七 五郎大磯へ行きし事
ここに五郎時致は、曽我に居たりけるが、父のために法華経読みて、本尊に向かひ念誦しけるが、頻りに胸騒ぎしけり。「心得ぬ今の胸騒ぎや。いかさま、祐成の大磯へ越し給ひぬるが、東国の武士ども、富士野へ打ち出る折節なり。流れの遊君故、事し出し給ふにや。」と心もとなく思ひければ、帳台に走り入り、緋縅の腹巻取つて引つ懸け、伊東重代の四尺六寸の赤胴造りの太刀、十文字に結び下げ、鞍置くべき暇なければ、裸馬にうち乗り、二十余町のその程を、ただ一馬場に駆け付け、見渡せば、長者の門のほとりに、鞍置き馬一、二百疋引き立てたり。遠侍には物の具の音頻りにして、「ただ今、事出で来ぬ。」とぞ見えける。
入るべき所なくして、門の外を廻り、日頃祐成に行き連れて通りし細道を巡り、虎が居所にこそ着きにけれ。さて、「十郎殿はいかに。」と問へば、「和田殿の盃を論じて、ただ今、事出で来ぬ。」と申す。「さればこそ。」と思ひ、透垣を跳ね越え、兄の居たりける後ろの障子を隔て、立ちたりけり。「時致、これにあり。」と知られんために、笄にて障子越しに、袴の着際を刺しければ、十郎、「誰そ。」と問ふ。五郎、小声になりて、「時致これにあり。」と言ふ。十郎聞きて、千万騎の兵を後ろに持ちたるよりも、頼もしくぞ思ひける。
義盛の声として、「上もなく振舞ふものかな。」と聞こえける。「祐成の御事ぞ。」と心得、「何事もあらば、障子一重踏み破り、飛び出て、一の太刀にて義盛、二の太刀にて朝比奈、その外の奴ばら何十人もあれかし。物の数にてあらばこそ。」と思ひ切り、四尺六寸の太刀、杖に突きて立つ。忍びかねたる有様は、「刀抜毘沙門の、悪魔を降伏し給ふか。」とぞおぼえける。
夕日脚の事なれば、太刀蔭の障子に透きて見えければ、朝比奈、これを見て推量し、「まことや、彼等兄弟は、兄が座敷にある時は、弟が後ろに立ち添ひ、弟が座敷にある時は、兄が後ろにあるものを。いかさま、『五郎は後ろにあり。』とおぼえたり。さしたる事もなきに大事引き出して、何の益かあらん。又、さりとは親しき仲ぞかし。何となき体にもてなし、座敷を立たばや。」と思ひければ、紅に月出したる扇を開き、「何とやらん、御座敷静まりたり。謡へや、殿ばら。囃せや、舞はん。」とて、既に座敷を立ちければ、面々にこそ囃しけれ。義秀、拍子を打ち立てさせ、
君が代は千代に八千代をさざれ石の
としをり上げて、
巌と成りて苔のむすまで
と、短く舞うて収めけり。
八 朝比奈と五郎力比べの事
かくて朝比奈三郎、舞も過ぎぬれば、五郎が立ちたる前の障子を引き開け見れば、案に違はず時致は、四天王を作り損じたるさまにて、踏みしかりてぞ立ちたりける。朝比奈、過たず狂言に取りなして、「客人ましますぞや。こなたへ入らせ給へ。」とて、草摺二、三間、むずと取りて引きけれども、少しも働かず。「磐石なりとも、義秀が手をかけなば、動かぬ事やあるべき。」と思ひ、力に任せ、「えいや、えいや。」と引きけれども、五郎は物とも思はねば、引くともなく引かるるともなく、あざ笑ひてぞ立つたりける。大力に引かれて、横縫草摺こらへずして、一度に切れて、朝比奈は後ろへどうど倒れけり。五郎は少しも働かで、仁王立ちにぞ立つたりける。「さてこそ五郎時致は、みぎは優りの大力。」と、よその人まで知りにけり。「まことや、この者の父河津三郎は、東八箇国に聞こゆる股野五郎に、片手を放ちて相撲を三番勝ちてこそ、大力のおぼえは取りたりしぞかし。その子なるをや。力比べはかなふまじ。すかさんものを。」と打ち笑ひ、「これこれ。」と請ずれば、「余りの辞退は無礼なり。異体は御免候へ。」と言ひ言ひ座敷に出けるが、持ちたる太刀と草摺にて、末座なる人々の首の周り、そば顔を打ち殴り、さし越えさし越え行き過ぎて、朝比奈が下なる畳に直りける。座敷に余りて見えたりけり。
朝比奈、急ぎ座敷を立ち、義盛の前にありける盃を、五郎が前にぞ置きたりける。時致、盃取り上げて、酌に立つたる朝比奈に色代して、「御盃の前後は、遅参の無礼、御免あれ。御盃は賜はり候。」とて、三度までこそ干したりけれ。「その盃、思ひ取り申さん。」とて、元の座敷に直りけり。五郎も酌に手をかけ、「近くも参らぬ御酌に、時致立たん。」とゆるぎ立つ。四郎左衛門、座を立つて、「某、これに候。」とて銚子に取り付けば、五郎も暫し色代す。義盛、これを見て、「客人の御酌、しかるべからず。それそれ。」とありければ、常氏、酌にぞ立つたりける。朝比奈、盃取り上げ三度干す。その盃を虎呑みて、義盛に差す。その時、扇、笏に取り直し、「今暫くも候べけれども、曽我にさし当たる用の事、御座候。後日に恐れ申さん。」とて、兄諸共に立ちければ、虎も同じく立ちにけり。
一座も不興至極にして、和田は鎌倉へ通りければ、この人々はうち連れて、曽我へとてこそ帰りけれ。
七 五郎大磯へ行きし事
・刀抜毘沙門の――底本、「たう八毘沙門の」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・しをり上げて――底本、「絞り上げて」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
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