十四 呉越の戦ひの事
そもそも「五郎が富士野にて会稽の恥を清む。」と言ひける由来を詳しく尋ぬるに、昔、異国に呉国、越国とて、並びの国あり。呉の国の王をば、闔閭の子にて呉王夫差と言ひ、越国の王をば、大帝の子にて越王勾践とぞ言ひける。しかるに、かの両の王、国を争ひ戦ひをなす事絶えず。或る時は呉王を滅ぼし、或る時は越王を退治し、或る時は親の敵と成り、或る時は子のあだと成る。犠牲甚だしく、累年に及ぶ。
ここに越王の臣下に、范蠡といふ武勇の達者あり。彼を招き寄せて曰く、「今の呉王は、まさしき親の敵なり。これを討たずして、いたづらに年を送りて、嘲りを天下に残す事、父祖の恥を九泉の苔の下に辱しむる事、恨み尽くし難し。されば、『越国の兵を催し、呉国へうち越え、呉王を討ち滅ぼして、父祖の恨みを報ぜん。』と思ふなり。汝は暫し国にとどまりて、社稷を守るべし。」と宣ひければ、范蠡申しけるは、「暫く愚意を以て事を計るに、今越の力にて呉を滅ぼさん事、難かるべし。その故は、まづ両国の兵を数ふるに、呉には二十万騎あり。越の国には僅か十万騎なり。『小を以て大に敵せざれ。』となり。その上、呉王の臣下に伍子胥とて、智深うして才高き事のみならず、人を懐くる事、雨の降るが如し。かくの如きの勇士あり。彼があらん程は、呉王を滅ぼさん事、叶ふべからず。麒麟は角に肉ありて、猛き形を顕はさず。潜龍は三冬にうづくまつて、一陽来復の天を待つ。暫く兵を伏して武を隠し、時を待ち給へ。」と諌めければ、越王、これを用ひず、大きに怒つて、「軍の勝負は勢の多少によらず。ただ時の運により、または大将の謀り事によるなり。されば、呉と越との戦ひ度々に及び、雌雄を決する事、汝悉く知れり。次に、『伍子胥があらん程は叶はじ。』と言はば、我、終に父祖の敵を討たずして、恨みを謝せん事あるべからず。いたづらにして伍子胥が死ぬるを待たば、生死限りあり。老少定まらず。伍子胥と我、いづれをか先と知らん。これ、しかしながら汝が愚暗なる故なり。我また兵を催す事、定めて呉国へ聞こゆらん。事延びば、かへつて呉王に滅ぼされなん時に、悔ゆとも益あるまじ。」とて、越王十一年二月上旬の頃、十万騎の兵を率して、呉国へぞ寄せたりける。
呉王、これを聞き、「小敵、欺くべきにあらず。」とて、みづから二十万騎の勢を率して、呉と越との境、夫枡県といふ所に馳せ向かうて、後ろには会稽山を当て、前にはごせんといふ大河を隔て、後陣を取り、敵を謀らんがために三万騎をば出して、残り十七万騎をば、後ろの山に隠し置きけり。
越王、夫枡県に臨みて敵を見るに、僅か二、三万騎には過ぎざりけり。「思はず小勢なり。」とて、十万騎の兵を同じ心に駆け出させ、筏を組みて馬をうち渡す。呉の兵かねてより、「敵を難所におびき入れて、残さず討たん。」と定めし事なれば、わざと一戦にも及ばずして、夫桝県の陣を引き、会稽山に引き籠る。越王の兵、勝つに乗り、逃ぐるを追ふ事三十余里なり。次の陣を一陣に合はせ、馬の息の切るる程ぞ追うたりける。呉の兵、思ふほど敵を難所におびき入れて、二十万騎の兵、四方の山より打つて出、越王勾践を中に取り籠め、「一人も漏らさじ。」と攻め戦ふ。越の兵は、今朝の戦ひに遠駆けして、馬人共に疲れたる上、小勢なりければ、呉の大勢に囲まれて、一所に打ち寄り控へたり。進んで懸からんとすれば、敵、嶮岨に支へて、鏃を揃へて待ち懸けたり。退いて払はんとすれば、鉾先曲がれり。されども越王勾践は、堅きを破り強きを討つ事、大勢に超えたる人なりければ、事ともせず。大勢の中に駆け入つて、十文字に駆け破り、追ひ廻して、一所に合はせては三所に別れ、四方を払ひ、八方に当たり、百度千度の戦ひに勝劣無し。しかりとはいへども、多勢に無勢、かなはねば、遂に越王は打ち負けて、三万騎にうちなされけり。
されば越王、こらへずして会稽山に上がりて、討ち残されたる勢を見るに、僅かに三万騎に成りにけり。馬に離れ、矢種ことごとく尽きて、鉾折れければ、一戦にも及び難し。隣国の諸侯は、勝つ事を両方に窺ひて、いづ方とも見えず控へたりしが、「呉王、軍に利あり。」と見て、悉く呉王の勢にぞ加はりける。今は三十万騎になりて、かの山を囲む事、稲麻竹葦の如し。越王、「叶はじ。」とや思ひけん、帷幕の内に入り、兵を集めて曰く、「我が運命、既に今、この囲みにて尽きぬ。この上は腹を切るべし。全く軍の咎にあらず。天、我を滅ぼせり。怨むべきにあらず。ただ、范蠡が諫めこそ恥づかしけれ。従つては臣が志、まことに報ぜざるこそ無念なれ。さりながら、重恩は生々世々に忘れ難し。とてもこれ程の志なれば、明けなば諸共に囲みを出て、呉王の陣に駆け入つて、かばねを軍門に曝し、再生に報ずべし。」とて、鎧の袖を濡らし給へば、兵も一つに思ひ定まる勢を見て、「今までの旧交、まことに浅からざる。」とぞ思はれける。
さて越王の子、王鼫与とて、八歳になる太子ありけり。呼び出して、「汝、未だ幼稚なり。敵に生け捕られて憂き目を見ん事、口惜しし。『汝を先立てて、心安く討死して、九泉の苔の下に埋みなん。冥途までも父子の契りをなすべし。』と思ふなり。急ぎ殺すべし。」と言ひけれども、太子は何心もなくおはしぬ。又、随身、重器を積み重ね、悉く焼き払はんとす。時に越王の左将軍に、大夫種といふ臣下、進み出て申しけるは、「生を全くして命を待つ事、遠くして難し。死を軽くして節を望む事は、近くして易し。暫く重器を焼き、太子を殺さん事をとどめ給へ。我、無骨なりといへども、『呉王を欺きて君王の死を救ひ、本国に帰り、再び大軍を起こし、この恥を清めん。』と存ずるなり。
「しかるに今、この山を囲み一陣を張る左将軍は、太宰嚭といふ臣下なり。彼は、我がいにしへの朋友なり。まことに血気の勇者といひながら、心に欲あり。又、呉王も智浅くして謀り事短し。色に婬じて道に暗し。されば、君臣共に、欺くに易き処なり。今この戦ひに負くる事も、范蠡が諌めを用ゐ給はぬによつてなり。願はくは君王、暫く臣下に謀り事を許して、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と涙を流して申しければ、越王、さしあたる理に折れて、「今より後、大夫種が言葉に従ふ。」とて、重器をも焼かず、太子をも殺さざりけり。
大夫種喜び、兜を脱ぎ旗を巻きて、会稽山より下り、「越王の勢、既に尽きて、呉の軍門に降る。」と呼ばはりければ、呉の兵三十万騎、勝鬨を作りて万歳の喜びをぞ唱へける。大夫種は、則ち呉の轅門に入つて、「謹んでこの上は、将軍の下執事に属す。」と言ひて、膝行頓首して、太宰嚭が前にひざまづく。太宰嚭、哀れに思ひ、顔色解けて、「越王の命をば申しなだむべし。」とて、大夫種を連れて呉王の陣に行き、この由、「かく。」と言ふ。呉王、彼等を見て、大きに怒つて曰く、「呉と越との戦ひ、今に限らずといへども、勾践、既に運尽きて、呉のとりこと成れり。これ、天の我に与へたるにあらずや。汝、知りながら、『彼を助けよ。』と言ふ。敢へて忠烈の臣にはあらず。」とて、さらに用ひ給はず。太宰嚭、重ねて申しけるは、「臣、不肖なりといへども、忝くも将軍の号を許されて、この戦ひにも一陣たり。しかれば、謀り事を巡らして大敵を破り、命を軽んじて勝つ事を決せり。これ、ひとへに臣が丹心の功とも言ひつべし。君王のために天下の太平を謀るに、豈一日も忠を尽くす心を顕はさざらんや。」
時に呉王、「つらつら事を計るに、越王、戦ひ負けて力尽きぬといへども、残る兵、未だ三万騎あり。これ皆、ただの兵にあらず。御方はたとひ多しといへども、昨日の軍に疲れて、前後を失ひぬ。敵は小勢なりといへども、志を一つにして、しかも逃れぬ処を知れり。これや、『窮鼠かへつて猫を食らひ、闘雀、人を恐れず。』と言ふべきにや。もし重ねて戦はば、御方には怪しみ多かるべし。」と宣へば、太宰嚭が、「ただ越王を助け、一天の地を与へ、呉の下臣となすべし。しからば呉と越と両国のみならず、斉楚趙の三箇国、悉く朝せずといふ事あるべからず。これぞ、根を深うして葉を堅くする道なり。」と理を尽くしければ、呉王、聞き終はりて、欲に耽ける心を逞しくして曰く、「さらば、会稽山の囲みを解き、越王を助くべし。」とぞ定めける。
太宰嚭、急ぎ大夫種に語る。大きに喜びて越王に告げければ、士卒は色を直し、「万死を出て一生に逢ふ事、ひとへに大夫種が智謀によれり。」とぞ喜びける。さる程に、兵ども、皆国に帰る。太子王鼫与には、大夫種をつけて本国へ帰し、我は素車に乗りて、越の国の璽綬を首に掛け、「いやしくも呉の下臣。」と称し、軍門に降り給ひにけり。あさましかりし次第なり。しかれども、猶しも呉王、心許しやなかりけん、「君子、刑人に近付かず。」とて、あへて勾践に面を見え給はず。あまつさへ、典獄の官に下されしかば、日に行く事一駅に駆して、呉の姑蘇城へ入り給ふ。その姿見る人、袖を濡らさぬはなかりけり。げにや、「昨日までは越国の大王として、何か心をたづさへし。弓矢を帯する身とて、『今日はかかる目に遭ふべし。』とは、誰か知るべき。」とて、涙を流さぬはなかりけり。越王、かの所に入りぬれば、手かせ足かせを入れ、首に綱をさし、土の牢にぞ籠められける。夜明け日暮るれども、日月の光をも見ず、冥暗の中に歳月を送り迎へし涙の露、さこそは袖に積もるらめ。思ひ遣られて哀れなり。
さる程に、国にとどめ置きし范蠡、この事を聞き、怨み骨髄に徹りて忍び難し。「あはれ、いかにもして我が君を本国に帰し奉りて、諸共に謀り事を巡らし、会稽の恥を清めばや。」と、肺肝を砕きてぞ悲しみける。或る時范蠡、謀り事を以て身をやつし、籠に魚を入れてみづからこれを担ひ、商人の真似をして呉国をぞ巡りける。呉の城のほとりにて、我が君勾践のおはしける所を、ひそかにこれを問ひければ、人、これを詳しく教へけり。范蠡、嬉しくて、かの禁獄近く行きけれども、警固、隙もなかりければ、魚商ふ由にて近付き寄りて、一通の書を魚の腹の中に入れて、獄中に投げ入れたり。勾践、怪しみ思ひて、魚の腹を開きて見れば、書あり。言葉に曰く。
西伯、羑里に囚はれ、重耳、翟に走る。皆以て王覇たり。死を敵に許す事なかれ。
とぞ書きたりける。「筆勢、文章の体、紛はぬ范蠡がわざなり。さればにや、未だ憂世に長らへ、我がために徘徊しけり。志の程、哀れにも又頼もしくも思ひ給ふ。一日片時の長らへも怨めしかりつるに、范蠡が諫めを受けて、今さら命も惜しく思はれけり。
かかる処に、敵の呉王、俄に石淋といふ病を受けて、神心とこしなへに悩乱す。巫覡、祈れどもしるしなく、医師、治すれども癒えずして、露命、既に危ふかりけり。ここに他国より名医来りて、「この病、まことに重しといへども、医術、及び難きにあらず。もしこの石淋を甞めて、味はひのやうを知る人あらば、その心を受けて療治せんに、即ち癒ゆべし。」と申しければ、「誰かこの石淋を甞めて、味はひのやうを知らすべし。」と言ふに、左右の近臣、皆顧みて、甞むる者なし。
勾践、これを聞き給ひて、「我、会稽山に囲まれ、既に誅せらるべかりしを、今まで助け置かれて天下の赦を待つ事、ひとへに君王の厚恩なり。今我、これを以て報ぜずは、いつの日をか期せん。」とて、ひそかに石淋を取りて甞め、その味はひを医師に告げければ、医師、即ち味はひを聞きて療治を加ふるに、呉王の病、忽ちに平癒す。呉王、大きに喜びて、「人、心あり。死を助けずは、いかでか今、赦心あらん。」とて、越王を土の牢より出し、あまつさへ越の国を与へ、「本国に帰り給ふべし。」と宣下せられけり。ここに、呉王の臣下に伍子胥といふ者あり。呉王の前にて申しけるは、「『天の与へを取らざれば、かへつてその咎を得る。』と見えたり。この時、越の国を取らずして、勾践を帰し給はん事、千里の野辺に虎を放つが如し。」と諫めけり。呉王、用ゐずして、勾践を本国に帰されけり。まことに運の極めとおぼえけり。
越王、喜びて車の轅を廻らし、急ぎ国にぞ帰りける。道のほとりに蛙、多く集まりて路頭を塞ぐ。勾践、これを見て、「勇士を得て素懐を達すべき瑞相、めでたし。」とて、車より下りて、これを礼して通られけるが、果して言ふ、隣国の諸候、「この君は、勧むるに諌めありし賢王なり。」とて、従ひ付く事、数を知らず。しかるに瑞相によつて本意を遂げ給ふなり。されば越王は、故郷に帰り見給ふに、いつしか三年に荒れ果てて、梟、松桂の枝に巣くひ、狐、蘭菊の叢に鳴き、萩が枝、折るるばかりに、露掛かれども払ふ人なき閑庭には、落葉満ちて蕭々たり。哀れなりし形なり。かくて、「越王、帰り給ひぬ。」と聞きければ、隠れ居たる范蠡、太子の王鼫与を宮中に入れ奉りぬ。
また、后に西施といふ美人あり。これぞ、呉国に聞こゆる美人、なんこく、なんい、とうい、西施とて、四人の美人なり。中にも西施は、顔色世にすぐれ、嬋娟たる顔ばせ、類なかりしかば、越王、殊に寵愛して、暫しも傍らを離し給はざりき。越王、呉王に捕らはれし程は、その難を逃れんために、身を側め、隠れ居給ひしが、「越王、帰り給ふ。」と聞き、喜びて故宮に参り給ふ。この三年を待ちわびし思ひに、雪の肌、しばしば衰へたる御かたち、いとどわりなくおぼえたり。よその袂まで、しをるるばかりなり。越王、この顔ばせに、いよいよ心を睦まじうし給ひけり。理とぞ見えける。
ここに、呉王より使あり。越王驚きて、范蠡を出して聞くに、「我、婬を好み色を重くして、美人を求むる事、天下に遍し。しかれども、西施が如くの顔色を求め得ず。越王の、いにしへ会稽山を出し時、一言の約束、忘れ給ふべきにあらず。はやはや西施を呉の宮中へ貸し給はるべし。貴妃の位に備へん。」との使なり。越王聞き、「我、呉王に捕らはれ、恥を忘れ、石淋を甞めて命を助かりし事も、只『かの西施に逢はん。』と思ひしなり。されば、今西施を他国へ遣はさん事、叶ふべからず。」と宣ふ。范蠡、申しけるは、「まことに君王の仰せ、臣が心にあたはず。つらつら事を案ずるに、西施を惜しみ給はば、呉越の義兵、再び起こりて、この国を取らるるのみならず、西施をも奪はれ、社稷をも傾けらるべし。深くこれを計るに、呉王、婬を好み色に迷ふ事、疑ひなし。国つひえ、民叛かん時に及びて、兵を起こし、呉を攻められんに、勝つ事を立ち処に決すべし。しかあらば、西施も帰り、長久なりぬべし。」と、涙を流して口説きければ、越王、「我、さきに范蠡が諫めを用ゐずして、呉王に囲まれ、命尽きなんとす。今また彼が諫めを聞かずは、天の照覧にも背きなん。」とて、西施を呉国へ送られけり。互の別れ、今を限り、連理枝朽ちぬれば、後朝の袖、愁嘆に残ると言ふも余りあり。されども范蠡が諌めを違へず、一人の太子をも振り捨てて、出で給ふ御心も、ただ末の世を思ひ給ふ故なり。さりながら、一方ならぬ別れの悲しさ、譬へん方もなかりけり。
さて、かの西施は、一たび笑めば百の媚びあり。一たび宮中に入りぬれば、呉王、心を惑はす。呉王は思ひよりも心憧れ、婬欲を好みて、夜とも知らず昼とも分かず、遊宴をもつぱらとして、国の危ふきをも顧みず。まことに范蠡が諌めに違はずと見えたり。ここに呉王の臣下伍子胥、これを嘆き、呉王を諌めて曰く、「君、見ずや。殷の紂王は、姐己に迷ひ、世を乱し、周の幽王は、褒娰を愛して国を傾けられし事、遠きにあらず。」と度々諌めけれども、あへてこれを聞かず。或る時呉王、「西施に宴せん。」とて、群臣を集め、姑蘇台にして花に酔ひを勧めけるが、伍子胥も威儀を正しくして出にけり。さしも珠を敷き、黄金を鏤むる瑶階を登るとて、裳裾を高くかかげて、深き水を渉る時の如くにせり。人、これを怪しみ、その故を問へば、「この姑蘇台は、今越王に滅ぼされ、草深く露滋き地とならん事、遠からず。我、もしそれまで命あらば、昔の跡見んに、袖より余る荊棘の露、深かるべし。行く末の秋、思へばかやうにして渉らん。」とぞ申しける。君王を始めとして、聞く者、奇異の思ひをなせり。果たして思ひ合はせられけり。
また或る時、伍子胥、青蛇の如くなる剣を抜きて、呉王の前に置き、言ふやう、「この剣を磨ぐ事、邪を退け敵を払はんためなり。つらつら国の傾くべき基を尋ぬるに、皆西施より起これり。されば、これに過ぎたる大敵なし。願はくは西施が首を刎ねて、社稷の危ふきを助けん。」と言ひて、歯噛みをしてぞ立ちたりける。げにや、忠言は耳に逆らふ習ひなれば、呉王、大きに怒り、「眼の前に於きて、『国傾く。』と言ふとも、軽く我をや叛かん。まして命、邪路に入る事、その数ならず。これひとへに、『怨敵の語らひを受けたり。』とおぼえたり。さあらんに於いては、是非を犯さざるさきに、伍子胥を誅せらるべき」にぞ定めける。
伍子胥、あへてこれをいたまず、「我が君臣の朝恩を捨つべきにあらず。国乱れば、一番に出て、呉王のためにかばねを曝すべき身なり。越王の兵の手に懸からんより、君王の手に懸かり死なん事、怨むべきにあらず。但し君、臣下が諌めを聞かずして、怒りを広くして我に死を与ふる事、天、既に君を棄つる始めなり。君、越王に滅ぼされ、刑戮の罪に伏せられん事、三箇年を過ぐべからず。願はくは、我が両眼を穿ちて、呉の東門に掛けて、その後、頭を刎ね給へ。一双の眼、枯れずして待ち申すべし。君、勾践に滅ぼされんを見て笑はん。」と申しければ、呉王、いよいよ怒りをなして、終に伍子胥を斬られけり。無残なりし有様なり。しかれども呉王、後悔せられけり。かくて、「伍子胥、願ひなれば。」とて、二つの眼を抜きて、東門に掛け置きたり。しかうして後、悪事いよいよ積もれども、伍子胥が果てを見て、あへて諫むる臣下もなし。あさましかりし有様なり。
越国の范蠡、これを聞き、「時、既に至りぬ。」と喜びて、みづから二十万騎の兵を率して向かひけり。折節呉王は、「晋の国、叛く。」と聞きて、兵を率して、かの国へ向かはれたる留守なりしかば、防ぐ兵、一人もなし。范蠡、まづ王宮へ乱れ入り、西施を取り返し、越の王宮へ帰し入れ奉り、即ち姑蘇城を焼き払ふ。晋斉の両国も、越王に志を通じければ、三十万騎の兵を出し、范蠡が勢に力を合はせけり。呉王、これを聞き、大きに驚き、晋の国の戦ひをさし置きて、呉国に引き返し、越王に戦ひをなす。されども越の兵、その勢、雲霞の如く前より競へば、後ろよりは晋の豪敵、勝つに乗つて追つ駆けたり。呉王、大敵に前後を包まれて、逃るべき方なかりければ、死を軽うして戦ふ事、三日三夜なり。則ち范蠡、新手を入れ替へ、息をも継がせず攻めける程に、呉王の兵、三万余騎討たれしかば、僅かに百余人になりにけり。呉王もみづから相戦ふ事、三十二筒度なり。夜半に及びて、百余人の兵、六十騎になりてこそ、山に登りて越王の方へ使を立てて、「君王の、昔会稽山に苦しめ置き、越王勾践が命を助けし事、忘るべきにあらず。みづからが臣下と成り、今この乱を起こす事、ひとへに助けし重恩にあらずや。我も今より後、越王の如く、君王の玉趾を戴かん。君、もし会稽の恩を忘れずは、今日の死を助け給へ。」と言葉を尽くしけり。
越王、これを聞きて、いにしへの我が思ひ、今の人の悲しみこそ思ひ知られて、呉王を殺すに及ばず、その死を救はん事を思ひ煩ひ給へり。范蠡、これを聞き、大きに怒り、越王の前に来り、面を冒して申しけるは、「いにしへは天、越を呉に与へたり。しかるに今また、呉を越に施す。過ぎにし方、天の与へを取らずして、呉王、この害に遭ふ。越、また今これを取らずば、かくの如くの害に遭はん事、疑ひなし。君臣共に肝を砕き、呉王を得る事、二十箇年の春秋、豈思ひ知らざらんや。君、非を行ふ時、従はざるは忠臣なり。」と言ひ捨てて、呉王の使の未だ帰らざるに、范蠡、みづから攻め鼓を打ちて兵を進め、遂に呉王を生捕にして、軍門の前に引き出す。「范蠡が年月の望み、憤り、さこそ。」と思ひ遣られたれ。
呉王は既に面縛せられて、呉の東門を通り給ひけるに、呉王の忠臣伍子胥が、諌め叶はずして頭を刎ねられし時の両眼、幢に掛けたりしが、「呉王の果てを見ん。」とて、三年まで枯れずして見開きてありしが、呉王、面縛せられ、かの一双の眼の前を渡りけるを見て、みづから動きはたらきて、笑ふ気色見えけり。執情の程ぞ恐ろしき。呉王、かれに面を合はせん事、さすが恥づかしくや思ひけん、袖を顔に押し当てて、頭を傾けて通り給ふぞいたはしき。数万の兵、これを見て、唇を返さぬはなかりけり。さて、かの伍子胥が眼は、呉王の果てを見送りて、霜の日に解くるが如く、時の間に消えて失せにけるぞ奇特なる。則ち、呉王夫差をば典獄の官に下されて、会稽山の麓にて、終に頭を刎ね奉る。哀れなりしためしとぞ申し伝へける。されば、いにしへより今に至るまで、俗の諺に、「会稽の恥を清む。」とは、この事を言ふなるべし。
さて越王は、呉国を取るのみならず、隣国まで従へ、覇者の盟主と成りしかば、その功を賞じて、「范蠡をば万戸侯に封ぜん。」とし給ひしかども、范蠡、かつて禄を受けず。「大名の下には、久しく居るべからず。功成り名遂げて身退くは、天の道なり。」とて、終に名を変へ、陶朱公と言はれて、五湖といふ所に身を隠し、世を逃れて釣りをして、白頭の翁と成りて。後には行き方知らずと申し伝へけり。
或る人の曰く、「越王は会稽の恥をすすぎ、運命を聞き、世に栄ゆるなり。今の時致は、恥をすすぐといへども、一命を失ふ。たとへば少し違ふやうなれども、名を清め、誉れを世に残す理にや。この人々の、弓矢取つての勢ひ、打物取つての振舞、呉越の戦ひには優るものかな。」と感ずる人、多かりき。聞く人、「理。」とぞ申しける。
十五 鴬と蛙の歌の事
さても、「花に鳴く鴬、水に住む蛙さへ、歌をば詠むものを。」と言ひけるは、人皇八代の帝、孝元天皇の御時、大和の国葛城山の麓、孝元寺といふ所に僧ありけるが、又もなき弟子を先立てて、深く嘆き居たり。次の年の春、かの寺の軒端の梅の、梢に鳴く鴬の声を聞けば、「初陽毎朝来、不相還本栖。」と鳴きける。文字に移せば歌なり。
初春のあした毎には来れども会はでぞ還る元の住みかに
と、鴬のまさしく詠みたる歌ぞかし。また、蛙の歌詠みけるとは、昔、良貞、住吉に行き、結びし女を尋ねけるに、かの女には逢はずして、あくがれ立ちたりし折節、蛙、その前を通りし跡を見ければ、三十一文字の歌なり。
住吉の浜のみるめも忘れねば仮初人に又とはれけり
これまた、蛙のまさしく詠みし歌なり。
底本頭注
十四 呉越の戦の事
・九泉――冥土。
・三冬――冬三月。
・稲麻竹葦――物の繁多なる譬へ。
・轅門――軍門。いにしへ、王者、軍を率ゐて他に宿する時は、車の長柄を相向かへて門とせしより言ふ。
・素車――喪の時に用ゐる飾りなき車。降伏の時にも用ゐて例とせり。
・幢――矛の柄に旗付けたるもの。
十五 鴬と蛙の歌の事
・結びし女――縁を結びし女。
・あくがれ――恍惚たる事。
校訂者注
十四 呉越の戦の事
・骸を軍門に曝し、再生に報ずべし――底本、「」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・太子を殺さん事をとどめ給へ――底本、「太子を殺きん事を止め給へ」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・既に尽きて、呉の軍門に降る――底本、「既に尽きて、この軍門に降る」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・勾践、既に運尽きて、呉のとりこと成れり――底本、「時に到りては勾践捕はれ僻事となれり。」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・臣が丹心の功とも言ひつべし――底本、「臣下大臣の功とも云ひつべし」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
・日に行く事一駅に駆して、姑蘇城へ入り給ふ――底本、「きやうこうゑき窮して姑蘇城へ入り給ふ」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・いにしへは天、越を呉に与へたり――底本、「呉は天より越を与へたり」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・過ぎにし方、天の与へを取らずして、呉王――底本、「呉王過ぎにし与を取らずして」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・越、また今これを取らずば、かくの如くの害に遭はん事、疑ひなし。君臣共に――底本、「また越かくの如くの害に遭はん事疑なし。呉王害を憐む事、君臣ともに」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
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