「硫黄が嶋」の内

 それ人の嘆きをとめさせ給はば、身の喜びもあるべきなり。その上丹波の少将成経、並びに平判官康頼、法勝寺の修行が事、よきやうに御計らひありて、今度の内に赦免ならせて賜はらば、いかがはめでたく候ひなん。まづ思ひても御覧ぜよ。薩摩潟硫黄が嶋の憂き住まひ、思ひ遣るさへ不憫なり。
(短中之部)

 げにや都にて伝へ聞きしよりは、遥かに超えておぼえたり。乾より巽へ重山連なつて、百千万の雷の音絶えず。嶺には雷電暇も無し。麓の里に雨降りて、昔は鬼が住みければ、鬼界が嶋とも申すなり。今は又何と無く、嶺に硫黄が立ちければ、薩摩潟硫黄が嶋と申すなり。たまたまこの嶋に住む人は、我が住む国の人に変はり、我言ふ事を彼知らず、彼言ふ事を我知らず。男はあれども烏帽子着ず、女はあれども髪下げず。賤が山田を返さねば、米穀の種もなかりけり。園の桑を採らざれば、絹帛の類もなかりけり。水を掬ばんとては沢に下り、木垂ら木を取らんとては、山林に入りて迷ひけり。明け暮れ月日を送りける、憂き身の程こそ悲しけれ。
(幸若正利本)

 げにやらん権現は、我を念ぜん衆生のあらば。
(曲節集)

 この上力及ばずとて、二人すごすごと御立ちあり。漫々たる海上を見渡し、峨々とある磯辺を巡り、三つの御山に似たる所を尋ねけり。或いは山高うして、浄水久しく流れ落つ。或いは木々の梢、冷々として岨立てり。ここは本宮証誠殿。かしこは新宮神の蔵。遥かの北に当たりつつ、白石の峨々とあるよりも、瀧水雲より流れ出、松の嵐の神さび、飛瀧権現の御立ちある、那智の御山に似たりとて、ここを那智とぞ定めける。津の国窪津の王子より、九十九所の王子王子を、型の如く勧請申し、それより黒辺に御下向ある。
 その間に僧都は高き所に上がり、東西南北を見渡し、よろづ観念してましましけるに、黒雲厚く隔つて、石巌崩れて海に入る。その時僧都、禅に古き詩を思ひ出づる。風仏前に花を散ず。岸崩れて魚害す。その岸、心なくして罪を得ず。されば五体は五つの借り物。地水火風をかたどり、心は虚空の如くにて、形なければ色もなし。諸法は有無の二道にて、ありとも見え又は無し。立つても居ても座禅なりと、破戒無慚の高枕し、起きぬ臥しぬぞし給ひける。
 この上力及ばずとて、二人又すごすごと、黒辺を御立ちあるが、日数積もつて、裁ち替ふべき浄衣のあらざれば、麻の衣の潮に朽ちたるを、沢の水にて洗ひ、岩田川の清き瀬にて、煩悩の垢をすすぎ、五体王子を伏し拝み、それよりも山路に上がりければ、高原や嶺の嵐に誘はれて、巌を越して参るにぞ、中天竺も遠からず。十條近露熊瀬川、発心門にも入りぬれば、早本宮に着き給ふ。
(曲節集)

 あらありがたや。これこそ本宮証誠殿にてましませ。いざや我等が祝言を申し、帰洛を権現に祈り申さんとて、散米のあらざれば、浜の真砂を潮に洗ひ、散米と定め、花を手折つて御幣に捧げ、帰洛の祝言をぞ申されける。
  再拝再拝。これ当たり来れる歳次、治承二年戊戌。月の並びは十月二月、日の数三百五十余ヶ日。吉日良辰を撰んで、かけまくも忝くまします、日本第一大霊権現、熊野三所権現並びに、飛瀧大薩埵の教令。珍の広前にして信心の大施主、羽林藤原の成経、並びに沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抜きん出、謹んで以て敬ひ白す。
  それ証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王たり。両所権現は、東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来たり。或いは南方補陀落能化の主、入重玄門の大士。若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士。頂上の仏面を現じて、衆生の所願を満てしめ給ふ。故に上一人を始め、下万民に至るまで、或いは現世安穏、又は後生善所のために、朝には浄水を掬んで、煩悩の垢をすすぎ、夕には深山に向つて、宝号を唱ふるに、感応怠る事無し。峨々とある嶺の高きをば、神徳の高きに譬ふ。嶮々とある谷の深きをば、弘誓の深きになぞらへ、雲を分けて登り、露を凌いで下る。ここに利益の地を頼まずんば、いかが歩みを嶮難の道に運ばんや。権現の徳を仰がずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさんや。よつて証誠大権現、並びに飛瀧大菩薩、青蓮慈悲の御眼を並べ、小牡鹿の御耳を振り立て、我等が無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受せしめ給へまくのみ。両所権現は、各々機に従つて、或いは有縁の衆生を導き、又は無縁の群類を救はんがために、七宝荘厳の住みかを離れ、八万四千の光を和らげ、仮に垂迹と現じ、六道三有の塵に同じ給へり。故に定業亦能転、求長寿得長寿。礼拝袖を連ね、幣帛礼奠を捧ぐる事、暇も無し。忍辱の衣を重ね、覚道の花を捧げ、神殿の床を動かし、信心の水を澄ましては、利生の池に湛へたり。神明納受ましまさば、所願何ぞ成就せざらんや。願はくは十二所権現、利生の翼を連ねて、遥かに苦海の空をかけつて、左遷の愁へをやめ、帰洛の本懐を見せしめ給へ。再拝再拝。
と礼拝して、浄衣の袂を絞るは、ありがたくこそ聞こえけれ。
(短中之部)

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