佐渡廃帝(順徳)は、隠岐院第二子。御母、修明門院(贈左府範季女)なり。四歳にして立坊、十四にして即位、御宇十一年。
建保元年五月二日、将軍郎従和田左衛門尉義盛、恨みをなして、主人の館に駆け入りて数日合戦、戦の庭に死ぬる者数千人にして、終に討たれ畢りぬ。
同八月三日、叡山衆徒三百余人、清水の領を争ひて、長楽寺におり下る処に、官兵、西面の衆を遣はして、十余人を殺害し、三十余人を召し搦められ了りぬ。
同十月二十日、清水法師両三人、寺を天台の末寺に寄するによりて、山門の使、入来する故に、南都発向して、延暦寺を焼き払はんとするに、官軍を遣はして防がるる間、同十一月二十日、宇治より帰り了りぬ。
承久元年(己卯)正月二十七日、将軍右大臣兼左近衛大将源朝臣薨ず。右府、内には玄元氏の先実を習ひ、外には黄石公が兵略を振る。執権十六年の間、春の露の情け、草葉を潤し、夏の霜の恨み、折寒になす。一天、風柔らかに、四海、波立たず。家は、夜半の時雨の漏らざれば葺かず。衾は、暁の嵐の隙間を防ぐばかりなり。倹なる者を進め、奢なる者を退けられしを、世末に臨み、人運迫りにければ、理も空しく、哀れも忘れて、往反大小の臣下ありて、路次村邑の民多く疲れ、納言の羽林中郎将を兼ねたる、執政の賢息にあらざれば聞かず。ふるる処久しからずして、三台の右府に連なる。八幡の末社に拝賀するに、精兵、墻をなして、牛車、跡をきしり、月卿、影を交じへて松山にのぼり、雲客、匂ひを施して梅嶺を踏む。綾羅錦繍の服、禁色を忘れ、金銀珠玉の飾り、各々光を分かてり。その儀、あたかも執政の臣に越え優れ、その式、恐らくは皇帝の行幸かとおぼゆ。
秉燭の後、奉幣、事終はりて退出の処に、変化の賊ありて、主人を斬る事、稲妻の如くに斬りて、辻風の如くに去りぬ。刃に当たる者、文章博士源仲章、因幡前司師憲等なり。高卑の害を免るる者、冠を弾じ、袍を脱ぎて匍匐す。あだを求むる兵、社壇に馳せ馳せて、是非に惑へり。凶徒の名をあらはす次将、梟首の造意を尋ぬれば、右府の兄の禅門の遺孤といふを以て、顧複して若宮の別当に補して後、一千日参籠、丹府肝胆を砕きて、玉砌に血を流せり。ここに、宿運の限りある事を知るといへども、猶恨むらくは、武勇の謀り事の足らざるに似たるものか。かの曹公、兜を脱がざる頭風、陣孔璋が檄を作る古曲、名将の振舞、よろしく存ずべきにや。将軍、館より出給ふに、鳩鳥、頻りにかけり、車より下るるに、雄、剣を突き居れり。祖宗の示すなり。昔、臨江王、遠く行きし日、車のよこがみ折れぬ。老父の諫めに従はず、強いて去りて、早く卒して再び帰る事を得ず。先事忘れざる、後世の慎む処なり。
この時に世を逃るる兵、百余人。その中に、前民部権少輔大江近広は、大膳大夫広元の長男なり。出羽権介藤原景盛は、将軍三代の近習、文武二道の達者なり。両人の恨み、知恩の志、世のをす処、逃れても、しかも余りあり。この外、或いは疎遠貧賤の輩、或いは若冠二毛の質、父子兄弟共に家を出、郎従僮僕、同じく頭を剃る。各々、思ふ処を知らず。右京権大夫兼陸奥守義時の一族、旧主の跡を惜しむ心深くて、一人も出家の思ひなし。憐れむべし、胡蝶の夢、七十余廻の春を残して、忽ちに驚きぬる事を。
出て去なば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
と書きとめられける。今はの道、掌を指しけるにや。
外国より本朝に至るまで、明主賢臣の刃に当たるためし、たとひを取るに暇あらず。大覚世尊の御佩き軽からず。菩薩の身すら猶、杖を免れずと言へり。応仏の神通薩埵の方便、凡夫に縁を結びて、論ずべからざるなり。
駿河国阿野の冠者、将軍の闕に思ひを懸けて烏合をなすに、義時朝臣、当国の武士等をして、城郭を巻き、攻め落とす。連枝の昆弟、共に討ち取られ、鍾愛の子姓、立ち処に滅びぬ。右府の母室二品禅尼、将軍を申すに、三代余流、空しからず。後京極殿の孫、右大臣家の末子を下し遣はされぬ。
同七月十三日、大内守護人、右馬権頭頼茂を追討せらるる事あり。これは、
人知れぬ大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな
と詠みて昇段を許されし頼政卿の末にや。近頃、西面とて撰び置かれたる、偽りて弓馬の芸を称する類の、官禄身に余り、宴飲心を惑はして、朝に歌ひ夕に舞ひ、立ち居のあらましには、あはれ、戦をして先を駆けばや、とのみ願ひて、烏帽子を折り、魚父を打ちはきし輩、皇居に馳せ入りて攻め戦ふに、頼茂、火を放ちて焼け死に、希代の宝物、悉く灰燼と成りぬ。中古の賢相、末代の微分をかがみし里内の後は、暫く鎮座無しといへども、三十年よりこの方は、牛馬、牧を成し、耕作、礎石を掘りて、司天星を頂く台に、雲、うつばりに宿し、神泉、雨を乞ふ砌に、鹿の敷居繁し。故官を継がむとせし人、一人も残る事なく、八十四代の澆季に当たりて、都門、再びまで滅びて、結句、戦場と成りにしのみならず、仁祠叢祠の数を尽くして焼失しぬる。仏力神力、時に従ひておろそかなればなり。しかのみならず、近代の君臣、民の血を絞りたる紅軒、一寸の紙燭のために燃えて、火となる度に、いよいよ花の構へを増すに、人力を以て天災を争ふ侵しあり。尭王の、萱を結びて雨滴りを厭ひ、土を塗りて風を防ぎ給ひし治世九十八年、百歳を限りけん理にてぞ侍る。
心ある人、かくのみ嘆き合へる程に、同三年四月二十日、主上、位を太子(九條廃帝)に譲り給ひぬ。
心ある人、かくのみ嘆き合へる程に、同三年四月二十日、主上、位を太子(九條廃帝)に譲り給ひぬ。
校訂者注
・長楽寺におり下る――底本「長楽寺に送りたる」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。
・衆を遣はして――底本「衆をかはして」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。
・その儀、あたかも――底本「其儀あだかも」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。
・右馬権頭頼茂――底本「右馬権頭義茂」。後の記述により改めた。
コメント