「兵庫」の内
げに世に住む習ひは大事にて候。占のまま申せば我が身のあだ。申さねば天子の威をくたす。両様重科の身たるべし。それ人間に限らず、生を請けぬる類の、命に増したる宝は無し。されば仏も戒めて、五百戒のその中に、殺生戒を第一に、保てと教化し給へり。
(曲節集)
京よりも下る者、初めて京へ上る者、中にて取つて押し籠めて、声ばし立つなと縛めて、獄定するぞ無残なる。さこそ旧里の恋しさを、思ひ遣るこそ哀れなれ。捕られぬる者どもが、かくあるべしと期したらば、老いたる親に暇乞ひ、名残惜しき妻子にも、形見を取らせて行く末の、過ぎ果つべき言の葉を、などかは語り置かざらん。只仮初の事なれば、今日よ明日よと待ち暮らし、風のそよと吹かんにも、すはやと思はん心の内、いつを頼みに待兼山、空しく月日を送るとも、行方を知らねばよも尋ねじ。我が身の消えん命より、待つ宵空しき古里を、思ひ遣るこそ哀れなれと、牢のとぼそに取り付いて、悲しみ合へる有様を、見るに涙も堰きあへず。一人二人の事ならず、二十余人捕りぬれば、生田昆陽野の辺にこそ、変化の者が住むやらん。道行き人を中にて捕つて、行き方知らずと風聞すれ。親を捕らるる者もあり。一人持ちたる子を捕られ、消えんと悲しむ者もあり。丹波播磨伊賀伊勢、近国他国の者どもが、生田の辺りに満ち満ちて、たとひ魔縁の者が来て、我が父我が子を捕りたりとも、せめて死骸を見せて賜べ。いつ頃かこの野の辺に、旅人失せて候と、尋ねかねたる有様は、野飼の牛の暮毎に、子を尋ぬるが如くなり。
(曲節集)
かくする程に壁に耳、岩の物言ふ世の習ひ。兵庫の浦の人柱に、召されぬるとぞ聞こえける。尋ねかねたる者どもが、なのめならずに祝ひて、里内裏に参り庭上にひれ伏し、思ひ思ひ心々に、これは丹波の和田の者。これは播磨の明石の者。これは禁野交野の者。或いは伊賀伊勢都の者、助け給へと声々に、悲しみ合へる有様は、冥途に赴く罪人の、閻魔法王倶生神、冥官達の娑婆にての、罪を鏡に映され、獄卒の手に渡る時、六道能化の地蔵尊、助け給へと叫びつつ、悲しみ給ふもかくやらむ。生死無常の浮世の中、現世も冥途に違はずと、よその袂を絞りけり。
(曲節集)
国治三十二、妻女二十八と申す八月に、優なる姫を儲くる。時しも十五夜の、隈なき月の小夜中に、生まれぬる姫なればとて、名月女と名付けて、漢家本朝にも、ためしなうこそかしづきけれ。その心中は孝女にて、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ。霞の内の山桜、匂ひ飽くまで身に余り、人にまみゆるその姿、池の蓮の朝露に、傾く風情もかくやらん。姫の姿を見聞く人、及ぶも及ばざりけるも、望みは多くありけれど、ませの内の八重菊も、包めば色の増す風情。領掌する方あらずして、十三の暮まで一人住む。
(曲節集)
あらいたはしや二人の人々は、鬼にかみとる風情して、古里偲ぶは中々に、朝夕暇なく思へども、乳母は恐れて音づれをせず。名月は父母の、不孝をいたく憚り、明けぬ暮れぬとせし程に、三とせに成るは程も無し。国治夫婦の嘆きは、申すばかりもなかりけり。人の子のあまたあるだにも、別れといへば物憂きに、いはんやこれは仏神に、祈誓を申して只一人、持ちたる姫にてある間、世に類なくかしづきしを、行き方知らず失ひて、嘆く思ひはいかばかり。いたはしや母御前は、三年と申す秋の暮、思ひに消えぞ果てにける。
刑部左衛門国治は、ひと方ならぬ思ひどもに、妻女の形見を取り集め、高野の嶺に参りつつ、奥の院にて元結切り、妻女の形見を籠め置きて、姫が行方を尋ねんとて、高野の嶺を下向して、まづ三熊野に参らるる。三つの御山を伏し拝み、尋ね給へど行き方無し。四国に渡りて尋ぬれど、その行き方のあらざれば、又舟に便船し、播磨の室に上がりつつ、都の方のゆかしさに、明けぬ暮れぬと上るとて、兵庫の浦を通りけるが、取り手の人数に行き逢ひて、押さへて捕られて牢者と成る。とにもかくにも国治が、運の際とぞ聞こえける。
(曲節集)
中にも国治の、思ひぞいとど哀れなる。かくあるべしと期したらば、高野の嶺にて、露とも霜とも消ゆべきものを、姫が行方のゆかしさに、もしももしもと思ひ、かかる修行に思ひ立つて、今更憂き目を見る事よ。か程に薄き縁ならば、何しに生まれ来りけん。恨めしの契りやとて、親子の契りをば、今更恨み給ひけり。
(曲節集)
なう、さのみな問はせ給ひそよ。憂き身のかやうに成りぬるも、その姫故の事なれば、なにはにつけて恨みの数。涙ならでは友も無し。よその見る目も恥づかしやと。袂を顔に押し当つる。名月は聞こし召し、乳母を召して仰せけるは、げにげにさる事のありしぞや。住吉詣のありし時、輿の先に玉章を、引き結びて落とせしを、供の女が拾ひ取つて、みづからに見よと言ふ。何なるらんと見てあれば、思ひも寄らぬ花を見て、露と消えなん悲しさよ。もしこの風の便りを、不憫と思し召され、御返り事ましまさば、神崎に聞こえたる、釈迦堂の鐘の緒に、結びて賜べと書き留めて、奥に一首の歌をかく。知らせても、しるしなくては杉の門、あけぬ暮れぬといかで待ちなんと、書き留めたりし水茎を、只大方に思ひ成し、捨てたりし事のありしぞや。我を忍ぶの恋衣、今きて見るぞ由無き。我故かやうに成る人ならずは、只今も立ち出て、父母の御事をも、問はまほしくは思へども、我故かやうに成ると言へば、さすがかうとも岩代の、まづ言の葉のかきくれて、落つる涙の暇よりも、乳母はなきか修行者に、斎料奉れやとて、簾中深く入り給ひ、衣引つかづきうち臥して、流涕焦がれ給ひけり。
(幸若正利本)
人目を包む事なれば、夜半に紛れて只二人、丹波の能勢を立ち出て、足に任せて辿り行く。かの三草山と申すは、木こりの通ふ道多し。かなたこなたと踏み迷ひ、とある木蔭に立ち寄りて、一夜を明かし給ひけり。憂くても果てぬ夜半なれば、月西山に傾きほのぼのと、明かしがたなる早天に、やうやう木蔭を立ち出る。末の松山恋の森、心ばかりは急げども、行く道更に見も分かず。日輪出させ給ふをこそ、東とばかりは弁ふれ。西北に迷へど何とてか、南へ道のなかるらん。
(曲節集)
この山人が二人の人を見参らせ、あら不思議や。秋待ちかぬる萩の花、桔梗刈萱女郎花。露重げにてくねるかや。時雨に染むる紅葉葉と、ませの内の八重菊に、相紛ひぬる女房の、野干の恐れも憚らで、袖しほれたる立ち姿は、何をしるべの頼りにか。人倫稀なる深山に、かやうに立ち入り給ふらむと、怪しめ申して立つ程に、咎めも問ひもせられずして、互に休らふばかりなり。虎狼の変化か怪しやと、山人の思ふも理なり。
(高野氏幸若安信本)
兵庫の浦を心がけ、これまでは迷ひて候へども、行方を知らでたたずむなり。野にも山にもしるべ草、兵庫の浦への案内を、教へ給へや山人よ。
(曲節集一本)
高所に上がり、西へ道の候は、あれは室高砂へ下る道。巽へ少し行き、一段高き所より、東の方を御覧ぜよ。湊河西代が下楫取。雀の松原御影の森。雲居にさらす布引や。渡辺神崎天王寺。住吉の浜も見えぬべし。西は明石高砂。大蔵谷といふ方なり。南に霞める渚こそ、兵庫の浦にて候へ。東西へ分かつ道の辺の、いかに多く候と、左右へ危ぶみましまさで、兵庫の浦を目にかけて、すぐに行かせ給ふべし。名残小塩の夕日影。これより御暇申すとて、山人は嶺に留まりけり。乳母も主も諸共に、この恐ろしき山の内、道しるべせし嬉しさよ。いかさまこれは、山人にてよもあらじ。多年頼みを懸け申す、鞍馬の大悲多聞の、山人と現じ給ふかや。有り難さよと語りつつ、さしもに物憂き道なれども、この物語に慰みて、やうやう行けば津の国の、兵庫に着かせ給ひけり。
(曲節集一本)
さすが女にて候程に、恐れを成して殿中へ、申し上ぐる事なうて、余り嘆き候程に、家包めが庭中申し上ぐる事の、忝さよと申して、恐れおののく有様は、水に従ふ柳の、伏し沈めるが如くなり。
(曲節集)
終の別れとは思へども、束の間の対面さこそやと、思ひ遣られて中々に、喜びの涙は淵と成つて、陸にて沈むばかりなり。
(曲節集一本)
束の間の対面さこそやと、思ひ遣られて中々に、喜びの涙は淵と成つて、陸にて沈むばかりなり。ややありて父国治は、落つる涙の暇よりも、げに心ざしの、ましませばこそこれまでは、尋ね来り給ふらめども、何とてか人の子の、親の思ふ心中に、相違してあるやらん。わ御前が思ひ深うして、母は終に死してあり。国治も同じ道にと、千度百度思ひつれども、憂世にもしも長らへば、わ御前が行方や聞くと思ひ、かかる修行に思ひ立つて、今更憂き目を見る事も、ひとへにわ御前が故ぞとよ。子は敵か宝かと、善悪二つを案ずるに、人の子は宝にて、わ御前は親の敵なり。
かくは言うてあれども、深き恨みは残らぬぞ。この年月仏神に、祈誓申せし利生には、命の内に見つるこそ、何より以て嬉しけれ。かやうに小車の、巡り逢ふべき道ならば、母諸共に長らへて、見るとだにも思ひなば、いかがは嬉しかるべきぞ。但し嬉しき中にも、かくあさましき最後の体を、あのまれ人に見えぬるこそ、何より以て恥づかしけれ。よしよしそれも事の縁。姫を思ひ捨て給はずは、見し者と思し召し、菩提を弔うて賜び給へ。情けなの乳母や。か程に近き辺りに、住み長らへてある者が、今まで音信せぬ事の、恨めしさよとありしかば。
姫は涙の暇よりも、御道理にておはします。許させ給ひ候へや。みづから共に沈みつつ、御手をひかへて三途の川、死出の山路を越え過ぎて、閻魔の庁の御供を、申すべきにて候ぞや。みづからをもこの籠に、添へさせ給へ人々とて、もだえ焦がれ悲しめば、父も籠の内にして、泣いては口説き恨みて泣く。善知鳥が流す血の涙、今こそ思ひ知られたれ。人の嘆きも我が思ひも、憂世に住めば多けれど、かかる哀れは類無しと、上下万民押しなべて、袖を絞らぬ人ぞ無き。
(曲節集)
安氏なのめに喜うで、急ぎ浜に下り、まづ国治を取り出し、名月に返し給ひけり。残る二十九人をも、皆々取り出し候て、悉く返し給ひければ、請け取り請け取り浜に出、嬉しきにも涙、辛きにも涙、先立つものは涙なり。
(曲節集一本)
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