「大織冠」の内
しかるにかの姫君の、優に優しき御形、譬へを取るにためし無し。桂の眉は青うして、遠山に匂ふ霞に似、百の媚びある眼先は、夕陽の霧の間に、弓張月の入る風情。翡翠の髪ざしは、黒うして長ければ、柳の糸を春風の、けづる風情に異ならず。
(彰考館幸若安信本)
帝叡聞ましまして、あら恥づかしや。包むに堪へぬ花の香の、洩れても人の悟りけるか。今は何をか包むべき。これよりも東海数千里、日本奈良の都に住む、大織冠が乙姫を、風の便りに聞くからに、見ぬ面影の立ち添ひて、忘れもやらでいかがせん。
(曲節集)
都を立つて大唐の、明州の湊より、一葉の舟に棹をさし、追手の風に帆を上げて、数千万里を送りけり。
(毛利家幸若安信本)
玉に於いては奪ひ取つて、参らすべしと申して、日本と唐土の潮境、ちくらが沖に陣を取り、万戸が舟を待ちにけり。
(幸若正信本)
さればにや、龍宮の乙姫に、こひさい女と名付けて、並びなかりし美人たりしを、見目美しく飾り立て、うつほ舟に作り籠め、浪の上に押し上ぐる。これをば知らず万戸は、順風に帆を上げ、心のままに吹かせ行く。海漫々としては又、波上沈々たり。碧天の沖ぬく風、浩々としては又、いづれの木草にか声宿さん。頭なし大河原きとの嶋、諸見の嶋もめい嶋、薩摩の国に鬼界が嶋、壱岐の本堀対馬の内院、事ゆゑなく走り過ぎ、九国の地をば弓手に見て、讃岐の国に聞こえたる、房崎の沖を通りけり。
(彰考館幸若安信本)
龍女はいとど憧れて、あら恨めしの人の言葉や。野に伏し山を家とする、虎狼野干の類さへ、情けはあるとこそ聞け。みづからと申すは、契丹国の大王の、いつきの姫にて候なるが、或る后の讒により、うつほ舟に作り籠め、滄波万里へ流さるる。たまたま奇特、不思議に人倫に会ひたれば、さりともとこそ思ひしに、何の罪の報ひに、憂き海底に沈むべき。恨めしさよと掻き口説く。
乱れ髪を伝ひて、涙の露のこぼるるは、貫く玉の如くなり。霜を置いたる女郎花、下葉しをるる風情し、西施がやさうに捨てられて、引敷物には袖し濡れ、干す日の無しと侘びけるも、今こそ思ひ知られたれ。桂を描きし黛、蓮を含む唇、百の媚び増す愛嬌、浪と涙にうち濡れ、もの思ふ人の風情かや。うちむつけたる御有様、よその見る目もいたはしし。
(幸若正利本)
誰そや夢見る折からに、うつつとも無き言の葉は、夢の浮世のあだなれば、人の言葉も頼まれず。夜の間に変はる飛鳥川、水粒の泡の仮初に、風に消えぬる言の葉の、末も通らぬもの故、あだ名立ちては何かせむ。中々人には初めより、問はれぬは恨みあらばこそ。
(彰考館幸若安信本)
その徳今に顕はれ、仏と成り給へり。たとひ一度は瀧の水、濁りて澄まぬものなりと、終には澄みて清からん。恋には人の死なぬか。さても空しく恋ひ死なば、一念五百生、繋念無量劫。生々世々の間に、尽きせぬ恨みの深うして、共に蛇身と成るならば、仏には成らずして、蛇道に永く堕つべし。
(曲節集一本)
昔上代の、大智恵の人だにも、家を出て妻子を捨て、法のために難行す。悉達太子は高位なる、万乗の位を振り捨て、わりなく契り深かりし、耶輸陀羅女をよそに見、十九にて出家を遂げ、檀特山の法霊、阿羅邏仙人を師と頼み、鷲の御山の霊峯に、薪をこり身を焦がし、山谷に掬ぶ閼伽の水、氷のひまを汲む度に、涙は袖の氷柱と成る。夜は又夜もすがら、仙人の床の上にし、座禅の床の布団と成り、かかる辛苦の功を積み、まさしく釈迦と成り給ひ、三界の独尊、四生の依怙とましまして、一大聖教を説き広め給ふなり。
ここを以て案ずるに、煩悩即菩提心、生死即涅槃とて、妻子を帯し候ひて、仏と易く成るならば、などや太子釈尊は、王の位を振り捨てて、后を厭ひ給ひけむ。その外証果の羅漢達、いづれか妻子を帯して、仏と成りし人やある。さても仏の御弟、難陀太子と申ししは、習気煩悩尽きずして、女人を帯し給ひしを、かくては仏に成らじとて、仏方便巡らして、浄土地獄の有様を、即身に見せ奉り、終に出家を遂げさせて、難陀比丘とぞ成し給ふ。
(幸若正信本)
鎌足旅の一人寝、床も寂しき事なれば、ここにて日をや重ねけむ。寝ねがたけれども姫松の、早浦風にうち靡く、難波もつらき浦ながら、そよよしあしと言ひ語りて、二人あればぞ慰みぬ。うき寝の床の楫枕、浪のよるにも成り行けば、友もなぎさの小夜千鳥、吹きしをれたる浦風に、声を比ぶる浪の音。洲崎の松に鷺あれば、梢を浪の越ゆるに似て、塩屋の煙一結び、末は霞に消え匂ひ、夢路に似たるうたかたの、浪の越し舟幽かにて、から艪の音の遠ければ、花に鳴く音の雁がねか。我も都の恋しさに、声を比べて泣くばかり。憂き身ながらも槙の戸を、あけぬ暮れぬと過ぎ行けば、三年に成るは程も無し。
(三浦氏幸若安信本)
海女人承り、なう、こはまことにて御座候か。あら恥づかしや。四海に御名隠れも無き、かかる貴人に、親しみ申しける事よ。一つは冥加尽きぬべし。一つは白女下賤にて、肌は浪の荒磯。立ち居は磯の流れ木。声は荒磯に、砕くる打つ瀬浪の音。髪は八潮に引き乱す、つくもの如くなる身にて、都の雲の上人に、起き臥し一つ床にして、見見えぬるこそ恥づかしけれ。如かじ只身を投げて、死なむとこそは口説きけれ。
(三浦氏幸若安信本)
空しき死骸を取り上げ、諸人の中にこれを置き、一度にわつと叫ぶ。鎌足御覧じて、玉は取り得ぬ物ゆゑに、二世の契りは尽き果てぬ。胸の間に疵あり。大蛇の裂けるのみならずと、怪しめ御覧ありければ、その疵の中よりも、水晶の玉出させ給ふ。大蛇の追ひかけし時、剣を振ると見えしが、防がんためになくし、玉を隠さんそのために、我が身を害しけるかとよ。せめてこの疵を、我が身少し負ひたらば、か程に物は思ふまじきを。女ははかなき有様かな。夫の命を違はじとて、命を捨つるはかなさよ。灯し火に消ゆる夜の虫は、妻ゆゑその身を焦がすなり。笛に寄る秋の鹿は、はかなき契りに命を失ふ。それは皆々執愛恋慕の、わりなき契りとは言ひながら、かかる哀れは稀なるべし。我には二世の機縁なれば、又来ん世にも相見なん。汝は今こそ限りなれ。別れの姿をよく見よとて、いとけなき若君を、死骸に押し添へたりければ、死したる親と知らぬ子の、この程母に離れつつ、たまに会うたる嬉しさに、空しき乳房を含みつつ、母の胸を叩くを見て、上下万民押しなべて、皆涙をぞ流しける。
(曲節集)
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