九 奥野の狩座の事

 さても両三箇国の人々は、各々奥野に入り、方々より勢子を入れて野干を狩りけるほどに、七日が内に、猪六百、鹿千頭、熊三十七、むささび三百、その外雉、山鳥、猿、兎、むじな、狐、狸、さい、狼の類に至るまで、以上その数、二千七百余りぞとどめられける。「今はさのみ野干を亡ぼして、何にかはせん。」とて、各々柏ヶ峠にぞ上がりける。「この程の雑掌は、伊東一人して暇なかりければ、持たせたる酒、人々の見参に入れざるこそ本意なけれ。いざや、山陣を取りて、頼朝に今一献進め奉らん。」「しかるべし。」とて、宗徒の人々五百余人、峠におりゐつつ、用意をこそはせられけれ。

十 同じく酒宴の事

 さる程に、柏ヶ峠に各々うち上がりければ、土肥次郎が申しけるは、「今日の御酒宴は、かねて座敷の御定めあるべし。若き方々の御違乱もや候べき。」大庭平太はこれを聞き、「これは芝居の座敷。誰を上下と定むべき。年寄らふ人の盃は、海老名殿より始め、若殿ばらは瀧口殿より始めよ。この人は、いづ方にぞ。」と申しければ、弟の三郎聞き、「兄にて候者は、熊倉の北の脇に鹿の来るを目に懸け、深入りして未だ見えず候へ。家俊こそ参りて候。」土屋が申しけるは、「三郎殿こそ瀧口殿よ。兄弟の中に、誰をか分きて隔つべき。その盃、三郎殿より始めよ。」と言ふ時、大庭聞き、「瀧口殿は、年こそ若けれども、さる人ぞかし。今来ると言ふを、少しの間、待たぬか。左右なく肴荒らすな。」とて、奥野の山口の方へ迎へを遣り、「瀧口遅し。」と待つ処に、瀧口は、熊倉の北の脇を過ぐるに、埒の外に熊の大きなるを見付けて、元の繁みへ入れじと、平野に追ひくだす処に、瀧口、大なる伏木に馬を乗り掛け、真さかさまに馳せ倒す。馬を顧みず、弓の元を左右の鐙に乗り掛かり、草隠れに矢頃少し延びたりけるを、三人張に十三束の大鏑矢つがひ、拳上に引き掛け、ひやうど放つ。遠鳴りして右のをり骨二つ三つ、はらりと射削り、鏑は割れてさつと散りければ、鏃は岩にがしと当たる。熊は手を負ひ、滝口に猛りて懸かる。勢子の者どもこれを見て、四方ヘばつとぞ逃げたりける。瀧口、二の矢をつがひ、絞り返して、月の輪を外さじと、ゐを掛けて射ければ、熊は少しも動かず、矢二つにてとどまりけり。
 その後、勢子の者ども呼び寄せ、熊を舁かせて、人々のおり居たる峠にうち上がり、急ぎ馬よりおり、「肴尋ね候とて深入り仕り、遅参申すなり。御免候へ。」と言ひて、笠をも脱がず、靭をも解かず、行縢ながら弓杖突きて立ちたり。吉川の三郎、俣野に居組みてありけるが、これを見て、「瀧口殿は、聞きしより見増しておぼゆるものかな。あつぱれ男かな。」と褒めければ、座敷に居煩ひたり。まことに気色顔にて、「何事がな力業して、なほ褒められん。」と思ヘども、芝居の事なれば、叶はでありけるを、弟の瀧口の三郎と船越の十郎が居たりける間に、青めなる石の高さ三尺ばかりなるを、「寄りて持たばや。」と思ひければ、するすると歩みけるを見て、弟の家俊、立たんとす。膝を押さへてはたと睨みて、「弓矢の座敷を片去るとは。我が居たる家を出て他所に居わたり、その家に人を置くをこそ、座敷片去るとは言へ。これ、ここなる石の二人が間にありて、詰まりやうの憎さにこそ。」と言ひて、右の手をさし延べて、後ろざまへ押しければ、大石が押されて、谷へどうど落ち行く。
 海老名の源八がこれを見て、「東八箇国の内に、男子持ちたらん人は、瀧口殿をよき物あやかりにせよ。器量と言ひ、弓矢取りては樊噲、張良なり。あつぱれ侍や。」と褒められ、いよいよ気色を増し、老いの末座敷より進み出、申しけるは、「只今の盃も、さる事にて候へども、余りにもどかしくおぼえ候。大なる盃を持つて、一つづつ御廻し候へかし。」と申しければ、「滝口殿の仰せこそ面白けれ。」とて、伊東の次郎貝といふ貝を取り出し、この貝は、日本三番の貝とて、院へ参らせたりしを、公家には貝を御用ゐなき事なれば、武家に下さるる。太郎貝をば秩父に下さる。提子五つぞ入りける。二郎貝をば三郎に下さる。しんすけ賜はつて、土肥次郎に取らする。殿上を許されたる器物とて、秘蔵して持ちけるを、折節河津三郎、土肥が婿になりて来りしを、引出物にしたりけり。内は己なりにして、外は梨地に蒔きて、磯なりにめをさしたり。提子三つぞ入りける。これを取り出し、瀧口が元より始めて、二度づつぞ廻しける。五百余人の持ちたる酒なれば、酒に不足ぞなかりける。
 後には乱舞して、踊り跳ねてぞあそびける。海老名の源八、盃控へて申しけるは、「これはめでたき世の中を、うつつとも定め難く、昔語りにならん事こそ悲しけれ。老少不定と言ひながら、若きは頼みあるものを。若殿ばらのやうに舞ひ歌はんと思ヘども、膝震ひ、声も立たず。劉石が塚より出て、伯倫が頽然とせしやうに、酒盛れや、殿ばら。あはれ、若くありし時は、これ程の盃、二、三十飲みしかども、座敷に臥すほどの事はあらねども、老いの極めやらん、腰膝の立たざるこそ悲しけれ。」ひとへに白居易が昔も、かくや老いにけん。今更思ひ出られて、哀れにこそはおぼえけれ。

底本頭注
 九 奥野の狩座の事
 ・野干――狐の事なれども、ここにては獣の総称。
 十 同じく酒宴の事
 ・芝居――草生に座する事。

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校訂者注
 十 同じく酒宴の事
 ・俣野に居組みて――底本「俣野に射組みて」。岩波文庫本(1939)本文改めた。
 ・劉石が…頽然と――底本「りうせきがつかより出でて、はんらうが茫然と」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。