九 五郎女に情け懸けし事
さてもこの人々は、三浦より帰るさに、「大磯にうち寄りて、虎に見参せん。」と言ひければ、「しかるべく候。この度出て、長き別れにてもや候べからん。思ひ出して、一遍の念仏にも預かりたき事にて候ぞかし。まことに思ひ切られぬ道にて候。時致も、化粧坂の麓に知りたる者の候。五日十日を経て行く道にても候はず。この度出なん後は、また相見ん事も難し。明日参り合ひ申さん。」とてうち別れにけり。
五郎は一夜を明かし、明けければ鎌倉を出て、腰越より片瀬の宿へぞ通りける。折節、梶原源太左衛門、十四、五騎にて、かの宿におり居たりしが、五郎が通るを見て、「申すべき仔細候。暫しとどまり給へ。」とて、足軽を走らしむ。五郎、かねて聞く事ありければ、「さしたる急事の候。後日に見参に入るべし。」とて通りにけり。「定めて五郎はとどまるらん。」と、片瀬川をかけ渡し、向かひの岡に駒うち上げて見ければ、遥かにうち延びぬ。「この者は何と心得て、かやうには振舞ふらん。」とて、駒を静めて打つて行く。時致は、「馬の息休めん。」とて、平塚の宿におり居て暫くありける処へ、景季、打つて来り、「これに控へたるは、曽我の五郎が乗りたる馬ごさんめれ。」とて、縁の際に駒うち寄せける気色、怒り余りければ、乗換五、六騎、馬より下り、広縁に上がる。五郎、これを聞きて、「悪しかりなん。」とや思ひけん、急ぎ内にぞ入りにける。源太、「この上は尋ぬるに及ばず。」とて、手綱かい繰り通りけり。
五郎、物越しに聞き、「世に驕り、又人も無げなる奴かな。走り出て一太刀斬り、いかにもならばや。」と思ひけれども、「この二十余年、惜しかりつる命は、景季がためにはあらず。祐経にこそ。」と思ひとどまりけり。これや論語に曰く、「事を遂げんには、勇まずして万事を咎めざれ。」とは、今の五郎が心なるをや。見聞く輩は、「五郎が不覚なり。」とは言ひけれども、敵祐経を討ちて後、引き据ゑられし時、君の御返事をば申さで、まづ源太に向かひ、「わ殿は年頃、時致に意趣あり。今は時致が身に思ふ事なし。本意を遂げよ、遂げよ。」と言ひければ、景季、御前を罷り立ち、五郎がありける程は参らざりけり。時致は、和田、畠山、左右にありけるその方を見遣りて、笑みを含みけるこそ、理過ぎておぼえける。これや、「松柏は霜の後に顕はれ、忠臣は世の危ふきに知らるる。」とは、今こそ思ひ知られたれ。「暫くもなかりける時致、平塚の宿にてはさこそ思ひつらめ、大事の前に小事なし。身に思ひあれば万事を捨て、平塚の宿まで逃げたりし会稽の恥を、只今すすぐ。」と申し合へり。「思ふ事だになかりせば、源太が命は危ふかりし。」とぞ申しける。
そもそもこの意趣を尋ぬるに、化粧坂の麓に遊君あり。時致、情けを懸け、浅からず思ひしに、引く手あまたの事なれば、梶原が浜出して帰りざまに、この女の元にうち寄りて、夜と共にあそびけり。暁、「帰る。」とて、いかがしたりけん、腰の刀を忘れて出けるを、女の元より、「刀を遣はしける。」とて。
急ぐとてさすが刀を忘るるはおこしものとや人の見るらん
景季、馬に乗りながら、弓手の鐙を未だ踏みも直さず、返歌をぞしたりける。
形見とて置きてこしものそのままに返すのみこそさすがなりけれ
その頃、源太左衛門は、「歌道には、定家、家隆なりとも。」と思ひしなり。「さても、この歌の面白さよ。」と思ひ初めて、景季、通ひ馴れけり。よその事わざなど戯れければ、女、引き籠り、五郎一人にも限らず、出仕をとどめけり。
これをば知らで、五郎、かの元に行き尋ねけれども、逢はざりけり。「何によりてか。」と怪しくて、友の遊君に問ひければ、「梶原源太殿の取りて置かれ、余の方へは思ひも寄らず。」と言ひければ、五郎聞きて、「流れを立つる遊び者。頼むべきにはあらねども、世にある身ならば、源太には思ひ替へられじ。」と、身一つのやうに思ひけり。「『貧は諸道の妨げ。』とは、面白かりける言葉かな。人をも世をも怨むべからず。」とて、この歌を詠み置きて出ぬ。
逢ふと見る夢路にとまる宿もがなつらき言葉にまたも帰らん
と書きて、引き結びて置きたり。五郎帰りて後、この女、立ち出て見れば、結びたる文あり。取り上げて見れば、日頃馴れにし五郎が手蹟なり。この歌をつくづく見て、文を顔に当て、さめざめと泣きつつ、友の遊君に、「これ御覧ぜよや、人々。恥とも知らで恥づかしや。日本我が朝は、瑞穂の国として、神明、光を和らげ、天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひし時、『あら面白。』と言ひ初め給ふも、この三十一文字の歌故ぞかし。『かくあるべし。』と知りたらば、いかで情けなうあるべき。」とぞ思はれける。
十 巣父許由が事
さてもこの女房は、時致が歌をかなたこなたに見せ、申しけるは、「昔もさるためしあり。大国に潁川といふ川あり。巣父といふ者、黄なる牛を牽き来る処に、許由といふ賢人、この川のはたにて左の耳を洗ひ居たり。巣父、これを見て、『汝、何によりて左の耳ばかりを洗ふにや。』と問ひければ、許由、答へて曰く、『我は、この国の賢人と言はれし者なり。我が父、九十余にして老耄、極まりなし。我、未だ幼少なり。されば、神拝、政みだりにして、ある甲斐なき身なれば、都を出ぬ。この程聞きつる事、みな左の耳なれば、汚れたる事極まりなし。それを洗ふなり。』と言ひけり。巣父聞きて、『さてはこの川、七日濁るべし。汚れたる水、飼ひて益なし。』とて、牛を牽きて帰りしが、また立ち帰り、『さて、汝はいづくの国に行き、いかなる賢王をか頼むべき。』と問ふ。『賢人、二君に仕へず。貞女、両夫にまみえず。』となり。されば、首陽山に入り、蕨を折りて過ぎける、と申し伝へ候ひけり。二心なきには如かじ。」とぞ。
十一 貞女が事
「ここにまた、『貞女、両夫にまみえず。』といふ事あり。さる国に、しそうといふ王あり。かんばくといふ臣下を召し使ひ給ふ。或る時かんばく、結びたる文を落としたり。帝、御覧じて、『いかなる文ぞ。』と御尋ねありければ、『臣、宮仕へ暇なくて、日数を送り、家に帰らず候。心もとなしとて、妻の元よりくれたる文。』と申す。なほ怪しみ、『叡覧あらん。』と勅諚あり。隠すべき事ならねば、叡慮に捧ぐ。『この文の主、呼びて見せよ。』と仰せ下されければ、宣旨、背き難くて、この女を呼びて、見せ奉る。帝、御覧じて、押しとどめ置き給ふ。かんぼく、安からずに思ひけれども、叶はず。女も、王宮の住まひ物憂くて、ただ男の事のみ思ひ嘆きければ、この時帝、『いかがせん。』と思し召し、時の関白りやうはくといふ者を召し、この事問ひ給ふ。『さらば、彼が男のかんばくを片輪になして見せ給へ。思ひはさめぬべし。』と申したりければ、『しかるべし。』とて、耳鼻をそぎ、口を裂きて見せ給ふ。女、『我故に、かかる憂き目に遭ふよ。』といよいよ嘆き、伏し沈み悲しみければ、また臣下に問ひ給ふ。『さらば、かんばくを殺して見せ給へ。』と申しければ、やがて深き淵にぞ沈められける。女、聞きて、思ひ少しなほざりにして申しけるは、『願はくは、かの淵を見ん。』と言ひけり。大王、『はや思ひ捨てけり。』と喜び給ひ、大臣公卿諸共に、かの淵に臨み、管絃遊宴してあそび給ふ時に、この女、汀に出で休らふとぞ見えしが、淵に飛び入りて死にけり。大王を始めとして、あへなさ限りなくて、空しく帰り給ひけり。
十二 鴛鴦の剣羽の事
「かくて帝、還幸ましまして、嘆きながらも月日を送り給ふ。幾程なくして、この淵の中に赤き石二つ出で来て、抱き合ひてぞありける。まことに不思議なり。『かんばく夫婦の霊魂なるをや。』と人申しければ、大王、聞こし召し、なほもありし面影の忘れ難くて、また官人召し具し、かの淵のほとりに行幸成り、叡覧ありければ、申すに違はず、まことに石二つあり。不思議に思し召す処に、かの石の上に鴛鴦ひとつがひ上がりて、鴛鴦の衾の下、懐かしげに戯れけり。『これも彼等が精にてもや。』と御覧じけるに、この鴛鴦、飛び上がり、思ひ羽にて王の首をかき落とし、淵に飛び入り失せにけり。それよりして、思ひ羽を剣羽と申すなり。
十三 五郎が情け懸けし女出家の事
「さる程に、皆人よく聞き給へ。『貞女、両夫にまみえず。』とは、前に言ひつる女の事なり。いかなる貞女か二人の夫に見え、いかなる身にてか、引く手あまたに生まれつらん。さらぬだに我等風情の者は、『欲心に住する。』と言ひ習はせり。『己を知る者のためにかたちを繕ふ。』とは、文選の言葉なるをや。我また、甲斐甲斐しくなければ、景季がまことの妻女になるべき身にてもなし。来世こそ終の住みかなれ。その上、歌は神も仏も納受し、慈悲を垂れ給ふ。されば、花に鳴く鴬、水に住む蛙だにも、歌をば詠むぞかし。いはんや人として、いかでかこれを恥ぢざるべき。」とて、この歌を詠みける。
数ならぬ心の山の高ければ奥の深きを尋ねこそ入れ
捨つる身に猶思ひ出となるものは問ふに問はれぬ情けなりけり
まことや、「天人のゐんせざる処は、災ひありて、しかも幸ひなし。」と、東方朔が言葉、思ひ知られて、しかるべき善智識を尋ね、生年十六歳と申すに出家して、諸国を修行して、後には大磯の虎が住みかを尋ね、共に行ひ澄まして、八十余にして大往生を遂げにけり。「ありがたかりし志。」とぞ聞こえし。
さる程に、源太左衛門景季は、この事を聞きて、「元よりこの女の、心ざま尋常にして、歌の道にも優し。今は、曽我五郎こそ敵なれ。行き遭はん所にて本意を達せん。」と思ひければ、さてこそ平塚の宿までは追ひたりけり。その時、「景季が勢ひ、また並ぶ人やあるべき。」と振舞ひしかども、富士の裾野にては、まことに男がましくも見えざりしぞかし。されば、「人は世にありとも、よくよく思慮あるべきものを。」とて、皆人、申し合はれけり。五郎も、この事を伝へ聞きて、優しくも、また心もとなくもぞ思ひける。これによつて、いよいよ身を身とも、世を世とも知らで、思ふ事のみ急ぎけるは、理過ぎてぞ聞こえける。
底本頭注
九 五郎女に情け懸けし事
・ごさんめれ――にこそあるめれ。
校訂者注
九 五郎女に情け懸けし事
・一遍の念仏にも預かりたき――底本、「一遍の念仏も計り難き」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・大事の前に小事なし――底本、「大事ありて小事なし」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・「何によりてか。」と怪しくて――底本、「何によりてかと危く」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・瑞穂の国として――底本、「みづのおの里として」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
十 巣父許由が事
・それを洗ふなり――底本、「それを洗ふにや」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
十三 五郎が情け懸けし女出家の事
・かたちを繕ふ。』とは、文選――底本、「容をつくろふ、と文選」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・思ひ知られて――底本、「思ひ知られて候ふ」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
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