「鞍馬出」の内

 母の常盤は聞こし召し、あるにあられぬ御身にて、忍びて文をあそばし、牛若殿に付け給ふ。牛若文を御覧じて、かやうに母の御手より、文を賜はりいづくの国、誰やの人を頼みて、下るべしともおぼえずや。
(短中之部)

 高堂に御参りあり、夜と共祈誓を申されたり。そもそも毘沙門と申すは、四天の中の第一に、八天童の尊者たり。仏法護持のそのために、弓箭を守り給ふなり。牛若が一期の本望は、身のため起こす謀叛ならず。父母孝養のそのために、平家を討たんと思ひ立つ、兵法稽古の嗜みなり。
(短中之部)

 本誓今に違はずは、牛若にこそ賜ぶべけれと、深く祈誓を申し、うちまどろみたる御夢に、白き兔と鼠とが、袂に入ると御覧じて、うち驚き思し召す。兔は東の物。鼠は北の生き物なり。東北の隅をば、丑寅とこそ名付けたれ。いしやなでんと申すは、この方におはします。かるが故に名付けつつ、多聞天と申すなり。毘沙門の住みかをば、べいしらまなやじやうとて、米の降る都なり。いかさまも牛若は、丑寅の方に立ち越えて、世に出よとの示現かや。あら不思議やな。北と東の間には、誰やの人を頼みて、下るべしともおぼえずと、まだいとけなき御心に、つくづくと案じ給ひけり。
(短中之部)

 東光坊に御帰りあり。常の所に御入りあつて、旅の出で立ちをし給ふに、涙も更に堰きあへず。いつも御身を離されぬ、黄金作りの御佩刀、古年刀の腰の物、これぞ忍びて持たれたる。召し使はれし童の、藍摺の直垂に、御身の召されたる、精好の大口を、脱ぎ替へさせ給ひ、御ぐし唐輪に高く上げ、七歳の御年より、住み馴れさせ給ひたる、東光坊を只一人、小夜に紛れて出給ふ。さすがに御寺の御名残、かたへの児達、小師同宿の名残ども、愛念深き人多し。未来をかけて契りし者、今も知らせてあるならば、前後を守護し行くべけれども、人目を忍ぶ旅なれば、只一人ぞ御出ある。心ざしこそ哀れなれ。
(短中之部)

 師匠に名残の惜しければ、記念のためと思し召し、一首の歌をぞ残されたる。思ひきや、身を奥山に住まひして、このみ一つに成り行かんとは。かやうに詠じ給ひ、庭の名木名石どもを、いつの世にかは立ち帰り、又見んずらんあぢきなや。桃李物言はねば、我出ぬるをよも告げじ。梅鶏舌を含めども、など暁を知らせぬぞ。さて本坊を立ち出て、地主権現伏し拝み、閼伽井の水も冴え曇り、影さへ宿す月もなし。七つに曲がる鞍馬坂。夜更けて物憂き道の辺を、貴船の神の社こそ、げに頼もしく聞こえけれ。名残ぞ惜しき市原の、立ちとどまりてみぞろ池。千早振るらん上賀茂の、道をただすの森過ぎて、夜はほのぼのと白川や。吉次に今も粟田口。はや松坂に牛若殿、程なく着かせ給ひけり。
(短中之部)


「烏帽子折」の内

 やあ、わ殿ばらがやうなる三界流浪の、吉次が供をする冠者が、左折りを着うずる事、思ひも寄らぬ所望かな。牛若可笑しく思し召し、仰せはさにて候へど、奥へ罷り下らうず、関々泊り泊りにて、左折りを着たるよと、人の咎めのあらん時、都の宿に、古き烏帽子のありつるを、所望して着て候が、左折りも右折りも、この冠者は知らぬなり。かかる難かしき烏帽子を、関屋に預け申すと言うて、うち捨てて通るならば、御身の難もあるまじき。わつぱが咎も逃るべし。
(曲節集一本)

 牛若殿は聞こし召し、これを譬へに申すかや。世は末世に及ぶと言へど、日月はいまだ地に落ちず。天上の唐錦、下つて泥沙に交じはる事無し。何として源氏の嫡々が、浮世を渡る、吉次が太刀をば持たうぞ。あら、はかなの心やな。吉次が太刀を持たばこそ、冥途にまします、父義朝の御佩刀を、持つにこそと思し召し、髭切の御佩刀を輪束に掛け、吉次が太刀をかづいて、奥へ下らせ給ひけり。涙の雨は玉蔓、昔はかけて見ぬものを。
(曲節集一本)

 長者が中の出居にて、錦を織るぞ聴聞せよ。承つて聴聞する。七夕彦星の、織る梭の音はていほろろ。声はさながら御法なり。二十尋に、七流れ織り付けて、長者殿の、中の出居に置き給ふ。長者なのめに喜うで、急ぎ内裏へ奉る。帝叡覧ましまして、所詮只まの殿は、仏にてましますや。仏の娘を乞ひかねて、十善の位をすべるとも、何かは苦しかるべき。位を御すべりましまして、十六の春の頃、たどろたどろと下らせ給ひける程に、十八日と申すには、豊後の国に聞こえたる、はや内山に着き給ふ。
(曲節集一本)

 千人の舎人どもは、刈り習ひたる事なれば、てんでに鎌をひつ提げて、掻き寄せ掻き寄せ草を刈る。いたはしや帝は、いつ刈り習はせ給はねば、牛にうちかかり、笛うち吹いてまします。馬は馬頭観音、牛は大日如来の化身と承るが、げにやさありけるか。人間は見知り申さねど、畜生なれども色風情を、見知りたるかと思しくて、草をも食まず、角を傾け舌を垂れ、帝の笛を聴聞する。千人の舎人ども、この由を聞くよりも、山路殿が吹く物の、名をば何と言ふやらん。横笛と申し候。あう、面白いぞや山路殿。草ばし刈るな笛を吹け。汝が牛には、草を刈りて掛けうぞよ。吹けよ吹けよと言ふ程に、一度も草を刈り給はず。これを以てこそ、夜更けて心澄めるをば、山路の草刈夜の笛。和布刈るは田子の浦。若草刈るは武蔵野よ。和布若草和歌の浦。用明天皇の、恋故あそばす笛をこそ、草刈笛と申すなり。
(幸若正利本)

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