本能寺
(毛利家本)
さても右大将信長公、上洛ましましてより、諸臣に棟梁し、帝道に塩梅たりし事、年久し。その頃、江州安土山に城郭を構へ、東西の甍、南北の台、金殿紫閣は天上の雲に連なり、玉楼粉墻は湖水の浪に輝く。その地の美麗は、譬へて言ふに足らず。或いは数百もとの鷹を集め、山野に狩場の遊びを成し、或いは若干の馬を揃へ、都に於いて馬場の興を尽くし給ふ。中に就いて、甲斐、信濃両国の守護、武田の四郎勝頼、年頃の愁訴あり。これによつて、御嫡男秋田の城介、信忠の卿を大将とし、徳川三河守家康を先勢と定め、駿河、甲斐、信濃の凶徒を切り従へ、武田四郎勝頼、同嫡子の太郎信勝が首を打つて、三ヶ国平均に属し、御馬をこそは入れられけれ。
さて羽柴筑前守秀吉は、さる天正六年、播州に下り、別所を退治してより以来、西国征伐の軍使を承り、備前、美作の守護、宇喜多を手に属し、播磨、但馬、因幡、都合五ヶ国の人数を引率し、天正十年三月十五日、備中の国、冠が城に押し寄する。「城の固め、敵の備へ、左右なく打ち寄すべき要害にあらず。しかるにこの城に於いては、たとひ人数を損ずといふとも、二つなく攻め破り、西国の響きと成すべき」由、相定めさせ給ひけり。これによつて、杉原七郎左衛門、仙石権兵衛尉、荒木平太夫を先として、かの表、肝要にふまへたる水の手に押し寄せ、則ち水をぞ止めたりける。秀吉、大儀に感じ給ひ、両三人に、御馬をこそは下されけれ。城内より、取り取り懇望を致すといへども、万牛五丁の攻めを成し、即時に乗り込み、悉く首を刎ねらるる。時日を移さず、又、河屋が城を取り巻く。かの城主、敵軍の勢ひを見て、毛利家の援兵を待たず、掻楯を下ろし、兜を脱ぎ、降参をこそ致しけれ。
その後又、高松の城にうち寄せて、辺りの体を見給ふに、三方は沢沼にて、かつて人馬の通ひ無し。一方は大堀を構へつつ、毛利家より、久しく相拵ふる処にて、要害、殊に堅固なり。たとひ大軍、取り巻いて日を送るとも、たやすく力攻めには成りがたし。さる間秀吉、暫く工夫し給ひ、「水攻めにすべき」由、相定めさせ給ひけり。城の周り二、三里の間に、山と等しく堤を築き、堤の裏には、大木を以て柵をかけさせ、大河小河の水上を、尋ねさせ給ひて、山を掘り、岩石を切り抜き、池の辺の溜り水、田井の流れを濫觴とし、悉く堰きかけ、忽ちかの地を、一つの湖と成せり。堤の上には、付け城数ヶ所拵へ、大舟を作り、筏を絡組み、敵城の乙の丸に攻め込み、合壁屋宅引き払ひ、甲の丸、一つと成る。城内の者どもは、水の漲るに従つて、大木の梢に床をかき、板を絡む。浪に漂ふ舎宅は只、舟の人たるに異ならず。籠の内の鳥とかや、網代の魚の如くにて、遁れん方はなかりけり。
しかるに秀吉の御陣所、五町十町の間引き隔て、後詰のそのために、一万余騎を備へらる。毛利右馬頭輝元は、小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春を近付け、「かの高松の城、救ひを成さでは叶ふべからず。備中表に於いて、是非骸を曝すべし。」とて、分国十ヶ国の人数、五万余騎を引率し、備中の国高山の向かひ、釈迦が峰、不動が嶽を陣取る。敵相、十町に過ぎず。故に双方、即時に相懸かるに及ばず、数日をこそは送られけれ。ここに於いて秀吉、「かの後詰の人数に切り懸かり、雌雄を決すべし。しからば当日、西国の限り、一遍に属すべき」の旨、安土に至つて使者を立て、上意を得給ふの処に、信長聞こし召し、「卒爾の合戦、しかるべからざる」の由、御下知仰せあり。
やがて右大将も、御嫡男信忠の卿を相具し、御上洛ましまして、「惟任日向守光秀を、加勢としてさし下され、秀吉と相談を遂ぐべし。合戦の手立てによつて、御動坐あるべき。」との御諚なり。惟任、常よりも、気色を良うして御受けを、申すやうこそゆゆしけれ。「今度、西国の強敵によりて、秀吉に加勢を成し、粉骨を尽くすべきの御諚こそ、何より以て面目なれ。いよいよ忠勤を抜きん出奉り、御恩賞に預かるべし。」と申しつつ、やがて御前を罷り立ち、さて備中へは下らずし、ひそかに謀叛を巧みけり。「しかしながら、当座の存念にあらず。年来の逆意なり。」とぞ聞こえける。いかが思ひけん、五月二十八日、愛宕山へ登り、一座の連歌を催す。則ち光秀、発句に曰く。
時は今天が下しる五月かな
今、これを思ひ合はすれば、まことに謀叛の先兆なり。何人か、かねてこれを悟らんや。
しかるに天正十年、六月朔日夜半より、一万余の人数を引き、丹波の国亀山をうつ立ち、四條西の洞院本能寺、右大将の御所へぞうち寄せたる。あら、いたはしや。信長は、この事をば、夢にも知ろし召されず。宵には御嫡男、信忠の卿を近付け給ひ、いつよりも親しく、若輩の時よりの、昔語りをし給ひつつ、只今、互の栄華の程を悦び、明日の最後をば知ろし召されず。行く末長久の、楽しみを思ひ給ふこそ、はかなかりける次第なれ。又、村井入道、近習の小姓その外を、召し集めさせ給ひつつ、御憐愍の御言葉をかけ給ひ、夜も更けぬれば信忠は、御暇乞ひましまして、妙覚寺に御帰りある。その後信長は、閨の内に御入りあり、常に御寵愛の、人々を召し寄せて、鴛鴦の衾、連理の枕、夜半のささめごと。これやまことに、しゆんふんがくわいあんごくの楽しみ。「盧生が邯鄲の枕も、げに夢の世の夢なり。」とは、後にぞ思ひ知られたる。
惟任は小間、途中に控へ、先駆けとして明智弥平次、同勝兵衛、同次右衛門、孫十郎、斎藤内蔵助、その外の諸卒を四方に分かち、御所の周りを取り巻きけり。夜も明けぐれを見計らひ、門木戸を打ち破り、合壁を引き毀し、一度にざつと乱れ入る。信長の御運の尽くる処は、この頃天下静謐の條、御用心もましまさず。国々の諸侍、或いは東国警固のために残し置き、或いは西国の御出勢とかや。又、織田の三七信孝は、四国追討のために、惟住五郎左衛門、蜂屋伯耆守を相加へ、和泉の堺の津に、舟揃へしてぞおはしける。その外の諸侍、西国御動坐、御供申すべき用意のために、無人の御在京なり。たまたま御供の人々も、洛中所々にうち散り、やうやう小姓衆、五十余人には過ぎざりけり。
信長、夜討の由を聞こし召し、森の蘭法師を召して、事の子細を尋ね給ふ。蘭法師、承り、「惟任が謀叛」の由を申し上ぐる。信長、この由聞こし召し、「それ南山の春の花は、逆風、之を散らし、東嶺の秋の月は、狂雲、之を蔵す。千歳の松も、斧斤の厄を免れず。又、怨を以て恩に報ずる、ためしの無きにしもあらず。何ぞ今更、驚くべけんや。まづ敵の案内を見ん。」とて、広縁さして出給ひ、向かふ兵五、六人、手の下に射伏せ、後には十文字を押つ取つて、敵数輩かけ倒し、門外まで追つ散らし、数ヶ所の御疵を蒙り、御座をさして引き給ふ。森の蘭法師を始め、湯浅甚介、落合小八郎、大塚又一郎、薄田与五郎、高松虎松等は、常に御傍を、離れざる面々なり。これによつて、一番に取り合はせ、同じ如くに名乗つて出、一足も去らず、枕を並べ討死す。続いて進む人々は、中尾源太郎、狩野の又九郎、菅屋角蔵、矢代勝介、針阿弥。この外の兵ども三十人ばかり、思ひ思ひの働きにて、一旦防ぎ戦ふといへども、大勢に攻め立てられ、悉く討たれけり。その時信長、御殿には、手づから火をかけさせ給ひつつ、御腹召されたりけるは、ためし少なき次第なり。
村井入道春長軒は、御門外に家あり。御所の震動するを聞き、初めは、「喧嘩か。」と心得、物具取りあへず走り出、「相鎮めん。」と思ひ、これを見れば、惟任が人数、一万ばかりにて取り巻きけり。「あら、思ひ寄らずの事どもや。」さてあるべきにてあらざれば、信忠の御陣所、妙覚寺へ馳せ参じ、この旨、「かく。」と申し上ぐる。信忠聞こし召し、「是非本能寺へ駆け入り、諸共に腹を切るべき」由、詮議あり。しかるに敵軍、重々堅固の囲み、真に咫尺千里なり。空を翔ける翼ならでは、内へ入るべきやうもなし。
信忠の御諚には、「当寺は、腹を切るべき所にあらず。いづくにか心静かに、生害すべき所のある。」と御尋ねありければ、春長軒、承り、「忝くも親王の、御方の御座まします、二條の御所へ移り給ふべし。」とて、御所へ案内を申し、春宮をば輦にして、内裏へ移し奉り、信忠、わづか二、三百ばかりにて、二條の御所へ入り給ふ。信長の御馬廻り、惟任に隔てらるる残党、二條の御所へ、馳せ加はる者五、六百。御前にこれある人々は、御舎弟の御坊、織田の又十郎、村井入道父子三人、団の平八、菅屋九右衛門父子、福住平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎、赤坐七郎右衛門、斎藤新五、津田の九郎次郎、佐々川兵庫、毛利新介、塙の伝三郎、桑原吉蔵、水野九蔵、伊丹新三、小山田の弥太郎、春日源八、桜木伝七郎、山口をべん。この外、歴々の諸侍、一筋に思ひ切つて、惟任が寄せ来るをぞ待ちかけたる。
惟任は、右大将に御腹を召させ、御殿の火焔と成るを見て、安堵の思ひを成し、「信忠、二條の御所に、楯籠り給ふ」由を聞き、武士に息をも継がせず、二條の御所へ押し寄せたり。御所には勿論、覚悟の前。大手の門を開かせ、弓鉄砲を前に立て、内に控ふる兵ども、思ひ思ひの得道具持ち、あう、前後を鎮めて居たりけり。惟任が先駆けしたる兵ども、面も振らず懸かりけり。前に立てたる弓鉄砲、差し取り引き詰め散々に打ち退け、たじろぐについて出、追つ払ひ、押し込まれ、数刻防ぎ戦うたり。寄せ手は六具をさし堅め、新手を入れ替へ攻め懸かる。味方は素肌に帷子一重、心は剛に勇めども、長鑓、長刀、大打物、刃を揃へて攻め入れば、ここにては五十人、かしこにては百人、残り少なく討ちなされ、御殿間近く詰め寄せたり。
信忠御兄弟は、御腹巻を召され、御傍の面々も、百人ばかり具足を着、信忠、一番に切つて出させ給ひ、明智孫十郎、杉丹の三右衛門、加成清次、この三人に渡り合ひ、火花を散らし、切り結び、孫十郎を切り伏せ、清次、三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近習の面々も、力の限り切り合ひ、内に攻め入る敵の人数、悉く追ひ払ひ、最後の合戦、残る処もなかりけり。信忠は御覧じて、「いつまでかくてあるべき。」と、御殿の四方に火をかけ、真中に取り籠り、腹十文字に切り給ふ。その外の精兵も、思ひ思ひに腹切つて、一度に焔と成りにけり。信長、御歳四十九、あう、信忠は二十六。「悼むべし、惜しむべし。」と、上下、袂を絞りけり。
ここに濃州の住人、松田の平介一忠といふ者あり。その夜は辺土にあつて、御所への夜討の由を聞き、走り来てこれを問へば、「惟任が逆心によつて、右大将御父子、御腹を召さるる」由を申す。一忠、この由聞くよりも、「あら、いたはしの御事や。某、不肖の者といひながら、数年召し使はれし報恩のために、追腹を切らん。」とて、妙顕寺に走り入り、本堂の内にして、硯筆を取り出し、一首の辞世、かくばかり。
その際に消え残る身の浮雲も終には同じ道の山風
かやうに詠じ、又、参学に心を染めし故により、一句の偈を作つて曰く。
手に活人三尺の釼を握つて 即今截断す尽乾坤
と、かやうに書き置き、腹切つて死んだりし、一忠が心中を、褒めぬ人こそなかりけれ。
惟任は、洛中を鎮め、西の岡勝龍寺の城に、明智勝兵衛を残し置き、その日の午の刻、坂本の城に至る。安土の御所には、この由を聞き、前夫人、後夫人、東西の局々の思ひ人、雑人に至るまで、かち裸足にて、皆散り散りに成りにけり。信長御在世の御時は、只仮初の往還にも、鸞輿、飾車、千乗万騎の驂にて、美々しき粧ひを引き替へて、愁苦辛勤の有様、譬へば唐の玄宗の、楊貴妃、安禄山が謀り事に、蜀道の難を凌ぐ悲しみ。楚の項羽の虞美人、漢の高祖の戦ひに、烏江の浪に漂ひしも、これにはいかでまさるべき。さて惟任は、安土山に移り、長浜、佐和山へ人数を遣はし、江州一辺に相従へ、六月十日、坂本の城に帰陣す。
しかれば備中表、秀吉の御陣には、六月三日夜半ばかりに、ひそかに注進状あり。開いてこれを見給ふに、信長御生害の御事なり。則ち、使を近付け、事の子細を尋ね給ふに、ありのままに申し上ぐる。秀吉、この由聞き給ひ、左右眼に涙を浮かべ、「あら、あからさまなる事どもや。『叢乱、茂せんとすれば、秋風、之を破り、王者、明らかならんとすれば、讒臣、之を覆ふ。』人を知るを以て、良将と名付けたり。これ程無道なる光秀を、右大将の御存じなき、心の程こそ愚かなれ。秀吉、都にあるならば、かかる謀叛は、よもせさせじ。たとひ御父子を討ち奉るとも、その時日を移さず、逆徒の首を刎ぬべきに、その甲斐もなき無念さよ。よしよし、時刻は移るとも、惟任が首を切つて、信長公の御弔ひの、香供に供ふべき。」と思ひ切つて、少しも愁傷を、色にも出し給はず。いよいよ陣を張り、寄せ給ふ。
日畑の要害その外、現形する城々をば引き付け、「高松一城をば、是非攻め果たすべし。」と思ひ定め給ふ。しかるに、「信長の御事、隠すとすると、諸陣へ洩れ聞こえて、騒ぐ輩もあるならば、悪しかりなん。」と思し召し、秀吉、心中の動ぜざる処を、諸卒に知らせんため、狂歌を詠みてぞ触れられける。
両川の一つに落ちて流るれば毛利高松も藻屑にぞ成る
「この返歌をせざらん者は、臆病者。」とかけられて、皆返歌をぞせられける。まことに狂言綺語なれど、「諸卒を勇めん謀り事、尤も。」とこそ聞こえけれ。
その後、高松の城より降参して、当構への大将、並びに芸州の加勢、「腹を切り、雑兵をば助けらるべき」由申すにより、舟を遣はし、検使を立て、名ある者どもをば、皆腹を切らせ、雑兵をば助けられたり。この時、敵陣へ使者を立て、安国寺の西堂を招き寄せ、事の子細を述べ給ふ。「毛利家分国の内、備中、備後、伯耆、出雲、石見、この五ヶ国をこの方へ渡し、幕下に属するに於いては、和睦せしめ、向後、互に入魂すべき」條々なり。安国寺、やがて御受けを申し、五ヶ国並びに人質、誓紙を進ぜらるる。これによつて、まづ毛利家の陣を払はせ、秀吉は心静かにもてなし、六月六日未の刻、備中表を引き退き、備前の国、沼の城にぞ着かれける。
七日には大雨、天をくらまし、疾風、地を動かす。数ヶ所の大河、水漲つて、真に巨海の如し。しかれどもその日、二十里ばかりの難艱を凌ぎ、播州姫路に至つて着陣たり。諸卒揃はずといへども、九日に姫路を立ち、明石の浦に、一夜の陣をぞかけられける。その頃、淡路の凶徒ら、雑賀舟を引き付け、海賊してぞ居たりける。秀吉、この由聞き給ひ、「我上洛の後々の、通路の妨げせられじ。」とて、兵船を揃へ、浅野弥兵衛、仙石権兵衛尉、生駒甚介、明石与四郎を遣はされ、淡路嶋、洲本の城を取り巻き、凶徒を従へ給ふ。秀吉は、摂州富田に陣を据ゑ、先手の人数、天神の馬場まで取り続け、惟任が手立てをこそは目守られけれ。
惟任は、秀吉着陣の事をば、夢にも知らず。勝龍寺の西、山崎の東口に陣を据ゑ、「秀吉は、西国に於いて釣り留まるの條、きつと摂州に働きを成し、播州に乱入すべし。しからば秀吉敗軍、程あるべからず。国境に於いて、悉く討ち果たすべき」評議半ばに、秀吉、昨日富田に着陣の由、注進あり。惟任、案に相違して、俄に手立てを改め、人数を立て直し、一戦に及ぶべき、覚悟をこそは定めけれ。
秀吉の人数、備前、備中に相後れ、五、六千には過ぎざりけり。しかりとは申せども、究竟の兵なり。秀吉、「この弔ひ合戦の、思ひの太刀、ここなるべし。味方の人数は三筋に分け、川手、山手を箕の手に廻し、秀吉は中筋。」勇み懸かれる勢ひ、譬へばはし鷹の、野鳥に遇ふが如くなり。惟任、これを見て、人数二万ばかり、段々に立て並べ、数刻防ぎ戦うたり。中筋の旗手は、風に従ふ雲よりも、猶速し。左右の人数、一度にばつと切り懸かる。鬼神、天魔、波旬も、何かは以て堪るべき。追ひ崩されて逃げにけり。
惟任が近習一万ばかり、一手に固まり、勝龍寺に楯籠る。散り散りに逃ぐる者をば、或いは久我縄手、或いは西の岡、桂川、淀、鳥羽まで、追つ詰め追つ詰め首を取り、丹波の道筋へも入り切り、落つる武者をば、一人も逃さずこれを討ち、則ち勝龍寺へ人数を寄せ、惟任が落ち行くべき、道筋を取り切りて、悉く取りひしぐべき、手立てとこそは見えにけれ。惟任は、先非を悔ゆといへども、還らず。聖人の諺に曰く、「一朝の怒りにその身を忘れ、その親に及ぼす。惑へるにあらずや。」と。思ひ続けて思ひ川、絶えず流るる水の泡の、うたかた人の世の中の、因果は車輪の如くにて、昨日滅ぼす主君のため、今日は我が身の上と成る、報ひの程こそはかなけれ。
さりながら、「まづ一旦、坂本の城に楯籠り、時刻を待つべき」工夫を成し、夜半ばかりに、近習五、六人にこの由を知らせ、城の内を忍び出る。寄せ手は昼の合戦に疲れ、鎧の袖を片敷き、干戈を枕とす。その隙を窺ひ、元よりこの所の、案内をば知つつ。大道をば通らずして、田の畔伝ひ、薮原の細道、悪虎の尾を踏みながら、毒蛇の口を逃れつつ、囲みをこそは出にけれ。城の内には、惟任が落つるを聞き、「我先に、我先に。」と崩れ出て、或いは鬨に寄せ合はせ、或いは待ち伏せに行き当たり、残り少なく討たれたり。又、明智弥平次は、安土の城に居たりしが、惟任敗軍の由を聞き、かの山を焼き払ひ、二千余の人数を引き、「惟任に馳せ加はらん。」とや思ひけん、大津を指して、打つて上りしが、堀久太郎に行き合ひ、やがて追つ立てられ、小舟に取り乗り、坂本の城に楯籠る。
勝龍寺に寄せ手の人数は、惟任が後を慕ひ、山科、醍醐、逢坂、又、吉田、白川、山中、方々へ追つかくる。その夜は雨、車軸を流し、物あひそれとは見えねども、落武者とおぼゆるをば、皆闇討ちにぞしたりける。秀吉はその翌日、三井寺に至り、諸口より討つ取り来る首、悉く実検し給ふ中に、惟任が首あり。秀吉、これを見給ひ、「やあ、いかに、惟任。汝が悪逆の積もり、某が忠勤の志、天命に顕はれたり。」と、御喜びは限り無し。明智弥平次は、この由を聞くよりも、惟任が一類、我が身の眷属、悉く刺し殺し、腹切つて死んだりし。弥平次が心中、褒めぬ人こそなかりけれ。
さて秀吉は、大津より安土に至り、当国にて叛逆の輩、悉く誅伐す。中にも阿閉淡路守、同子息孫五郎、惟任が一味して、北の郡に居たりしを、一柳一介を遣はされ、阿閉が一類を、磔に上げられたり。それより尾州、濃州に相働き、清洲の城に御馬を立て給ひ、今度未落居の面々をば、悉く改め、忠勤の輩には領知を与へ、国家を鎮むべき法度を定め、都へ上り給ひけり。しかるに惟任が首をば、死骸を尋ね、首を継ぎ、粟田口に磔に上げ給ふ。京童がこれを見て、落書をこそは立てにけれ
主の首切るより早く討たるるはこれたうばつを当たるなりけり
残る凶徒の頸をば、千七百余級、信長公の御腹を召されし、本能寺の内に、首塚に積み給ひ、御孝養に供へらるる。
「この上は御葬礼を、執り行はでは叶はざる儀。」と思し召し、十月初めより、紫野大徳寺に於いて、一七日の法事を催し、一万貫の施物をこそは成されけれ。さて御葬礼の次第は、沈香を以て仏像を作らせ、龕の中へ入れ給ひ、金沙金襴の飾りを成し、宝珠を垂れ、金銀を鏤め、七宝の荘厳は、目を驚かすばかりなり。蓮台野には火屋を作り、方百二十間の四門に、白綾の幕を張り、秀吉御分国の大名小名、悉く馳せ集まり、その外、貴賤の輩は、所せきなく見えにけり。秀吉、心に思し召す。「信長公の御供は、これまでなり。」と思し召し、御色を召されて、不動国行の御太刀を、みづから持たせ給ひつつ、御輿のその後に、涙を押さへて御供あり。これを見る人々、「尤も、かうこそあるべけれ。」と、上下万民押しなべて、皆涙を流しけり。
秀吉は、かやうに信長公の、報恩の御ために、御忠義を尽くされしに、惟任は引き替へ、御孝恩を蒙り、栄華に誇り、楽しみを極めしに、長久をば願はずして、何ぞや故なく、信長公を討ち奉る事、天罰を逃れがたし。六月二日に信長を害し奉り、同じき十三日に、彼が頭を刎ねらるる。まこと、因果歴然とかや。秀吉、備中表にて、武勇を励まし、籌策を巡らさずは、いかでか速やかに惟任を退治し、この本意を達せんや。
大国のためしにも、「楚の懐王を、都の関門に入れん。」とて、項羽、高祖、二人の臣下、これを守護し奉り、秦の世滅ぼし、懐王をいつきかしづき、崇め申したりしに、項羽、無道の臣下にて、「懐王を討つて、都をしらん。」とぞしたりける。高祖、これによつて、七十余度の合戦に、終に高祖打ち勝ち、項羽を滅ぼし給ひて、漢下数百年の天下を、保たせ給ひけるとかや。「しかるにそれは、七十余度の戦ひ。秀吉は月を越えず、怨を覆し給ふ事、まことに一世の冥加、末代の亀鏡なり。」と、感ぜぬ人はなかりけり。
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