五 伊東次郎と祐経が争論の事
かくて祐経、二十五まで給仕怠らざりき。ここに思はざるに田舎の母、一期尽きて、形見に父が預け置きし譲り状を取り添へて、祐経が元へぞ上せたりける。祐経、これを披見して、「こはいかに。伊豆の伊東といふ所は、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何によつて叔父の河津次郎相続して、この八箇年が間、知行しける。いざや冠者ばら、四季の衣更へさせん。」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右なく御暇賜はらざりけり。さらばとて、代官を下して催促を致す。伊東、これを聞き、「祐親より外に、全く他の地頭なし。」とて、冠者ばらを放逸に追放す。京より下る者は、田舎の仔細をば知らで、逃げ上りぬ。一臈にこの由を訴ふ。「その儀ならば、祐経下らん。」とて出で立ちけるが、案者第一の者にて、心を変へて思ひけるは、「人の僻事するといふを聞きながら、又下りて、劣らじ負けじとせん程に、まさる狼籍引き出し、両方得替の身となりぬべし。その上、道理を持ちながら、親方に向かひ意趣を込めん事、詮なし。祐経程の者が、利運の沙汰に負くべきにあらず。田舎より、かの仁を召し上せて、上裁をこそ仰がめ。」と思ひ、当たる処の道理をさし詰めさし詰め、院宣を申し下し、小松殿の御状を添へ、検非違使を以て伊東を京都に召し上せ、まことの知行なる時こそ、田舎にて横紙をも破り、打擲ども言ひけれ、院宣を成し、重ねて堅く召されければ、一門馳せ集まり、案者口利き寄り合ひ、伴なひ談合するといへども、道理は一つもなかりけり。祐継存生の時より執心深くして、「いかにもこの所を祐親が配領にせん。」と多年心に懸け、「既に十余年知行の所なり。一期の大事。」と金銀を調へ、ひそかに奉行所へぞ上りける。まことや、文選の言葉に、「青蠅も水精をけがさず。邪論も百の聖を惑はず。」とは申せども、奉行の愛づるも理なり。また漢書を見るに、「水至つて清ければ、底に魚棲まず。人至つて善なれば、内に友なし。」と見えたり。さればにや、奉行、まことに宝重くして、祐経が申し状立たざる事こそ無念なれ。
月明らかならんとすれども、浮雲これを覆ひ、水清からんとすれども、泥沙これを汚す。君は賢なりといへども、臣これを汚す理によつて、本券は箱の底に朽ちて、空しく年月を送る間、祐経、鬱憤に住して、重ねて申し状を奉行所に捧ぐ。その状に曰く、
伊豆国の住人、伊東の工藤一臈平祐経、謹しんで言上。
早く御裁許を蒙らんと欲する仔細の事。
右件の條、祖父萳美入道寂心死去の後、親父伊東武者祐継、その舎弟祐親、兄弟の仲不和なるによつて、対決度々に及ぶといへども、祐継、当腹寵愛たるによつて、安堵の御下し文を賜はつて、既に数箇年を経畢んぬ。ここに祐継、一期限りの病の床に臨む刻、河津次郎、日頃の意趣を忘れ、忽ちに訪ひ来る。その時、祐経は生年九歳なりき。叔父河津次郎に、地券文書、母どもに預け置きて、八箇年の春秋を送る。親方にあらずんば、伺候の臣と申すべきや。所詮、世のげいに任せ、伊東次郎に賜はるべきか。また、祐経に賜はるべきか。相伝の道理について、憲法の上裁を仰がんと欲す。よつて誠恐誠惶言上、件の如し。
仁安二年三月日 平祐経。
と書きて捧ぐ。公事所にこの状を披見ありて、「さし当たる道理に煩ひけるよ。」と、人々寄り合ひ、内談評定するは、「祐経が申し状、一つとして僻事なし。これは裁許せずば、憲法に背きなん。」また伊東、宝を上せて、「万事奉行を頼む。」と言ふ。しかれども、祐経は左右なく利運たる間、奉行所の私、成り難ければ、安堵の状二つ書きて、大宮の令旨を添へて下さる。伊東は、「半分なりとも賜はる処、奉行の御恩。」と喜びて、本国へぞ下りける。
「書は言葉を尽くさず。言葉は心を尽くさず。」といへども、一臈は言葉を失ひ、「十五より本所に参り、日夜朝暮給仕を致し、今年八箇年とおぼゆるに、重ねて御恩こそ蒙らざらめ。先祖の所領を半分召さるる事、そも何事ぞ。『水上濁れる時は、清からん事を思ひ、形の歪める時は、影の素直ならん事を思ふ。』と、伽陀に見えたり。父祐継が代には、かやうにはよも分けじ。今何ぞ半分の主たるべきや。これひとへに、親方ながら伊東が致す処なり。我が身こそ京都に住むとも、前後はみな弓矢の遺恨なり。いかでかこの事、怨みざるべき。」とて、ひそかに都を出て、駿河国高橋といふ所に下り、木津川、船越、荻野、蒲原、入江の人々は、外戚につきて親しかりければ、二百余人寄り合ひて、「祐親討ちて、領所を一人にて進退せん。」と思ふ心、付きにけり。この儀、神慮も計り難し。たとへばさし当たる道理、顕然たりといヘども、昔の恩を忘れ、忽ちに悪行を巧む事、伊東が昔をも思ひ、てんじゆがいにしへをも尋ぬべきにや。第一、叔父なり。第二、養父なり。第三、舅なり。第四、烏帽子親なり。第五に、一族中の老者なり。かたがた以ておろかならず。かやうに思ひ立つ事ぞ恐ろしき。いかにも思慮あるべきものをや。あまつさへ領地を奪はん事、不可思議なり。かかりける事を祐親、返り聞きて、嫡子河津三郎祐重、次男伊東九郎祐清、その外一門老少呼び集め、用心厳しくしければ、力に及ばず。これや、「富貴にして善を成し易く、貧賤にして功を成し難し。」とは、今こそ思ひ知られたれ。その後、伊東次郎、この事、ありのまま京都へ訴へ申して、永く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢所当に於きては、芥子ほども残らず押領する間、祐経、身の置き所なくして、また京都に帰り上り、ひそかに住まひぬ。とにもかくにも祐経は、伊東に悩まされて、本意を失ふのみならず、あまつさへ妻女をも取り返され、相模の国の住人、土肥次郎実平が嫡子、弥太郎遠平にぞ合はせられける。されば伊東が有様は、国にはまた並ぶ者なくぞ見えたりける。されども、「こうしやうなき不義の富は、災ひの仲立ち。」と左伝に見えたり。されば、行く末いかがとぞおぼえし。
工藤一臈は、なまじひの事を言ひ出して、叔父に仲を違はれ、夫妻に別れ、所帯は奪はれ、身を置きかねて肝焼きける間、給仕も疎略になりにけり。さればにや、御気色も悪しく、朋輩も側目にかけければ、積鬱耐え難く思ひ焦がれて、ひそかにまた本国に下り、大見の小藤太、八幡三郎を招き寄せて、泣く泣くささやきけるは、「各々、つぶさに聞け。相伝の所領を押領せらるるだにも安からざるに、結句、女房まで取り返されて、土肥弥太郎に合はせらるる事、口惜しきとも余りあり。今は命を捨てて、矢一つ射ばやと思ふなり。顕はれては、せん事叶ふまじ。我また便宜を窺はば、人に見知られて本意を遂げ難し。さればとて、とどまるべきにもあらず。いかがせん。各々、さりげなくして、狩りすなどりの所にても便宜を窺ひ、矢一つ射んにや。もし宿意を遂げんに於きては、重恩、生々世々に報じても余りありぬべし。いかがせん。」とぞ口説きける。二人の郎等聞き、一同に申しけるは、「それまでも仰せらるべからず。弓箭を取り、世を渡ると申せども、万死一生は一期に一度とこそ承れ。されば、古き言葉にも、『破れ易き時は、逢ひ難くして、しかも失ひ易し。』この仰せこそ面目にて候へ。是非、命に於きては君に参らする。」とて、各々座敷を立ちければ、頼もしくぞ思ひける。伊東は、いささかこの儀を知らざりけるこそ悲しけれ。
六 頼朝伊東の館にまします事
かくて大見、八幡は、伊東を狙ふべき隙を窺ふ程に、その頃、兵衛佐殿は、伊東の館にましましける処に、相模国の住人、大庭平太景義といふ者あり。一門寄り合ひ酒宴しけるが、申しけるは、「我等は昔、源氏の郎等なり。しかれども、今は平家の御恩を以て、妻子をはごくむといへども、昔の事、忘るべきにあらず。いざや、佐殿のいつしか流人として、徒然にましますらん。一夜宿直申して、慰め奉りて、後日の奉公に申さん。」「尤も、しかるべし。」とて、一門五十余人出で立ち、人別、ささえ一つあてにぞ持たせける。これを聞きて、三浦、鎌倉、土肥次郎、岡崎、本間、渋谷、糟谷、松田、土屋、曽我の人々、思ひ思ひに出で立ちける程に、近国の侍、聞き伝へ、「我もいかでか逃るべき。いざや参らん。」とて、相模の国には大庭が舎弟三郎、俣野五郎、佐越十郎、山内瀧口太郎、同じく三郎、海老名の源八、荻野五郎。駿河の国には竹の下の孫八、相沢弥五郎、吉川、船越、入江の人々。伊豆の国には北條四郎、同じく三郎、天野藤内、狩野藤五を始めとして、宗徒の人々五百人、伊豆の伊東へぞ参りける。
伊東、大きに喜びて、内外の侍、一面に取り払ひ、なほ狭かりければ、庭に仮屋を打ち出し、大幕引き、上下二千四、五百人の客人を、一日一夜ぞもてなしける。土肥次郎、これを見て、「雑掌は、百人二百人までは易かるべきに、既に二、三千人の客人を、一人に預くる事、無骨なり。」といふ。伊東、これを聞きて、「河津と申す小郷を知行せし時にも、いづれの誰にか劣り候べき。ましてや萳美の庄をふさねて賜はるものならば、などや面々に引出物申さであるべき。これ程の事、何かは苦しかるべき。」とて、山海の珍物にて、三日三夜ぞもてなしける。又、海老名の源八が申しけるは、「かかる寄り合ひに参りぬと、かねて存じて候はば、国より勢子の用意して、音に聞こゆる奥野に入り、物頭に馬相付け、鏑の遠鳴りさせざるが無念なり。」と言ひければ、伊東、これを聞き、「祐親を人と思ひてこそ、国の人々は打ち寄り、両三日はあそび給ふらめ。左右なく座敷にて勢子の願ひやうこそ心狭けれ。それそれ、河津三郎。勢子を催して、鹿射させ申せ。」と言ひけるぞ、伊東の運の極めなる。河津は元より穏便の者にて、心の内には殺生を禁ずる人なりければ、「いかにもして、この度の狩を申し止めなばよかるべし。」と思へども、多き侍の中にて親の申す事なれば、力及ばで、「あつ。」と答へて座敷を立ち、我と勢子をぞ催しける。「幼き者は馬に乗りて出よ。大人は弓箭を持て。」と触れければ、萳美の庄広くして、老若三千四、五百人ぞ出たりける。彼等を先として、三箇国の人々、我も我もと打ち出たり。
伊東、河津が妻女、数の女房引き連れて、南の中門に立ち出て、打ち出ける人々を見送りける。中にも河津三郎は、余の人にも紛はず、器量骨柄優れたり。「この中の大将と言ひたりとも悪しからじ。子ながらも優に見ゆるものかな。頼もし。」と宣ひければ、河津が女房、これを聞き、「弓矢取の物出の姿、女見送る事、詮なし。内に入らせ給へ。」と言ひければ、「げにも。」とて、各々内にぞ入りにける。十月十日余りに、伊豆の奥野ヘ入りにけり。
底本頭注
五 伊東次郎と祐経が争論の事
・御気色――御寵愛。
・案者――智者。
・得替――もと「交代」の意なれども、ここにては、所領を失ふ事。
・打擲――「罵詈」の義か。
六 頼朝伊東の館にまします事
・ささえ――竹筒。酒を入るる器。
・「この中の」云々――河津の父祐親の言葉。
校訂者注
五 伊東次郎と祐経が争論の事
・萳美の庄広くして――底本「萳美の庄広くしく」。岩波文庫本(1939)により改めた。
・青蠅も垂棘をけがさず、邪論も百の聖を惑はず――底本「青蠅も水精をけがさず、邪論もくの聖をまどはず」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注により改めた。
・一族中の老者なり――底本「一族なかの労者なり」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・とにもかくにも祐経は…並ぶ者なくぞ見えたりける。――底本「伊東に祐経は悩まされ本意を忘れ、祐経が妻女とり返し、相模の国の住人、土肥次郎実平が嫡子弥太郎遠平に合せけり。国には又双ぶ者なくぞ見えけり」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・夫妻に別れ、所帯は奪はれ――底本「夫妻の別れ、所帯は奪はれ」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
六 頼朝伊東の館にまします事
・大庭平太景義――底本「大庭平太景信」。岩波文庫本(1939)本文により改めた。以下同様。
コメント