十四 伊東が出家の事
かくて父伊東次郎は、さかさまなる事なれども、かの者の菩提を弔はんがために出家して、六道に当てて三十六本の卒塔婆を造立し奉る日、聴聞の貴賤男女、数を尽くして参詣する処に、五つになりける一万が、父の蟇目に鞭を取り添へて、「これは父の物。」とて引つ提げければ、母、これを見て呼び寄せて、「亡き人の物をば持たぬ事ぞ。皆々捨てよ。行く末遥かのものぞかし。汝が父は仏に成り給ひて、極楽浄土にましますぞ。わらはも終には参るべし。」と言ひければ、一万喜びて、「仏とは何ぞ。極楽とはいづこにあるぞや。急ぎましませ。我も行かん。」と責めければ、母は言ひ遣る方もなくして、卒塔婆の方に指をさして、「かれこそ浄土の父よ。」と言ひければ、一万、弟の箱王が手を引き、「いざや、父御の元に参らん。」と急ぎけれども、箱王は三つになりければ、歩むにはかも行かず。急ぐ心に弟を捨てて、卒塔婆の中を走り巡り、空しく帰りて、母の膝の上に倒れ臥して、「仏の中にも我が父はましまさず。」とて泣きければ、乳母も共に泣き居たり。その日の説法のみぎりより、一万が振舞にこそ、貴賤、袂を濡らしけり。四十九日には、八塔を供養すとかや。
十五 御房が生まるる事
さても河津が仏事過ぎしかば、その次の暁方に、女房、例ならざれば、人々やがて心得しかば、九月半と申すには、産の紐をぞ解きたりける。「まことにこの程の嘆きには、いかが。」と案じけるに、何のつつがもなく、男子を生みけり。母、申しけるは、「おのれは果報少なき者かな。今少し疾く生まれて、などや父を見ざりけるぞ。蜉蝣といふ虫こそ、朝に生まれて夕に死するなれ。汝が命、かくの如し。わらはも、『尼になり、山々寺々の麓に閉ぢ籠り、花を摘み水を汲み、仏に供へ奉り、汝が父の孝養にせん。』と思へば、身には添へざるぞ。ゆめゆめ怨むべからず。」とて、やがて棄てんとせし処に、河津三郎が弟、伊東九郎祐清といふ者あり。一人も子を持たざりければ、この事を聞き、女房、急ぎ参りて、「まことや、『今の幼い人を捨てん。』と仰せらるる由を、ほの聞きたり。いかでかさる事あるべきぞ。亡き人の形見にも見もし給はず、捨て給はん事、罪深かるべし。また善悪の事も、それを節と思へば、折々に思ひ出す事の端に成るものを。しかも男子にてましませば、わらはに賜び給へ。養ひ立てて、一家の形見にもせん。」と言ひければ、「この身の有様にて、身に添ふる事、思ひも寄らず候。さやうに思し召さば。」とて、取らせけり。やがて心安き乳母をつけて養育す。名をば御房とぞ言ひける。さるほどに、忌みは八十日、産は三十日にもなりにけり。「百ヶ日に当たらん時、必ず尼になりぬべし。」とて、袈裟衣をぞ用意したりける。
十六 女房曽我へ移る事
さても、河津が女房は、月日の重なるに従つて、いよいよ出家遁世の心を思ひ立ちければ、伊東入道、この由を伝へ聞きて、人して申しけるは、「まことや、姿を変へんとし給ふなると聞く。子どもをば誰に預け育めとて、さやうの事をば思ひ立ち給ふぞ。老い衰へたる祖父や姥を頼み給ふかや。それ、更に叶ふべからず。三郎なければとて、幼い者どもあまたあれば、露ほどもおろかならず。ひとへに祐重が形見とこそ思ひ奉れ。いかなる有様にても、身を窶さずして、幼い者どもをも育て、人と成し給へ。されば、今更にうとき方へましまさば、我も人も見奉る事、叶ふまじ。相模国曽我太郎と申すは、入道所縁ある者にて候。折節、『このほど年頃の妻女に後れて、嘆き未だ晴れ遣らず候。』と承り候。それへ遣り奉るべし。おのづから心をも慰み給へ。入道が辺りなれば、隔ての心はあらず。」と細々とぞ言ひける。さて女房には、やがて人をつけ、厳しく守らせければ、尼に成るべき暇もなし。即ち入道、曽我太郎が元へ、この由、詳しく文に書きて遣はしければ、祐信、文を見て大きに喜び、やがて使とうち連れ、伊東へ越して、子ども諸共に迎へ取りて、帰りけり。いつしかかかる振舞は、返す返すも口惜しけれども、さる事なれば、怨みながらも月日をぞ送りける。これを以て昔を思ふに、せいぢよは夫のためにきんごくにとめられ、はくえいは夫に後れ、えびすの住みかに馴れしも、心ならざる怨めしさ、今更思ひ知られたり。
校訂者注
十四 伊東が出家の事
・八塔を供養すとかや――底本、「八道を供養すとかや」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
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