二十 奈良の権操僧正の事
これや延暦年中に、奈良の権操僧正は、大旱魃に雨の祈りのため、大和の国布留の社にて、薬草喩品を一七日講ぜられけるに、いづくともなく童一人来りて、毎日御経を聴聞しける。七日に満ずる時、「何者にや。」と御尋ねありければ、「我はこの山の小龍なり。七日の聴聞によつて、安楽世界に生まれ候ひなん嬉しさよ。」とて、随喜の涙を流しけり。その時、僧正の曰く、「龍は雨を心に任する者なれば、雨を降らしめ給へ。」と仰せければ、「大龍王の許しなくして、我が計らひにては成り難く候へども、さりながら、後生菩提を御助け給ひ候はば、身は失せ候とも、雨を降らし候はん。」と申す。「左右にや及ぶ。追善あるべし。」と御領承ありしかば、即ち雷と成りて天に上がり、雨の降る事二時ばかりなり。されどもこの龍、その身砕けて、五所へぞ落ちにける。僧正、憐れみ給ひて、かの龍の落ちける所にして、一日経を書写せられけり。その後、かの僧正の夢に、「御弔ひにより、即ち蛇身を転じて仏道に生ず。」と見えたり。さて、「かの五所に五つの寺を建てて、今にあり。」と申すなり。寺号は龍門寺、龍泉寺、龍しよく寺、龍はう寺、龍そん寺これなり。紀の国、大和両国にあり。「勤行も、とこしなへに怠らず。」とこそ聞こえけれ。
かやうの畜類だにも、後生をば願ふぞかし。この伊東入道は、最期の時にも後生菩提を願はざるぞ愚かなる。これを以て過ぎにし事を案ずるに、「親の譲りを背くのみならず、現在の兄を調伏し、持つまじき所領を押領せし故、天、これを戒めける。」とぞおぼえたる。されば、「悪は一旦の事なり。勝利ありといへども、終には正直にして、道理、道を行く。」とかや。総じて、頼朝に敵したる者こそ多き中に、目の当たりに誅せられける、因果逃れざる理を思へば、昔、天竺に大王あり。「貴き上人あり。」とて、迎へを遣はし給ふに、この王、朝夕碁を好み、臣下を集めて打ち給ふ時、「上人、参り給ひぬ。」と申しければ、碁に切りてしかるべき所ありけるを、「切れ。」と宣ひけるに、「この上人の首を斬れ。」との宣旨と聞きなして、即ち聖の首をうち斬りぬ。大王、夢にも知り給はで、碁を打ち果てて、「その上人、こなたへ。」と宣ふ。「宣旨に任せて斬りたり。」と申す。大王、大きに悲しみ、仏に嘆き給ふ。時に仏、宣はく、「昔、国王は蛙にて、土中にありしなり。上人は元、田を作る農人なり。しかるに民、春、田を返すとて、心ならず唐鋤にて蛙の首をすき切りぬ。その因果逃れずして斬られにけり。因果はかやうなるものをや。」と宣へば、国王、未来の因果を悲しみて、多くの志を尽くして、かの苦を免れ給ひけるとかや。人はただ、報ひを知るべき事なりとぞ。
二十一 祐清京へ上る事
ここに伊東九郎と申すも、父入道と一所にて誅せらるべきを、「彼に於いては頼朝に奉公の者なり。死罪をなだめられ、召し使はるべき」由、仰せ下されしを、「不忠の者の子、面目なし。その上、石橋山の合戦にまさしく、『君を討ち奉らん。』とうち向かひし身が、命生きて候とも、人に等しく頼まれ奉るべしとも存ぜず。さあらんに於いては、首を召されん事こそ深き御恩たるべし。」と望み申しけるも、やさしくぞおぼえける。「この心なればや、君をも落とし奉りける。」と、今さら思ひ知られたり。君、聞こし召され、「申し上ぐる処の辞儀、余儀なし。しかれども、忠の者を斬りなば、天の照覧もいかが。」とて、斬らるまじきにぞ定まりける。九郎、重ねて申しけるは、「御免候はば、忽ち平家へ参り、君の御敵と成り参らせ、後ろ矢仕るべし。」と再三申しけれども、御用ゐなく、「たとひ敵と成ると言ふとも、頼朝が手にては、いかでか斬るべき。」と仰せ下されければ、力及ばず京都に上り、平家に奉公致しけるが、北陸道の合戦の時、加賀の国篠原にて、斎藤別当と一所に討死して、名を後代にとどむ。「よき侍の振舞、弓矢の義理、これに如かじ。」とて、惜しまぬ者はなかりけり。
二十二 鎌倉の家の事
さても佐殿、北の御方取り奉りし江間小四郎も討たれけり。その跡を北條小四郎義時に賜はる。さてこそ江馬小四郎とも申しけれ。この外、討たるる侍ども、相模の国には秦野馬允、大庭三郎、海老名源八、荻野五郎。上総の国には上総介。陸奥には秀衡が子どもを始めとして、国々の侍五十余人ぞ討たれける。また平家には、八島の大殿、右衛門督清宗、本三位中将重衡を先として、或いは斬られ、自害する輩を記すに及ばず。源氏には、御舎弟三河守範頼、九郎判官義経、木曽義仲。甲斐の国には一條次郎忠頼、小田入道。常陸の国には志太三郎先生を始めとして、以上二十八人。かれこれ討たるる者、百八十余人なり。「この中に、冤扁の者は僅か三人なり。一條次郎、三河の守、上総介なり。この外は皆、自業自得果なり。」とぞ宣ひける。さて、鎌倉に居所を占めて、郎従以下、軒を並べ、貴賤、袖を連ねけり。これや、政要の言葉に、「漢の文王は千里の馬を辞し、晋の武王は雉頭の革衣を焼く。」とは、今の御代に知られたり。民の竈は朝夕の煙豊かなり。「賢王、世に出づれば、鳳凰、翼を伸べ、賢臣、国に来れば、麒麟、蹄をとどむ。」といふ事も、この君の時に知られたり。めでたかりし御事なり。
二十三 八幡大菩薩の御事
そもそも八幡大菩薩をば、忝くも鶴ヶ岡に崇め奉る。これを若宮と号す。蘋蘩の礼、社壇に繁く、奉幣にんわうの碩社なり。その垂迹、三所に、仲哀、神功、応神三皇の玉体なり。本地を思へば弥陀三尊の聖影、行教和尚の三衣の袂を顕はし給へり。百皇鎮護の誓ひを起こして、一天静謐の恵みまします。まことにこれ、本朝の宗廟として、源氏を守り給ふとかや。現世安穏の方便は、観音勢至神力を受け給ふ。後生善所の利益は、無量寿仏の誓ひを施し給ふ。仰ぎても信ずべきは、最もこの御神なり。父左馬頭のために、勝長寿院を建立し給ふ。今の大御堂これなり。その外、堂社塔婆を造立し給ふ。仏像経巻を経営す。征罰の志速く速やかにして、善根もまた莫大なり。寿永二年九月四日に、居ながら征夷将軍の院宣を蒙り、建久元年十一月七日に上洛して大納言に補し、同じき十二月五日に右大将に任ず。されば、籌策を帷帳の内に巡らし、勝つ事を千里の外に得たり。げにや、遥かに伊豆の国に流罪せられ給ひし時、かかるべしとは誰か思ひけめ。一天四海を従へ、靡かぬ草木もなかりけり。まことや、史記の言葉に、「天下安寧なる時は、刑措を用ゐず。」とは、今こそ思ひ知られたれ。平家繁昌の折節は、「誰やの人か、この一門を滅ぼすべし。」とは思ひける。
さても、伊豆の御山にて夢物語し、同じく合はせ奉りし者は、勧賞に預かり、藤九郎盛長は、上野の総追捕使になさる。景延は、若宮の別当神人総官を賜はる上に、大庭の御厨は、先祖には代々あまたに分かれたりしを、今度は一円に賜はりけり。この外、荘園五、六箇所賜はつて、朝恩に誇りけり。さても先年、河津三郎を討ちたりし工藤一臈祐経は、左衛門尉になりて、伊東を賜はる。その外、所領あまた拝領して、随分切り者にて、昼夜、君の御側去らで伺候す。されども、「傷を蒙る鳥は、天に上りて翼を叩くといへども、また地に落つる思ひあり。釣針を含む魚は、深き淵に入つて尾を振るといへども、終には陸に上がる憂へあり。祐経も、かやうに果報いみじくて、公方、私、おどろをさかさまに引くといへども、敵ある身は行く末逃れ難くして、終に討たれなん。」とぞ申しける。
校訂者注
二十二 鎌倉の家の事
・その跡を北條小四郎義時に賜はる――底本、「その跡を北條四郎時政に賜はる」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
二十三 八幡大菩薩の御事
・麒麟、蹄をとどむ。」といふ事も――底本、「麒麟蹄をとぐ、といふ事も」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
・経巻を経営す――底本、「経巻をきやうそうす」。岩波文庫本(1939)本文脚注に従い改めた。
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