四 鬼王団三郎曽我へ帰りし事
さて、鬼王、団三郎を呼びて、「汝等は、急ぎ曽我へ帰るべし。小袖をば母上へ参らせよ。馬鞍は曽我殿に奉れ。自然の時は、御先途に代はり参らせ候べき由、随分心に懸けしを、父の敵に志深くして、先立ち申す事、無念に存じ候へども、恐れながら、二人の子どもの形見に御覧候へ。五つ三つよりして、左右の御膝にて育てられ参らせし御恩、忘れ難くこそ存じ候へ。『肌の守りと鬢の髪をば、弟どもの形見に御覧じ候へ。』とて、二宮殿に参らせよ。弓と矢は汝等に取らするぞ。亡き後の形見に見候へ。鞭と弓懸をば、二人の乳母が方へやるべし。沓行縢は、守り育てし二人が傅に取らせよ。夜もこそ更くれば、これを持つて落ち候へ。」とありければ、二人の者ども、次第の形見を受け取りて申しけるは、「我等、相模を出しより、『自然の事候はば、君より先に命を捨て、暫く三途の御供。』とこそ存じ候に、下郎をば、『命惜しむ者。』と思し召し、かやうに承り候か。ただ召し具せられ候へ。ゆゆしき御用にこそ立ち申さずとも、志ばかりの御供。」と申しければ、十郎聞きて、「各々が思ひ寄る処、まことに神妙なり。かやうなる者どもを、世に無ければ恩をもせで、離れん事こそ無念なれ。浮世の中、何事も思ふやうにならば、いかで叶はぬ事あらん。主君は三世の縁あり。来世にて、この恩をば報ずべし。
「ただ、この形見どもを悉く曽我へ届けたらんは、最後の供に勝りなん。『狩場に事出で来ぬ。』と聞こえなば、物思ふ子持ち給へる母の、『我が子どもやらん。』と嘆き給はんに、急ぎ参りて、この由、『かく。』と申すべし。今少しも疾く急げや。」とありければ、団三郎承つて、「帰り候まじ。聞こし召せ。君をば、乳の中より、某こそ取り上げ奉りては候へ。されば、九夏三伏の暑き日は、扇の風を招き、玄冬素雪の寒き夜は、衣を重ねて肌を温め参らせ、肝心を尽くし育て、月とも星とも明け暮れは、見上げ見下し頼み奉り、『御世に出させ給ひ候はば、誰やの者にか劣るべき。』と、頼もしくもいとほしくも思ひ奉り、今まで影形の如く付き添ひ参らせたるしるしに、情けなくも、『落ちよ。』と承る。たとひ罷り帰りて候とも、千年万年を保ち候べきか。ただ御供に召し具せられ候へ。」とて、いとけなき子の親の後を慕ふ如くに、声も惜しまず泣き居たり。兄弟の人々も、心弱くぞ見えける。「いかにもして帰すべきものを。」と声を高くして、「いかに、未練なり。君臣の礼、もだし難けれども、心に従ふを以て孝行とせり。その上、終に添ひ果つまじき身なれば、名残惜しき事、尽くべきにあらず。急ぎ出候へ。」とて、荒らかにこそ宣ひけれ。
鬼王、居直り、畏つて申しけるは、「某も、母の胎内を出、竹馬に鞭を当てしより、君に付き添ひ申し、成人の今に至るまで、片時も離れ奉る事なし。そのしるしには、『落ちよ。』との仰せこそ、まことに御怨めしくは候へ。捨てられ参らせて後、何に掛かりて片時の長らへもあるべき。憂き身の果てこそ悲しけれ。」と、さめざめと泣き居たり。まことに志深く、馴染みの久しければ、互に語り語れば、憂きにつけても、夜や明け、日や暮れん。「既に明け方近くなるものを。急げや、汝等。早くも行け。」と重ね重ね責めければ、二人の者ども、言ひかねて、「御供申すべき命、いづこも同じ事よ。住み果つべき終の住みか、後れ先立つ道芝の、変はらぬ露の濡れ衣、払ひて御供申さん。」とて、二人が袖を引き違へ、既に刀を抜かんとす。時致、早くも座敷を立ち、二人が間に押し入つて、涙と共に言ひけるは、「まことに汝等が志は切なり。しかりとはいへども、我々、これ程さまを変へ制するを聞かずして、狼藉を致すものならば、浅間大菩薩も御照覧候へ、未来永劫不興すべし。『我等に命を捨つる。』と言ふとも、故郷へ形見を届けずは、長く志に受くべからず。この上は、制するに及ばず。」と、荒らかにこそ叱りけれ。
飽かぬは君の仰せなり。次第の形見を賜はつて、曽我へとてこそ帰りけれ。「互の心の内、さこそは悲しからめ。」と、思ひ遣られて哀れなり。
五 悉達太子の事
かくて、鬼王、団三郎は、次第の形見を賜はり、泣く泣く曽我へぞ帰りける。これや悉達太子の、十九にて菩提の志を起こし、檀特山に入り給ひしに、車匿舎人、犍泥駒を賜はり、王宮へ帰りし思ひ、今さら思ひ知られたり。鞍の上、空しき駒の口を引き、古里へとは急げども、心は後にぞとどまりける。五月雨の雲間も知らぬ夕暮に、いづくをそことも知らねども、そなたばかりを顧みて、涙と共に歩みけり。心の内ぞ無残なる。
六 兄弟出立つ事
さても、この人々は、「郎等どもは、こしらへ帰しぬ。今は思ひ置く事なし。いざや、最後の出立せん。」「しかるべし。」とて、十郎がその夜の出立には、白き帷子の脇深く欠きたるに、群千鳥の直垂の袖を結びて肩に掛け、一寸斑の烏帽子懸を強く掛け、黒鞘巻赤胴造の太刀をぞ持ちたる。同じく五郎が装束には、袷の小袖の脇深く欠きたるを、狩場の用意にやしたりけん、唐貲布の直垂に、蝶を二つ三つ所々に書きたるに、紺地の袴の括りゆるらかに寄せさせ、袖をば結びて肩に掛け、平紋の烏帽子懸を強く掛け、赤木の柄の刀を差し、源氏重代の友切、肩に打ち懸け、まことに進める姿、「ぶきうが昔。」とも言ひつべし。「頼もし。」とも余りあり。
十郎、松明振り上げて、「こなたへ向き候へや、時致。飽かぬ顔見ん。」と言ふ。五郎聞きて、「敵に会ひ、刹那の隙もあるまじければ、これこそ最後の見参のためなるべし。まことに、祐成を兄と見奉らんも今ばかり。」と思ひければ、兄が顔をつくづくと目守りけり。十郎も又、「弟を見んも、これを限り。」と思ひければ、松明差し上げ、つくづく見、涙ぐみけり。互の心の内、推し量られて哀れなり。
「今は、これまで候。御急ぎ候へ。」とて、五郎、先に進みけるを、十郎、袖を控へて、「女あまたあるべきぞ。太刀の振り廻し、心得候へ。罪作りに手ばし懸くるな。後日の沙汰も憚りあり。」と言ひければ、「左右にや及び給ふ。」とて、足早にこそ急ぎけれ。
底本頭注
四 鬼王団三郎曽我へ帰りし事
・自然の時――もしもの事のある時。
校訂者注
四 鬼王団三郎曽我へ帰りし事
・汝等は、急ぎ…母上へ参らせよ――底本、「汝は急ぎ曽我へ帰るべし。小袖をば上へ参らせよ」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
・次第の形見を受け取りて――底本、「忍の形見を受取りて」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・そのしるしには――底本、「そのしるしにや」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・互に語り語れば――底本、「互に語り給へば」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
六 兄弟出立つ事
・脇深く欠きたるに――底本、「脇深く掻きたるに」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
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