に預かる人は多けれど、この度の御供を、申す人は更に無し。某も、『当家譜代の年寄。』と言ひながら、述懐の子細あり、出頭にも及ばず、ある甲斐もなくして、人がましき事なれども、御介錯のあらざれば、御供申す。さらば。」とて、腹切つて死んだりけり。友之、この由見るよりも、「あつぱれ、清き自害かな。友之も腹切つて、名を後代にとどむべし。皆、見給へ。」と言ふ儘に、腹十文字に切り破り、臓腑をくつて捨てにけり。長治、年は二十三、友之は二十一、惜しむべし、惜しむべし。さて山城が女房も、「自害をせん。」と思ひ切り、男子二人、女子一人、三刀に刺し殺し、剣を含み、死にたるは、哀れなりける次第なり。
翌日には、城の内の者どもを出し、悉く助けられたり。その中に小姓一人、短冊を持つて来る。読みて見れば辞世なり。まづ長治歌に、かくばかり。
今は只恨みもあらず諸人の命に替はる我が身と思へば
同友之。
命をも惜しまざりけり梓弓末の代までの名を思ふとて
三宅治忠入道も。
君なくは憂き身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも
と、かやうに詠ず。げにも文武の誉れ、名の下、豈空しからんや。
秀吉は、別所三人の首を京都へ上せ、信長公の御実検に供へ、播州にては、御着、志方、魚住、この城々を同時に攻め伏せ、但馬一国、一遍に属す。備前、美作、この先に一味せり。その外、西国、四国、懇望の使札、日々に到来の旨、上聞に達す。武勇と言ひ調略と言ひ、比類無き由、御感状。まことに弓矢の面目、何事かこれに如かんや。その後、秀吉、三木の城に移り、地を清め、堀を浚へ、今度退散する人民を引き直し、法度を定め、「当国の面々は言ふに及ばず、但州、備州の諸侍、着到の旨に任せ、在城すべき」由、厳重の間、人々、屋敷を構へ、門を並べ、日を経ざるに、数千軒の家を建つる。皆人、耳目を驚かす。
或る人の曰く、「秀吉に十徳あり。君に忠心あり、臣に賞罰あり、軍に武勇あり、民に慈悲あり、行ふに政道あり、心に正直あり、内に智福あり、外に威光あり、聴くに金言あり、見るに奇特あり。」若輩の時よりも、人間抜群の主人。猶行く末の繁昌、仰がぬ人はなかりけり。
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