「百合若大臣」の内

 その外末社の部類等は、皆この神の惣社たり。神の本地を仏とは、よくも知らざる言葉かな。根本地の神こそ、仏と成らせ給ひつつ、衆生を化度し給ふなれ。それはともあらばあれ。そも我が朝と申すは、欲界よりはまさしく、魔王の国とあるべきを、神みづから開き、仏法護持の国と成す。大魔王、他化自在天に腰を掛け、種々の方便巡らして、いかにもして我が朝を、魔王の国と成さんと、巧むによりて則ち、天下に不思議多かりき。
(幸若正利本)

 一つは国家を守らんため、又氏子を守護せんため、我が氏子氏子、形に影の添ふ如く、先に立つてぞ守らるる。さて神達の儀によりて、神風涼しく吹きければ、筑紫に陣取るむくりども、この由を承つて、今度はまづまづ引けやとて、四万艘に取り乗つて、むくり国へぞ引きにける。さてこそ天下も穏やかに、国もめでたくおはしませ。
(曲節集一本)

 烽火大鼓を奏すれば、身の毛もよだつばかりなり。卯月半ばに大臣は、早御座舟に召されけり。御台名残を惜しみて、同じ舟にと宣へども、思ひ寄らずと宣ひて、押しこそとどめ給ひけれ。さて舟どもの艫舳には、五色の幣をはぎ立てて、神風涼しく吹きければ、魔縁魔界も恐るべし。昔の譬へを引く時は、神功皇后の、新羅を攻めさせ給ひし時、神集めして向かはれしも、かくやと思ひ知られたれ。
(幸若正信本)

 あらありがたや。祈誓のしるし早ありて、伊勢の国荻ふく嵐に、霧も程なくすみ吉の、松吹く風も涼しくて、迷ひの闇もしら山の、雪より早く消えければ、いつしか鹿嶋楫取も、喜びの帆をぞ上げにける。
(三浦氏幸若安信本)

 舟は浮き木の物なれば、風に任せて早かりけり。力及ばず大臣は、憂かりし嶋に又戻り、そなたばかりを見送りて、呆れて立たせ給ひけり。早離速離がいにしへ、海岸波頭に捨てられしも、これに似たりと申せども、せめてそれは二人にて、語り慰む方もあり。所はわづかの小嶋にて、草木も更になかりけり。蒼天広う遠うして、月の出づべき山もなし。朝の日は海より出、又夕日も海に入る。露の命を草の葉に、宿すべきやうなけれども、なのりそ摘みて命を継ぎ、憂き日数をぞ送らるる。いたはししとも中々に、申すばかりもなかりけり。
(曲節集一本)

 御手馴れの琵琶琴和琴篳篥。草子の数を取り集め、貴き人に奉ぜらる。四十二疋の名馬ども、皆寺々へ引かれけり。三十二疋の鷹犬の、絆を切つてぞ放されける。この程ありし鷹師達をも、思ひ思ひに散らされけり。十二てうの鷹どもの、足緒を解いてぞ放されける。十二てうのその中に、緑丸と申して、大鷹のありけるが、君の名残を慕ひてや、立ち去る方もなかりけり。
(曲節集一本)

 げに鳥類は必ず、五通あるとはこれかとよ。さてもこれなる飯は、御台所の御業かや。この飯を賜ばんより、など言伝の文は無きぞ。豊後にいまだましますか。都へ帰り御上りか。いかにいかにと問ひ給へば、心苦しき風情にて、涙ばかりぞ浮かべける。大臣殿は御覧じて、今これ程の身と成りて、この飯服してあればとて、幾程命の長らへん。鳥類なれどもあの鷹の、見る処こそ恥づかしけれ。食はでもあらでと思し召すが、さもあれ緑丸が、万里の浪を分け越えたる、心ざしの切なきに、いでいでさらば服せんとて、御手をかけさせ給ひければ、嬉しげにてこの鷹が、羽を叩き爪を掻き、御膝の周りにひれ伏して、もの言はぬばかりの風情なり。
(毛利家幸若安信一本)

 いにしへの人の言伝に、一首の歌にかくばかり。飛ぶ鳥の、跡ばかりをば頼め君、うはの空なる風の便りをと、かやうに詠ませ給ひつつ、さてはこの世に大臣は、いまだ長らへ給ふぞや。これこそ命のあるしるしなれ。紙なき方にてあればこそ、木の葉に物をばあそばしたれ。硯と墨筆なければこそ、血にて物をばあそばしたれ。いざや硯を参らせて、思し召されん言の葉を、詳しく書かせ申さんとて、紫硯に紙筆そへ、御台を始め奉り、その数々の女房達、我劣らじと文を書く。取り集めたる巻物は、由なき業とおぼえたり。
(曲節集一本)

 さてもこの鷹が、鬼界高麗、契丹国にも揺られずし、今この嶋に揺られ来て、再び物を思はする。必ず生を受くるもの、魂魄二つの魂あり。魂は冥途に赴けば、魄は浮世にありとかや。我も命のつづまりて、今を限りの事なれば、冥途の道のしるべをして、連れて行けや緑丸。我をば誰に預けて、さて何と成れと思ふぞとて、この鷹にうちかかり、流涕焦がれ給ひけり。かの大臣の御嘆き、君にみせばやとぞ思ふ。
(曲節集一本)

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