敦盛の内
くれなひに日を出したる扇をぬき。はらりとひらかせ給ひて。おきなる舟を目にかけてひらりひらりとまねかるゝ。船中の人々に。ひとしもこそおほきに。門脇殿は御覧して。ほろかけ武者の舟まねくは。さまのかみゆきもりか。むくわんの大輔厚盛かあれを見よとの御ちやうなり。悪七兵衛承り。いつくにさうと申て。ふなはりにつつたちあかり。長刀を杖につき。甲をぬひてきつと見て。いたわしの御事や。何として御座舟に。めしをくれさせ給ひけん。常盛の御子息に。無官の大輔厚盛にてわたらせ給ひ候そや。めされたる御馬の毛よろひのけにいたるまて。まかふ処も。ましまさすいたはしさよと申けり。門脇殿は聞めし。厚盛ならは此舟を。をしよせてたすけよ。すいしゆうかんとり承り。ろかひかちをたてなをし。舟を渚によせんとす。此程二三日吹しほりたる。北風の名残の波はけふもたつ。風はきをおつて波はこうしやのことくなり。はくらうせかひをあらひ。砂を天にあくれはたゝ雪の山のことくなり。小船こそをのつから。弓手へもめてへも。思ふさまにはあつかわるれ殊すくれたる大船に。大勢はめされたり。たゝむ波にせかれつゝ。次第次第に出れ共磯へよるへきやうはなし。
(曲節集)
よしよしそれは世にはかくれもあるましきそ唯何かしかくひをとつて。なんしかしうの義経に見せよ。見しる事も有へし。それか見しらぬ物ならはかはのくわんしやに見せてとへ。かはのくわんしやか。見しらすは。此度平家のいけとりのいかほとも。多くあるへきに。ひきむけて見せてとへ。それか見しらぬ物ならは。名もなきものゝくひと思ひて草村にすてをけよ。すてゝの後は。用もなしくま。かへとこそ仰けれ。
(舞々詞)
熊谷あまりの疲はしさに。又御かほゝ見奉るに。せんけんたる両ひんは秋のせみの羽にたくゐゑんてんたりしさうかは。ゑんさんの月に相同し。なりひらのいにしへかたのゝ野へのかり衣。袖打払ふ雪の下。すひたいかうかん。きんしうのよそおひを。たとへは。ゑにはうつす共。此上臈の。御すかたを筆にもいかて。つくすへき。
(舞々詞)
花の下の半日の客。月の前の一夜の友。清風朗月飛花落葉のたはむれも。今生ならぬきゑむとうけ給はる。この度の合戦に人しもこそ多きに。熊谷がまいりあふ事を前世のこととおぼしめし。御名乗さふらへ。御頸を給て。唯ほうこうの其ちうに後世を吊ひ申すべし。敦盛は聞し召。なのらじ物とは思へども。後世をとはむずうれしきに。さらばなのりてきかすべし。われをば誰とかおもふらん。かたじけなくも浄海の。御舎弟にておはします。門脇の修理の大夫経盛の三男に。いまだむくわんをかりなにて。大輔敦盛しやうねんは十六歳。軍は是がはじめなりさのみに物な。尋そはや頸とれや熊谷。
(幸若正利本)
直家か母にあひてうたれたるといふならは。甘露の母か嘆くへし経盛とやらんの花のやうなる若君を渚壱人のこしをきさこそは嘆かせたまふらめ経盛の御愁嘆とさて直実かおもひを物によくよくたとふれは流水おなし水なれと淵瀬にかはることくなり。
(曲節集一本)
あらいたわしや敦盛御身一谷に御坐有とは申せとも御心さなから都へのみそかよはれける。おほしめし出されたる時に。つくられけるよと。おほしくて四季の帳をそかゝれたる。先青陽の朝にはかきね木伝ふ鴬の野辺になまめく忍ひねや野径の霞あらはれて外面の花もいかはかり重桜に八重九夏三伏の夏の天にもなりぬれは藤波いとうかほとゝきす夜々の蚊遣火下もえて忍ふる恋のこゝろする黄菊紫蘭の秋にも成ぬれは尾上の鹿立田の紅葉枕に集蛬きかてや萩の咲ぬらん玄冬素雪の冬の暮にもなりぬれは谷の小河も通路もみな白妙に四方なるといへ共消て跡もなし名残惜き古郷の木々の梢を見捨てつゝ今はまた一の谷の苔地の下に埋るゝ経盛の末の子の無官の大夫敦盛とかき留めてそをかれたる。
(曲節集一本)
あらいたはしや平家がたには一の谷を落。渡海はるはると落のびたれは。さうなく源氏の勢のかゝるへしともおぼしめさず。只此ほとの朦気には波枕。楫枕。夢おとろかす松の風命もしらぬ松浦船。こがれて物やおもふらん。心ほそくもおぼせしに。源氏のふねよと聞しめし我さきに我さきににと。櫓棹をはやめ落ゆけども。東国の源氏にはあはんといへる平家なし。
(角倉素庵写本)
熊谷か手にかゝり。さてはうたれてありけるかと泪なからに出給ふ。女房達にとりては女院を始めたてまつりむねとの女官百六拾人もはかまのそはを取みなふなはたに立出御死骸にいたきつき是は夢か現かと一度にわつとさけはれしを物によくよくたとふれは是や此釈尊の御入滅のきさらき十たい御弟子拾六羅漢五拾二類に至まて別の道の御嘆かくやとおもひしられたり。
(曲節集一本)
やゝありて父経盛は落るなみたのひまよりも。あらむさんやあつもり。一の谷を出し時古郷の方を見送り。心ほそけにたつたりしをいさめはやと思ひ。ふかくなりとよあつもりよ。三代くわいもんの家をはなれ。かはねを。野山にうつみ。名をはんてんの。雲井に。上へき身か。らうとうか見るめをもはしよかしといひてあれは。さあらぬていにてなきさまて下りしか。ふえをわすれて候とて。とりに帰りし其時共にかへらんとは思ひつれ共かたきみかたにをしへたてられ。又二目とも見さりし也。情有熊谷にてかたみ是まて。をくりたり。むなしきしかひ此かたみ。今日は見つ。明日より後。のこひしさを誰にかたりてなくさまんなふ。人々とのたまひつゝ。もたえこかれたまひけり。平家方の。人々は今。一入の。なみたなり。
(舞々詞)
去程に熊谷は。能々みてあれは菩提のしんそ起りける。今月十六日に。さぬきの八嶋をせめらるへしときひてあり。我も人も浮世になからへてかゝる物うきめにも又。直実やあはすらめ。思へは此世は常の栖にあらす。草葉に置白露水にやとる。月より猶あやし。きんこくに花を詠し。栄花はさきたつて無常の風にさそはるゝ。南籠の月を。もてあそふともからも月にさきたちてうゐの雲にかくれり。人間五十年けてんの内をくらふれは。夢幻の如也。一度生をうけめつせぬ者の有へきか。是をほたひの種と。思ひ定さらんは。口惜かりし次第そと。思ひ定急都にのほりつゝ。厚盛の御頸を。見れは物うきにこくもんよりもぬすみとり。吾宿に帰。御像をくやうし無常の煙となし申御骨をとりくひにかけ。昨日まてもけふまても。人によわけを見えしと。力をそへししらま弓今は何かせんとて三つにきりおり三本の。そとはと定浄土のはしに渡し。宿を出て東山。黒谷に住給ふ。法念上人を師匠にたのみ奉りもつとひきり西へなけ。其名を引かへ。れんしやう坊と申す。花の袂を墨染のとをちの里のすみ衣今きてみるそよしなき。かくなる事も誰故。風にはもろき露の身ときえにし人の。ためなれは恨とは更におもはす。
(曲節集)
大同二年に建られ。よろづの仏の願よりも千手の誓ひはたのもしや。敦盛の聖霊頓証菩提と廻向して。西を詠むれば。丹波におひの山。おりぐちは谷の堂嶺のだう。北をかへつて見送れば。うち野を出て蓮台野。舟岡山の。はかしるし。見るに涙もせきあへず。南をながむれば。東寺さいじ。四塚。としはゆけども。老もせぬ。むつだがはらとうちながめ。山崎宝寺。せきどのいむをうちすぎ。八幡の山を下向してこれたかのみこの御狩せし。交野の原をとほり。禁野の雉は。子をおもふうどのにしげきませがきの。宿を過ればいとだのはら。くぼつのわうじを。ふしおがみ天王寺へぞまいりける。
(幸若正信本)
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