同七月二十日、新院(順徳)を佐渡国へ遷し奉る。女房二人、殿上人二人ばかりにて、夜を込めて都を出させ給ふ。御母修明門院、中宮(立子)、一品のみや。前坊などの御事思し召し置くに、涙とどまらず。花山院少将(義氏)も、患ふ事ありて帰りぬ。日数は積もれども、都の面影は御身に添へり。越後国までは付かせ給ひぬるを、兵衛佐範経さへ、病まふ重くて、この内に沈みぬれば、行く末危ふき舟の道をしも思はせ給ふにも、御心のみこそこがれける。渡り着かせ給ひぬれば、いつしか南に翔る初雁も羨ましく、北より吹く風のつても御文付けさせ給ふ。御輿など舁きたりし賤の男どもの古里へ帰るを召し寄せて、かかる浮世をみるめの島なれば、いかでか帰り参る事あらん、など仰せられも果てず、落つる御涙は、まことに哀れにぞおぼえける。
 同二十四日、六條宮(雅成)を但馬国へ遷し奉る。
 同二十五日、冷泉宮(頼仁)を備前国へ遷し奉る。
 閏十月十日、中院(土御門)を土佐国へ遷し奉りて、後には阿波の国へ渡し奉れり。今日今日とは聞こえしかども、冬の初めまで御幸なければ、さりともと思ひ合へりし程に、かく御渡りあれば、今更になる式にや。女房四人、少将雅具、侍従俊平、各々旅衣など営むより、承明門院の御心あるにもあらず。仙洞は只、初時雨のふる里のみかき曇りたれば、明くるを告ぐる鳥の音に、土御門の大納言(定通)、御車寄せて、君も臣も、泣くより外の事なし。末より御輿に召し替へて、御覧じ行く道すがら、須磨、明石の関、尾上の鐘、よその夕暮、鹿の音、虫の声も弱り果て、峯の梢、野辺の草の霜枯れぬれど、御袖は一人、秋の露を残して、室といふ泊に入らせ給ふ。さては、隠岐国へも過ぎさせ給ひし後なれば、仙院懐土の御心の内まで思ひ知り給へり。御舟に召して、漕ぎ行く跡の白波、島々浦々、松の緑を吹き乱る木の葉の風の紅も、御袖の時雨よりやと怪しくて、日数も経ぬれば、屋島、松山など罵り合ひたる事も、安徳天皇のためしさへ、今日は羨ましく、崇徳院の流れにし御名も身の上、と心憂く思し召さる。御舟より下りて、行路を返り見させたまへば、藻塩の煙は東に靡き、漁火の炎は胸より燃ゆるかと思し召しあへぬまで、鳥の声もせぬ深き山の、雪を凌ぎてぞ落ち着かせ給ひける。
 おほよそ天子帝葉の、遠き島に放たれ、都のほとりに閉ぢられ給へる、いづれも痛はしく侍れど、北山の雪の底、南海の波の上、翠帳紅閨に異なる埴生の小屋の蘆簾、薫炉の煙に変はれる蘆火焚く屋の怪しきにつけて、清涼、紫宸の金殿に、花を見、月を眺めし雲の上、そよや霓裳羽衣の曲を調へ、龍笛鳳管を聞きし夜な夜な、三公九卿の正しかりし礼儀、椒房羅綺の優しかりし睦言、忘れ給はず。行幸なる時には、内侍、剣璽を先立て、一の人参りて、左右大将従ひ、文武百官、列を引きて、鳳輦の御輿寄せ、乱声奏してたやすからざりしも、思ひ出給ふらん。草葉の露と消えにし人々、浅茅が下のしげかりしもの悲しみ、妹が嘆き、深けれど、捨て果てぬ身の習ひなりければ、さて山の端に思ひも入らで、雨ふる里に昔を偲ぶ雫のみぞ、尽きせぬ中にも、修明門院の有様こそ、哀れ尽きせぬ。
 第七の遺恩、忘れぬ草の露ばかりを結びて、茨山の叡聞を聞く風、吹き絶えぬれば、古き枕、古き衾、空しく残り、心を惑はし、ひねもすに語らひ、日たけて起き給ひし御名残、魂を悩ます。春洞に花を見れば、袖を連ねし匂ひにあらず。秋園に虫を聞けば、枕を並べし響きに異なり。朝の日昇る時には、孤島、思ひを東天の雲に掛け、暁の月傾く所に、旧院、涙を西海の波に添ふ。天上の五衰、人間の八苦、楽しみ尽きて悲しみ来り、栄えては衰ふる事あり。玉体は、化して土と成るとも、この御恨みは残りて、尽くる事なからんものか。

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校訂者注
 ・冷泉宮(頼仁)――底本「冷泉院(頼仁)」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。