信太の内
あらけなき。使にて。なさけを捨てふるまへば。浮嶋大夫が。言葉のすゑ今更。おもひ出さるゝ。扨あるべきにてあらされば。信太殿ばかり。お供にて。涙とともに。出たまふ。けふ出てまたかべるへきみちだにも。別といへば。懶に。けふ出ての其後に。帰らん事も。かたかるべし。ゆくも留も。おしなべてもろきはいまの涙かな。甲斐の国に。きこえたるいたがきの。里といふ所に。尋ぬべき。人ありて。かの里までは。落ゆきたまへど。尋ぬる人も。あとなくなる。なにはにつけてたよりなし。今はいづくへゆくべきぞ。名は板垣ときゝけれど。風もたまらぬ。あばら屋にやど。かりてこそ。おはしけれ。
(曲節集一本)
御沙汰はなきぞと申せ共。供人ひとりもあらばこそ。浮世にありてせんもなし。不思儀に尋ぬる者あらば。かくなりつるとかたれとて。念仏申。かたなをぬきすでに。じがひとみえたまふ。亭主あまりのいたはしさに。御刀にすがりつき。都までの。お供をば。此男が申すべし。自害を留め。たまへとよ。命をまたふ。もつ亀は蓬莱に。あふとつたへたり。つらき人のはてをも。生てぞみはてたまふべき。死ては何の。きよく有べきと。留め申し。たりければ。御自害はとまりけり。明れば亭主。お供して。都へとてぞ。のぼりける。五條にやどを。とりてをき。沙汰の法をば申しおしへて。亭主はいとま。たまはりて。番場の。しゆくにくだりけり。
(曲節集一本)
信太殿たゝ一人。都にとゝまりたまへとも。はぬけのかもの水浪に。うかれてたゝぬ風情し。かたはくるまの。中々に。やるかたもなきことくにて。みやこに日をは送れとも。さたするむねもましまさす。田舎のえんをつたへねは。なかさいきやうも。かなはすしたより。もなふて。おはします。
(彰考館幸若安信本)
あらいたはしや信太殿。たまたまちかくめぐりきて。父の御墓をいまならでは。いつの世にかは拝むべきと。みはかに参りたまひ草木の花をつみ。手向。かほどにくわほうつたなき身を。ひとつはちすのうてなにむかへとらせたまはで。うき世にのこしたまふことよと。くどきなげきたまへとも。はうれいなれは。とくつより御声いつることもなし。さくさくとしたる風のをと。松にぎむずるはかりなり。はうはうと。したる草の露にすそも袂も。うちしほれつきせぬ物は。涙なり。
(高野氏幸若安信本)
あらあぢきなや世中にすまじき物はみやづかひ。われほうこうのみならずはかゝるうきめによもあはし。むかしはさうまにつかへ申。此君としゆくんと。あふぎし其時は。月共日ともおもはずや。さんがくよりもたかきおん。しらんよりもかふばしく。つきそひまはり申せしが。いつそのほどに。ひきかへて。うつればかはる身のうさは。わがてにかけてしづめなば草のかげにて。さうまどのさこそにくしとおぼすらん。
(毛利家幸若安信一本)
鍬といへる物をもち。小田の原へは出。たまへどうつべきやうは。ましまさず。かの三皇の古へは。神農皇帝かたじけなく。みづから鋤を。になひて。その一けいの。田をかへし。五穀の種を。まきしかば。しんのかんのう。めでたくし尺の。穂長もながゝりき。夫は賢王聖主にて。国をはごくむ道理なり。彼。信田殿の農業は。涙の種を。まくやらん。野にも山にも立たびめ。さほの。はやしに。ひれふしてなくより。外の。事はなし。
(曲節集一本)
乳人もやがて。おなじすがたにさまをかへ。こきすみぞめに。身をやつし。都へのぼり。たまひけり。名所旧跡を。詠め越させ。たまひつゝ。三十五日と申すに。都につかせ。たまひけり。西東の京を。尋ぬれど其。行がたも。なかりけり。清水に。参て。南無大悲。観世音。万の仏のぐはんよりも。千手の誓はたのもしや。今一度。信太殿に。あはせてたばせ。たまへやと祈誓。ふかくぞ。申さるる。熊野の道を。尋ねんと。南海道に。さしかゝり。天王寺。住吉。根来粉河をうちすぎて。熊野に参りて三の山。こゝろしづかに。伏拝み尋ね。たまへど。行方なし。四国九国を尋ねんと。だうしや舟に。便船こうて。四国に。わたり淡路嶋も。こゝろしづかにたつねけり。つくし下りの道すがら。長門の府。赤間か関。あしやの山崎はかたのつ。しかのしままで。尋ぬれどその。ゆきがたも。なかりけり。なごやを出て。せとをゆく。ひらどの太嶋。松浦みろくじ賤の里。くはんぎごたう嶋。いはらが。嶋もちかくなる。ゆきのもとをり通るにそ。消るばかりの我心。日向の。国にとさの嶋。きの。里にあはじま。豊後豊前をさしすぎて。肥後の国に。きこえたる。おとりたうの。山を越。こひは。しうしのみづし。あそのだけを。越過て筑前の国に。いきの里。遠国波嶋にいたるまで。名所はつきぬ物なり。信太の小太郎。なにがしととへど。こたふる■。
(曲節集一本)
播磨の国に入ぬれは赤松河原。由比のしゆく。高田のわたりやのゝ宿。名所旧跡を詠め越させたまひさかひの松に出させたまふさうたの森烏崎。人まつか岡をたつぬれとその行方もなかりけり。須磨の浦はすの池と聞からに。おなし蓮にのらはやな。兵庫につけは湊河。雀の松原うち出のしゆく。こんやのいたみて嶋のやと。太田の町やあくた河かうなゐ山崎狐河。舟にのらねと。こかなはて。月のやとるか。桂河。うき世は車の。輪のごとくめくりきぬれは九重の。めくりきぬれは九重の花の。都に着たまふ。
(幸若直房本)
我をはたれかまつさかやあふさかの。関の清水にかけ見えて。いまやひくらんもちつきの。駒のあしをときゝなるゝおほつうちてのはまよりも。志賀からさきを見渡して。かたゝの沖に。ひく網の目ことにもろき涙かな。瀬多のからはしはるはると。たつぬる人の面影をうつしもやせんかゝみ山。ゑちの川瀬の浪ちりてすそは露。袖はなみたのひまよりも。すりはり山をこえ行は。あれてなかなかやさしきはふはのせきやのいたまもる。月見たる井の宿過て植し早苗のくろたこそ。秋はなるみと。うち詠。三川の国の八橋の。くもてに物やおもふらむ。富士をいつくととをたうみ。恋をするかの身の行衛。まつよひの月も雲間をいつのくに。信太にはいつかあふしうまて。みとせみつきかそのあひた。信太の小太郎。なにかしととへと。こたふる。ものはなし。
(高野氏幸若安信本)
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