「文覚」の内
頃は卯月上旬の事なるに、遅桜散る木の下は寒からで、空に知られぬ卯の花の、雪は御庭に散り敷きて。山ほととぎす村雨に、濡れてさ渡る折節に、雲上の管絃講は半ばなり。
(三浦氏幸若安信本)
二丈五尺に土穴を掘つて、文覚を落とし入れ、上には土をはね覆ひ、百日日数を送りしは、げに哀れなる次第なり。
(短中之部)
瑠璃の壺をぞ賜はりける。げにと暗き闇をば、壺の光で照らしけり。食事の望みのある時は、薬を服して命を継ぐ。何にその身の衰ふべき。痩せず黒まず文覚は、日数を送り給ひけり。
(短中之部)
出られけるこそ殊勝なれ。さて金毘羅とうち連れて、中堂薬師に参りつつ、経読み陀羅尼を満て給ひて、明けぬ暮れぬとせし程に、早百日に成りにけり。
(短中之部)
沙弥文覚敬つて申す。殊には貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せしめんと請ふ、勧進の状。それおもんみれば真如広大なり。生仏の仮名を立つといへど、法性随妄の雲厚く覆つて、十二因縁の嶺に棚引きしよりこの方、本有心蓮の月の光幽かにして、いまだ三徳四曼の大虚に顕はれず。悲しきかな仏日遥かに没して、生死流転の巷冥々たり。只色に耽り香に耽る。誰か狂象跳猿の惑へを謝せん。いたづらに人を謗じ法を謗ず。これ豈閻羅獄卒の責めを免れんや。ここに文覚、たまたま俗塵をうち払つて法衣を飾るといへど、悪行猶心に逞しうして、日夜に作りし善苗又、耳に逆つて朝暮にすたる。いたましきかな、再び三途の火坑に還つて、長く生死の苦輪をめぐらさん事を。この故に無二の憲章千万軸、軸々に仏種の因を顕はし、隨縁至誠の法一つとして、菩提の彼岸に至らずといふ事無し。故に文覚、無常の観門に涙を落とし、上下の真俗を勧め、上品蓮台に脚を励まして、等妙覚王の霊場を建てんとなり。
それ高雄は、山うづ高くして鷲峯山の梢を表し、谷静かにして商山洞の苔を敷けり。巌泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵無し。咫尺事なうして信心のみあり。地形すぐれたり、尤も仏天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。ほのかに聞く、聚砂為仏塔功徳、忽ちに仏因を感ず。いはんや一紙半銭の宝財に於いてをや。願はくは建立成就して、禁闕鳳暦御願円満、ないし都鄙遠近隣民親疎、堯舜無為の化を謳ひ、椿葉再改の笑みを開かん。殊には又、聖霊幽儀先後大小、速やかに必ず一仏真門の台に至り、三身万徳の月をもて遊ばん。よつて勧進修行の趣、蓋し以てかくの如し。治承三年三月の日。文覚房。
とぞ読み上げける。かの文覚の勧進帳を、褒めぬ人こそなかりけれ。
(短中之部)
あらいたはしや文覚。都の名残、今ばかりとや思しけん。七條辺に立ち、東を遥かに御覧ずれば、音羽の山の松風に、己と琴や調ぶらん。麓に落つる瀧壺は、名に知られたる清水寺。本尊は千手千眼。若我誓願の御誓ひ、もだし給はずは、文覚がこの度の、遠流の罪を宥めつつ、今一度都へ帰し給へと祈誓して、西を遥かに眺むれば、丹波に老の山。谷の堂嶺の堂。嵯峨法輪寺太秦の、薬師に猶も名残あり。北には鞍馬赤山。鬼門に当たりて比叡山。中堂薬師の十二神。さて我が山の十二神。金毘羅大将七千の夜叉。北野を拝し奉り、文覚がこの度の、遠流の罪を宥めつつ、再び帰洛仕り、多年の望みの願どもを、成就させて賜び給へと、南を遥かに眺むれば、八幡山に立つ霧の、石清水にや懸かるらん。皆得解脱弘誓力、金剛八幡願はくは、源氏を守りて賜び給へと、祈誓を申させ給ひつつ、四塚作り道。鳥羽殿の山荘を、よそながら伏し拝み、刑部左衛門何がしが、その旧跡を見てあれば、礎のみや残るらん。念仏申し経を読み、その幽霊を弔ひて、淀の津に着きければ、早川舟に乗せられて、水に任せて流れ行く。弓手を遥かに眺むれば、琴の音調ぶる禁野の里。かの在五中将の、眼白の鷹を手に据ゑし、交野の原の狩衣、今きて見るぞ由なき。馬手は山崎関戸の院。誰か建てけん宝寺。雛を育つる鳥飼の、冠の里はこれかとよ。絵の具剥げたる古仏。早渡辺に着きければ、海上遥かに楫を取り、追手の風に帆を上げて、浪路遥かに吹かれ行く、心ざしこそ哀れなれ。
(曲節集)
住吉堺宇治の湊。和歌吹上や玉津嶋。布引の松紀三井寺。藤代峠由良の湊。切部の王子千里の浜。南部田辺の沖過ぎて、那智の沖とぞ申しける。文覚聞こし召されて、我この御山に参り、三七日は瀧に打たれ、正身の大聖明王に、逢ひ奉りしその時は、早権者とこそ思ひしに、何と行ひ成したる文覚が行ぞや。ここはいづくぞ浜の宮。佐野の松原太夫の松。新宮の湊井田の里。伊勢の国志摩の国。尾張三河の沖過ぎて、天龍の灘に着き給ふ。
(毛利家幸若安信本)
今まで荒れて騒がしき、闇海の面平々として、追手の風の吹きければ、守護の武士楫取ども、上人を礼し奉り、艪櫂楫を立て直し、風に任せて吹かすれば、都を立つて文覚は、伊豆の大嶋まで、五十五日に着き給ふに、食事をとどめ給ひしは、源氏を守るしるしなり。
(彰考館幸若安信本)
その時頼朝、御袂に受け奉り、生きたる人に向かつて、物を宣ふ如く、いかに候父御前。西坂本までは御供申して候ひしが、暗さは暗し雪は降る。下がり松の辺りにて、追ひ遅れ奉り、草野といへる山里に、隠れて年を送り、春にも成らば御後を、尋ね申して参らんと、思ひ候処に、思ひも寄らず、郎等に討たれさせ給ひ、御頸上り獄門に、懸からせ給ふ由を聞く。せめて変はらせ給ひたる、御姿をなりとも見参らせ、猶も命の長らへば、さまをも変へて御菩提を、弔ひ参らせんと思ひつつ、忍びて京へ上りしに、今須河原といふ所にて、弥平兵衛に生け捕られ、憂き六波羅へ渡されて、六條河原にて、既に死罪に及びしを、池の尼公に助けられ、この国へ流されて、二十余年の春秋を、送り迎へて過ぎ行けど、少しも父の御事をば、忘れ申す事もなく、恋しく思ひ申ししに、命の内に御姿を、見参らせぬる嬉しさよ。あれは佐か文殊かと、今一度仰せ候へとて、御顔に押し当てて、流涕焦がれ給ひければ、文覚も学文坊、さて御供の盛長も、声を上げてぞ泣きにける。
(短中之部)
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